巻ノ弐百七拾伍 本丸御殿は燃えているか? の巻
昨晩に天体観測で夜更しをしてしまったせいだろうか。大作が目を覚ましたのは夕餉の支度も整った頃合いだった。
こんな生活を続けていたら今に昼夜が逆転しちまうぞ。夜勤が多い人は免疫力が低下してガンや白血病のリスクが高まるとか高まらんとか。それに鬱病とかだって心配だし。
それに比べてお園の調子はすっかり良くなったようだ。いつもに…… いつにも増して食欲旺盛といった感じで夕餉をモリモリ食べている。
そう言えばルパンの孫だって言ってたっけ。『十二時間もあればジェット機だって直らあ!』とか何とか。あるいは麦門冬がよっぽど良く効いたのかも知らんけど。
大作がそんな取り留めの無いことを考えていると夕餉を完食したお園がお腹を摩りながら口を開いた。
「それで? ポスト豊臣の政治体制はどうなったのかしら。半日も寝たんだからさぞや良いアイディアが浮かんだことでしょうね」
「あのなあ、いまだにそんなことが気になってたのか? 下手な考え休むに似たり。寝てる間に良いアイディアなんて浮かんだら誰も苦労なんてしない…… と思ったけど睡眠中にクリエイティブなアイデアが生み出されるって例は意外と多いらしいな。ラザフォードが原子の構造を思いついたのも、エリアス・ハウがミシンの針を発明したのも夢で見たからだとか何とか。メンデレーエフの原子周期表、アウグスト・ケクレのベンゼン環、エトセトラエトセトラ。あのGoogleだって夢で思いついたってラリー・ペイジが言ってたぞ。グッドイヤーがゴムの加硫法を発明したのだって研究室でうたた寝している間に薬品がゴム靴に溢れてストーブで温められたせいなんだとさ」
「ちょっと待って頂戴な、大佐。お終いの話は偶偶そうなっただけなんでしょう? 夢とは関わりが無いんじゃないかしら」
「そ、そうかも知れんな。そうじゃないかも知らんけど。だけどもそれ以外の話はどれも夢が発明や発見の切っ掛けなんじゃね? 違うかな? とにもかくにも夢の力は偉大なんだぞ。そして良い夢を見るには質の高い睡眠が必要になる。ただ単に睡眠時間を長くすれば良いってわけじゃないんだな。羽毛布団とか低反発枕とか欲しくないか? どうよ?」
大作は意固地なって睡眠の重要性を力説する。だけども、言えば言うほど説得力が失われて行くのは何故なんだろう。もしかして悪質セールスか何かと勘違いされてるのかも知れん。
警察とか呼ばれたら困ったことになるな。この話題は早く打ち切った方が良さげだ。睡眠の話に素早く見切りを付けると咄嗟に話題の急ハンドルを切った。
「俺が考えるポスト豊臣の政治体制。それはやっぱり民主主義だろうな。だってチャーチルも言ってるんだもん。『民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが』とか何とか。んで、そのためにはまず武家政権を終わらせねばならん。だからと言って大政奉還とかするわけでもないけどな」
「もしかして選挙をしようって言うのかしら。山ヶ野でやったみたいに?」
「そうそう。選挙は民主主義の基本だからな。公正な選挙で議員を選び、さらにその中から内閣を形成するんだ。そうだ! お園、お前は憲政史上で最初の女性総理大臣になるんじゃなかったっけ? 全世界は再びお園の元にひれ伏すことになるだろう!」
「そんなことが容易くできるものかしら。って言うか、再びって何のことなのよ? 私は全世界をひれ伏させたことなんてないと思うんだけどなあ」
「マジレス禁止! とにもかくにも、これは決定事項だ。反論は許さん。って言うか、反論するなら対案を出せよ。出てこんだろ? な? な? な?」
薄ら笑いを浮かべた大作はお園の顔色を伺う。だが、例に寄ってマトモに相手をするのが阿呆らしいとでも思われたんだろうか。黙ってお茶を飲み干すとそれっきり口をつぐんでしまった。
いったいどこで何を間違えたんだろう。この夜も大作は頭を抱えながら床に就いた。
翌朝の定例朝食会に顔を出したのは梶原景宗と清水康英の爺さんコンビだった。朝飯を食うために八幡山まで登ってきたとは食い意地の張った奴らだなあ。大作は心の中で嘲り笑うが決して顔には出さない。
二人は水軍の整備状況に関して懇切丁寧&事細かに説明してくれた。だが、大作はその有り難いお話を右から左に聞き流す。聞き流していたのだが……
「川村殿より頂戴したテレピン油を用いた火矢とバリスタは首尾良く仕上がっております。就きましては御本城様にも御検分を賜りとうござりますれば日を取っては頂けませぬか。伏してお願い申し上げまする」
「ま、誠にござりまするか梶原殿! もうテスト可能な段階にまで開発が進んでおったとは驚き桃の木山椒の木ですな。うぅ~ん、今からでも良いですか? 流石に無理? んじゃ、昼からでは如何でしょうか?」
「いやいや、御本城様。某は上野介にござります。梶原殿は此方に御座しますぞ。して、梶原殿。御本城様は斯様に申されておられるが如何にござろう。直ぐにでも支度はできましょうや?」
「いや、あの、その…… 御本城様のお召とあらば急ぎ支度致しましょう。然らば此れにて御免!」
それだけ言うと清水康英…… じゃなかった、梶原景宗が血相を変えて飛び出して行く。
別に今日じゃなくても良かったんだけどなあ。今更そんなことは言い難い雰囲気だ。
とは言え、今日の予定なんて特に埋まってはいない。どっちでも良いか。大作は考えるのを止めた。
朝餉を終えた大作とお園は特に深い考えも無しに八幡山城を後にした。取り敢えずは小田原城の本丸御殿の被害状況は確認しておかねばならん。それに昼からは水軍の視察だってあるし。あっちに行っておけば後からの移動も楽になるはずだ。
大手門を潜って三ノ丸へと進んで行く。勝手知ったる他人の家、って言うか自分の城だ。当然といった顔で素通りするが門番たちに見咎められることもない。所謂、顔パスって奴なんだろう。
当てもなく適当に彷徨い歩いて行くと大勢の人達が忙しなく働いているエリアにぶつかる。その中心にいたのは見知った顔だった。
一人は山角紀伊守の嫡男、山角正定とかいう若者。もう一人は門松奉行の岡本越前守八郎左衛門秀長とかいう初老のおっちゃんらしい。
忙しそうに走り回る人足風の男たちにテキパキと指示を与えているようだ。
大作は空気を読まずに大声で話しかけた。
「山角殿、岡本殿。良い日和にございますな。テレピン油の塩梅は如何にございましょうや?」
「おお、御本城様。ご機嫌麗しゅうございます。昼からのテレピン油の御検分に備え、今は急ぎ其の支度をしておるところにございます」
「さ、左様にございましたか。それはそれはご苦労なことですな。このテレピン油は今時大戦の趨勢を決する最重要兵器。期待しておりますぞ」
「御意!」
返事だけは良いけれど信用しても大丈夫なんだろうか。できたら火事だけは気を付けて欲しいんですけど。大作は内心の不安を無理矢理に抑え込む。軽く手を振って二人に別れを告げるとその場を後にした。
二人は二ノ丸に向かってのんびり歩いて行く。暫く行くと隅っこの方でちょっと疲れた顔の川村秀重が物憂げな顔で佇んでいた。
「如何なされました、政四郎殿。臭素の塩梅は如何ですかな?」
「は、はあ。臭素製造プラントの生産力はようやく日産十匁に届くか届かぬかにございます。仕上がった臭化銀は全て感光剤の製造に回しておりますが肝心の現像液や停止液、定着液、フィルムベースが萌殿にお任せしております故……」
「萌の予定が遅れておるということですかな? あの野郎、大口を叩いた割に適当な仕事をしやがって…… そんじゃあ、今からちょっくら行って責っ付いて参りましょう」
「恐れ入り奉りまする」
深々と頭を下げる川村秀重に手を振って別れを告げると今度は本丸を目指して歩く。
こうやって歩き回ってるだけで何だか仕事してるような気になってくるんだから不思議だなあ。何だか知らんけど大作はさっきから楽しくて楽しくてしょうがない。
「そう言えばこんな話を聞いたことあるぞ。って言うか、ネットで読んだんだけどな。ヒューレッドパッカードの研究者が夜遅くまで残業していたんだとさ。そしてら、ぶらりとやってきた会長が話を聞いて相談に乗ってくれたとか何とか」
「会長って御本城様みたいに偉いお方なんでしょう? 何でまた、そんなお方が下々の手伝いなんてされたのかしらねえ」
「組織の流動性とかコミュニケーションの重要性を示すエピソードなんじゃね? HPやディズニーでは社長以下全員がファミリーネームを書いたネームタグを付けていてファミリーネームで呼び合うとか何とか。組織の垣根を取っ払うために努力してる企業は枚挙に暇がないぞ。デルタ航空やユナイテッド航空、IBM、エトセトラエトセトラ。会長みずから一般社員の苦情や相談に耳を傾けているとかいないとか。まあそんなわけで、もうちょっと下々の様子を見て回ってみるのも良いんじゃね?」
「それが良いかも知れないわねえ。どうせ私たちにすることなんて無いんだし」
ちょっとおどけた口調でお園が相槌を打つ。その顔はどういうわけだか少しだけ嬉しそうだった。
火事から一夜明けた本丸御殿では大勢の人たちが総出で後片付けを行っていた。
泡消火剤を使ったお陰で水浸しとまでは行かないが畳や襖は入れ替えるしかなさそうだ。いったい幾らくらい掛かるのか見当も付かないぞ。大作は頭を抱え込んで小さく唸る。
喧騒から少し離れたところでは萌がオーケストラの指揮を執るかのように采配を振るっている。大作は目敏くそれを見付けると近付いて声を掛けた。
「おはよう、萌。被災状況はどんな感じなんだ? 罹災証明書とかは発行してもらえそうかな?」
「ああ、大作。やっと来たのね。とっても残念なことだけれども、どうやら無理みたいよ。損壊基準判定、損害基準判定のどちらの場合でも同じなんだけど住家の場合は焼失した床面積の延べ床面積に占める損壊割合が二十パーセント未満だと半壊にならないんですって」
「そ、そうなん? こんなに燃えちゃったのにか? 半壊に至らない一部損壊だと現行制度では国の支援対象外なんだよな? 困ったことになったぞ。とは言え、特例措置とかで一部損壊でも支援を受けられる場合もあるんじゃなかったっけ? 再建資金の一部だけでも補助してもらえたら随分と助かるんだけどなあ……」
「だけども大佐、その補助っていうのは誰が誰に払うのかしら。もしかして北条が北条に払うっていうんなら同じことじゃないの?」
頭を抱え込む大作にお園からの鋭い突っ込みが入った。って言うか、その発想は無かったわ!
「さ、流石だなお園。そこに気付くとはなかなか鋭いぞ。まあ良いや、補助金は諦めるとするか。考えようによってはそれだけ被害が少なかったってことなんだもんな。話は変わるけどホワイトハウスが何でホワイトハウスって呼ばれているか知ってるか? どうしてもって言うんなら教えてやらんこともないぞ」
「そりゃあ白いからなんでしょう? 黒かったらブラックハウスだし、赤かったらレッドハウスなんじゃないの? 知らんけど。それともアレかしら。白なんて色は無い。赤、緑、青みたいないろんな色が混じり合って白く見えるって言いたいの?」
「そうじゃない、そうじゃない。元々は石積みの建物だった大統領官邸がどうして白ペンキで塗られる羽目になったかって話だよ。アレは今を去ること二百年…… じゃなかった、今から二百年以上も先の1812年に米英戦争でイギリス軍に放火されて黒焦げになっちまうんだな。んで、石積みだから建物自体は無事だったんだけれども見栄えがとっても悪くなっちまった。仕方ないから白ペンキで塗って誤魔化したんだとさ。ちなみにホワイトハウスって名前が公式になったのは1901年のセオドア・ルーズベルト大統領の頃からだそうだぞ。ここ、試験に出るから良く覚えとけよ」
「ふ、ふぅ~ん。じゃあ、この本丸御殿も白ペンキで塗ればホワイトハウスの出来上がりってわけね。そうと決まれば早く塗りましょうよ。んで? 白ペンキはいったい何処にあるのかしら。半分くらいなら私が塗ってあげても良いわよ」
言うが早いかお園がキョロキョロと辺りを見回す。だが、白ペンキなんてどこにも無いことは言うまでもない。
純真無垢な子供の夢を壊すみたいで嫌だなあ。お園にどんな風に言い訳すべきか迷った大作は暫しの間、頭を悩ませる。だが、有り難いことに萌がその厄介な役目を引き受けてくれた。
「あのねえ、お園。油性塗料が発明されたのは産業革命以降のことらしいわよ。だから残念ながら白ペンキなんてどこを探しても無いわね。どうしてもって言うんなら神社の鳥居みたいに水銀朱で塗るとか漆塗り…… 後は柿渋でも塗るとか? それか膠か荏胡麻油に松煙墨かベンガラでも混ぜればどうかしら」
「まず水銀は駄目だな。人体に有害だし貴重な戦略物資だもん。漆や柿渋とかも別の用途で必要になるから駄目だ。ペンキの代わりになんて使ってられんぞ。こうなったらもういっそアレだな、アレ。木を隠すなら森の中って言うだろ? 燃えていないところにも焦げ目を付けちゃったらどうじゃろな。焼杉板みたいな感じでさ。焼けて表面が炭化すると耐候性や耐久性が増すって書いてあるぞ。見た目にも良い風合いだしさ」
懐からスマホを取り出した大作は楽天市場で焼杉板を検索して表示させる。胡散臭そうな目で画面を覗き込んだお園が小首を傾げた。
「いったい何の因果で木なんて隠さなきゃならないのかしら。それに隠した木を後から探すのだって大層な骨折りになりそうね」
「き、気になるのはそこかよ…… とにもかくにも取り敢えずやってみようよ。な? な? な? って言うか、反論があるなら対案を出せよ!」
「はいはい。やれば良いんでしょう、やれば。いまやろうと思ったのに言うんだもんなぁ~」
頬をぷぅ~っと膨らませたお園が悪戯っぽい目で笑う。萌は両手を肩の高さで掲げると首を竦めてため息をついた。
「西田敏行さん乙! んじゃ、私はやることが一杯あるから行くわね。くれぐれも火の取り扱いにだけは気を付けるのよ」
「任せとけ! 俺の、俺達の焼杉板に期待しといてくれよ!」
そんなこんなで大作は適当な木切れを用意すると襤褸布を先っぽに括り付ける。そこにテレピン油を染み込ませると松明の出来上がりだ。
ライターで火を付けると思っていたより遥かに激しい勢いで炎が上がった。
「燃やせ、燃やせ! どんどん燃やせ! 石器時代に戻せ!」
「火ってとっても暖かいわねえ。私、本能寺を思い出しちゃったわ。もっともっと燃やしましょうよ。此処なんてまだちっとも焼けていないわよ」
「そ、そうだな。よぉ~し、ほれほれ燃えろ燃えろ~!」
夢中になって板壁を焼いて回る二人には周囲のことが全く目に入らない。目の前の木材に焦げ目を入れることで頭が一杯になっていた。
だが、突如として萌から掛けられた声に大作の意識が現実に引き戻される。
「ちょっとあんたたち、何をやってんのよ! 後ろを見なさいな。大作、後ろ後ろ!」
「えっ、なんだって?」
振り返った大作の目に飛び込んで来たのは一面が火の海となった座敷の成れの果てだった。
燃え盛る紅蓮の炎はまるで地獄の業火のような、そうでもないような。もしかしてこれってヤバいんじゃね?
「そ、総員退避、総員退避! ふっ、間に合うものか……」
口ではそんなことを言いながらも二人は手に手を取って走り出す。
その顔には大きな仕事をやりきったという満足げな表情が浮かんでいた。




