巻ノ弐百七拾八 座れ!床几と胡床に の巻
藤吉郎に現像済みのネガを手渡すという大役を見事に果たした大作とお園は脱兎の如くその場を後にした。後にしようとしたのだが…… まわりこまれてしまった!
「お待ち下さりませ、大佐。写真製版とやらのお話。いま少し詳らかにお聞かせ願えませぬでしょうか。伏してお願い奉りまする」
「お、おう…… それもそうだな。そんじゃあちょこっとだけ写真製版についてレクチャーしとこうか。とは言え、俺もスマホに書いてあることしか知らないんだけどさ。えぇ~っと…… まずは亜鉛板…… と思ったけどこの時代に亜鉛は手に入らないか。だったらしょうがない、銅板だ。そいつの表面を平らにしてくれ。ピカピカになるまで綺麗に磨き上げるんだ。んで、ポリビニールアルコール…… そんな物は無いか? だったらゼラチンだな。それに重クロム酸塩とかジアゾ化合物なんかを混ぜて感光膜を作るんだとさ。んで、画像を感光させてから現像してやれば硬膜像が得られるって書いてあるな。感光していない所を腐食液で溶かせば凹版の完成だ。どうよ?」
ドヤ顔を浮かべた大作が勝ち誇った様にスマホ画面を翳す。
だが、何が気に入らなかったんだろう。お園はチラリと画面に目をやると眉を顰めた。
「どうよって、大佐。それじゃあ前に聞いた話と丸っきりあべこべじゃないの。写真みたいに微妙なコントラストを表現するためには網目スクリーンを使った網目凸版が入り用だって言ってなかったかしら?」
「俺、そんなこと言ったっけかなあ? それはたぶんマイゼンバハが発明したころの話だぞ。だけど現代ではグラビアと言えば凹版で決まりなんだ。だってほら、Wikipediaのグラビア印刷の項目にも凹版印刷って書いてあるじゃん。そもそもネガから版を作るんなら凹版しか選択肢が無いだろ? なんでかっていうと被写体の明るいところがネガでは黒くなるんだもん。そのネガを使って写真製版したらその部分は感光しないから腐食されずに残る。残った所にインクを着けたくないとなれば凹版印刷しか方法は無いじゃん」
「なんだか風が吹けば桶屋が儲かるみたいな話ねえ。だけども筋は通っているみたいだわ。そうは言っても腐食液なんて使わなくても感光したところにだけ油性インクが付くようにするって手もあるんじゃないかしら。平版印刷だったかしら? 未感光の所は親水性だから油性インクが付かないはずよ」
大作とお園は夢中になって印刷談義に花を咲かせる。だが、その隣では藤吉郎が死んだ魚のように虚ろな目をして呆けていた。
「藤吉郎? 藤吉郎!」
「どうしちゃったのよ、藤吉郎? Can you hear me?」
「……」
へんじがない。ただのとうきちろうのようだ。
「おぉ~い、藤吉郎! 藤吉郎? しっかりしろ、寝たら凍え死んじまうぞ!」
「いやいや、寝てはおりませぬぞ。寝てはおりませぬが…… 恐れながら大佐のお話がさぱ~り分かりませぬ」
「しょ、しょうがないなあ。そんじゃもう少しだけ一緒に……」
「御本城様! 斯様な所におられましたか。随分とお探ししましたぞ。上野介様がお待ちでございます。テレピン油の御検分をなさると伺うておりましたが?」
振り返ると小姓のと思しき少年がこちらの顔色を伺うように小首を傾げていた。
「テ、テレピン油のご検分? って言うか、上野介様っていうと吉良殿? じゃなかった、誰だっけ?」
「清水康英様よ。いい加減に覚えて差し上げたら如何かしら。今に阿呆だと思われちゃうわよ」
「冗談だよ。冗談に決まってるだろ。俺の記憶力を舐めんなよ。んで? テレピン油の検分って何だっけ?」
「はいはい、どうせそれも戯れなんでしょう? それじゃあ参ると致しましょうか。テレピン油の検分にね。そうそう、藤吉郎。一つ言い忘れてたけどあなたは人に褒められる立派な事をしたのよ。胸を張って良いわ。おやすみ、藤吉郎。がんばってね!」
「か、畏まりましてございます!」
慣れとは恐ろしい物だ。藤吉郎は何かが吹っ切れたかの様な笑顔をを浮かべると作業に戻って行く。
もう、あいつをびっくりさせることは出来ないんだろうか。ほんのちょっとだけ大作は寂しくなった。
二人は小姓の後ろに金魚の糞みたいにくっついて歩く。
それはそうとこいつはいったい何者なんだろう? 実はテレピン油の話なんて全部でっち上げだったりして。ハーメルンの笛吹男みたいに何処かに連れて行かれたら怖いなあ。
唐突に恐ろしい想像をしてしまった大作は不安で不安でしょうがない。小姓の顔色を伺いながらちょっと遠慮がちに声を掛けた。
「えぇ~っと、お小姓殿。ちょっとお尋ねしても宜しゅうございますかな? あなたはだあれ?」
「そ、某にございますか? 高橋丹波が子、牛次郎にございます。以後お見知りおきのほどを」
「いやいや、こちらこそ宜しく。んで、俺たちはやっぱり海に向かっているのかな?」
「左様にございます。水軍の御検分にござりますればそれが道理かと存じます。其れが如何致しましたかな?」
「そ、それもそうだな。阿呆な事を聞いた。忘れてくれ……」
人を小馬鹿にした様な小姓の視線に耐えられず大作は思わず目を反らしてしまった。
小田原の城下を南へ南へと歩くと惣構へ突き当たった。門番にぺこぺこ頭を下げながら丸馬出しを通って外に出る。海の上には大きな船が何艘も浮かんでいた。
まあ、大きいと言ってもせいぜい三十メートルくらいの関船なんだけれども。
「おお、御本城様、御裏方様。お待ち申しておりましたぞ。ささ、此方へ参られませ」
「これはこれは吉良殿…… じゃなかった、上野介殿。お待たせして申し訳次第もござりませんな。忘れておったわけではございませんぞ。どうしても外せない野暮用がございましてな。ほんにすまんこってすたい」
清水康英が椅子を勧めてくれたので大作は礼を言って腰掛ける。X型に組み合わされた二組の角材の間に布を張った床几とかいうタイプの折り畳み椅子だ。
信玄に襲撃された謙信が軍配で戦った時に座っていたのもこんな奴だったような。
いやいや、逆だ。信玄が座っていて謙信が襲いかかったんだっけ。多分そうだ。そうに間違いない。
それはそうと床几には座り方が二種類ある。X型にクロスした部分を正面に持って来るか側面に持って来るかだ。どっちかが武人の座り方。もう一方は文人の座り方で神社仏閣とかで使われるとか何とか。だが、残念ながら大作にはどっちがどっちだかさぱ~り分からない。
まあ、どっちでも良いか。今の大作は出家の身でありながら北条家当主。どっち付かずの半端者だ。大作は自嘲気味に卑屈な笑みを浮かべながらX字型を正面にして座る。
ちなみにこれは偶然にも武人の座り方だった。
ついでに言うと神社仏閣で使う物は外見はクリソツ(死語)だけれども胡床と呼ばれる。
これはX字型を横にして座るのだが、なんと前後の区別がある。
X字を構成する脚の外側が前に、内側が後ろになるのだ。
まあ、本当にどうでも良いお婆ちゃんの豆知識なんだけれども。
大作がそんな阿呆なことを考えている間にも清水康英の指示を受けた小姓が大きな旗を振り回す。
一瞬の間を置いて沖合の船の上からも旗を振って返事をしてきた。
「御本城様、いよいよ始まりますぞ。まずはバリスタからご覧下さりませ」
「あっ、そう……」
あんな物、ただ馬鹿デカイだけの弓じゃんかよ。正直に言って大作はこれっぽっちも興味が持てない。
ぼぉ~っと見ていると突如として槍かと思うほど巨大な矢が勢い良く放たれた。ほぼ真っ直ぐに飛んだ巨大な矢は百メートルほど先の船へ見事に命中する。
待つこと暫し。第二射が放たれる。またもや命中。第三射は外れる。第四射は命中。命中、外れ、命中、命中、外れ……
大作は早くも飽きてきた。見せ方が下手過ぎるやろぉ~! 大作は心の中で絶叫する。だが、空気を読んで決して顔には出さない。
と思いきや、隣に座った清水康英が少し不安気な顔で声を掛けてきた。
「御本城様、何やらお気に召さぬことでもござりましたかな?」
「いやいや、上野介殿。何と言ったら宜しいやら……」
人に注意する時は先に褒めてからの方が良いとか何とか。まあ、相手の性格にも寄るんだけれども。
とは言え、今の最低な見世物のどこをどう褒めれば良いんだろう。大作は頭を抱えたくなる。
日曜洋画劇場で映画解説を三十二年に渡って続けた淀川長治さんは褒める所が一つもない時は関係無い話をしたんだそうな。セットが綺麗だとか、俳優の表情が良かったとか。いよいよとなったら監督が撮影した他の代表作とか、主演俳優の他の出演作とか、カメラマンがどうだったとか。
そう言えばあのヒトラー総統だって秘書が髪型を変えたのに気付いたら褒めるくらいのことはしていたそうな。
とにもかくにも、何でも良いから良かった探しをしなければならん。
「えぇ~っと、上野介殿。この短い期間にあれだけの物を作り上げるとは流石です。大した物ですな。兵の訓練も隅々まで行き届いておるのが見て取れます。素晴らしい、上野介殿。いよっ、日本一!」
清水康英の表情がぱっと綻ぶ。その嬉しそうな顔を見ていると大作はちょっとだけ心が痛む。だけども言うことだけは言っておかねば。
「ですが残念なことに演出が絶望的ですな。まず一射ごとに間が開くのでテンポが悪くて間延びして見える。これを何とかせねばなりません」
「さ、然れども御本城様。あのバリスタとか申す大弓は大層と強うござります。何人もの大男が力を合わせてもあれが精一杯にござりますれば……」
しょぼくれた顔の清水康英を見ているだけで大作のやる気がモリモリ失せてきた。
だが、問題点だけ指摘して解決策が分からんなんて言えば阿呆だと思われそうだ。
なけなしの精神力を振り絞って頭をフル回転させると解決策を何とか捻り出す。
「そういう話をしておるのではないのです。ワインバーグも申されておりましょう。直せないなら機能にしてしまう。例えば…… 例えば弓を引く間はドラムロールで盛り上げる。んで、射る瞬間にシンバルとか鳴らすしたらそれだけで随分と盛り上がりますよ」
「う、うぅ~ん。ドラムロ~ルとシンバルに御座いますか。左様な物が手に入りましょうや?」
「無ければ太鼓と銅鑼でも結構。それとナレーションも入れた方が良いですな。弓を引く間に『次は当たるかなぁ~? さ~あ、みんなで応援しよう!』とか言って観客を盛り上げてやるのです。みんなの思いが『当たれ! 当たれ!』って一つになれば会場全体の一体感が高まって嫌でも盛り上がりますよ。それとか、何発以上命中したら会場にいるお客さんにも何か特典があるとかするのも良いかも知れませんな。そしたら観客だって応援せざる負えないでしょう?」
「いやいや、確かに御本城様の申される通りにございますな。では、次からはその様に致しましょう。牛次郎、御本城様が仰せになった事を確と書き付けて置くのじゃ。良いな」
「御意!」
そんな阿呆な遣り取りをしている間にも沖合ではテレピン油のデモンストレーションが始まった。
先ほどと同様にバリスタから槍みたいな大きな矢が放たれる。だが、今度の矢にはテレピン油を詰めた壺が弾頭として取り付けられているようだ。
恐らく先ほどの矢と弾頭重量などの諸元を揃えていたのだろう。さっきより多少は命中率が上がっているような、いないような。ちゃんと数えておけば良かったなあ。後悔するが後の祭りだ。
命中した弾頭は弾けるように割れる。たちまち激しい勢いで炎が上がった。
始めちょろちょろ中ぱっぱ。みるみるうちに火の勢いが強くなりあっという間に船全体に燃え広がった。これはもう手が付けられそうもない。
火の勢いが落ち着くのを待って大作は大きな拍手を送る。周りに集う人々の顔をゆっくり見回すと皆も釣られて拍手を始めた。
「素晴らしい、上野介殿! 実験成功ですな、実戦においても画期的な戦果を挙げられることでしょう。ですが課題はまだまだ山積みですぞ。実戦では練習の半分も実力が発揮できません。更なる命中率と発射速度の向上に励んで下さい。それと…… ナレーションや効果音の件も検討をお願いいたします。それから訓練中に火事を出さないようにだけはくれぐれもお気を付け下さりませ」
「おお、そう申さば本丸御殿が焼けてしもうたそうにございま……」
「いやいやいや、アレはアレですぞ、アレ。そう! 不要になった建物を処分しただけのことにございます。戦時中の建物疎開みたいな感じですよ」
「さ、左様にございますか。それはようございました」
曖昧な笑みを浮かべる清水康英に別れを告げると大作とお園は脱兎の如く逃げ出した。
八幡山の城を目指して二人は坂道を登る。ちょっと疲れた顔のお園が口を開いた。
「ねえねえ、大佐。さっきはあんなこと言ってたけれどテレピン油っていうのは真に戦で役に立つのかしら」
「どうなんだろな。俺が想定している使い方っていうのは…… たとえば下田沖に豊臣の水軍が密集したタイミングだ。外洋の味方水軍と下田城から二点同時の加重攻撃を加える。赤壁の戦いみたいになること請け合いだぞ。まあ、当日の風向きには注意せんといかんけどな」
「ふぅ~ん。まあ、用心に越したことはないわね。下田のお城まで燃やしちゃったら大事ですもの」
いかにも興味が無さそうなお園の相槌で会話が終わってしまった。
二人は寒空の下、無言で坂道を上って行く。
俺はようやく登りはじめたばかりだからな。このはてしなく遠い男坂をよ……
大作は心の中で小さく呟いた。




