巻ノ弐百伍拾七 飲み込め!歯磨きを の巻
大作、お園、大有康甫の仲良しトリオは小田原城内見学ツアーを無事に終え、御本城様の座敷へと帰還を果たした。
さして広くもない部屋では小次郎を相手に未唯が退屈そうにヴィオラ・ダ・ブラッチョを練習している。
「よっ! 暇か?」
「暇じゃないわよ! 未唯はちゃんとヴィオラ・ダ・ブラッチョを稽古してたんですからね。今日こそ夕餉の後で聴いて頂戴な」
「はいはい、聴きますよ。聴けば良いんだろ。今、聴こうと思ったのに言うんだもんなぁ~」
「時に北条左京大夫様。我が殿へのご返答は如何相成りましたかな?」
馬鹿の一つ覚えのように大有康甫がお決まりのセリフで割り込んでくる。
もしかしていい加減、真面目に答えてやった方が良いんだろうか。何だか知らんけどこいつって答えを返すまで永遠に付きまとってくる妖怪みたいだなあ。
大作は小さくため息をつくと坊さんの顔を真正面からマジマジと見詰めながら口を開いた。
「このム○カ大佐…… じゃなかった、北条左京太夫。こと、ご返答に限って虚偽は一切申しませぬ。お答え致す…… お答え致すが…… 今回まだその時と場所の指定まではしておりませぬ。どうかそのことを一風軒殿も思い出して頂きたい。つまり…… 拙僧がその気になればお答えするのは十年、二十年後ということも可能だろう…… ということ!」
「じゅ、十年、二十年先ですと! 如何に左京太夫様の仰せとは言え聞き捨てなりませぬぞ! 我が殿への返事、早うお聞かせ願いとう存じます。其れをお聞かせ頂くまで拙僧は国許へ帰るわけには参りませぬ」
「え、えぇ~っ! それって返事するまでここに居候するってことですか? そんなんされたらものすっごい迷惑なんですけど…… しょうがないですなあ。それじゃあ返事の代わりにこれをお持ち下さりませ」
キョドって彼方此方に視線を彷徨わせた大作は偶々、目に付いたマジックテープ将棋セットを咄嗟の機転で差し出した。
坊さんは怪訝な表情をしながらも黙って受け取ると小首を傾げて大作の顔色を伺う。
「これは牛蒡の実で作りし将棋盤ではござりませぬか。斯様な物が返事の代わりとは如何なる由にございましょうや? その本意をお聞かせ願えませぬかな、左京太夫様」
「聞けば答えが返ってくるのが当たり前と思われまするな。大人は質問に答えたり致しませぬ」
「此れは異な事を承る。我が殿よりの書状に返事を致さぬことが大人の振る舞いじゃと申されまするか? いったい如何なる故あってのことか得心の行くよう語ろうて頂きとう存じまする」
坊さんの表情は困惑の度を増すばかりだ。効いてる効いてる。大作は内心では爆笑したいのを必死に押し殺して仏頂面を崩さない。
とにもかくにも条件闘争に持ち込むことができた。あとは適当なことろで妥協案を提示してやるのみの簡単なお仕事だ。
ちょっと斜に構えた大作は意味もなく扇子を開いたり閉じたりしながら勿体ぶって話し始めた。
「宜しいかな、一風軒殿。これは引っくり返しても駒が落っこちぬ世にも不思議な魔法の将棋盤にございますぞ。この意味が和尚にはお分かりになりませぬかな?」
「うぅ~む、まるで禅問答のようにござりまするな。よもや左京太夫様はこう申されたいのでござりましょうや? もし敵ならば如何様に考えるのか。敵の側になったつもりで考えてみては如何かと」
「そうそう、それそれ! それにございますよ! なかなかのナイスアイディアにございますな。それでは伊達殿にお伝え下さりませ。マジックテープ将棋盤の東北・北陸地方一帯における製造販売権の一切を伊達殿に無償でお譲り致します。戦乱の世が終われば趣味娯楽への家計支出は必ずや増加するにござりましょう。伊達ブランドの将棋盤によって彼の地における将棋人口を飛躍的に増やして下さりませ。ちなみにこのような契約形態を南蛮ではライセンシー契約と申すそうですな」
「ここ、試験にでるから良く覚えておいて下さりませ」
さり気なくお園がフォローを入れてくる。その屈託のない笑顔からは真面目にやろうという気は一欠片も感じられない。心底からふざけ倒すつもりで間違いないようだ。
一方で首を傾げた坊さんは真剣な表情で疑問を口にしかける。だが、その瞬間にも襖が勢い良く開いて大勢の人影が現れた。萌、サツキ、メイ、ほのか、藤吉郎、ナントカ丸、政四郎、エトセトラエトセトラ。大して広くもない御本城様の座敷は一気に人口密度が急増する。
「ただいま、大佐。今日は通し稽古をやったのよ。みんなとっても上手に歌えるようになったんだから。大佐も一度くらいは顔を出して頂戴な」
「いやいや、俺はアレだよアレ。本番での感動を大事にしたいタイプなんだ。悪いけど練習の見学は遠慮させてもらうよ」
「ふぅ~ん、つまんないの。でも、本番は必ずや聞いて貰うんだからね。確と約したわよ」
表情をコロコロと変えながらメイが嬉しそうにコーラス練習の報告をする。そうこうしている間にも見慣れた顔の男たちが現れて夕餉の配膳が始まった。
「ひい、ふう、みい…… 大丈夫、一風軒殿の分もあるようですぞ」
「それを伺うて安堵いたしました。然れば拙僧は明日の朝餉を頂いてから小田原を発つと致しましょう」
「名残惜しゅうございますな。将棋盤のこと、返す返すもお頼み申しますぞ。伊達左京太夫様と小次郎様で仲良く将棋を指して下さりませ。何と言っても兄弟は仲が良いのが一番ですからな。殺し合いなんて阿呆らしいですぞ」
「畏まりました。拙僧が確とお伝え申しましょう」
これにて一件落着。大作は心の中のシュレッダーに政宗からの手紙を放り込んだ。
夕餉のメニューはこれといって普段と代わり映えのしない物だった。唯一、目を引く物といえば美味しそうに湯気を立てる真っ赤な金目鯛のくず煮がメインディッシュとして鎮座ましましているくらいだろうか。
いやいやいや、全然代わり映えしてるじゃんかよ。大作は慌てて前言を撤回した。
血のように赤い魚の皮は見慣れていない者にはよっぽど珍しいのだろうか。怖いほど真剣な顔で凝視している坊さんの目は金目鯛もびっくりするほど大きく見開かれている。
「海に住む魚がかくも赤い色をしておるとはさても面妖な。此の目玉の大きな魚は如何なる物にござりましょうや?」
「おやおや、一風軒殿はご存知ありませぬか? これは下田名物の金目鯛にござりまするぞ。上野介殿が手土産に持ってきてくれたのかも知れませぬなあ。まあ騙されたと思うて一度食ろうてみて下さりませ。金目鯛の旬は何といっても冬。寒い時期の身はよく引き締まって美味しい脂が乗っております。故に刺身にしても煮付けにしても大層と美味にございますぞ」
「金目鯛と申されましたか。されど随分と赤うございますな。どのあたりが金なのでござりましょうや?」
「気になるのはそこでござりまするかぁ~? いやいや、金魚やゴールデンゲートブリッジだって赤いじゃありませんか。そんな細かいことはどうでも宜しい。美味しいは正義! さあさあ、黙ってお食べ下さりませ」
ハムッ ハフハフ、ハフッ!! 一同は美味しい美味しい金目鯛料理の数々に舌鼓を打つ。
「ねえねえ、大佐。鼓は『づつみ』じゃなくって『つづみ』なんだけれども連語になったら頭が濁音になることがあるんだったわねえ。腕時計とか壁紙って言うけれど時計とか紙とは言わないとか何とか」
「そんな些末なことはどうでも良いんじゃないのかな。今はこの美味しい金目鯛料理を楽しもうよ」
「それもそうねえ。でも、下田で食べた時よりもずっとずっと美味しいわよ」
「きっと美味しい食べ方をいろいろと研究したんだろうな。次に会ったら上野介殿にお礼を言わなきゃならんぞ」
あっと言う間に夕餉を平らげた一同は食後のデザートを楽しむ。その後は未唯のヴィオラ・ダ・ブラッチョ演奏を鑑賞して散会となった。
床に就いた大作は今日一日にあった出来事を一つひとつ反芻する。いや、反芻しようと思ったのだが…… 何一つとして重い打線のですけど~!
もしかして若年性認知症だったらどうしよう。一度、病院でちゃんと診てもらった方が良いかも知れんな。そんな阿呆なことを考えているとお園が小声で話し掛けてきた。
「大佐、もう寝ちゃったかしら」
「いんや、まだ起きてるぞ。お園こそ眠れないのか? どしたん、もしかして不眠症か」
「ふにんしょう! それって美味しいの?」
「いやいや、不眠症って言ったんだよ。だけど督姫は二人も姫を生んだんだから不妊症ではないと思うぞ。んで、眠れないのか?」
とっとと眠りたいのに長話になったら嫌だなあ。中途半端な睡魔と戦いながら大作は生返事を返す。
とは言え、こういう時に無理に話を切り上げようとすると却って長引いてしまうのも良くある話だ。むしろ自然体で行くのが一番良いような、良くないような。
そんな大作の切なる思いを知ってか知らずかお園は話を続けてくる。
「私、さっきから気になっていたのよ。一風軒様への御返事ってアレで良かったのかしら。大佐は前に豊臣を滅ぼしたら伊達も攻め滅ぼすって言ってたわよねえ」
「良く覚えてたな、お園。流石は完全記憶能力者ってところか。あの方針は今だって少しも変わってはいないぞ。俺の、俺達の究極の目標は豊臣とか伊達とか関係なく日本中の…… いや、世界中の旧体制を徹底的に破壊することだろ?」
「だろって言われても知らないわよ。まあ、大佐がそう思うんならそうなんでしょう。大佐ん中ではね」
暗くて表情は良く見えないがおどけた声のお園が茶化すように返事をした。だけどもその言い方はないんじゃないかなあ。大作はちょっと拗ねたように唇を尖らせる。
「そうは言うがな、お園。俺たちの敵が旧支配者だっていうのは当初からの既定路線だと思うんだけどなあ。とにもかくにも絶対君主制、封建制度、身分社会、エトセトラエトセトラ。それらすべてを悉く破壊し尽くさにゃあならんのだ。こういうのを破壊的イノベーションっていうらしいぞ。破壊の先にこそ創造の芽が生まれてくるのかも知れんだろ? いや、本当に知らんけど」
「ふ、ふぅ~ん。だけどもそれとマジックテープ将棋盤はいったいどういう関わりがあるのかしら」
「そ、それはアレだなアレ。そもそも大有康甫とかいう外交僧が小田原を訪れたなんて史実はどこにも無いんだ。だったらどう立ち回ったら良いかなんて誰にも正解が分からんだろ? こんな微妙な案件、どう対処しても角が立っちまいそうだ。だからこそ毒にも薬にもならんような話で煙に巻いたってわけさ」
「そ、そうなんだ。大佐にしてはちゃんと考えあってのことだったのね。私、心配して損したわ」
からかうような口調のお園が軽く鼻を鳴らした。
もしかして馬鹿にされてんのか? 大作はちょっとイラっとしたが強靭な精神力でそれを抑え込む。
「まあ、あの将棋盤で政宗と小次郎の因縁の兄弟対決なんてあっても面白いかも知らんけどな。ちなみに俺は伊達政宗も大嫌いなんだぞ。あいつは捕虜虐殺とか一揆を煽動したりとかで本当に碌な事を一つもしてないだろ? あのキシリア閣下も『父殺しの罪はたとえ総帥であっても免れることはできない』とか言ってたしな」
「えぇ~~~っ! 政宗ってお方は父上も殺めたっていうの? 御舎弟を殺めたかも知れないって話もしてたわよねえ。何だか知らないけれど、大層と恐ろしげな方なのね。そんなお人と仲良くできるのかしら」
「できるかなじゃねえ! やるんだよ! お前ちゃんと話を聞いてたのか? 俺、伊達は滅ぼすって何度も何度言ったよなあ? 言ってない? 二、三分前に言ったような気がするんだけどなあ」
「大佐がそう思うんならそうなんでしょう。大佐ん中ではね。私、もう眠いから寝るわ。ひとつ言い忘れていたけど大佐は人に褒められる立派なことをしたのよ。胸を張っていいわ。おやすみ」
勝ち誇ったように宣言するとそれっきりお園は静かになってしまった。
何だか知らんけどミサトさんの名セリフが『おやすみ』の枕詞みたいになっているような。まあ、可愛いから別に良いんだけれど。
って言うか自分から話題を振っておきながら眠いから先に寝るわよってどうなんだろな。まあ、可愛いからどうでも良いんだけれども。
すぐ隣で横になっているお園が静かに寝息を立て始める。その横顔を眺めているうちに大作の意識も夢の中へと誘われて行った。
「知らない天井だ……」
「そう、良かったわね。おはよう、大佐。そろそろ起きて頂戴な。今日は一風軒様をお送りするんでしょう?」
上機嫌のお園が明るく声を掛けながら掛け布団を勢いよく捲る。
やれやれだぜ。大作は眠い目を擦りながら起き上がると手早く布団を畳んだ。
冷たい水で顔を洗った後、お園と仲良く並んで歯を磨きながら顔色を伺う。
「知っているか、お園。宇宙飛行士は歯を磨いた後の歯磨きを飲み込んじゃうそうだぞ。向井千秋さんがテレビで言ってたな」
「向井千秋? 大佐ったらそのお方にも懸想していたんじゃないでしょうね? だけども歯磨きなんて飲み込んじゃって体に大事はないのかしら」
お園の大きな瞳が不安げに揺れる。こいつこんなに心配性なキャラだっけかな。それに別にお前も歯磨きを飲み込めって言ってるわけじゃないんだけれども。
大作は努めて平静を装いながらも朧気な記憶を辿る。
「まあ、歯磨きってそもそも口に入れる物なんだから有害ってことはないんじゃね? そう言えばウラジーミル・ブコフスキーが回想録『城を築く』で書いてたぞ。ソビエト末期では酒飲みたちがオーデコロンやローションを飲んでいたそうだな。それどころかブレーキ液やBF糊、磨き剤、歯磨き粉なんかからもアルコールを作り出していたとか何とか」
「流石の私もそれ美味しいのなんて聞かないわよ。そびえとのお方々は何の因果でそんな得体の知れない物を飲まなきゃならない羽目になったのかしらねえ。そこまでやるくらいならいっそのこと自分でお酒を作った方が早そうなんだけれど」
歯をゴシゴシと磨いているお園は気持ち悪そうに小さく身震いすると唇を歪めた。
大作はお園の発言を黙って反芻する。確かにその意見はもっともだ。戦国時代の雑兵足軽たちも食料として支給された米から勝手に酒を作ろうとしたので止めさせるのに苦労したなんて話を読んだことがある。
これを何とかしようと思ったら…… アルファ化米なんてどうじゃろう。
白米のままで支給するからそんなことになるんだ。加水加熱で米の澱粉を糊化させてから乾燥してしまえば酒は作れないだろう。そのために必要なのは大量の炊飯された米を短時間で処理する乾燥機だな。押し麦製造ラインの転用でいけるかな? とにもかくにも乾燥させるんなら気温が低くて空気の乾いた冬が最適だな。だったら急いだ方が……
「もしも~し、大佐? Can you hear me? 聞こえているかしら?」
「はいはい、聞こえてますよ。聞こえてますってば。んで、何だっけかな? そうそう、なんでロシア人はウォッカばっか飲んでるかって話だっけ。うぅ~ん…… もしかするとアレじゃね、アレ。水が悪かったんじゃね? イギリス人が紅茶を飲むのも、フランス人が水代わりにワインを飲むのも水が悪いからっていうだろ?」
「だ~か~ら~~~! だろって言われても私は知らないわよ!」
言葉はキツイが目が笑っているので本気で怒っているわけではないらしい。だが、口の中は今や歯磨きと唾液で一杯になりつつある。そろそろ話を切り上げるタイミングが近付いてきているようだ。大作は精一杯の愛想笑いを浮かべると小さく肩を竦ませた。
「まあまあ、そこは水に流してくれよん。水だけにな。んで、当てになる統計かどうかは分からんけど1980年代のロシア男性は二日に一瓶のウォッカを飲んでいたんだとさ。そのためかどうかは知らんけど男の平均寿命はたったの六十代前半だったそうな。お陰で幸か不幸か年金の不安も無かったんだけどな。だってみんな若くに死んじゃうんだもん。でも、それを何とかしようと思ったのがゴルバチョフ大統領なんだな。1985年から始まった反アルコールキャンペーンによって生産量は激減、価格は急上昇、社会全体で禁酒が奨励された。効果は覿面で平均寿命は一時は六十五歳に迫るところまで上がったんだ。ところが直後のソビエト崩壊で無茶苦茶になっちまった。国連開発計画によると1992年から2001年にかけての死者は通常よりも二百五十から三百万人も増えたんだそうな。戦争や飢餓、伝染病といった特殊要因も無しにこれだけのスケールで人が死ぬというのは人類の歴史でも例が無いそうな。そんなこんなで1994年の平均寿命は何とびっくり。たったの57.6歳にまで低下しちゃいました。どっとはらい」
「ふ、ふぅ~ん。常の如く長いだけで一文の得にもならない無駄話だったわね。今日は何時にも増して時が惜しいわ。早く歯磨きを飲み込んじゃいなさいな」
「いやいや、勘弁してくれよ。アレだアレ。宇宙飛行士用歯磨きは飲み込むことを前提に開発されてるらしいんだ。それにどうしても飲み込みたくない人はペーパータオルとかに染み込ませて吐き出しても良いんだってさ。ネットに書いてあったぞ。嘘じゃないよ本当なんだ。信じてくれよん……」
「はいはい、それじゃあ早く吐き出しなさいな。お好きなだけ吐き出すが良いわよ」
挑発的な目をしたお園が薄ら笑いを浮かべながら碗を差し出す。
水で口を濯ぐ大作は何だか負けたような気がして朝っぱらから気が滅入ってしまった。




