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巻ノ弐百七拾七 静止した闇の中で の巻

 小田原城内のテレピン油製造施設における史上初の写真撮影会。この歴史的イベントを成功裏に終えた大作たちはカメラを担いで二ノ丸への帰路に就く。撮影中とは打って変わってお園と萌もなかなか上機嫌のご様子だ。もしかしてこれから始まるフィルムの現像にwktkしているんだろうか。


 薄汚い小屋に戻るとさっきまで働いていた人たちはいなくなっていた。もしかして昼休みなのかも知れない。この時代には昼食をとる習慣はまだなかったような気がするんだけれども。

 まあ、邪魔者は少ないに越したことはないな。大作は男たちのことを脳内から追い払った。


 戸板の表に『暗室作業中』の札を引っ掛けるとぴったりと閉ざす。僅かに開いた隙間から漏れる光だけが室内を仄かに照らしている。

 今からやろうとしているのは焼付けではなく現像だ。それにダークバッグだって使うからこの程度の光ならば何の影響も無いだろう。

 萌が用意してくれたダークバッグは真っ黒な厚手の生地で作られたTシャツみたいな形をしている。大作はその中に手を突っ込むと三つの封筒の中から一枚ずつ丁寧に撮影済みフィルムを取り出して保定装置(リテーナー)にセットした。

 ちゃんと上手く取り付けられているんだろうか。手探りなので今一つ自信が持てない。現像中に外れて他のフィルムと重なってしまったら現像にムラができちまうぞ。考え出すと不安で不安でしょうがない。

 部屋の奥から萌が大きな徳利を大事そうに抱えて現れた。


「とりあえず現像液は二倍に希釈したわよ。温度は二十度で良いかしら」

「現像時間は六分…… いや、七分にしておこう。お園、時計は任せたぞ」

「がってん承知の助三郎よ!」


 何だか知らんけど随分と上機嫌だな。この勢いで現像が成功してくれたら良いんだけれど。

 大作は現像タンクの中へリテーナーにセットされたフィルムをそっと浸す。現像液が溢れないように蓋を確りと閉めると最初の三十秒間は連続攪拌だ。そこからは時計係のお園の指示に従って三十秒毎に五秒間だけ攪拌する。


「五、四、三、二、一…… 大佐、七分経ったわよ」

「萌、停止液を頼む」


 大作はタンクの底の栓を抜いて現像液を捨てる。ほぼ同時に萌が停止液を上から流し込んだ。


「停止は三十秒だったわね。あと五秒、四、三、二、一、はい!」

「ここからは時間も光もそれほどシビアにならなくても大丈夫だぞ。落ち着いて行こう。さて、上手く撮れてるかな?」


 ダークバッグからタンクを取り出して蓋を開けた。刺激的な酢の臭いがぷぅ~んと部屋全体を満たして行く。


「く、くっさぁ~! それはそうとちゃんと撮れているのかなあ?」

「見せて見せて! 私にも見せて頂戴な!」


 お園の腕が素早く横から伸びてくるとまるでひったくるようにフィルムを奪い取った。戸板の隙間から漏れる僅かな光に翳すように透かして見る。


「どれどれ、いったいどんな風に写っているのかしら。楽しみだわ…… って、なんじゃこりゃあ~! 何なのよこれは? 空が真っ暗じゃないの。そうかと思えば暗いはずの影の所が真っ白よ。これじゃあまるであべこべじゃないの!」

「そりゃそうだろ。だってネガフィルムなんだもん。ネガぁ! ネガぁぁぁ~! ってな」


 大作は両の手の平で目を覆うと大袈裟に悶苦しむ振りをする。だが、お園には何の興味も持ってもらえなかったらしい。眉を釣り上げると不機嫌さを隠そうともせずに詰め寄ってきた。


「ねが? それってもしかしてネガティブってことかしら? だからといってこんなのないわよ。あんなに骨を折って撮った写真がこんなだなんて! 私たちいったい何のために一所懸命に駆け回ったのよ! こんなこと、お天道様が許しても巫女頭領の私が許さないわ!」

「どうどう、餅付け。取り敢えず先に定着をさせてもらって良いかな? このままだと残留している未感光の感光剤が光に反応して黒ずんじまうんだ。萌、定着液は?」

「あのねえ、大作。私はドラえも()じゃないのよ。言えば何でも出てくると思ってるわけ? まあ、出てくるんだけどね」


 フィルムをリテーナーごとタンクに戻すと定着液を注ぎ込む。

 最初の三十秒間は連続攪拌だ。そこからは時計係のお園の指示に従って一分毎に十秒ほど攪拌する。これを十分繰り返してから定着液を排出した。

 死んだ魚のような目をしたお園が聞いたこともないくらい大きなため息をついた。


「これでやっとお仕舞いなのかしら。私、もうお腹が空いてきたんだけれど?」

「この後は五分ほど水で洗うだけだぞ。もうちっとだけ待ってくれるかなぁ~?」

「あのねえ、大作。残念ながら水洗促進剤なら無いわよ。水洗は一時間くらいやった方が良さそうね」

「もう、やってられんわぁ~~~!」


 大作とお園の絶叫が狭くて薄暗い小屋に響き渡る。萌はやれやれといった風に顔を顰めた。




 一時間後、水洗を終えた三人はネガを光に翳して鑑賞していた。

 本当ならゆっくりと時間を掛けて乾燥させなければならない。だが、お園の忍耐力はとっくの昔に限界を超えているようなのだ。


「十五分の一秒で撮った奴が一番適正な露出みたいだな」

「レンズの明るさが良く分からないけどフィルムの感度はISOで言うと十くらいかしら。もしかして硫黄増感が上手く行ったのかも知れないわよ」

「萌がそう思うんならそうなんでしょう。萌ん中ではね」


 小首を傾げたお園が鋭い視線を向けてくる。その表情は不機嫌さをこれっぽっちも隠そうとしていないようだ。


「それで? 大佐、そのネガっていうのはいったい何なのよ。明るい所と暗い所があべこべに写った写真にどんな値打ちがあるっていうのかしら?」

「いやいや、こっからがメインイベントなんだぞ。こいつを引き伸ばし機で印画紙に焼き付けた物が紙焼き写真なんだよ。ポジフィルムだったら直接鑑賞することができたんだけどな」

「ぽじ? ポジティブってことかしら?」

「理解が早くて助かるよ。映画とかスライドにはポジフィルムが使われる。だけどもアレはラチチュードが狭いから露出がとっても難しい。それにコントラストが強いからプリントだって大変だ。そんなわけで失敗が許されない一発勝負ならネガフィルムを使った方が無難なんだよ。プリントでいくらでも挽回できるからな。ちなみにポジフィルムのことをリバーサルとも言うぞ。ネガの反対ってことだ」


 大作はむきになってネガフィルムの利点を強調する。しかし必死になればなるほど嘘っぽく聞こえるのは何故なんだろうか。と思いきや、お園の興味は全く別のところにあるようだ。大きな目をキラキラと輝かせながら言葉尻に食い付いてきた。


「ネガティブの反対だからリバーサルですって? 妙な屁理屈もあったものねえ。反対の反対は賛成ってことかしら?」

「そういうのって別に珍しく何ともないだろ? トゲアリトゲナシトゲハムシに棘は無いと思うか? 思わんだろ? それと一緒だよ。んで? 萌、引き伸ばし機と印画紙はどこだ? 日も傾いてきたし、ちゃっちゃと片付けちまおう」

「あのねえ、大作。私はドラえも()じゃないって何編も言ったわよね? 引き伸ばし機も印画紙も無いわよ。って言うか、ちょっとは自分で何とかしてみなさいな。鶏卵紙くらいなら簡単に作れるでしょうに。ネガがそんだけ大きいんだから引き伸ばし機が無くてもベタ焼き出来るじゃないの」


 不機嫌そうな顔で萌が口を尖らせる。これは逆らわん方が吉なんじゃなかろうか。大作は慌ててスマホを取り出すと必死に情報を探した。


「そ、それは萌の言う通りだな。え、えぇ~っと鶏卵紙の作り方はっていうと…… 卵、食塩、酢、水、紙、硝酸銀、チオ硫酸ナトリウム、エトセトラエトセトラ。どれも何とかなりそうか? ちょっと古い卵の卵白を十個に塩を九グラムと酢を小さじ三分の一を混ぜて良くかき混ぜる。良く泡立つまで三十分くらい……」

「さ、さ、三十分ですってぇ~?! やってられんわぁ~~~!」


 またもやお園の絶叫が粗末な掘立て小屋に轟き響く。大作は咄嗟に耳を押さえて回避した。

 どうやら我慢の限界は近そうだ。って言うか、とっくの昔に限界を超えているのかも知れん。


「如何ながら今日のところは鶏卵紙は止めておこうか。実を言うとそんな物がなくてもポジを作るずっとっずっと簡単な方法があるんだぞ。知りたいか? どうしても知りたいって言うんなら教えてやらんこともないんだけどなあ」

「なんですって? それっていったいどんなやり方なのかしら。そんな手があるんだったらもっと早く言いなさいな」

「はいはい、今からやって見せるから目を掻っ穿って良く見ておけよ」

「いいともぉ~! でも、大佐。掻っ穿るのは耳でしょう? 目を掻っ穿ったら取れちゃうわよ」

「わざとだよ! わざといい間違えてるんだからな! マジレス禁止~~~!」


 そんな阿呆な話をしながら大作はネガを和紙の上に載せると戸板を開いて空の光に翳す。

 半ば押し付けられるように手渡されたお園は訝しげな顔をしながらも黙って受け取った。

 スマホを取り出した大作はカメラを起動するとマクロ撮影に切り替えて接写する。フォトレタッチソフトを起動してネガポジ反転してやれば普通の白黒写真の完成だ。


「どうだ、恐れ入ったか? ふるえるがいい!」

「うわぁ~! 奇特なこともあったものねえ。あべこべの写真があべこべになって常の写真になっちゃったわよ。って、なんでやねん! こんなことするくらいなら初手からスマホで撮れば良かったじゃないの!」


 間髪を容れずお園が見事なノリ突っ込みを入れてきた。これは真面目に相手をした方が良いんだろうか。それとも適当に流すべきなのか? 分からん、さぱ~り分からん。大作は考えるのを止めた。


「今日はここまで。萌、悪いんだけど印画紙と引き伸ばし機を作っておいてくれるかなぁ~? いいとも~!」


 薄ら笑いを浮かべた大作は振り返って萌を探す。探したのだが…… おらんがなぁ~! どういうことだ? もしかして飽きてどこかへ行っちゃったんだろうか。まあ、気持ちは分からんでも無いけどな。


「そんじゃあ戻ろうか、お園」

「そうね、戻りましょう。ところで戸締まりとかしなくても良いのかしら」

「さっきの人達が帰ってくるんじゃね? 知らんけど。戸締まりしたくても鍵を預かっていないんだからしょうがないよ」


 戸板をぴったり閉めると『暗室作業中』の札をくるりと引っ繰り返す。現像済みフィルムを大事そうに抱えた大作はお園を伴って帰路へと就いた。




 例に寄って例の如く城内を彷徨い歩くこと暫し。二ノ丸において首尾よく藤吉郎と遭遇することができた。


「おお、藤吉郎。どうやら無事だったみたいだな」

「大佐こそご無事にございましたか。本丸御殿が焼亡(ぜうまう)せし後はお姿を見掛けませんでした故、皆が大層と案じておりましたぞ」

「そうかそうか、そりゃあ心配を掛けたな。めんごめんご。んで、機材とかは無事だったのか?」

「昨日の小火(ぼや)騒ぎのうちにベントン母型彫刻機を運び出しておいて幸いにございました。手傷を負いし者もおりません。ご安堵下さりませ」


 見たこともないようなドヤ顔を浮かべた藤吉郎が後ろを振り返る。視線の先では巨大な機械が大きな異音を立てていた。とっても耳障りな金属音からは歯医者さんのドリルを彷彿する…… 彷彿とする? どっちだ?


「大佐、そういう場合に『と』は要らないのよ。『再現とする』とか『暗示とする』なんて言わないでしょう?」

「そ、そうだな。貴重なアドバイスに感謝するよ。それにしても藤吉郎、そいつは春から縁起が良いなあ。良かった良かった…… って、えぇ~っ! ベントン母型彫刻機だと? アレってもう完成してたのかよ? 俺は何にも聞いてないぞ~!」


 大作は見様見真似でノリ突っ込みを決めるとドヤ顔で顎をしゃくる。

 だが、お園の合格判定基準は予想外に厳しかったらしい。全くと言って良いほど何の関心も持ってもらえなかった。


「どうせ大佐が日報を読んでいなかっただけなんでしょう。違うかしら?」

「そ、そうかも知れんな。そうじゃないかも知らんけど。んで、稼働状況はどうよ?」

「二台の彫刻機をフル稼働させておりますが一日に百ほど母型を彫るのが精一杯にございます。ようやく五百ほど彫れましたが常用漢字と英数カナを彫り終わるには二十日は掛かりそうな塩梅かと」

「なんだと? 藤吉郎、君には失望したよ……」


 例に寄って例の如く、まるで汚物を見るかのように冷たい目をした大作は吐き捨てる。

 だが、蛇の道は蛇という奴なんだろうか。すかさずお園が合いの手を入れてきた。


「大佐! また藤吉郎を虐めるつもりじゃないでしょうね? 藤吉郎、一つ言い忘れてたけどあなたは人に褒められる立派な事をしたのよ。胸を張って良いわ。おやすみ、シンジ君。がんばってね!」

「そ、某はシンジ君ではござりませぬが?」

「マジレス禁止~! そんなことより見てくれ。これが何だか分かるかな? 分かんねえだろうなぁ~ こいつはテレピン油の乾留炉を写したネガフィルムなんだぞ。できたてのホヤホヤなんだ。俺の…… 俺たちの急務はこれの写真製版を作って新聞に印刷できるかどうかのテストを行うことだ。もう網目スクリーンは完成しているはずだよな? 早く出してくれよ。さあさあ!」


 チラリとネガを見た藤吉郎は不思議そうな表情を浮かべると大きく首を傾げた。だが、大作は先回りしてスマホにネガポジ反転画像を表示させる。


「明るい所と暗い所が逆になってるって言いたいんだろ? だけどもそれで正解なんだ。なんでかって言うとネガで白くなってるところは写真製版で感光するから腐食しないだろ? そうなると凸になるからインクが付く。印刷すると黒くなるって寸法だ。どうよ?」

「何やら『風が吹けば桶屋が儲かる』ような話にござりまするな。左様に上手く行くものでござりましょうか?」

「上手く行くのかなじゃねえ。や・る・ん・だ・よ!!! Hurry up! Be quick!」

「……」


 不満気な顔をした藤吉郎がノロノロと動き出す。その表情からはこれっぽっちもやる気を感じられない。

 これは駄目かも分からんな。大作は心の中のシュレッダーにネガフィルムを放り込むと逃げ去るようにその場を後にした。


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