巻ノ弐百七拾弐 イアン・フレミングによろしく の巻
小田原城の本丸御殿を焼け出された大作たちは氏政に頼み込んで八幡山の古城に居候させてもらうことになった。
まずは勝手に城内をうろつき回ると空き部屋を見付けて仮設指揮所を設営する。ほっと一息ついた大作はお留守番組のみんなから山中城や韮山城を視察旅行している間の報告を聞くことにした。
だが、望遠鏡を手にした途端にお園の暴走が始まってしまう。普段は常識人のお園だが、望遠鏡を持つと人格が豹変する特異体質なんじゃなかろうか。
「お園と望遠鏡のシンクロ率が四百パーセントを超えています!」
「まさか…… 暴走!」
どうすれバインダ~! 大作の心の叫びは誰の耳に届くこともなく風に乗って消えていった。
「ねえねえ、大佐。こんなに日が傾いたっていうのに夕餉が出てこないわよ。まさかとは思うけど、私たちって忘れられているんじゃないでしょうね?」
ようやく我に返ったお園が望遠鏡から目を離した。例に寄って目の周りには望遠鏡の痕がくっきりと残っている。
「そりゃそうなんじゃね? だって俺たち勝手にこの部屋に居付いただけだしさ。それに働かざる者食うべからずって言うだろ? 言わなかったっけ? 言うんじゃないのかなあ……」
「働かなくてもお腹は減るの! それに大佐と私は御本城様と御裏方様なんでしょう? 黙って座っていたって夕餉くらい出てきても罰は当たらないはずよ。こんなことお天道様が許しても巫女頭領の私が許さないわ! 誰かある! 出てらっしゃいな! 遠からん者は音に聞け! 近くば寄って目にも見よ!」
「どうどう。餅つけ、お園。怒ってもお腹が空くだけだぞ。それよりも今は自力で何とかする方法を探すべきなんじゃないのかなあ」
「それってつまるところ何をするっていうのかしら? 待ってるだけじゃ夕餉が出てこないっていうんなら私たちが取りに行かなきゃならないの? それだったら急いで何とかしなくちゃならないわね」
見るに見かねたんだろうか。未唯が二人の間に割って入るように口を挟んできた。
とは言え、これ以上のロスタイム…… アディショナルタイムは致命的な結果を招きかねん。主にお園の空腹感という観点から。
大作はポンと手を打ち鳴らすと全員の注目を集めた。
「傾注! 吉田兼好は徒然草の第百二十二段にお書きになった。『食は人の天なり。よく味はひを調へ知れる人、大きなる徳とすべし』とな。衣食住の中でも食は最も重要とされている。それは何故だと思う? 武士は食わねど高楊枝なんて言うけれど、飯を食わんと数日でガス欠だろ? 我々は今や……」
「そんな御託はどうでも良いわ! とにもかくにも私たちで何とかしないと夕餉は食べれない…… 食べられないってことでしょう? しょうがないわねぇ~」
例に寄って大作たちは行き当たりばったりに夕飯探しの旅に出る羽目になった。どっとはらい。
「それじゃあ暗くなる前にここに戻ってきてくれるかな? 一番多く食べ物を集めた奴の勝ちだぞ」
「あのねえ、大佐。量もだけど、味だって大事なることよ。勝ち負けは総合評価で決めますからね。皆もそのつもりで気張って集めて頂戴な」
「御意!」
お園の号令一下、一同は蜘蛛の子を散らすように足早に立ち去った。タッチの差で出遅れた大作も慌てて座敷を後にする。と思ったけど、万一ここに戻ってこれなくなったら大変だぞ。こんな時にはどうすれバインダ~? 閃いた! 『左手の法則』君に決めた!
「それってフレミングのかしら? 確かローレンツ力の向きに関わる法則だったわね」
「うわぁ! なんだ、お園かよ。びっくりしたなあもう。いるんならいるって言ってくれるかな? もし俺がゴルゴ13だったらぶん殴ってたところだぞ」
「そう、良かったわね。だけど、もし私がゴルゴ13だったらそんなふうにびっくりはしないと思うわよ。それで? 電流と磁界の向きはどっちなのかしら? 力の向きを教えてあげるから話してみなさいな」
どこまでも上から目線なお園の物言いに大作はちょっとだけイラっとした。だが、誤解は解いておかねばならん。しかも可及的速やかにだ。
「左手の法則と言ってもそっちじゃない方のだよ。迷路攻略法の方さ。こうやって壁に左手を触れたままずっと進んでいけば時間は掛かるかも知らんけど必ず……」
「それって入口と出口が必ずや迷路の外周にないとクリアする事が出来ないんじゃないかしら。つまるところ迷路の内側に入口や出口があったら使えないと思うわよ」
「が、が~んだな。出鼻を挫かれたぞ。ちなみに最近の若い奴らには『が~ん』っていう表現が通じないらしいな。嘆かわしい話だ。それはともかく、今はそれしか方法が無いんだからしょうがないじゃん。道具箱にハンマーしかなければ全ての問題は釘に見えるって言うだろ?」
「そんな話、聞いたこともないわよ? まあ、ハンマーも釘も今はどうでも良いわ。こうやって話している時が惜しいんですもの。さあ、早く食べれる…… 食べられる物を探しましょうよ」
宣言するように言い切るとお園は大作の手を取って先に歩き始めた。勿論、繋いでいるのは右手だ。何故ならば左手は常に壁に触れていなければならないからだ。
意固地になって壁から手を話さない大作を哀れに思ったのだろうか。軽く小首を傾げたお園が顔色を伺いながら口を開く。
「左手は添えるだけ、だったわね。だけど左手って不浄の手なんじゃなかったかしら」
「それはヒンドゥー教徒に限った話だな。ムスリムもそうだと思ってる人がいるらしいけど実は勘違いなんだぞ。イスラム教徒が右手で食べるのは預言者言行録に右手で食べろって書いてあるからなんだとさ。別に左手を絶対に使うなって書いてるわけでもないんだ。だから良く見ていればムスリムは食事の時に左手も使っているはずだぞ」
「ふ、ふぅ~ん。じゃあヒンドゥーのお方はどうなのかしら」
「連中はトイレで用を足す時に左手を使うらしいな。だから宗教以前の問題として物理的に左手が不浄なんだよ。だけど食べる時はともかく、料理を作る時はどうしてるんだろな? 右手一本で料理が作れると思うか? ナンやチャパティはともかくとして野菜の皮を剥いたり、魚を三枚におろしたり、エトセトラエトセトラ」
大作は早川の漁港で鯖だったか鯵だったか忘れたけれど魚を捌いたことを懐かしく思い出す。とは言え、アレを片手でやるなんて無理ゲーにも程があるというものだ。
それに比べたら野菜の皮剥きはやってやれんこともないだろう。皮剥き器を固定して置いて野菜を押しつければ何とでもなりそうな、ならなさそうな。
「それってつまるところ『綺麗に作って汚く食べる』か『汚く作って綺麗に食べる』かって話よね。だけども、そもインドのお方は魚を三枚におろしたりするのかしら。ぶつ切りにするだけなら片手でもできるわよ。それに小魚なら丸ごと煮たり焼いたりするのかも知れないし」
「それとは全く違ったアプローチも可能だぞ。直接手を触れずに魚を捌くんだ。テレビで見たことがあるんだけど神様に奉納する料理を作る時、神主みたいな人が箸で魚を押さえて捌いていたな。あんな風にやれば清潔に調理することも可能だろ?」
「それは箸が綺麗かどうかに関わってくると思うわよ。だけども、箸が綺麗にできるんならば手を綺麗にした方が早いんじゃあないかしら」
「う、うぅ~ん。ちょっと話が変わるけどさ。高級な寿司屋に行くと職人が手で寿司を握ってるだろ? まあ、俺は回転寿司にしか行ったことないんだけど。もし、高級な寿司屋の職人がビニール製の手袋をして握ってたら興醒めしちゃうんじゃないか? しないかな?」
お園がさぱ~り分からんといった顔で小首を傾げる。もしかして寿司を知らないんだろうか? 江戸前寿司が登場したのは江戸後期だけれど、鮒寿司とか熟れ鮨は大昔からあったはずなんだけれども。大作は必死になって朧気な記憶を辿る。
「確か宇治拾遺物語か何かに寿司を売ってる女の話がなかったっけかな? 酔っ払って桶に吐いちゃうけどかき混ぜて誤魔化しちゃう話だよ」
「あぁ~あ、それって今昔物語集のことね。巻第三十二『人、酒に酔ひたる販婦の所行を見し語』でしょう? アレに出てきたのは鮨鮎だったかしら。って言うか、今から夕餉なのよ! そんな汚い話をしないで頂戴な。食べる気が失せちゃうじゃないの」
「こりゃあ失敬失敬。すまんこってすたい。んで、話を戻すけどヒンドゥーの左側が不浄っていうのは実を言うと男に限定した話だって知ってたか? 女の場合は左手左足が神聖なんだとさ。嘘か本当か知らんけどヒンドゥー教の神様は右手から男を、左手から女を作ったらしいぞ。そんなわけでヒンドゥー教徒は男も女も右手でご飯を食べて、左手で用を足す。だけどもその他では男は右を、女は左を使うと決まってるんだ。だから手を振ったり物を渡す時もそう。部屋に入るときも女は左足から入るんだとさ。きっとパンツや靴下を履くのも左からなんだろうな。知らんけど」
「ふ、ふぅ~ん……」
心底から興味が無さそうにお園が相槌を打つ。
完敗だ。こんなにも一生懸命に無駄薀蓄を披露したというのに一ミリも関心を持って貰えないとは。まあ、そもそも大作本人がインド人の宗教観に興味の欠片も持っていないんだからしょうがないんだろうけども。
そんな阿呆な遣り取りをしながらも二人は八幡山の城内を托鉢して回る。回ったのだが…… 人っ子一人いないんですけどぉ~! 大作は心の中で絶叫するが決して顔には出さない。
「ねえ、大佐。このお城、どうしてこんなに人がいないのかしら」
「俺に聞かれても知らんがな。とは言え、お腹が空いてきたのも確かだぞ。どげんかせんといかんな。誰かぁ~! 誰かいませんかぁ~!」
突如として大作が絶叫した。お園はすっかり慣れたものだ。黙ったままちょっと呆れた顔をしている。
しかし次の瞬間、不意に襖が開くと見知った顔が姿を現した。
「何じゃ何じゃ、騒がしいのう。おお、新九郎ではないか。左様に大きな声を上げて如何致したのじゃ?」
「おや、父上ではござりませぬか。父上こそ斯様な所で何をされておられるのでしょうかな? 小さなことが気になってしまう。拙僧の悪い癖でして」
「か、斯様な所じゃと? 此処は儂の城じゃぞ。此れは儂が作った物でそういう仕様にしておるのじゃ。明確な意思を持っておるのであって間違ったわけではないぞ。日の本で最も美しい城を作ったと思うておる。高名な築城家が描いた絵図面に門の位置がおかしいと難癖をつける者がおろうか? おらぬであろう?」
目尻を釣り上げた氏政が口元を歪ませる。こいつも瞬間湯沸かし器(死後)かよ。大作のやる気ゲージがモリモリ下がる。
だが、ここで会ったが百年目。何が何でもここで食材を入手せねばならん。絶対にだ!
その気持ちが通じたのだろうか。お園がとびっきりのビジネススマイルを浮かべると滅多に出さない取って置きの優しい声を上げた。
「どうどう、御義父様。興奮するとお体に障りますよ。気を平らかになされませ」
「お督殿はお優しいのう。じゃが新九郎、そも此処に泊めてくれと申したのは其処元ではござらぬか。其れを左様に悪し様に申さぬでも良かろうに」
「そ、そうでしたかな? そんな昔のことは忘れましたぞ。ところで父上、我ら二人に夕餉を恵んではいただけませんでしょうかな。腹が減っては戦はできぬと申しますでしょう? 申しませんでしたっけ?」
「論無きことじゃ。ささ、早う中に入れ。誰かある! 急ぎ膳を支度いたせ」
氏政の命を受けた小姓が足早に座敷を立ち去った。
ドヤ顔を浮かべた大作はお園にアイコンタクトを取る。
『夕餉ゲットだぜ!』
お園の満面の笑みからはそんな心の声が聞こえたような気がした。
「して、新九郎。戦の支度は滞りのう進んでおるのか?」
「もぐもぐ…… 聞いた話では政四郎殿は臭化銀の生成に成功したそうですぞ。ゼラチンの保護コロイドも完成したそうな。もぐもぐ…… 銀イオン濃度の最適化を求めて試行錯誤しておりますが、現像液や停止液、定着液フィルムベースも完成間近にございましょう。もぐもぐ……」
「のう、新九郎。御本城様ともあろう者が飯を食らいながら話すものではないぞ。家臣に笑われとうはないじゃろう?」
「いやいや、父上。食べてる時に話しかけてきたのは父上の方ですよね? 違いますしたっけ? んで…… アセトンはどうなってたかな、お園?」
「まだクロストリジウム・アセトブチリクムは見付かっていないみたいよ。もぐもぐ…… だけどもテレピン油製造の副産物として採れた木酢液からアセトンの分離に成功したらしいわ。コルダイト量産の目処は立ったようね。もぐもぐ……」
氏政は黙って大人しく話を聞いているが内容をちゃんと理解できているんだろうか。これっぽっちも分かっていなかったら嫌だなあ。
まあ、こちらとしては最低限の説明責任は果たした。あとは野となれ山となれだ。大作たちは適当に威勢の良い報告をしてお茶を濁した。
お腹いっぱいになった大作とお園はデザートを食べながら寛ぐ。
「父上、本日は急に押しかけたうえ夕餉まで世話になり感謝に堪えませぬ。今生で恩賞を与えることは叶いませぬが、願わくは来世において授けましょう」
「いやいや、何のこれしき。それならば明日からも一緒に飯を食ろうては如何じゃ? その方が台所の手間も省けるというものじゃぞ」
「あの、その、いや……」
一瞬だけ大作は返事に躊躇する。だが、目の色を変えたお園が秒で食い付いてきた。
「それが宜しゅうございます、御義父様。皆で食べればもっともっと美味しくなるに違いありません。それに洗い物の手間も省けますし」
「そうかそうか、では決まりじゃな。千代丸、台所に申し付けておけ」
「御意!」
これにて一件落着。大作とお園は手厚く礼を言うと氏政の座敷を後にした。
左手は添えるだけ。大作はひたすら壁に手を付けたまま城内を彷徨い歩く。これって何だか『さまよえるオランダ人』みたいだなあ。もしそうだったら七年に一回しか上陸できないぞ。これは困ったことになったような、そうでもないような。
そんな阿呆みたいなことを考えながら廊下を進んで行くと見覚えのある座敷に辿り着いた。
部屋の中には萌、サツキ、メイ、ほのか、未唯、藤吉郎、ナントカ丸、エトセトラエトセトラ……
もしかして、もしかしないでも最初の座敷じゃんかよ! やっぱ左手の法則(フレミングじゃない方の)は偉大だ。フレミング万歳! 大作は心の中でイアン・フレミングに最大限の謝意を贈る。
「もぉ~う、大佐ったらいったい何処で油を売っていたのよ?」
「いやいや、別に油なんて売っていなかったぞ。氏政に会ったんで夕飯を食わせてもらってたんだよ。みんなは夕飯を済ませたのか?」
「えぇ~っ! 食べ物を探すために別れたのよ。それなのに大佐とお園は自分たちだけ先に夕餉を済ませちゃったっていうの? そんなの非道だわ! 狡いわよ!」
「めんごめんご(死語)そいつはすまんこってすたい。氏政に食え食えって言われて断り切れなかったんだよ。一重に俺の心の弱さが原因だな。以後、気をつけるんで許してくれよん」
大作は必死になって反省した表情を装う。だが、女性陣にはすべてお見通しのようだ。メイが人を小馬鹿にしたように鼻を鳴らすと口を開いた。
「戯れよ、大佐。本当を言うと皆もとっくに夕餉を食べちゃったのよ」
「未唯はとっても良い匂いのする方に行ったのね。そしたら台所で皆が夕餉を召し上がっていたの」
「私も同じくよ」
「私めも台所で頂いたわ」
「某も同じにございます」
うぅ~ん…… 女性陣だけではなく、藤吉郎やナントカ丸までもが裏切っていたとは世も末だなあ。大作は自分たちのことを棚に上げて呆れ果てていた。




