巻ノ弐百九拾伍 小田城へレッツラゴー! の巻
天正十八年正月、小田原で過ごす大作たちの前には正月の諸行事の予定がぎっしりと詰まっていた。
まず一月二日(1590年2月6日)には予定通りに恙無く御乗馬始と御吉書始が粛々と執り行われる。って言うか、掃き初め、買い初め、書き初め、裁ち初め、エトセトラエトセトラ。わけが分からないよ……
藤吉郎は丹精込めて綺麗にカラー印刷した宝船の絵を女中や中間に配って回る。城下にもモノクロの廉価版をタダで配布したんだたそうな。
翌、一月三日には昨日やり残したナントカ初めを片っ端から纏めて片付けて行く。
大作、お園、その他たち幹部要因は休む暇も無く馬車馬のように働いた。
一月四日には御うたひ始が開かれる。開かれるはずだったのだが……
「御本城様には本城と支城において行われる軍勢改めも検分して頂かねばなりませぬ。お急ぎ下さりませ」
「いやいや、ナントカ丸。悪いとは思うんだけど俺たちはこの後、ケツカッチン(死語)なんだ。女子挺身隊、国防婦人会と一緒に小田城攻めに向かうことにするよ。残りの行事は空き時間に順次片付けて行くから安堵してくれるかなぁ~?」
「いいともぉ~! って、いやいやいや。お待ち下さりませ、御本城様! 御本城様~!」
必死に纏わり付いてくるナントカ丸を振り解き大作とお園は海岸を目指して駆け出した。
丸馬出を通って小田原城南側から惣構の外へ出ると砂浜は無数の小舟で埋め尽くされていた。見渡す限り果てしなく広がる海岸には人、人、人。まるでお祭りでもやっているかのような賑わいだ。ノルマンディ上陸作戦時のオマハ・ビーチもこんな感じだったのかなあ。想像した大作は吹き出しそうになったが空気を読んで必死に我慢する。
それはそうと勢いで海岸までやってきたのは良いけれど、これからどうすれバインダ~? キョロキョロと辺りを見回していると人混みの中から見知った顔が現れた。
「御本城様、御本城様! 上野介にございます。此方に御座しましたか。何処に居られるのかと随分とお探し申し上げましたぞ」
「おお、上野介殿。そいつはすまんこってすたい。此度はご厄介になりまして申し訳ございませぬなあ。この御恩は生涯決して忘れませぬぞ。恩にきます」
「礼には及びませぬ。お役目にござりますれば」
下田城主にして伊豆水軍のトップを務める清水康英はニッコリ笑うとシン・ゴジラの國村隼さんみたいなセリフを口にした。
「それじゃあ乗船開始! 急げ、急げ、急げ! 準備ができた者からどんどん出港してくれるかなぁ~? 後がつかえてるんだよ!」
女子挺身隊と国防婦人会の女性たちが次から次へと小舟へと乗り込んで行く。整然として統率の取れた動きからは練度の高さを伺うことができる。たぶんサツキやメイの厳しい訓練の賜物なんだろうな。うん、きっとそうに違いない。大作は何となく納得した。
「大佐、私たちの乗るのはあの大船みたいね。早くしないと置いてっちゃうわよ」
「アレって京の都や下田に行った時に乗った奴だな。と思ったけど細かい所がちょっとずつ変わってるみたいだぞ。帆は木綿製だし形状も三角帆になってるぞ。それに下側が帆柱から伸びたブームに固定されてるな。これってもしかしてバミューダ帆装なんじゃね?」
「そりゃそうでしょう。計画通り、問題は無いって感じね。いったいどれくらい速いんでしょうねえ。サラマンダーよりずっと速いのかしら。さあ、とっとと乗りましょうよ」
「はいはい、乗れば良いんだろう。って言うか、いま乗ろうと思ったのに言うんだもんなぁ~! とにもかくにも三回目の乗船ともなると勝手知ったる他人の船って感じだぞ。んじゃあ、遠慮なく乗らせて頂くとしましょうか」
大作とお園は梯子を使って揺れる船の上へとよじ登る。吹き晒しの甲板はとっても寒い。二人は迷うことなく艫屋倉を目指した。
水主たちの掛け声と共に船が小刻みに揺れ動く。暫しの後、ロールのピッチがゆっくりとした物に変わる。どうやら離岸に成功したらしい。みんなの夢と希望を乗せた大船は足取りも軽やかに東へと向って海の上を進み始めた。
大作たちを乗せた大船は強い北西の風を受け、冬の荒海を滑るようにひた走る。船足は十ノットといったところだろうか。どうやら木綿で作られた縦帆の効果は絶大らしい。
それに比べて女子挺身隊や国防婦人会の乗った小舟は大変な目に遭っているようだ。十数人乗りの小早は荒海に揺られて木の葉のように舞い踊っている。
あっちに乗らなくて良かったなあ。大作はほっと安堵の胸を撫で下す。
「今ごろ御馬廻衆の連中はどこでどうしてるんだろうな。船に乗るのを頑なに嫌がっていたのはこんな目に遭いたくなかったかも知れんぞ」
「そうかも知れんわね。そうじゃないかも知らんけど」
「とは言え、俺達の船は先行し過ぎてるみたいだな。あんまり離れると観測可能な限界を越えちまいそうだ。どこかで…… 城ヶ島の辺りで時間調整をしようか」
女子挺身隊や国防婦人会の面々を乗せた小早は外洋航海に耐えられるほどの凌波性を有してはいない。仕方が無いので海岸線に沿って進まざるを得ない。しかも手漕ぎなので速度は五ノットが精々のようだ。
とにもかくにも艦隊の前後が開きすぎるのは色々と不味い。大船は安房崎の東方に回り込むと暫しの間、風を避けて帆を休める。
こんなのんびりしたペースで大丈夫なのかなあ。急に天候が変わらないことを祈るばかりだぞ。大作は頭を激しく振ると不意に胸に浮かんだ不安を無理矢理に押し込める。
だが、案ずるより産むが易しとは良く言った物だ。金田湾に入った途端、波風が急に穏やかになった。何故だか潮の流れも都合よく後押ししてくれる。お陰で大作たちの艦隊は夕方の早い時間に目的地である久里浜に到着することができた。
大船は平作川の河口付近の砂浜に乗り上げるように停泊した。
って言うか、いつも思うんだけどこれってほぼ座礁だよなあ。大作は心の中で小さく呟く。
「大佐、久里浜へ無事到着したことを小田原に報告をしたの? 」
「これからだよ」
「せいぜい難しい暗号を組むことね」
お園が悪戯っぽい笑顔を浮かべた。これで無線機が破壊されていたらびっくりなんだけどなあ。だが、そんな心配は杞憂に終わる。大作は自ら無線機を操作して小田原の萌に無事到着したことを知らせた。
まるでラピュタに着いたゴリアテのように少人数のお留守番組だけを船に残し、みんなして陸へと上がる。
それほど広くもない砂浜には女子挺身隊や国防婦人会たちの小早が隙間も無いほどの高密度で犇めいていた。大作はまたもやノルマンディ上陸戦のオマハ・ビーチを想像してしまった。
「いったい夕餉はどんな物を食べさせて頂けるんでしょうね。私、気が急いてしょうがないわ。お腹が減って目が回りそうなんですもの」
「あのなあ、お園。お前、ちゃんとお昼ご飯も食べてたじゃんかよ。大きな握り飯を三つくらいもさ」
「昼餉と夕餉は別腹って言うでしょう? 言わなかったかしら?」
「いや、あの、その…… お前らちょっと前までは一日二食だったよな? まあ、食欲があるのは悪いことじゃないけどさ」
そんな阿呆な話をしながら上野介の案内でに海岸に沿って歩いて行く。暫く進むと立派とまでは行かないがそれなりに大きな屋敷が見えてきた。
「これってペリー公園の辺りなのかな。二十一世紀ではペリー上陸記念碑やペリー記念館が建っているんだぞ」
「ぺりいってお方は下田にも参られたのよね? もしかして行く先々に記念碑をお建てになったのかしら?」
「いやいやいや、ヤマトタケルや弘法大師じゃあるまいし。そんなことは無いんじゃね? 多分だけど」
「た、多分なの? まあ、どうでも良いんだけどね」
大きな屋敷の前では網元とその家族一同と思われる面々がずらりと雁首を揃えて整列していた。
大作は内心では面倒臭いなあと思いながらも一人ひとりと挨拶を交わしながら握手して回る。お礼とお辞儀はタダなのだ。使わんと勿体無い。
夕餉は新鮮な魚のフルコースだった。お園の顔は大満足といった様子だ。この分なら女子挺身隊や国防婦人会もマトモな物を食わせて貰っているんだろう。大作はほっと安堵の胸を名で降ろす。
食後のデザートを食べるのも早々に大作たちは床に就いた。
翌朝、まだ暗い時間に大作は目を覚ました。海の上では何があるか分からん。少しでも余裕を持って行動しなければ。炊きたてのご飯で作った握り飯を受け取った大作たち一同は網元に手厚くお礼を言うと足早に久里浜を後にする。
富津岬を掠めるように北上すると艦隊は一路、江戸湾の最奥を目指してひた走る。
船は北北西の強い風に逆らって北北東に切り上がるように進んで行く。これは木綿性の三角帆のお陰だな。北前船みたいな横帆じゃ絶対不可能な芸当だ。大作は一人でほくそ笑む。
例に寄って例の如く女子挺身隊や国防婦人会たちの小早と離れ過ぎないように船足を調整して進む。
真冬のこんな時期だというのに品川の辺りでは荷物の上げ下ろししている大小の船が遠目に見て取れた。
風向きや潮の流れが奇跡的に良かったお陰だろうか。夕方の速い時間に市川の辺りに辿り着く。
大作たちは予め用意してあった川船に無線機を運び込むと自分たちも乗り移る。幸いなことに女子挺身隊や国防婦人会たちにも事故等の欠員は無いらしい。艦隊は小休止の後、江戸川を遡った。
右手には湿地帯、左手には原野という殺風景がどこまでも果てしなく広がる。日が没し、辺りが薄暮に包まれた。細長く伸びた艦隊は五キロほど川を遡上したところで本日の目的地に辿り着いた。
「ねえ、大佐。此処ってどの辺りなのかしら?」
「鼈をご馳走になった葛西城を覚えてるよな? あそこから東に半里くらい行った所だぞ。史実では四十年ほど先、この何にも無い空き地に柴又の帝釈天が建てられるらしいな。寅さんが産湯を使ったところだ」
「ふ、ふぅ~ん。帝釈天様っていうのはバラモン教やヒンドゥー教のインドラって言う神様のことなんでしょう? 確かムスカ大佐も『ラーマヤーナではインドラの矢とも伝えているがね』とか何とか言ってたわね」
「ここだけの話、アレって本当はラーマヤーナじゃなくてマハーバーラタなんだけどな。それにインドラの矢じゃなくてインドラの雷が正しいらしいな。ついでに言うとインドラの雷で焼き尽くされたのはパキスタンのモヘンジョダロなんだとさ」
「そういう風に重箱の隅を粗探しするのは大佐の悪い癖ね。ことを急ぐと元も子も無くすわよ」
そう言うとお園は不服そうに口を尖らせてそっぽを向いてしまった。
いったい何を間違えてしまったのだろう。大作は頭を抱え込んで小さく唸る。
だが、一瞬の後にお園がお腹を抱えて大爆笑した。どうやら冗談だったらしい。
「さあ、それじゃあ美味しい鼈を頂くとしましょうか。大佐、葛西城を目指してレッツラゴー(死語)よ!」
「いやいや、レッツラゴーって言葉は意外と今でも使う人が多いような気がするんだけどなあ。そんなことも無いかなあ。まあ、どっちでも良いんだけどさ」
鼈のことで頭が一杯のお園の耳には大作の小さな呟きは届いていないようだった。




