巻ノ参百四 松の木は揺れているか? の巻
朝早くに江戸城を発った大作とお園は八十キロの彼方にある小田原を目指し、ただただひたすらに歩き続けていた。
埃っぽい中原街道には冬の北風が吹きすさび、身も心も凍えてしまいそうだ。思わず挫けてしまいそうな心を奮い立たせるため、大作は明るい話題を探して精一杯に頭を撚る。
「知っているか、お園。長距離を歩くコツは常に一定のペースを維持することなんだとさ。妙に急いでみたり、かと思えば疲れたからといってゆっくり歩いたり。そんなことをすると却って草臥れてちゃうらしいな」
大作はスマホに入っていた『長距離を疲れずに歩くコツ』とかいう記事に目を通しながら要約する。
黙って話を聞いていたお園はアイコンタクトを取ると軽く頷いて先を促した。
「自分に最適な歩行ペースを守ることができれば心肺への負担も軽減できるんだとさ。だから疲労も溜まりにくくなるんだそうな。それと休憩は短めで良いから頻繁にとること。疲労度を客観的に判断するのは非常に難しいだろ? まだまだ行けるって歩き続けていると知らず知らずのうちに疲れが溜まっちゃう。一、二時間ごとに必ず休憩をとれってことだな」
「ふ、ふぅ~ん」
「ただし一回の休憩は十分から十五分以内くらいがベストなんだとさ。 あまり長く休むと筋肉が冷えて固まっちゃうから再始動に時間が掛かっちゃうらしいんだ」
「それじゃあ九十分ごとに十五分休むことにしましょうか。次の休憩は二十五分後ね」
厳密なスケジュールに従いつつも普段以上のハイペースを維持しながら二人は先を急ぐ。他にできることといえばテンポの速い歌を口ずさむくらいだろうか。次から次へと思いつくままに歌を歌いながらひたすら歩き続けるのみだ。日が西の空に傾いたころ、遠くの地平線に玉縄城が見えてきた。
「今宵は彼処に泊めて頂くのかしら?」
「う、うぅ~ん。どうしたもんじゃろなあ。玉縄城の城主っていうと例の北条氏勝じゃん。あいつって史実では山中城の戦いで援軍の主将を務めるんだぞ。にも関わらず、ちょっと不利になった途端に必死で戦う味方を見捨ててさっさと逃げ出した卑怯者なんだ。これってまるで慶喜の劣化コピーみたいじゃんかよ。そのせいでギリギリ何とか持ちこたえていた北条方が総崩れになっちまったんだ。しかも逃げ帰った玉縄城で籠城でもするのかと思いきや、家康勢に包囲された途端にあっさり降伏。直後に豊臣方の案内役を買って出て北条方の城を降伏勧告して巡るんだぞ。信じられん変わり身の速さだろ。そのお陰もあって戦後は家康に一万石で再就職できたんだとさ。関ヶ原でも東軍に付いて秀忠の信任を得たそうな。そんな裏切り野郎と仲良くしたいと思うか?」
「ど、どうなのかしらねえ? だけども、大佐。今は夕餉が一番の大事よ。たとえどんなお方だろうと食べ物さえくれるんなら私は文句無いわ。Here we go!」
「ちょ、おま! お園、まってくれよぉ~! あはははは……」
「ぐずぐずしてたらおいてっちゃうわよ、大佐! うふふふふふ……」
大作とお園は足取りも軽やかに玉縄城の大手門へと向かう。堂々とした態度で門番にコンタクトを取ると北条氏勝左衛門大夫殿への目通りを願い出た。
「恐れながら御本城様、左衛門大夫様は生憎と小田原へ参っておりまして留守にございます。左馬助様と新左衛門様を呼んで参ります故、今暫くお待ち下さりませ」
最初は胡散臭そうな顔で応対していた門番は大作が氏直だと分かった途端に血相を変えて走り去った。
待つこと暫し、ちょっと慌てた足取りで二人の中年男が大勢のお供を連れて駆けてくる。
「お待たせ致しました。御本城様、御裏方様。兄、左衛門大夫に変わって某、左馬助と弟の新左衛門尉が饗応仕ります。精一杯の饗しを致します故、ごゆるりとお寛ぎ下さりませ。ささ、こちらへ」
「左馬助殿ですと? もしかして前にどこかででお会いしましたかな?」
「何をお戯れを申されまするか。直重という名は畏れ多くも氏直様の偏諱を頂戴した物にございますれば。よもやお忘れにではありますまいな? 常の如く新八郎とお呼び下さりませ」
「し、直重ですと? それって千葉直重殿と同じ名前ですよね? アレも氏直から一字を与えて直重と名乗らせたんだそうな。何も同じ名前にせんでも良かったでしょうにねえ。んで、そちらのお方は?」
「末の弟の新左衛門尉にございます。新蔵とお呼び下さりませ」
兄弟だけあって外見が本当にクリソツ(死語)だ。きっと色違いモンスターみたいにキャラデザの使いまわしなんだろう。どうせこいつらも信用できない裏切り野郎に決まってるぞ。
Wikipediaによると山中城から脱出した氏勝が自害しようか迷っていたら二人の弟が諌めて玉縄城へ連れて帰ったんだそうな。脱出してから自害を考えるくらいなら戦場に留まって死ぬまで戦えば良いのに。
きっと下手に逃げ道があるから迷いが生じるんだろうな。これが硫黄島や沖縄なら死ぬまで戦うしか選択肢が無いんだもん。
そう言えばベトナム戦争中にはヘリボーン作戦っていうのが頻繁に行われたそうな。敵陣の奥深くに兵を降下させ、ヘリはとっとと帰っちまうというアレだ。これをやられると兵は逃げたくても絶対に逃げられない。生き残るには死ぬ気で戦うしか無いって寸法だ。アメリカさんもやるときはやるもんだなあ。大作はちょっとだけ感心してしまった。
そこそこ広い座敷に通された二人はそれなりの歓待を受けた。きっと片田舎の城にしては『今はこれが精一杯』の饗しなんだろう。
メニューはといえば…… 相模湾で採れたと思しき太刀魚や鮃、鰤、エトセトラエトセトラ…… 見事なばかりに魚尽くしだ。
「これはアレだな。『海の中では何万の、いわしの弔いするだろう』by 金子みすゞって奴だな。んで、どうだ? お園、お味のほどは?」
「味はともかく長靴一杯食べたいわね」
「だけど見事なばかりに魚ばっかだな。嘘か本当かは知らんけどWikipediaによると相模国東郡では仕掛けとかで鳥を射たり、取ったりするのを法度で禁止してるんだとさ。玉縄北条家が鎌倉時代以来の伝統、放生会を受け継いでいるとか何とか」
「ふ、ふぅ~ん。仕掛けで採ろうが漁で採ろうがお腹に入れば同じなのにねえ」
「で、ですよねぇ~!」
禿同といった感じで大作は頷くと魚の身を骨から外す作業に戻って行った。
夕餉を終えて茶を飲んでいると左馬助だか新八郎だかが遠慮がちに口を開いた。
「御本城様、畏れながらお伺いしても宜しゅうございますか? 御本城様は小田殿の戦に合力しておられたと聞き及んでおります。お味方は如何なされました? 誰一人としてお姿が見えぬようですが」
「あ、あぁ~っ…… 連中のことですか。いったいどうしちゃったんでしょう。不思議ですねえ。だけどもそんなん言い出したら世の中なんて不思議なことで一杯ですよ? 左馬助殿はガラスが固体なのか液体なのか知ってますか?」
「が、がらす? にござりまするか。さ、さあ。如何な物にござりましょう」
「とにもかくにも済んじまったことをアレコレ言うてもしょうがありませんぞ。今はただ、前だけを向いて行きましょう。そうだ、閃いた! 新八郎殿と新蔵殿は里見攻めにご興味はおありでしょうかな? もし良ければ関係者のコネを使ってお二人を捻じ込んでも宜しゅうございますぞ。きっと楽しゅうござりましょう。なあ、お園。お前からも何とか言ってくれよ」
「何とか」
お園はマトモに相手をする気は無いらしい。視線を上げることもなくポツリと呟く。
だが、そのさり気なさが新八郎と新蔵には大受けだったらしい。座が大爆笑に包まれる。一同は暫しの間、腹を抱えて大笑いした。
翌日も二人は朝餉もそこそこに玉縄城を後にした。しようと思ったのだが……
「御本城様、此処から小田原まで十里もございますぞ。宜しければ舟をお出し致します故、お乗り下さりませ」
「既に支度ができておりますれば此方へお出で下さりませ」
どうやら拒否権は無いらしい。って言うか、お園もすっかり舟に乗るつもりのようだ。
とは言え、北西の風に逆らって進めるものなんだろうか。それとももしかして手漕ぎか? 手漕ぎなのか?
大手門を出て南東へ数分歩くと柏尾川と思しき川にぶつかった。岸には見慣れた三十石くらいの高瀬舟みたいな川船が待機している。
「いやいやいや、こんな朝っぱらからご迷惑をお掛けして申し訳ございませんなあ」
「皆様方、お世話になります」
大作とお園はまるで土下座でもするかのように跪いている船頭たち一人ひとりに丁寧な礼を言いながら舟に乗る。言うまでも無いことだがレディーファーストだ。
「それでは、新八郎殿、新蔵殿。此度は大変お世話になりました。小田原へお出での折は是非、小田原城をお訪ね下さい。熱烈歓迎させて頂きますぞ」
「御本城様も道中お気を付けて」
「何卒、気の緩むこと無きよう」
ゆったりとした流れに乗って小舟は曲がりくねった川を下って行く。舟の上は例に寄って例の如く凍えるように寒い。二人は寄り添うと筵を被って暖を取る。
小一時間ほど進むと河口の真正面に江ノ島らしき小山が姿を現した。
「船頭殿。まさかとは思いますけどこの舟で小田原まで送って頂けるのでしょうか?」
「これはまたお戯れを。斯様な小舟で冬の荒海に漕ぎ出せばたちまち引っ繰り返ってしまいますぞ。腰越の浜にて大船に乗り換えて頂きます。大船に乗ったつもりでご安堵下さりませ」
ドヤ顔を浮かべた初老の船頭が自信満々に顎をしゃくる。いったいこの自身はどこから湧いてくるんだろう。謎は深まるばかりだ。
とは言え、そんなことを面と向かって指摘するのも大人気無いか。大作は考えるのを止めた。
「良かったぁ~! 正直言うとちょっとだけ心配してたんですよ。やっぱりこんな小舟じゃ怖いかなあって。な、お園?」
「そ、そうよねえ。この小舟もそんなに悪くは無いんだけれども」
海が目前に迫ってきたところで舟を柏尾川の左岸に着ける。二人は船頭たちに手厚くお礼を言って舟を降りると海岸沿いに東へ向かった。
「アレがかの有名な小動神社だぞ。せっかくだからお参りし行こうか」
「小動ですって? いったい何が小動しているのかしら」
「風も無いのにブラブラ揺れる見事な松があったそうだぞ。それってもしかしてあの松のことかな。源頼朝に使えた佐々木盛綱が1185年に創建したんだとさ」
境内の隅っこには曲がりくねった枝ぶりをした松の老木が一本立っている。その枝の端々を良く見て見ればリズミカルに動いているような、いないような。
「真にゆらゆら揺れているみたいね。だけども今日はとっても風が強いわよ。揺れるのが当たり前なんじゃないかしら」
「そうかも知れんな。そうじゃないかも知らんけど。さて、そろそろ船に向かおうか。日が暮れるまでに小田原に帰りたいしさ」
「そうね。ちょっと急いだ方が良さそうね」
二人は足早に小動岬を目指して歩く。歩いたのだが……
「な、なんじゃこりゃあ~!」
「なんだか随分と小さい舟だわねえ。さっきまで乗ってた舟の方が大きかったんじゃないかしら」
「もしかしてこれが遠近法って奴なのか? 近くば寄って目にも見れば意外と大きいかも分からんぞ」
そんな阿呆な話をしながら小舟に近づいて行く。だが、小さな舟は近くに寄って見てもやっぱり小さいままだった。




