巻ノ弐百八拾 楽しい無線 の巻
翌朝も大作たちは朝早くから無線のテストを行った。
季節や時間帯、気象条件といった様々な要因が通信に与える影響を知るにはデーターは沢山あっても困ることは無いだろう。細々とした事を詳細に記録を残す。
待つこと暫し。今から無線を船に積み込むと萌が連絡してきた。
その間は通信が途切れることになるだろう。二人は大慌てで朝餉を済ませる。
『イマ オダワラヲデタ サガミワンヲ トウナントウニ コウコウチュウ』
萌からの通信が入ってきた。感度は良好だ。
『コウカイノ ブジヲイノル』
大作も適当な返信をする。
『ソクドオヨソジュウノット ミウラハントウツウカハ ジュウジゴロノヨテイ ツウシンオワリ』
小田原から東南東に移動しても下田からの距離は大きく変わらない。萌はテストの意味が無いと判断したんだろう。大作は節電のため、受信状態に徹することにした。
下田を固定したまま萌が江戸まで行ってくれれば距離は約百三十キロになる。これは今時大戦で想定している小田城や碓氷峠から小田原城までの距離にほぼ等しい。
萌の話ではこの通信機の送信出力は十分に大きいらしい。水銀コヒーラより高性能な電解コヒーラの動作も快調だ。理論上は数百キロ届かないはずが無い。だが、本番で使えなかったらとっても困ったことになる。安定して使用することが出来るかどうかの徹底的な検証が必要とされるのだ。だとすると……
「お園、悪いんだけど吉良殿…… じゃなかった、上野介殿を呼んできてくれるかなぁ~?」
「え、えぇ~っ! 私、使いっぱしりじゃないんだけどなあ。御裏方様で巫女頭領なんですけど?」
「いやいや、連絡将校の未唯がいないんだからしょうがないじゃん。いつ萌から無線が入るか分からんからここを離れられんし」
「だったら誰か他のお方に頼んだらどうかしら? 大佐の他に無線の面倒を見られないんじゃ困っちゃうわよ」
「いやいや、だからその誰かを養成しようと思ったんだよ。その人選をお願いするためにだな……」
「如何さなれました、御本城様。儂に何か御用にござりましょうや?」
突然に背後から掛けられた声に大作は心臓が止まりそうになった。
慌てて振り返ると見知った顔がこちらを伺うように人懐っこい笑顔を浮かべている。
「うわぁ、びっくりしたなあ…… 吉良、じゃなかっった上野介殿にございましたか。丁度良かった。実はちょっとお願いがございましてな。是非とも首を立てに振って頂きとう存じます」
「こ、こうれで宜しゅうございますかな」
例に寄って例の如く、清水康英が首をカクカクと動かした。
そのネタは前にもやったっちゅうねん。大作は心の中で激しく突っ込むが決して顔には出さない。
「手先が器用で利口者の冠者を誰か一人ご用意頂けませんでしょうか? 下田城の通信班長になって頂きたい」
「つうしん? 其れは如何なる物にござりましょ……」
「好奇心は猫をも殺す。いわんや悪人をや。動物愛護の観点からも必要以上の情報をお渡しすることは出来かねます。戦が始まる前には全てお知らせ致しますので今は騙されたと思って拙僧の言うことを信じて下さりませ。後生ですからお願いしますよ。ね? ね? ね?」
「しょうがありませんな。一つ貸しにございますぞ」
「いやいや、貸しとか借りとかじゃないですから……」
口ではそんなことを言いながらも清水康英は足早に何処かへ引っ込んだ。暫くすると立派な身なりの少年を一人連れて戻ってきた。
歳格好は現代で言えば中学生くらいだろうか。だが、この時代の人は小さいから実年齢は高校生くらいかも知れない。月代を剃っているから少なくとも元服はしているようだ。って言うか、この人は誰なんだろう。大作がそんなことを考えていると清水康英がドヤ顔で顎をしゃくった。
「儂の嫡男、清水太郎左衛門政勝のそのまた嫡男、新七郎直英にございます。儂の初孫にございますぞ」
「あ、ああ。始めまして、宜しくお願い致します」
「何をお戯れを申されます、御本城様。何度もお目通りを頂いておりますぞ。直英の直は御本城様の片諱を頂戴致した物ではござりますまいか。よもやお忘れでは?」
「いやいやいや、何を仰るうさぎさん。これはアレですがな、アレ。男女七歳にして席を同じゅうせず? じゃなかった、何だっけ?」
「男子三日会わざれば刮目して見よ。かしら?」
見るに見かねたお園が思わず助け舟を出した。大作はアイコンタクトで謝意を示す。
「そうそう、それそれ。それにしても直英殿。ご立派になられましたな。思わず見違えましたぞ。吉良…… 上野介殿もさぞやご自慢のお孫さんなんでしょうな。善きかな善きかな。んで、その直英殿が拙僧に何の御用でしょうかな?」
「こ、此れは異な事を承る。知恵の回る冠者を連れて参れと申されたるは御本城様ではござりますまいか? 儂の思い違いじゃと申されまするか?」
突如として清水康英が声を荒げる。こいつも瞬間湯沸し器(死語)なのかよ…… 大作は頭を抱えたくなった。取り敢えずは卑屈な笑みを浮かべて上目遣いに顔色を伺う。
「どうどう、餅付いて下さりませ。怒ると折角の美人…… じゃなかった、天離る益荒男が台無しにございますよ。んで、アレですか。この直英殿? 新七郎殿? この方に無線の使い方を覚えて頂いても良ござんすか? 宜しい? そうですか、それではご説明させて頂きましょう。一個一個は簡単ですから順番に説明させてもらいますね。メモの用意は宜しいですか? ああ、お園。何か書く物を用意してくれるか……」
そんなこんなで例に寄って例の如く、行き当たりばったりに大作の無線教室が始まった。
いくら何でも清水直英だけでは足りないということで直英と同年代の若者が何人か集められた。ついでに傅役のおっちゃんまでもが後方に待機している。
こんなに大勢を相手にするのは大変そうだなあ。質問とか一杯されたらどうしよう。助けを求めるようにお園の顔を伺ってみる。だが、頼みの綱は人を小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべている。
まあ、しょうがない。後で自分が楽をするためにはここで頑張っておくしかないか。大作は姿勢を正すと全員の顔をぐるりと見回した。
「さて、今日は皆さんに無線に付いて覚えて頂こうかと思います。言うまでもありませんが今日の情報通信社会は無線テクノロジーによって支えられています。通信業界団体GSMAの予測では2022年には五十億台ものデバイスがLPWAN…… 省電力(Low Power)なWAN(Wide Area Network)に接続されるだろうと言われております。では、そもそも無線とは何なのでしょう? それは書いて時の如く線が無いということですね。そう、無線は有線の対義語なんです」
「……」
みんな話に付いてこれてるんだろうか。でも質問が無いってことは理解できているんだろう。大作はちょっぴり首を持ち上げてきた不安感を強引に押し殺す。
「では、どうやったらケーブル無しで離れた相手に信号を送ることができるのでしょうか? その答えが無線です。方法はいろいろとあります。ですが今回は最も原始的な火花送信機をご紹介しましょう。こちらに見えるバッテリーからの電気が高圧発生用感応コイルを通って一次側コイルに加圧されます。その直流を水銀開閉器の連続瞬断でパルス化…… つまりは交流化することで二次側に一万ボルトもの高圧が生まれるのです。んで、この二本の棒が火花放電器ですな。コイル二次側で発生した高電圧が放電し、B電波が発生します。こっちの棒に空中線が繋がっているのが見えますか? んでこっちは地面ですな。感応コイルの左にあるのが水銀開閉器。このモーターがガラス瓶の小型ポンプを回すことで下から吸い上げた水銀を上に組み上げます。放射部で金属筒が回転して誘導コイルの一次側電路を開閉するわけです。筒がポンプと共に回転すると水銀が外側に接触して回路がショートする。だけども筒は一部が欠けているので瞬間的に回路が開閉する。実に単純な仕掛けでしょう? 何か質問は?」
「……」
「此処の金属棒がほんの少しだけ離れているのが見えますか? 先ほど申し上げた瞬滅火花式と申すは火花の放電間隔を0.3ミリ以下にしてやれば火花抵抗が非常に大きくなるという放電特性を使った物です。一次回路と二次回路を密結合したことで二周波の発生は抑制されます。そのお陰で二次回路共振の単一電波だけを放射することが叶います。それに電圧が低くて済むので放電の騒音や電極の損耗も小さくなる。とにもかくにもメリットが沢山あるんですよ。分かりましたかな?」
「……」
ど、どうしたん? 『へんじがない、ただのしかばねのようだ』ってか? 怖いやん。
大作がパニックになりかけたのを見計らったかの様にお園が口を開いた。
「ねえねえ、大佐。『やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ』でしょう? 難しい話はそれくらいにして、まずは無線がどんな物なのか見て頂いたらどうかしら?」
「そ、そうかも知れんな。それじゃあ……」
「後は私がやるわ。大佐はそこで見ていて頂戴な。宜しゅうございますか、皆様方。この電鍵を押すと電極が触れ合って電流が流れます。すると火花放電によって発生した高周波が空中線へと伝わるのです。一方、相手からの電波も空中線で受け取られると此方の電解コヒーラが……」
お園は実際に無線機を操作しながら分かりやすく説明して行く。さっきまで死んだ魚の様な目をしていた一同も急に目を輝かせて話に食い付いて来ている様だ。
電鍵を手を置き、レシーバーを耳に当てた清水直英の顔がぱっと綻んだ。周りを取り囲むギャラリーたちも満面の笑顔を浮かべて大いに盛り上がっている。
いったい何なんだろう、この敗北感は。大作の心をどす黒い物が満たして行った。
「とにもかくにもスパークギャップの調整と水銀開閉器の修理は頻度が高いかと思われます。その他にもバッテリー液の濃度、直流発電機のブラシ、各部の接触、エトセトラエトセトラ。保守点検が必要な箇所は多岐に及びます。それにモールス符号も覚えて頂かねばなりません。大層とお骨折りな事でございましょう。然れども無線さえあればここ下田と小田原の間で瞬きする間に文の遣り取りを行うことが叶うのでございます。それも一寸先も見えぬ闇夜だろうと濃い霧の掛かった日であろうと何の障りもございません。皆様方に置かれましてはどうかこの事をお心に置かれました上で無線の修練にお励み頂きとう存じます」
「御裏方様。無線の事、御教授賜りまして有難き幸せにございます」
それほど広くもない部屋に集った面々が深々と頭を下げる。お園も丁寧にお辞儀をすると勉強会は解散となった。
『ベンキョウカイ ブジシュウリョウ キョウリョクヲカンシャスル』
『オツカレサマ コチラハコレヨリ エドワンヲホクジョウス』
萌は横浜沖辺りなんだろうか。実は全部嘘っぱちで小田原から一歩も動いていなかったりしてな。想像した大作は吹き出しそうになったが空気を読んで我慢した。
その後も無線で無駄話に興じたり発電機を回してバッテリーを充電したりと大作は忙しい。
日が暮れる少し前、萌から江戸城に無事到着したとの通信が入った。
今日こそ夜間通信のデータを取らなければ。大作は眠い目を擦りながら夜遅くまで江戸城との遠距離通信のテストを行った。
翌日も朝早くから通信テストが始まった。萌はこともあろうか大川だか隅田川だかを遡ると言い出した。荒川なのか浅草川なのかも分からん川を通って関宿城を目指すつもりらしい。
と思いきや、途中でぶらりと葛西城に立ち寄って鼈をご馳走になったそうだ。
「じゅるるぅ~! あのお城の鼈は美味しかったわねえ」
お園が遠い目をしながら涎を啜った。若い娘がはしたないなあ。大作は心の中で呟くが決して口には出さない。
「どうせ俺たちも来月には小田城に行かにゃならん。その時にでも立ち寄ってご馳走になろうよ」
「確と約したわよ。嘘ついたら針千本なんだからね」
「はいはい」
萌が関宿城に着いたのはその日も遅くなったころだった。下田と関宿の距離は二百キロ近いはずだ。それにあそこから利根川を北西方向に遡っても距離はそれほど変わらない。
今晩の通信テストが無事に終わったら萌は帰路につくこととなった。
「何だかすんなり行き過ぎて拍子抜けだな。もっと苦労するかと思ってたぞ」
「それはそれで良いんじゃないのかしら。だって、若いうちの苦労は買ってでもしろって言うでしょう?」
「俺はどっちかと言うと売りたいくらいだな」
翌日、朝餉を頂いた後に大作とお園は帰路に就く。二日振りに戻った小田原城は特に代わり映えしなかった。




