巻ノ弐百九拾壱 飛べ!お代乃 の巻
天正十七年十二月八日(1590年1月13日)のお昼前、大作と愉快な仲間たちは酒匂川の河口にほど近い西岸に雁首を揃えて屯していた。
天気はといえば空を埋め尽くすように鉛色の薄雲が張り詰め、冷たい北東の風が止むことなく吹き続けている。お世辞にも良い天気とは程遠い。これぞまさに西高東低の冬型の気圧配置という奴だな。
風力はおよそ四といったところだろうか。大作は竿の先で風に吹かれて揺れる吹き流しを見て見当を付ける。ちなみに海の方は穏やかなようだ。
「なあなあ、お園。こっち側って右岸だっけ? それとも左岸だったかな?」
「あのねえ、大佐。右岸、左岸っていうのは川上から川下を見た時のことよ。だから右岸になるわね」
「そうそう、そうだったっけ。段々と思い出してきたよ。んで、風向や風速は丁度良い具合のようだな。絶好の初飛行日和って感じだ。この適度な向かい風っていうのがフライトには重要なポイントなんだぞ」
「そうなのかしら? 未唯は追い風の方が遠くまで飛べそうな気がするんだけどなあ。紙鳶だってそうじゃないのよ」
こまっしゃくれた笑みを浮かべた幼女が人を馬鹿にしたように鼻を鳴らす。だが、こればっかりは信じてもらうしかない。だって飛行機って奴はそういう物だと相場が決まってるんだもん。
「そうは言うがな、未唯。空母が艦載機を発艦させるときは風上に向かって全速で進むだろ? ライト兄弟だって秒速十メートルの風に向かって飛んだらしいしな。飛行場だって必ず風上になる方向で離着陸を行うじゃん。まあ、横風の時はどうしようもないんだけどさ」
「ふ、ふぅ~ん。まあ、私たちはゼロ距離発進だから余り関わりが無いわねえ。アレを使えば一息に離陸速度が得られるんでしょう?」
「いやいや、重要なのは対気速度なんだよ。だから向かい風で離陸するっていう基本だけは絶対に外せないんだ。それはともかく胴体の下部に装備した二本のRATOが二百数十キロの推力を二秒ほど発揮してくれるはずだ。重力に逆らいながら2G以上の加速を二秒間掛けられるから秒速十五メートル近い速度を得られるだろう。そこから先は推力二十キロほどのメインエンジンが六十秒くらい燃焼するらしいぞ。お前らの操縦さえ上手く行けば理論上は九百メートルくらい飛べるかも知れんな。飛べんかも知らんけど。まあ、最低でもライト兄弟初飛行の記録だけは抜いてくれ。それさえ超えれば胸を張って自慢できるぞ」
「十二秒で三十六メートルだったかしら。でも、それくらいなら容易く飛べる筈よ。だって滑空機の稽古ですらもっと遠くまで飛んでるんですもの。RATOさえ正常に動作してくれれば容易いことだわ」
そこが一番の不安材料なんですけどね。大作は思わず口から出掛かった言葉を既の所で飲み込んだ。だってRATOを実機に乗せるテストは全くと言って良いほどやっていないんだもん。
とはいえ、自信満々といった顔で根拠の無い楽観論を口にするお園にそれを指摘するほど大作も野暮ではない。にっこり笑うとさり気なく話題を変えた。
「それはそうと客の入りはどんな塩梅なんだろうな?」
「どうやら出足は上々みたいね。それはそうと関係者席っていうのが物凄く多いみたいなんだけどアレはいったい何なのかしら?」
「アレはアレですな、お園様、瓦版新聞を購読して頂いている方々にお配りした分でございます」
三脚に載せたカメラから顔を上げた藤吉郎がドヤ顔で答えた。
って言うか、配ったですと! 道理で老人から子供までわけの分からん奴らで一杯なはずだ。大作は頭を抱えて小さく唸る。
「おいおいおい、もしかしてタダ券を配ったのか? それっていったい何枚くらいなんだ? みんなちゃんと来てくれてるんだろうな? もし関係者席がガラガラだったら色々とアレだぞ」
「それならば大事無いみたいよ。どっちかって言うと立ち見席が出るくらいに立ち込んでるわね。入場規制とかできないのかしら」
「無茶を言わんでくれよ。タダ券をバラ撒いときながらいざ来てみたら入れないなんてことになったら主催者の面目が丸潰れだぞ。しょうがない、縄を張り直そう。藤吉郎、手伝ってくれるかなぁ~?」
「いいともぉ~っ!」
藤吉郎と共に駆け出そうとする大作の裾をお園が引き止めた。
「大佐、そろそろ私たちも飛ぶ支度をするわね。上手く行くようにお念仏でも唱えてくれるかしら」
「未唯にもお願いね。確っと約したわよ」
「私めも分も頼むわ」
発射台に載せられた三機の飛行機は四十五度くらい上を向いている。こんなんでちゃんと飛べるんだろうか。飛べたら良いなあ。って言うか、飛べないと困っちゃうぞ。大作は考えるのを止めた。
それはそうと機体には色んな文字や家紋みたいな模様が所狭しと描き込まれている。まるで空間恐怖みたいに隙間無く描き込まれた様子は耳なし芳一を彷彿させる。
これっていったい何なんだろうなあ。例えるならばF1マシンにちょっと近いかも知れん。だとするとこれってもしかするともしかして……
「広告かよ!」
「如何にも広告にございます。思うたよりも多くの方々にご賛同頂けました故、もう貼る所が無うなってしまい往生しております」
「あのなあ、こいつは名目上は軍用機ってことになってるんだぞ。広告で埋め尽くして良い物なのかなあ。それに良く考えたら国籍マークだって入ってないじゃんかよ」
「米軍機のノーズアートみたいな物だと思えば良いんじゃないかしら? 知らんけど」
不意に掛けられた萌の声に代作の思考が強制終了させられる。って言うか、萌が良いって言うんなら良いんだろう。萌ん中ではな。それにもし問題があっても萌が責任を取ってくれるだろうし。
大作は米軍機のノーズアートを心の中のシュレッダーに放り込む。
脇に立った藤吉郎が大作の着物の裾を軽く引っ張って注意を引くと口を開いた。
「こちらの皆様が広告を出して下さったお方々にございます。大佐からも何ぞ一言お声を掛けては下さりませぬか」
「え、えぇ~っと…… いや、あの、その、しかしまあ何ですなあ。我ら北条が世界初の有人動力飛行を行うという偉業を達成できるのも一重に…… じゃなかった、偏に皆様方のご支援あったればこそです。感謝に堪えませんな。とは言え、これは皆様方にとってもメリットのあるWin-Winなお話なのですぞ。貴方がたの商品パッケージに『私たちは小田原少女飛行隊を応援しています』とか何とか書いて下さればイメージアップ間違いなし。売上も伸びることにございましょう。コラボ商品の企画とかありましたら遠慮なくご相談下さりませ」
「恐れながら御本城様、手前共は干し柿を扱っております。何ぞ良いコラボ企画はございませんでしょうか?」
しょぼくれた爺さんが袂から干し柿を取り出しながら上目遣いで話しかけてくる。
受け取った大作は暫しの間それを観察するとお園へと手渡した。
「でしたらこれを小田原少女飛行隊の公式干し柿に認定をば致しましょう。そちらのお方は茶を扱っておられるのですかな? では、それも今日から公式飲料ですぞ。よろしゅうございますか? こうやって差別化を図るだけでブランドイメージが画期的に向上すること間違いありませんな」
「さ、左様な物でござりましょうか?」
「左様な物にございます!」
ぴしゃりと言い切られた商人は言い返す言葉も無いようだ。
一同は市場へ連れて行かれる子牛のようにゾロゾロと移動する。暫く歩くと発射台に載せられた航空機の前へと辿り着いた。
大作は観客席を振り返ると腹の底から大声を張り上げる。
「Ladies and gentlemen! ご紹介致しましょう。これが人の作り出した究極の汎用決戦航空機、その初号機。我々人類の最後の切り札『お代乃』です。皆さんどうか盛大な拍手を!」
「…… は、はくしゅ?」
「手を叩けの意にございます。Clap Your Hands!」
咄嗟にお園がフォローしてくれた。くれたのだが…… みんなぽか~んと口を開けて惚けるのみだ。
機体をバックにして三人娘が整列した。頭には藁を編んで作ったと思しき飛行帽を被っている。藤吉郎は構図を変えながら黙々と記念写真を撮影して行く。
「諸君、いよいよ訓練の成果を発揮する時がやってきた。正しい努力は決して裏切らない。君らが練習で得たスキルを存分に使いこなす事さえ出来れば必ずや史上初の動力飛行という偉業が達成できるはずだ。お園、ほのか、未唯!(順不同) 自分を信じるな、お前らを信じる俺を信じろ!」
「「「Sir, yes, sir!」」」
「よし、円陣を組むぞ。小田原少女飛行隊! ファイト、オ~、ファイト、オ~、ファイト、オ~~~! 搭乗開始!」
少女たちは梯子を登ってそれぞれの機体の狭い狭いコックピットへと潜り込んむ。地上スタッフの手を借りて布製の固定ベルトで肩や腰の辺りが押さえられた。コックピット天井の蓋が閉じられ梯子も取り外される。消防スタッフが万一の事故に備えて機体の周りに水を撒く。
いやいや、これはロケットの噴射で土埃が立たないための気遣いだな。ドクターヘリが来る前に消防車が水を撒くのも同じ理由なんだとか。
大作がそんな取り留めの無いことを考えている間にも発射準備は整ったようだ。緑色の旗が降ろされるのと入れ替わりに赤い旗が立てられた。
あらかじめ予想飛行ルート上に展開しているスタッフたちも手を振って受け入れ準備完了の合図を返してくる。準備万端滞りなし。
「発進十秒前、九、八、七、六、五、四、Three, Two, One. Lift off of the airplanes Oyono and Yukiho and Yu…… 優ってローマ字だと何て表記するんだ? Yuu? You? Yu? 分からん、さぱ~り分からんぞ!」
「どうどう。餅付きなさいな、大作。真正ヘボン式のローマ字綴りだとuの上に長音記号を書くのが正しいわね。だけどパスポートでは長音記号を使わないからYuって表記することになるわね。オ行長音の時だけは例外としてHが使えるから大野をOhnoって書くことを認めているんだけれど。でも、ヘボン式の正式ルールからは外れているわね」
「だったら、だったらもう……」
大作と萌が無駄薀蓄合戦に興じている間にも三機のロケット機は朦々と黒煙を吹き出しながら酒匂川の川岸を北西に向かって飛んで行った。




