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巻ノ弐百七拾壱 小田原城は燃えているか? の巻

 船の上で開かれた日本最初の紅白歌合戦は何が何だか良く分からないうちに紅組の勝利に終わってしまった。

 みんなで仲良く蛍の光を歌っている間にも大作と愉快な仲間たちを乗せた船は相模灘を船足も軽やかに北上して行く。ちなみに作詞の稲垣千頴は1913年没だ。

 北東からの強い横風を帆に受けた五百石積み弁財船は正に順風満帆と言った感じで……


「違うわ、大佐。順風っていうのは追い風のことよ。横風とは違うんですからね」

「へいへい、ナイス突っ込みありがとう。でもなあ、お園。帆船は追い風よりも横風の方がスピードが出るって知ってたか? 追い風だと絶対に風速以上のスピードが出ない。だけど横風だと風速以上のスピードが出せることもあるんだ」

「そのスピードっていうのはヤン・デ・ボン監督の映画とも沖縄出身のダンスユニットとも関わりがないんでしょう?」

「はいはい、そうですね。んで、話は変わるけどヤン・デ・ボン監督と言えば幻のハリウッド版ゴジラを知ってるか? アレってもしかしたら高倉健が主演してたかも知れなかったらしいぞ。ヤン・デ・ボンはブラック・レインで撮影監督をやってただろ。だから健さんとも親交があったんだとさ。ロサンゼルスでテスト撮影までやったとかいう話をドキュメンタリー映画『健さん』の中でヤン・デ・ボンがしてたな。健さんがヤン・デ・ボンの家族と一緒に撮った写真とか出てきたぞ」

「健さんといえばゴルゴ13も忘れられないわね。あの映画で健さんは……」


 楽しい映画談義に花を咲かせている内にも船は初島の横を掠めると熱海の沖合を通り過ぎた。

 日が昇ってきたお陰で外もちょっとは暖かくなっているだろうか。一同は艫矢倉を出て船縁へ集う。

 どうやら今は干潮のようだ。真鶴岬の先には二百メートルほどの岩礁が広がり、巨大な三ツ石がその姿を表していた。

 それまで黙って海原を見つめていたメイが急に口を開く。


「ねえねえ、大佐。ここって確か前にも通ったわよねえ。あんな物、前からあったのかしら。私、これっぽっちも見た覚えが無いんだけれど」

「あのなあ、メイ。こんな物が急にできるわけ無いじゃん。あったに決まってるぞ。たぶん前に通った時は満潮だったんじゃね?」

「そうかも知れんわね。そうじゃないかも知らんけど」

「ちなみに真鶴岬の先っぽと城ヶ島の長津呂崎を結んだ線から北が相模湾だぞ。んで、それより南側が相模灘だな。ほれ、丁度いま相模灘から相模湾に入ったぞ」


 大作は東の方向を向くと遠く水平線の彼方を指差した。だが、四十キロ以上も先にあるはずの城ヶ島は影も形も見えない。

 ちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべたメイが茶化すように言い返す。


「灘だろうが湾だろうが海に変わりはないじゃない。そんなことより何であそこはあんな風になってるのかしら。私、その故を知りたいわ」

「気になるのはそこかよ~! まあ、どうしても知りたいって言うんなら教えてやらんこともないけどさ。えぇ~っと…… この辺りでは十五万年くらい昔に何度も何度も噴火活動があったんだとさ。んで、流れ出した溶岩が真鶴半島になったらしいな」

「ふぅ~ん」

「反応薄ぅ! って言うか、興味が無いんなら始めから聞くなよ!」


 そんな阿呆な遣り取りをしている間にも太陽が頭の上を通り過ぎる。

 伊東で貰ったお弁当を食べ終わったころ船は小田原の沖合に辿り着いた。長い長い航海にもようやく終わりの時がやってきたようだ。

 見覚えのある長い砂浜には果てしなく広がる惣構だか総構だかが地の果てまで続いている。


「では良整殿、秀吉への返書の件。返す返すもお頼み申します」

「畏まりましてございます」


 西浦の代官をやっているとかいう胡散臭い安藤豊前守(スキンヘッドじいさん)が足早に走り去る。きっとこの時代の郵便局に相当するところにでも行ったんだろう。それが何なのかは知らんけど。


 一同は買い物客で賑わう小田原城下の大通りを歩いて行く。遠くに小田原城の本丸御殿が見えてきた。見えてきたのだが……


「何じゃこりゃあ! 物凄い煙が出てるみたいなんですけどぉ~?」

「アレっていったい何なのかしら。まさか火事とかじゃないでしょうね」

「テレピン油を作るのに火を焚いてたはずよ。それの煙なんじゃないかしら」

「それにしては大層な煙ねえ。とにもかくにも急ぎましょう。もしも火事だったら大事だわ」


 もしかして鶴ヶ城が燃えたと勘違いして自刃した白虎隊もこんな気分だったんだろうか。想像した大作は吹き出しそうになったが空気を読んで我慢した。


 って言うか、確か小田原城は火災保険には入っていなかったはずだ。そもそもお城みたいな軍事施設が火災保険に入れるとは思えん。もし入れたとしてもどうせ免責事項に地震・噴火または津波、戦争・その他の変乱とか書いてあるに決まっている。これは困ったことになったなあ。大作はツルツルのスキンヘッドを抱えて小さく唸った。


 大手門の脇に立つ門番も不安気に本丸の方を注視している。大作たちは軽く会釈して門を潜ると先を急いだ。

 三の丸を駆け抜けて二の丸を素通りし本丸へと進んで行く。騒ぎの中心と思しき場所へ近付くにつれて次第に惨状が明らかになってきた。どうやら燃えているのは本丸御殿で間違いないようだ。お寺の本堂みたいに大きな建物のあちこちから紅蓮の炎が上がり、辺り一面が煙に包まれている。

 いろんな身なりの人々が血相を変えて慌てふためき、右往左往している様子はタワーリングインフェルノのクライマックスみたいだ。


「御本城様! やうやう、お戻りになられましたか」


 背後から掛けられた声に振り向くと二十代から三十代、もしくは四十代の男性、または女性が立っていた。

 これって誰だっけ? いやいや、江戸城代遠山筑前守景政の弟、川村秀重だな。


「政四郎殿? でしたっけ。いったいこの騒ぎは何事ですかな。火元は? 出火原因は? 消火の目処は? 被害総額はどれくらいになるんでしょうかな?」

「いや、あの、その…… 某にも未だとんと見当が付きかねまする。何卒ご容赦下さりませ」

「み、み、未唯だって何にも知らないわよ! 堺で駿河屋様が燃えた時と同じなんですもの。みんな猫ちゃん(仮)…… じゃなかった、小次郎がやったことなんですからね!」


 政四郎の背後へ隠れるように立った童女が必死の形相でまくし立てた。小さな腕に強く抱き締められた子猫がか細い悲鳴を上げる。だけども必死になればなるほど怪しさ大爆発になってしまうのは何故なんだろう。

 そんな姿を見るに見かねたのだろうか。後から萌が現れると庇うように小さな両肩にそっと手を置きながら口を開く。


「どうどう、餅付きなさいな未唯。いち早く現場に駆け付けた自衛消防団の英雄的活躍のお陰でどうやら延焼だけは免れたみたいよ。これって考えように寄ってはテレピン油と泡消火剤のテストが同時にできたとも言えるんじゃないかしら? しかも、この上もないほどの実戦的な形でね」

「ああ、萌もいたんだな。って言うか、この火事ってテレピン油が燃えてたのかよ。防火体制の不備も良いところだぞ。火元責任者はいったい誰だったんだ?」

「どぅぁ~かぁ~らぁ~~~! あのねえ、大作。ワインバーグも言ってたわよ。犯人探しを始めた途端、誰もが原因究明に非協力的になるってね。本気で再発防止に努めたいんなら責任の追求はほどほどにするのが肝心よ」

「いやいや、俺は別に犯人なんてどうでも良いんだぞ。どうせ俺の家じゃないしな。そうじゃなくて簡単に消火できちゃったことの方がよっぽどショックなんだよ。だって焼夷兵器って今時大戦の決戦兵器じゃなかったっけかなあ?」


 既に莫大な手間暇と予算を掛けて大量生産に入っているのだ。これが期待した効果を発揮できないとなれば勝利も覚束無いぞ。大作の中でテレピン油に対する信頼感がガラガラと音を立てて崩れ始める。不意に遠い目をすると囁くように呟いた。


「捨てっちまおう、こいつはニセもんだよ……」

「はいはい、お約束お約束。だけどね、大作。テレピン油の有効性は否定されていないわ。むしろ泡消火剤の効能を評価すべき場面よ。だって敵は戦場に大量の消火器なんて持ってきてるはずがないんですもの」

「そ、そうかなあ。まあ、いまさら方針変更も間に合わんか。戦場では消火器を持った敵兵を見かけたら優先的に排除するくらいが関の山だろうな」

「戦場にそんなお方はいらっしゃらないと思うけどねえ。さて、それより私たちは今晩どこで夕餉を頂いてどこで寝れば良いのかしら。急いで決めないと大事よ」


 さも心配そうに呟いたお園が眉根を顰める。こんな状況でも食事の心配かよ。相変わらずブレが無いなあ。

 いやいや、食と住は生活の基礎だぞ。いま心配せんでいつ心配すると言うのだ。今でしょ! 大作は心の中で絶叫する。


「最悪の場合、俺とお園はテント泊でも良いけど皆はどうする? って言うか…… 父上、ご無事にござりましたか!」

「おお、新九郎ではないか。お督殿も戻っておられたか。二人とも息災で何よりじゃな」


 続々と集まってくる野次馬の中から氏政が姿を現した。地獄に仏とはこのことか。って言うか、うだつの上がらない平民出にやっと巡ってきた幸運か? それとも破滅のワナか? まあ、どっちでも良いんだけれど。


「父上、ご覧の通り本城はこんな塩梅にございます。申し訳ございませんが再建まで暫しの間だけでも八幡山のお城に居候させて頂いても宜しゅうございましょうか?」

「な、何じゃと? 儂に山を降りよと申したのは新九郎ではござらぬか。その舌の根も乾かぬうちに八幡山に泊めろじゃと? うぅ~む、しょうのない奴じゃのう。此れは一つ貸しじゃぞ」

「いやいや、貸しとか借りとかじゃございませんから。困った時はお互いさまって申しますでしょう? それにアレですぞ、アレ。ここで今、拙僧を助けておけば地獄に落ちた時にお釈迦様が助けてくれるかも知れませんよ。芥川龍之介の蜘蛛の糸みたいな感じで。ね? ね? ね?」

「まあ良い。窮鳥懐に入れば猟師も殺さずじゃ。皆も付いて参るが良かろう」


 これ以上はないほどのドヤ顔を浮かべた氏政が先頭に立って八幡山への坂道を登って行く。後ろには大作、お園、サツキ、メイ、藤吉郎、ナントカ丸、未唯、ほのか、エトセトラエトセトラ……

 被害状況を確認するとか言って萌だけは本丸御殿に残った。


『俺はようやく登りはじめたばかりだからな。この果てしなく長い八幡山への坂道をよ。蜜柑…… じゃなかった、未完!』


 大作は心の中で小さく呟いた。




 八幡山へと辿り着いた一同は適当な空き部屋を見付けると勝手に占拠した。

 そう言えば、学生時代のスピルバーグもユニバーサルへ入り浸ったうえに掃除小屋を勝手に占拠してオフィスに改装しちゃったんだそうな。

 あの人って偉大な映画監督ではあるんだけど人間的にはちょっと難あり…… って言うか、かなり無茶苦茶な人だからなあ。

 嘘か本当かは知らんけどユニバーサル・スタジオのバスツアーに参加してトイレに潜伏。そのままスタジオ内を探索したうえにスタッフと知り合って三日間有効の通行証をゲット。その三日間に大急ぎで人脈を作ってフリーパスで入れるようになっちまい、ジョン・フォード監督なんかとまで顔見知りになったそうな。

 何かだスパイ映画みたいな話だぞ。行動力の化身? 犯罪スレスレとかじゃなくて正真正銘の犯罪行為なんじゃね? まあ、とっくに時効なんだけれど。


 それはそうと随分と寒い部屋だなあ。まずは火鉢で火を起こして水を入れた鉄瓶を載せようか。


「取り敢えずここが我々の仮設指揮所だ。隣に開発チームのプロジェクトルームも作ってくれ。皆の寝泊まりは反対側の部屋にしてくれるかな~?」

「いいとも~!」

「んで? メイ、年末チャリティーコンサートの件は上手く行ってるのか?」

「安堵して頂戴な、大佐。手筈通りに首尾良く行ってるわ。コーラス隊の方々はもう通し稽古に入ってるし、チケットの売れ行きだって上々よ」


 まるで巨大な胸を誇示するようにメイが踏ん反り返る。その顔には褒めて褒めてと書いてあるかのようだ。

 まあ、信賞必罰は人を操る基本的なテクニックだ。ここは一つ褒めておいた方が良い場面じゃなかろうか。

 いやいや、ちょっと待てよ。報酬で人をコントロールしようとすると創造性が失われるとか何とか。そんなことをネットで読んだような読まなかったような気がしないでもないぞ。

 要領の良い奴は失敗を避けつつ効率だけを追い求めるものだ。かと思えば罰を必要コストと割り切っちゃう奴も出てきちゃう。

 とある保育園で決まった時間までに子供を迎えにこない親から罰金を取ることにしたら却って遅刻する人が増えたんだそうな。どうやら親たちは罰金を延長保育料金だと解釈したらしい。そんな風に開き直られると罰は罰として機能しなくなるのだ。

 だからといって罰を重くし過ぎるのも駄目だ。犯罪の処罰ならともかく、成績の悪かった者に過酷な処罰なんて課したら人材がいなくなっちまうに決まっている。

 どうすれバインダ~! 大作は心の中で絶叫するが決して顔には出さない。卑屈な愛想笑いを浮かべるとカクカクと小刻みに頷いた。


「よくやったな、シンジ…… じゃなかった、メイ。本番での活躍に期待しているぞ。んじゃ、次! 藤吉郎の新聞? 読売? アレはどうなった、アレは」

「瓦版新聞にございますな。其のことにござりますればほれ、この通りゲラ刷りが仕上がっておりますぞ」

「げ、げらずりですって! それっていったい何なのかしら。私、そんな言葉は聞いたこともないんだけれど」

「どうどう。餅付けよ、ほのか。ゲラ刷りていうのは校正刷りのことだな。確か英語のgalley proofギャリープルーフって言葉が訛ったんじゃなかったっけ」

「試し刷りってことかしら。だけどもそれが何でゲラなのよ。私、その故が知りたいわ。ねえねえ、大佐。何でゲラなのかしら。早く教えて頂戴な」


 元祖どちて坊やのほのかが突如として本領を発揮する。これは何でも良いから適当な答えを返してやらないことには収まりそうにないな。だけどもゲラの語源って何じゃらほい。大作は首を傾げる。

 だがその瞬間、思いもよらない方向から救いの手が差し伸べられた。不意に襖が開くと萌が姿を現したのだ。


「知らざあ言って聞かせてあげるわ。もともとゲラっていう言葉は活字を組んだ版を入れる箱のことだったのよ。じゃあ何で箱のことをgalleyっていうのか。それはガレー船からきてるらしいわね。ちなみに英語でgalleyっていうと船や飛行機の調理場のこともギャレーって言うのよ」

「それで? そのガレー船っていうのと箱にはいったいどういう関わりがあるっていうのかしら?」

「ガレー船の最大の特徴。それは(オール)がたくさん付いてるってことよ。地中海は風向きや風速が安定していないでしょう? だから効率が悪いのを承知で人力に頼るしかなかったわけね。とにもかくにも細長い活字が横長の箱にずらりと並んだ様子が漕ぎ手の居並ぶガレー船の船倉に似ていたんだそうよ。めでたしめでたし」


 ひと息にそう言い切ると萌は肩の荷を降ろしたといった顔で小さくため息をついた。


 何だか知らんけど随分と嘘くさい話だなあ。細長い物が大量に並んでいるところを見たからといって普通の人がガレー船なんて想像するだろうか? ガレー船の中なんてベン・ハーで見たくらいしら重い打線のですけど。大作の脳内に仄かな疑念が浮かんでは消えて行く。

 とは言え、ほのかはそれで納得しているようだ。わざわざ寝た子を起こすこともないだろう。大作は考えるのを止めた。

 視線を藤吉郎に戻してみれば瓦版新聞のゲラ刷りを差し出した姿勢のまま固まっている。


「どれどれ、ふむふむ。まあ、良い感じなんじゃね? 後は写真製版の完成を待つばかりだな。写真があるか無いかで読者の受け取り方は大きく違ってくるはずだ。全力を持って開発に勤しんで欲しい」

「御意!」


 真面目腐った顔の藤吉郎が深々と頭を下げる。一件落着。大作は新聞の件を心の中のシュレッダーに放り込む。経営トップが個別の案件に深入りしても碌なことにならないのだ。


「ささ、後がつかえてるぞ。どんどん行こうか。お次は誰じゃ? サツキは何の担当だっけかな」

「私は女子挺身隊と国防婦人会の徴募に励んでおります。既に二百を超える女性(にょしょう)を集め、間もなく鉄砲の稽古も始まるあらましにございます。月末までにはお下知を頂いた千の兵を必ずや集めてご覧に入れまする」

「俺、そんなこと頼んでたっけ? いやいや、思い出したよ。小田城奪還作戦だっけかな。女子挺身隊と国防婦人会は今回の作戦に置ける要諦だ。こいつらさえ……」

「ようてい?」


 話を遮るようにほのかが割り込んでくる。デリカシーの無い奴は嫌だなあ。大作はちょっとイラっとしたが決して顔には出さない。


「肝心要のポイントってことさ。だったら始めからそう言えってか? そうだな、次からはそうするよ。んで、ほのかさんよ。あんたのアレ、リュートだっけ? アレで『きよしこの夜』を弾くっていうのはどうなってるのかな。クリスマスのデビューコンサートまで一月だぞ」

「安堵して良いわよ、大佐。何だったらいま聴かせてあげましょうか? そうよ、それが良いわ。ちょっとだけ待っててね、リュートを……」


 突如としてほのかが楽器を構える。その顔には『聴いて、聴いて』と書いてあるかのようだ。

 だが、周囲に集う一同の顔色が一斉に曇る。もしかして練習を何度も何度も聴かされて飽き飽きしてるんじゃなかろうか。


「いやいや、今は止めておこうか。本番の感動が薄れちまったら勿体ないかなら。また今度、聴かせてもらうよ。んで、未唯はヴィオラ・ダ・ブラッチョの練習と並行して子猫が食べれる…… 食べられるラーメンの開発だったかな? 進捗の方はどうだ?」

「まあまあってところかしら。何だったら食べてみる?」


 これ以上はないといったドヤ顔を浮かべた未唯が懐から黄色い紐のような物を取り出す。これが? こんな物がラーメンだとでも言いたいのか? だけども何故に懐から取り出すんだ? しかもキャットフードを食えだと? わけがわからないよ……


「えぇ~っと、悪いんだけど今日のところは遠慮しておくよ。さっき弁当を食べたばっかだから今はお腹が一杯なんだ。萌のミニエー銃については後で詳しく聞かせてもらおかう。んで、ナントカ丸のレンズ研磨は……」

「望遠鏡! 私の望遠鏡はどうなったのよ、ナントカ丸? 早く出しなさいな! さあさあ!」

「ちょ、おま…… あのなあ、お園。納期にプレッシャーを掛けても碌なことにならんて言ったよなあ。言わなかったっけ? 言ったと思うんだけどなあ」

「どうどう、御裏方様。気を平らかになされませ。望遠鏡は逃げませぬぞ。ほれ、この通り」


 未唯に負けずとも劣らずといったナントカ丸のドヤ顔を見ているだけで大作のやる気がモリモリと奪われていく。だが、お園の関心は完全に望遠鏡にロックオンされてしまったようだ。引ったくるように望遠鏡を奪い取ると駆け出すように廊下に向かい、乱暴に襖を開け放った。


「見える! 見えるわ! 目が、目があぁぁぁ!」

「ノリノリだな、お園。ちょっと俺にも見せてくれよ」

「未唯も、未唯にも見せて頂戴な。お園様」

「後でゆっくり見せてあげるからお待ちなさいな。だけどもこれって正立像になっているわね。だとするとガリレオ式なのかしら? それにしては視界が広いわよ。まさかこの鏡胴の中に正立プリズムが入っているの?」


 ようやく接眼レンズから目を話したお園が真顔で呟く。よっぽど強く覗いたんだろうか。右目の周りには接眼レンズの丸い痕がくっきりと残っている。

 何だか狸みたいだなあ。まあ、可愛いから良いんだけれども。


 ナントカ丸はドヤ顔を一段と進化させるとちょっと不敵な笑みを浮かべた。


「いえいえ、御裏方様。この望遠鏡はケプラー式ですが正立プリズムは使うておりませぬ。代わりにドローチューブの中に正立レンズと接眼レンズを嵌め込んでおります。故にドローチューブを抜き出すと…… ほれ、この通り。ちょっとした顕微鏡に早変わりいたします」

「け、け、顕微鏡ですって! 素晴らしいわ、ナントカ丸。其方は英雄よ。大変な功績だわ。バンバンバンカチカチ、あら?」


 望遠鏡と顕微鏡を一挙に手に入れたお園は有頂天だ。雲、遠くの船、小田原城、畳の目、人間の髪の毛、エトセトラエトセトラ…… 目に付いた物を片端から観察しては嬌声を上げる。

 そんなことをしている間にも日は徐々に西の空に傾いて行った。


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