巻ノ弐百八拾壱 リンゲルマン効果よ永遠に の巻
翌日の夕方、大作とお園は小田原へと帰り着いた。船乗りたちに手を貸してもらって海岸で船から降りる。だが、誰一人として出迎えには来てくれていないようだ。
「無線で連絡を入れられてたら良かったんだけどなあ」
「しょうがないわよ。だって私たちの無線機は下田に置いて来ちゃたんですもの。萌も関宿城に置いて来たらしいわね」
「まあ、今後は続々と無線機を作って各地に設置して行く予定だしな。一月もすれば関東一円に無線ネットワークが結ばれるんじゃね? 結ばれないかも知らんけど。そうだ! そうなったら局毎にコールサインとか決めなきゃならんな。心の中のメモ帳に極太明朝体で書き込んでおこう」
その様子をお園は生暖かい目で見詰めている。だが、空気を読んで話し掛けては来なかった。
城下を通って大手門を潜る。三ノ丸、二ノ丸を通り抜けて本丸へ向かう。遠い、本当に遠い。全く持って嫌になるなあ。
サスペンションの付いた馬車の実用化を急がねばならんぞ。確かこの件は何度も心の中のメモ帳に記入した気がするんだけどなあ。まあ、今は優先度の高い事からやって行かねばならん。馬車の優先度は下げざるを得んか。
本丸では焼け跡の整理がすっかり終わり、既に復興に向けての槌音が響いているようだ。とは言え、流石にこの時間になれば作業は終わってしまったらしい。
この分だと数日もあれば仮設の作業場くらいは再建できるのかも知れん。そうなれば八幡山での居候生活も終わりだ。早くこっちに戻りたいなあ。そんなことを考えながら二人は本丸を後にした。
二ノ丸、三ノ丸を通り抜けて大手門を潜る。八幡山への長い坂道を登って行く。
うがぁ~っ! もう本当に勘弁して欲しいぞ。俺はこれからも一生歩き続けなきゃならんのか? できたらそんなの勘弁して欲しいんですけど……
「なあなあ、お園。明日から本丸で暮らさないか? 明日中に小屋を立てちまおう。山ヶ野でやったみたいにさ。あの時に出来たんだから今やれないはずがないだろ? 人手も金も余裕があるんだから何とでもなるよ」
「大佐は八幡山が嫌になっちゃったの? 寝床も暖かだし、ご飯もそこそこ美味しいわよ。何が足りないって言うのかしら?」
「この坂道だよ! 何でこんな道を毎日毎日登り降りしなきゃならんのだ? しんどいだろ?」
「まあ、呆れたわ! 用があるから登り降りしてるんでしょう? 赤子じゃないんだからそんなことで泣き言を言わないで頂戴な」
「いやいや、泣き言なんて言ってませんから。ただ、登り降りするのが嫌なんだよ。位置エネルギー的に無駄じゃんか。ケーブルカーみたいに登りと下りが連動させることは出来んもんかなあ」
「ど、どうなのかしらね。覚えてたら後で萌に頼んでみたらどうかしら」
そんな阿呆な話をしている間にも二人は八幡山へと無事に帰り着いた。
翌日、朝食を終えた大作は小田原城の本丸再建事業に立ち会っていた。
織田信長も二条城築城に立ち会っていたっけかなあ。ドラマか何かでみたような見なかったような。
そう言えば木下藤吉郎時代の秀吉にも清州城の石垣修理で頭角を現したってエピソードがあったっけ。
工区を分割して作業を競わせて一番に終わった班に褒美をやったとかいう例の話だ。
だが、あの話はどう考えても疑わしい。集団での作業では相互依存による手抜きが発生して効率が下がるというのが定説なのだ。
とある実験によれば一人のときの力を百とすると、二人だと九十三、三人なら八十五と下がって行く。それが八人にもなるとたったの四十九にまで減っちまうんだとか。この現象は研究者の名前から『リンゲルマン効果』とか『社会的手抜き』などと呼ばれるそうな。
これって『赤信号、みんなで渡れば怖くない』みたいな? いや、全然違うのか? 分からん、さぱ~り分からん。大作は激しく頭を振って思考をリセットする。
とにもかくにも一人ひとりにノルマを割り振るとか個々に違う役目を分担することでサボり難くするしか対処方は無い。少数精鋭化が手抜き防止の有効な手段なのだ。
そう言えばダニガンの本にも書いてあったっけ。第一次世界大戦ごろまで歩兵の主兵装は小銃だった。それが機関銃に代わられたのも兵の手抜きを防ぐためだったんだとか。確かに二、三人でチームを組んで戦っていれば手抜きしたらモロバレだ。命懸けの戦場でそんなことする奴はおらんだろう。
「それで? 今日は何をするのかしら、大佐」
「うぅ~ん、何して時間を潰そうかな」
「昨夜はケーブルカーを作るって言ってたわね。それかこっちで寝泊まり出来るように小屋を立てるとも言ってなかったかしら。ケーブルカーはすぐには作れそうもないわね。小屋を作りましょうよ」
「そ、そうだな。不言実行? 有言実行? とにもかくにもちゃっちゃと作っちまおうか。お園、手伝ってくれ」
適当な端切れを見繕っては釘を打ったり膠で貼り付けたりといった方法で徐々に小屋を形作って行く。
お園は手伝いの手を休めることなく口を開いた。
「ねえ、大佐。ワイドスクラ○ブルだったかトコロさんの何だったかで言ってたのよねえ。基礎工事をしていない掘っ立て小屋は建築基準法で言うところの建築物とは認識されないって。ここも都市計画区域じゃないんでしょう? 十平方メートル未満で屋根が開閉出来るようにしておけば建築確認申請を出さなくても大丈夫なのかしら。土地定着性、外気遮断性、用途性の全てが揃っていたら課税対象になるから役所へ届け出なきゃいないんだったわね」
「よ、良くもまあそんな昔の話をちゃんと覚えていたな。ちょっと怖いぞ」
「昔かどうかは関わりないわ。大事な話だから覚えておく。それだけよ」
お園は人を小馬鹿にした様に薄ら笑いを浮かべる。
まあ、良いか。どうせ記憶力では逆立ちしたってこいつには敵わんし。大作は考えるのを止めた。
取り敢えず今晩からでも寝泊まり可能な場所が確保できた。次は何をしようかな。
周囲へと目を見やれば大勢の人足たちが忙しげに建築工事をやってくれていた。
ここはさっきの藤吉郎のエピソードの如く、チーム分けして競争でも煽る場面だろうか? いやいや、アレはたぶんお話の中でしか成功しない奴だ。現実でやっても悪い結果にしかならんのだ。
一番早く工事を終わらせた者に褒美を出す? そんな事を言い出したらまるで手抜きを奨励している様なもんじゃないかよ。だからと言って、完成度という観点を評価に含めると客観性が失われちまうし。それに目に見える形の競争だからこそ競り合いだって生まれるんだ。
やっぱり餅は餅屋だな。俺に現場監督の真似事なんて出来るはずもない。工事の事は専門家に任せよう。大作は本丸を後にした。
特に当てもなく三ノ丸へ歩いて行くと野球ができそうなくらいの広々とした空き地で百人くらいの女性陣が二列縦隊を作って行進していた。行進曲は…… ボギー大佐だ。
一番先頭に立ったメイが篠笛でもって指さばきもかろやかに曲を吹いている。
大作は耳をすませて曲を良く聴く。どうやら大丈夫みたいだ。ケネス・ジョゼフ・アルフォード(1945年没)のバージョンらしい。
これがもしマルコム・アーノルドが編作曲した『クワイ河マーチ』だったらJASRACに目を付けられちまうのだ。
実を言うと更に謎なルールがあったらしい。著作権フリーなボギー大佐は誰でも自由に演奏することができるの。にも関わらずそれを『クワイ河マーチ』風に演奏したり録音することが禁止されていたのだ。まあ、この謎の成約は2014年に解除されたんだけれども。
グラウンドの端っこに立っていた大作とお園に気付いたんだろうか。メイを先頭にした女ばかりのメルとランディみたいな一団が足取りも軽やかに目の前まで行進してきた。
「全隊、止まれ! 回れ右! 捧げ銃! 休め!」
美女軍団がロボットみたいに一糸纏わぬ…… じゃなかった、一糸乱れぬ精緻な動きを見せた。
ドヤ顔のメイが褒めて褒めてと言った感じの熱い視線を送ってくる。
ここは一つお世辞でも言った方が良いんだろうなあ。大作は小さく頷きながらメイの側まで歩いて近寄った。
「いやいや、さすがだなメイ。音楽だけじゃなく、指揮官としての器量も大したもんだぞ」
「ありがとう、大佐。でも、褒めたって何にも出ないわよ」
「私は如何でございましょうか、大佐」
「ああ、サツキ。もちろん二人ともだよ。二人の力がなければ女子挺身隊も国防婦人会も成り立たん。ちなみにこれが今の精一杯なのかな?」
「いいえ、大佐。あと六百人くらいいるわよ。二千人を集めなきゃいけないんですもの」
マジかよ! 確かに二千人集めろとは言ったけど本当に集めていたとは。不言実行と言うか有言実行と言うか。何ともはや凄い熱意だなあ。大作は感心するのを通り越して呆れ果てた。
「ところでメイ。クワイ河…… じゃなかった、ボギー大佐も名曲だけど彼女らにはもっと相応しい曲があるぞ。知りたくはないかな? どうしてもって言うんなら教えてやらんこともないぞ?」
「私、そんなに知りたくはないわね。でも、大佐がどうしても教えたいって言うんなら聞いてあげないこともないわね」
「はいはい、降参。参りましたよ。んで、その曲とは? ドゥルルルルル…… ジャン! 『オーヴァー・ゼア』なんてどうよ? ジョージ・コーハンがいつ亡くなったのか知らんけど第一次世界大戦で歌われた歌なんだからどう考えても死後五十年は立ってるはずだろ。こんな曲だぞ」
大作はスマホに歌詞を表示させてお園に渡すと自分はサックスを首からぶら下げた。
わりかし簡単な曲なのでサックス一本あれば余裕で吹ける。取り敢えずはサビからいきなり始めてみるか。大作が歌詞の途中を指で示すとお園もすぐに曲に合わせて歌い出した。
Over there, over there,
Send the word, send the word over there
That the Yanks are coming, the Yanks are coming
The drums rum-tumming everywhere.
So prepare, say a prayer,
Send the word, send the word to beware -
We'll be over, we're coming over,
And we won't come back till it's over, over there.
「何だかとっても心ときめく歌ね」
「これなら険しい道でもどこまでも歩いて行けそうね」
「途中からじゃなくて頭からちゃんと吹いて頂戴な。私、ちゃんと覚えたいわ」
「ねえねえ、大佐。早く教えてよ」
そんなこんなで大作はこの日は夕方まで行進曲の練習に付き合わされる羽目になる。
調子に乗った大作はついでにもう一曲『ジョニーが凱旋するとき』も教えた。
「こっちは随分と悲しげな歌ねえ」
「私はこういうのも嫌いじゃないわよ」
「私だって嫌いじゃないわ! もしかしたらこっちの方が好きかもしれないわ」
「だ、だったら私はこっちの方が大好きよ。あっちの歌よりずっとずっと良いと思うわよ!」
「それだったら、それだったらもう……」
女三人寄れば姦しい。今度はこっちが好き競争かよ! もう、勝手にせい! 大作は心の中で苦虫を噛み潰しながらも仲裁に割って入った。
夕餉の席が始まると藤吉郎が目の前まで這い寄るように近付いてきた。
「どしたん、藤吉郎。足でも怪我したのか?」
「いいえ、大佐。何処も大事ありませぬ。其れよりも此れをご覧下さりませ。記念すべき瓦版新聞創刊号のゲラ刷りが上がりました。宜しければ夕餉をお召し上がりになりながらでもご検分下さりませ」
藤吉郎は懐から大事そうにB4版くらいの大きさの紙切れを取り出すと膳の向こう側に置いた。
「おお、ようやっと出来たのか! 思ったより時間が掛かったな。掛けた手間に見合った出来なら良いんだけれどさ。どれどれ…… って、丸っきり広告が埋まっていないじゃんかよ!」
「城下の商人に声を掛けてはみたのです。みたのですが…… 広告の何たるかも知らぬ者にはその値打ちがちいとも分からぬようでして。何とも困った次第にございます」
「困ったで済んだら警察は要らんよ。うぅ~ん、参ったなこりゃ…… 海外の新聞が広告収入に大きく依存しているのとは対照的に日本の新聞は販売収入に頼っているって知ってたか?」
「いいえ、存じ上げませぬ」
小首を傾げる藤吉郎の顔は嘘を付いているようには見えない。って言うか、お園やサツキ、メイ、ほのか、未唯、エトセトラエトセトラ…… 萌を除いた全員が禿同といった顔で頷いている。
こりゃあ駄目かも分からんな。大作は小さくため息をつくと口の中のご飯を飲み込んだ。
「いいか、藤吉郎。ここに日本新聞協会加盟の新聞社に関する推計合計データがある。これによると販売収入が各新聞社の売上に占める割合はおおよそ五、六割らしい。だが、かつては大きな収入源だった広告収入はインターネットを始めとするデジタルメディアに脅かされて急減しているそうな。具体的に言えば2002年に三割以上あったものが2010年には二割強、近年では二割を切っているんだ」
「し、然らば我らはインターネット広告に力を入れれば……」
「そんな弱気でどうする! ピンチはチャンスだろうが! 俺はお前をそんな子に育てた覚えは無いぞ!」
「いや、誠に畏れ多きことながら大佐に育てて頂いた覚えは……」
「だから育てた覚えは無いって言ってるだろうが!」
今日も今日とて見事なまでの逆ギレが炸裂する。
それはそうと、明日は城下を回って広告取りでもしなくちゃならんのかな。
大作は心の中の予定表に書き込んだ。




