巻ノ参百拾七 持て!箸より重い物を の巻
退屈で無味乾燥な一日を少しでも楽しく過ごしたい。そんな切なる思いを胸にした大作、お園、美唯、ナントカ丸たちは塔ノ峰城を目指して小田原城を飛び出した。
途中で北条氏房と供回りが仲間に加わるイベントを無難に熟しつつ何とか目的地へ辿り着く。
標高五百六十六メートルから見る石垣山一夜城は正に絶景だ。一同は暫しの間、その景色を堪能する。堪能したのだが……
三階建の櫓を降りた大作を待っていたのは萌から届いた至急電報。通称、ウナ電だった。
「ウナ電? それって何なのかしら? 美唯、その故を知りたいわ!」
「あのなあ、もしかしてそれってほのかの真似のつもりなのか? だったら悪いことは言わんから止めとけ。あんまり似てないぞ」
「あんまりってことは少しくらいは似ているのかしら? 私も連れてって! 物真似はまだできないけど、きっと覚えます!」
「いや、奴はとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です!」
そんな阿呆な話をしながらも一同は足早に小田原城への帰路を急ぐ。急いだのだが……
「美唯、足が痛くなってきたわ。ねえ、大佐。悪いんだけど負ぶってくれないかしら? それか抱っこでも良いわよ」
「あのなあ、こんな山道で無茶を言わんでくれよ。『色男、金と力はなかりけり。成らぬは人の為さぬなりけり』って言うだろ? 俺は箸より重いものを持ったことがないんだぞ」
「だったら茶碗は? 茶碗は持たないのかしら?」
これ以上は無いといったドヤ顔を浮かべた美唯が思いっきり顎をしゃくる。
大作は発作的にぶん殴ってやりたくなったが不撓不屈の精神力で持って何とかそれを抑え込んだ。
「置いて食べるんだよ! ちょっと行儀が悪いけどな」
「それでも箸でご飯やおかずを摘むんじゃない? そしたら箸にご飯やおかずが合わさった重さが手に掛かるはずよ? それとも大佐、箸は持つけど何も食べないのかしら?」
「ぐぬぬ…… ああ言えばこう言う奴だなあ……」
「いい加減に観念なさいな、大佐。美唯も美唯よ。窮鼠猫を噛むって言うでしょう。あんまり追い詰めると大佐ったら逆切れするするかも知れないんだから。さあ、そこの岩に腰を下ろしなさいな」
二人の間に割って入ったお園の顔には『Break!』と書いてあるかのようだ。
大作はそっと丁寧に美唯の草履を脱がせる。足の親指と人差し指の間を観察すると鼻緒が当たった辺りが腫れて水膨れのようになっていた。
これってもしかして靴ずれ? いやいや、靴じゃないから草履擦れ? 鼻緒擦れ? こういう状態をどう表現すれば良いんだろう。大作は貧相なボキャブラリーを総動員して頭をフル回転させる。
だが、下手な考え休むに似たり。思考の無限ループはお園の一言で強制終了させられた。
「酷い鼻緒擦れだわ。美唯、なんであんたは新しい草履なんて履いてきたのよ。険しい山道を歩くって分かっていたんだから履き慣れた草鞋を履いてくれば良かったのに」
「だって折角のお出掛けなんですもの。ちょっとでも御粧ししたかったのよ……」
「取り敢えず鼻緒を人差し指と中指の間に通しなさいな。ゆっくりとなら歩けるかしら?」
「ちょっと歩き難いけど仕方が無いわねえ」
小休止を終えた一同は小田原への歩みを再開する。
それはそうと小田原城へ大急ぎで戻るという件はどうなっちゃったんだろう。謎は深まるばかりだ。
まあ、別にどうでも良いか。どうせ他人事なんだし。
大作は考えるのを止めると懐からスマホを取り出す。適当に画面を弄って小田原征伐に関連する年表を表示させた。
どれどれ…… 四月十六日、佐竹と宇都宮が壬生氏の壬生城と鹿沼城を攻めた。必死の抵抗も虚しく二十九日には揃って落城する。
『ら、落城?! 二つの城が落城? 十三日もたたずにかぁ!』
大作はコンスコン中将になったつもりで心の中で激しい突っ込みを入れる。
「違うわ、大佐。コンスコンは少将よ」
「はいはい、そうですねえ。だけどもいい加減、心の声に突っ込みを入れるのを止めてくれよ」
「何を言ってるのよ、大佐。全部口に出ていたわよ」
「ですよねぇ~!」
「美唯、足が痛いわ。痛いったら痛いのよ。ねえねえ、大佐」
半泣き顔の美唯を何とか宥め賺しながら険しい山道を風祭へ抜けて行く。水之尾毘沙門天の横を足早に素通りする。小峰御鐘ノ台の大堀切が見えてくるころには辺りは薄暗くなってきていた。
大作は長かった道程を振り返ると小さくため息を付く。
「ふっ…… どうやら生き残ったのは俺たちだけみたいだな」
「そうみたいね」
「美唯は、美唯はもう歩けません……」
「某はまだまだ歩けますぞ」
深い深い大堀切に架かった狭い狭い土橋を慎重に進んで行く。もし落っこちたら這い上がるのに物凄く苦労しそうな深さだ。
立派な門の手前に立った門番と思しき若い足軽が声を掛けてきた。
「御本城様、岩槻様。ようお戻りになられました。日も傾いて参りました故、皆が案じておったところにございます。早うお入り下さりませ」
「もしかして門限とかあったりするんですか? そんなこと無い? そりゃあ良かった良かった。出島生島事件みたいな目に遭うのは真っ平御免の助ですからな」
「大佐、それを言うなら江島生島事件でしょうに。それでは十郎様、こちらでお暇させて頂きます。小少将様にも宜しゅうお伝え下さりませ」
「兄上、お督様。お気を付けてお戻りなされませ」
一同は互いに手を振って別れを告げる。だが、氏房は大作たちの姿が見えなくなるまで見送るつもりらしい。
何度振り返っても若い侍と二人の供回りは半笑いを浮かべながら手を振っていた。
「ヘアサロンのお見送りかよ! それはそうとお園、小少将っていうのは誰なんだ?」
「えぇ~っ! もしかして忘れちゃったの、大佐? 小少将様っていったら十郎様の奥方様じゃないの。御正月にお会いしたばっかりでしょうに?」
「そ、そうだっけ? 俺、綺麗さっぱり忘れちまってたよ。テヘペロ!」
どうにかこうにか小田原城へ辿り着くころには日はとっぷりと暮れていた。
一同は本丸御殿の情報集約センターを目指して足早に進む。進んだのだが…… またもや道に迷ってしまった!
「もしかするともしかして、この城って呪われてるんじゃなかろうな? クノッソス迷宮みたいにさ。こうなったらもいっそのことバブル期に流行った巨大迷宮みたいなテーマパークにしちまったらどうかしらん?」
「お城に人を入れてお代でも取ろうっていうのかしら? だけども御父上様は良い顔をしないと思うわよ」
「マジレス禁止! おっと、どうやらあそこが目的地みたいだな。おい、萌! いま帰ったぞ。いったいどうなってるんだ? 電報を貰ったから超特急で帰ってきたんですけど」
タイミング良く見知った顔に出会うことができた大作はほっと安堵の胸を撫で下ろす。
だが、萌の表情は見たこともないほどの暗さだ。もしかして事態は思った以上に深刻なんだろうか。
大作が上目遣いで顔色を伺うと口元を歪ませた萌が忌々しげに口を開いた。
「皆川広照が裏切ったのよ」
「歌川広重? それって江戸時代の浮世絵師だったっけ?」
「あのねえ、川と広しか合ってないじゃない。皆川広照っていうのは下野国皆川城の城主よ。史実だとあいつは北条氏照の指揮下で小田原城の竹浦口の守りに付いていたの。んで、四月八日の深夜に惣構を越えて徳川の陣に逃亡。木村重茲に投降するはずだったのよ」
「竹浦口っていうと現代でいうと竹の花の辺りかな? あそこって小田原城から見て東側だよな? 現状だとあっちに徳川の陣なんて無いはずなんだけど?」
大作はスマホの中からそれっぽい情報を見繕うとピントの外れた相槌を打つ。
だが、萌から帰ってきたのは予想通りというか、予想外というか。何とも形容のし難い反応だった。
「ところがぎっちょん! 歌川広重…… じゃなかった皆川広照はそもそも小田原にいなかったのよ。私たちは史実と違って小田原に兵力を集中配備しなかったじゃない。だから皆川広照も下野の皆川城で守りに付いてたわけなのよ」
「するとなにか? 史実では俺たちを裏切るはずだった奴を最前線の城に単独で放置していたってことか? あの辺りって上杉、北条、宇都宮の三大勢力に挟まれた修羅の土地じゃん。そんな奴を信用するだなんて阿呆じゃないのかなあ? 違うのかな?」
「信用だなんてこれっぽっちもしていなかったわよ。だけども北条方が優勢だって話さえ伝われば佐竹や宇都宮に寝返ろうだなんて普通は思わないでしょう? たぶんだけど山中城や下田城、碓氷峠なんかの勝ち戦が正しく伝わっていないんじゃないかしら?」
「もしかしてアレかな? 歌川広重…… じゃなかった皆川広照って奴は新聞とか読まない人だったのかも知れんぞ」
実際問題、インターネットの普及により新聞の発行部数は凄い勢いで減り続けているって話だ。ピークだった1997年に比べれば半減と言って良いほどの急落ぶりには涙を禁じ得ない。もうこうなったら……
だが、迷走しかけた大作の思考は藤吉郎の発した一言で現実に引き戻される。
「畏れながら大佐。皆川の辺りは瓦版新聞の配達区域外にございます。歌川広重…… じゃなかった皆川広照とやらは新聞を読みとうても読めなかったのではござりますまいか?」
「そ、そうなのか? まあ、瓦版新聞は全国紙じゃないから仕方ないのかなあ。そうなると歌川広重…… じゃなかった皆川広照を責めるのは酷かも知れんな。責任の一端は正しい情報をタイムリーに提供できなかった我々にもある。国民の知る権利は何事にも増して重要なんだもん。今後のことを考えるならば謙虚に反省して再発防止策を徹底しなきゃならんぞ。そのためにも……」
「スト~ップ! 反省だけなら猿でもできるわよ。そんなことより今は目の前の問題に対処するのが先決だわ。ってことでまずは佐竹と宇都宮に攻め込まれた壬生氏の壬生城と鹿沼城の状況を説明するわね」
萌は大作の話を遮って割り込むと手書きの地図を取り出して広げる。続いて手作り感の溢れる駒を次々と並べ始めた。ぐるりと輪になった一同は首を伸ばして覗き込む。
「壬生義雄の所領は三万石とも四万五千石とも言われてるわ。『北条氏人数覚書』には動員兵力は千五百騎って書いてあるわ。『関東八州諸城覚書』によると常陸の佐竹氏が五千騎、小田氏が三千騎、下野の宇都宮氏が三千騎、安房の里見氏が三千騎。この辺りが関東の有力大名。ってことは壬生は中の下ってところかしらね。そんなわけで上杉や北条、宇都宮と組んだり離れたりしてるわけよ。ちなみに皆川氏は千騎、那須氏が千五百騎くらいだわ」
「うぅ~ん…… 皆川の裏切りはともかくとして、もし壬生までもが短期間で落ちたりすると北関東の諸将たちに不安が広がり兼ねんな。特に天正壬午の乱から後で北条に付いた奴らはいつ裏切ってもおかしくないぞ。吹けば飛ぶような有象無象はともかくとして、もしも関宿城の簗田が寝返ったりすると利根川や江戸川の水運まで封じられちまう。そうなると今時大戦の趨勢にまで影響が出るかも知れんな。出ないかも知らんけど」
頭を抱え込んだ大作は小さくうめき声を上げる。
佐竹や宇都宮なんて脅威とすら認識していなかったのに。こんな雑魚に足元を掬われるとは悔やんでも悔やみきれんぞ。
とは言え、そもそも退屈の原因は物事が上手く運び過ぎていたからなのかも知れん。
だとするとこれは絶好の退屈凌ぎになるんじゃね? うだつの上がらない普通の高校生にやっと巡ってきた幸運か? それとも破滅のワナか?
だが、またもやループに陥り掛けた大作の思考は萌の一言で強制終了させられた。
「そっちの件ならとっくの昔に緊急展開部隊の投入を命じてあるから心配はいらないわ。そんなことより厄介なのは皆川広照の奥さんのことよ。鶴子って人なんだけども何とびっくり壬生義雄の妹なんですもの」
「な、なんだってぇ~っ! 皆川と壬生って姻戚関係があるのかよ…… それなのに戦ってるのか? 戦国時代ってそんなんばっかだなあ。勘弁して欲しいぞまったくもう。これってどういう風にすれば丸く話が治まるのかなあ。何だかもうどうでも良くなってきたんですけど……」
大作は心底から忌々しそうに毒づくと大げさに頭を振る。
その一言を切っ掛けにお園や美唯、萌、ナントカ丸、藤吉郎たちのやる気も一気に削がれてしまったらしい。
緊急対策会議は何の結論も出さないまま有耶無耶に終わってしまった。
「こんなんで大丈夫なのかなあ?」
「まあ、どうにかなるんじゃないの? ならないかも知らんけど」
「でもなあ、俺たちは小田原や碓氷では圧勝しているんだぞ。それが栃木の山奥の負け戦一つで情勢がひっくり返ったらやってられんぞ」
「とちぎ? とちぎって何なのかしら? ねえねえ、大佐。教えて頂戴な」
例に寄って例の如く美唯がどうでも良いような言葉尻に噛み付いてきた。
と思いきや、美唯じゃない。ほのかだった。
「ああ、ほのか。いたのかよ。あんまり静かなんで寝たのかと思ってたぞ」
「ちゃんと起きてるわよ。それより『とちぎ』っていったい何なのかしら? 早く教えて頂戴な。早く! 早く! 早く!」
「聞けば何でも答えが返ってくると思うな! 大人は質問に答えたりせん! って、いやいや。そんな鬼みたいな顔すんなよ。ちゃんと説明するからさ。結論から言うと栃木って言う名前の由来はよく分からんのだ。ただし、栃木市役所や栃木県庁のHPによると『栃木市神田町にある神明宮には天照皇大神を祀る神明祠があったんだとさ。んで、その棟には十本の千木があったそうな。十の千木。つまり『とう』の『ちぎ』だろ? んで、栃木って名前になったんだとさ。どっとはらい。ちなみに栃木市の市章は二本の鰹木が交差したところに千木が一組二本斜めに交わったデザインなんだぞ」
「ふ、ふぅ~ん。何だか存外につまんない謂れだったわね。聞いて損しちゃったわ」
「そ、そうなんだ。俺も何だか説明して損しちゃったぞ」
それほど広くもない座敷を重苦しく淀んだ空気が満たす。
こんな日は早く寝るに限るな。大作は解散を宣言すると手早く布団を敷いて横になった。




