巻ノ弐百八拾参 咲いた咲いた桜が咲いた の巻
翌朝、朝食を終えた大作は昨晩に見た夢が気になって気になってしょうがなかった。
「なあなあ、藤吉郎。昨日、俺たちって強引に広告を取ったりしていないよなあ? 実はみんな嫌々ながら広告を出してたりしないかなあ」
「さ、さあ。如何でございましょう。某如きでは人の心の奥底までは分かりかねまする。大佐は如何お考えで?」
「あのなあ…… それが分からんから聞いてるんだよ。まあ、いいや。いまさら言うても詮無きことじゃ。それより今後は無理強いしたりすることの無いよう十分に注意してくれよ。企業コンプライアンスの遵守を徹底するんだぞ」
「畏まりましてございます」
これにて一件落着。大作は新聞拡販団を心の中のシュレッダーに放り込んだ。
さて、今日は何をして遊ぼう…… じゃなかった、どんな仕事をしようかなあ。プロジェクトルームの壁に貼ってあるガントチャートを見てみるが特にスケジュールの遅延は発生していないようだ。
つまんないなあ。遅れている作業があれば手伝いを名目に暇潰しが出来たのに。
まあいいや、どうせいつもみたいにウロウロしていれば向こうから厄介事が転がり込んでくるに決まってるさ。
大作は半ば強引にお園を誘うと本丸へと繰り出した。
視察の名目であちこちを適当に見て回る。本丸御殿再建、テレピン油、ミニエー銃、無線機、硫酸製造、アセトン製造、発電所、エトセトラエトセトラ…… って、発電所? なんじゃそりゃ! そんな物を作る計画があったっけかなあ。無かったような気がするんだけどなあ。
「なあなあ、萌。この発電所ってなんじゃらほい?」
「これ? これはアレよ、アレ。水を電気分解して水素を作るためのものよ。それを材料にしてルテニウムを使ってハーバーボッシュ法よりも温和な条件でアンモニアを合成。オストワルト法で硝酸を作るわけね。既にグリセリンは大量に準備できているわ。一月以内には日産四十キロくらいの無煙火薬が生産できる見込みよ」
「そ、そうなんだ…… でも、このタイミングでそんな物を作る必要はあるのかなあ?」
「さあ、どうかしらねえ。でも、煙は少ない方が良いんじゃないかしら。それに上手く行けば大量の黒色火薬が不要になるし。それで花火でも作ってみたら面白いんじゃないかしら?」
「それが良いかも知れんなあ。まあ、上手いことやってくれ。そんじゃあ俺はもう行くよ」
何だか知らん間に随分と酷いことになっているなあ。大作は心の中で苦虫を噛み潰すが決して顔には出さない。卑屈な愛想笑いを浮かべると手を振ってその場を後にした。
暫く歩いたところでお園が顔色を伺うように声を掛けてきた。
「ねえ、大佐。いったいどうしたのよ? あんまり楽しげじゃなさそうねえ」
「だって…… 俺と関係が無いところで話がどんどん進んでるんだぞ。これじゃあまるで傍観者みたいじゃんかよ」
「傍観者効果? それって人が大勢いたら誰も先に立っては動かないっていう例えだったかしら? 『誰も消防車を呼んでいないのである!』っていうのでしょう?」
「そうそう、それそれ。他にも1964年にニューヨークで起こったキティ・ジェノヴィーズ事件が有名だな。近所の人が三十八人もいたのに誰も警察を呼ばなかったんだ。それとか松竹大船撮影所で火事があったんだけどみんな火災の撮影だと思って誰も通報しなかったなんて話もあるな。そんなわけだから救急救命の現場では『あんたがAEDを持って来い』とか『君は救急車を呼べ』とか具体的に指示してやらなきゃならんのだ」
「ふ、ふぅ~ん。それは難儀なことねえ」
お園が呆れ果てたといった風に顔を歪める。
まあ、この問題がそんなに簡単に解決したら誰も苦労はしないんだけれども。
「そうは言うがな、お園。お前だって似たような状況になれば同じ行動を取るんじゃないのかなあ?」
「そうかも知れんわね。そうじゃないかも知らんけど。それで、私たちはどうすれば良いっていうのよ?」
「いや、どうもせんけどな。原因が人間の深層心理に関わる問題ならば根本的な解決は難しいと思うぞ。それよりは火災報知器が消防に自動通報するとか、防犯カメラを増やすとかした方が現実的だろうな」
「それはそれで大事だわねえ。まあ、それで万事上手く行くんなら良いんだけれども」
そんな阿呆な話をしながら二ノ丸へ歩いて行くと小田原少女歌劇団が発声練習をしていた。
端っこの方ではサツキとメイが現場監督みたいに偉そうにふんぞり返っている。
「やあやあ、みんなご苦労さん。練習に精が出るなあ」
「あら、大佐じゃないの。みんな良い感じの仕上がりよ。本番まであと二十日かしら? チケットの方はちゃんと捌けているんでしょうねえ?」
「チ、チケットですと? それって俺の…… 俺たちの仕事なのかなあ?」
「そりゃあそうでしょう。それとも何かしら? もしかして私たちに自分でチケットを売れとでも言うの?」
目尻を釣り上げたメイが突如として大声を上げた。隣ではサツキが禿同といった顔で頷いている。
なんぼなんでも沸点が低すぎるだろう。怒りに燃える瞳で睨みつけられた大作は思わず一歩後退った。
「いやいや、だって第九にコーラスがいれば家族や知り合いにチケットを捌けるからって徹子さんも言ってたんですけど……」
「そんな阿呆な話は無いわ! 私たちは歌の稽古で一所懸命なのよ! チケットの販売は大佐が責任を持ってやってくれないと困っちゃうじゃないの! さあ、行きなさいな。早くチケットを売ってくるのよ! hurry up! be quick!」
「はいはい、行けば良いんだろ。いま行こうと思ったのに言うんだもんなぁ~!」
大作は半ば悲鳴のようなうめき声を上げると脱兎の如く逃げ出した。
二人は取り敢えず大手門を潜って城下へ出る。まずは、昨日も訪れた鉄砲鍛冶の伊勢屋に行ってみよう。顔見知りだから協力も得られやすいはずだ。はずだと思っていたのだが……
「その『だいく』とは如何なる物でございましょうや? 如何に御本城様の仰せとは申せ、其れが分からぬことには合力は致しかねまする」
「いやいや、別に合力をお願いしておるわけではございません。チケットを買って欲しいと言ってるだけなんですよ。それに拙僧らは商売でやっておるわけではありませぬぞ。これはチャリティーコンサートにござりますれば必要経費を覗いた売上の大半は身寄りのない子供たちのために寄付されるのです。つまるところチケットを買うという形で寄付を行っておる次第。結果として伊勢屋殿の企業ブランド価値は向上し、売上も上がることでしょう。ばんざ~い、ばんざ~い!」
大作が唐突に大声を上げたので店主が目を丸くして驚いている。だが、すぐに立ち直ると鋭い質問を浴びせてきた。
「さ、左様にござりまするか…… んで? 一枚お幾らになりますかな?」
「えぇ~っと、銭十文にございます。それと十枚お買い上げ毎に一枚をサービスさせていただいております。何枚お買い上げ頂けますか?」
「そ、それでは十枚ほど……」
「何をおっしゃいますやら旦那様。従業員だけでなく、ご家族の分も買って上げて下さいませ。一年に一度の第九ですぞ。今年一年を楽しい気持ちで締めくくろうではありませんか。ね? ね? ね?」
「…… 四十枚お願い致します」
散々粘った末、不承不承といった顔で店主が首を縦に振る。
「「お買い上げありがとうございました~!」」
大作とお園は見事に声をハモらせた。
その後の作業は簡単なものだった。だって昨日に新聞を売って回った店を巡るだけの簡単なお仕事なんだもん。
伊勢屋さんは四十枚も買ってくれた。そう言うだけで他の店も従業員や家族の分まで買ってくれる。日が傾く頃には用意していたチケットが全部売れてしまった。
「これは追加公演とか用意した方が良いかも知れんな。どう思うよ、お園?」
「だけどもコンサートはクリスマス・イブの夜にやるつもりなんでしょう? 他の日にやっても盛り上がらないと思うわよ。会場を他所に代えることはできないのかしら」
「だったら三ノ丸ででもやるか? だけど問題は音響だな。後ろの方にまで声が聴こえないといけないんだもん」
「コーラス隊の後ろに屏風でも並べたらどうかしら。音を共鳴させたり反射してくれるかも知れないわよ。してくれないかも知らんけど」
「それはそうと、無理矢理チケットを押し付けたけど本番でちゃんと客が入るのかなあ。当日の客席がガラガラだったらコーラス隊のテンションがダダ下がりだぞ。まあ、その時はサクラを入れるしかないか」
「さくら? それって美味しくはなさそうね?」
ドヤ顔を浮かべたお園がもはや定番となった返しを口にする。
「もともとは江戸時代の芝居小屋とかにいた役者に声を掛ける人のことだったらしいな。桜を見るのに金は取られんだろ? それに桜は散り際も見事だしな」
「ようするに空席を埋めるためにタダで客を入れるってことね」
「その他にもミルグラム実験やアッシュの同調実験とかいった社会心理学の実験でも使われてるだろ。周囲がどう振る舞うかによって人の心理や行動は大きな影響が現れるんだ。こういうのをステルスマーケティングといって現代でも定番のやり方なんだぞ。パスタ屋とかが人気をアピールするためにバイトを使って行列を並ばせたりするだろ?」
「するだろって言われても知らないわよ。それじゃあ、明日はそのサクラの手配でもしましょうか?」
「そうだな。どうしても他にすることがなければそれが良いかも知れんか」
だが、予定通りに進まないのが人生の常というものなのだろうか。
例によってその計画が実行されることはなかった。




