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巻ノ弐百伍拾六 なんでもない日おめでとう! の巻

「梶原名人、持ち時間を使い切りました。ここからは一分将棋でお願いします」


 時計係の未唯がスマホのストップウォッチを見詰めながら感情の全く籠っていない声で宣言する。

 日は既に大きく西に傾き、座敷の中は徐々に薄暗くなり始めていた。


 いったいぜんたい、何が原因でこんな目に遭っているんだろう。大作は例に寄って霞の掛かったように朧げな記憶を辿る。

 確か目が覚めたら喉がとてつもなく痛かったんだっけ。んで、田村安斎(栖)とかいう待医だか侍医だかを呼んだら麦門冬(ばくもんどう)とかいう煮え湯を飲まされたような、飲まされていないような。いやいや、飲まされたのは間違いない。


 だけどもそれと今の状況がどう繋がっているんだろう。定例の朝食報告会に梶原景宗と清水康英がやってきたところまでははっきりと覚えている。問題はその後だ。何の因果でこの二人の将棋対局を観戦する羽目になっちまったんだ? いくら考えても考えてもさぱ~り思い打線。

 時間の無駄にも色々あるけれど、素人のヘボ将棋を丸一日に渡って鑑賞したからといって何の得もないんですけれど。

 そう言えば某ディ()ニーの公式Twitterアカウントが八月九日に『なんでもない日おめでとう』ってツィートして物議を醸したことがあったっけ。まあ、池上彰さんみたいに八月九日生まれの人だっているんだけどさ。そうそう、話は変わるけど……


「五十秒、一、二、三、四…… 先手、2四桂馬」


 あらぬ方向へ行きかけた大作の意識を未唯の言葉が現実へと引き戻した。未唯の隣では記録係の藤吉郎が紙に何やら書き付けている。

 素人のヘボ将棋なんか記録して誰に何のメリットがあるんだろう。謎は深まるばかりだ。


 ふと視線を感じて部屋の隅っこに目をやれば大有康甫(だいゆうこうほ)だか一風軒だかいう坊さんと目が合った。伊達政宗の大叔父を自称する胡散臭い爺さんは退屈そうに欠伸(あくび)を噛み殺している。

 こいつはフォローが必要かも知れんな。大作は這いずるように畳の上を進んで坊さんの側へ近寄った。


「一風軒殿、素人のヘボ将棋なんぞ見ていても退屈なだけにござりましょう。もしかして退屈で退屈で死にそうになってはおられませぬか?」

「何を申されますやら、北条左京大夫様。決して左様なことはござりませぬぞ。将棋なれば我が殿もよう囲んでおられましたな。まあ、御舎弟殿の方がお強うございましたが」

「そ、そうなんですか。御舎弟殿って竺丸? 小次郎殿のことですよね? そう言えば、大河ドラマでもそんな設定ありましたっけ。あれって本当のことだったんですねえ」


 大作は柄にもなくちょっと感動してしまう。だが、その言葉を耳聡く聞き付けた未唯が嬉しそうに声を上げた。


「小次郎ですって! それって未唯の猫と同じ名じゃないかしら。稀なることもあったものねえ。一風軒様、良かったら未唯の猫を抱っこさせてあげましょうか?」

「あのなあ、未唯。今のお前には時計係っていう大事な大事なお役目があるんだぞ。悪いけどそっちに集中してくれるかな~?」

「いいとも~! 五十秒、一、二、三…… 後手、4八金」


 未唯は一瞬で真面目な表情を作ると時計係の業務に戻って行った。横に座った藤吉郎も相変らずの仏頂面で紙に何かを書いている。

 あんな顔していながら実は落書きとかしてたらびっくりなんだけどな。大作は軽く頭を振って失礼な考えを追い払う。

 と思いきや、坊さんが言葉尻に食らい付いてきた。


「ほほう、姫君様の猫も小次郎と申されまするか。此れは稀なることもあったものにござりまするな」

「真にございますな。然れども一風軒殿、史実では小次郎殿って来年の四月には兄上に殺されちまうんですぞ。兄弟仲が悪いのって嫌ですなあ。拙僧には兄弟がおらなんで本当に良かったと胸を撫で下ろす心地にござります」

「こ、小次郎殿が殺められるですと! 兄上と申すは左京大夫様のことにござりまするか? 何故に左様なことが……」

「いやいや、あの話は貞山公治家記録が根拠とされているんですけどアレって政宗の死後七十年も経った元禄十六年(1703)に書かれた物なんでしたっけ? ちなみにそれって吉良邸討ち入りの年ですな。一方でこれを否定する証拠も沢山あるんですけどね。たとえば虎哉和尚の書いた手紙とか大悲願寺の十三代目住職・海誉上人に宛てた政宗の手紙とか。大悲願寺の過去帳にも十五代目住職の秀雄は伊達輝宗の末子で伊達政宗の弟だってちゃんと書いてあるんですもん。拙僧は大悲願寺に行ったことありますけどご住職は完全に小次郎=秀雄って体でお話されておられましたな。それと伊達天正日記にだって政宗が小次郎の傅役、小原縫殿助を屋敷に呼んで手討ちにしたって書いてあるんですよ。不思議だなあ、不思議ですよねえ? ね? ね? ね?」


 一気に捲し立てる大作の迫力に気圧されたのだろうか。坊さんは口をぽか~んと開けて呆けている。

 もしかしてまたもやフォローが必要なんだろう? 俺の人生はこうやって人のご機嫌を取るだけで終わってしまうんじゃなかろうな。大作は心の中で小さくため息をついた。


「あの、その…… もし宜しければ小田原城内見学ツアーにでもご案内致しましょうか? お代は見てのお帰りで結構。これを南蛮ではPay As You Wish方式と申すそうですな」

「お気遣い頂き、有難き幸せにございます。されど北条左京大夫様、咳き病み(しはぶきやみ)は大事ございませぬか?」

「咳き病み? ああ、アレならば麦門冬とか申す薬湯が効いたようにございますな。もうすっかり治っちまったようですぞ。では、参りましょうか。Hurry up! Be quick!」

「さあ、一風軒様。参りましょう」


 大作とお園に手を引かれた大有康甫とかいう坊さんはちょっと面食らった顔をしながらも立ち上がる。


「そんじゃあちょっくらでかけてくるな。未唯、藤吉郎。後のこと、返す返すもお頼み申す……」

「備前守様、上野介様。(順不同)精々お気張り下さりませ。草葉の陰から案じております」


 呆気に取られる面々を放置して大作たちは脱兎の如く座敷を後にした。




 廊下を少し進んだところで大作は歩を緩める。芝居がかった仕草で振り返るとため息をつくように呟いた。


「どうやら生き残ったのは俺たち三人だけらしいな」

「はいはい。良かったわね、大佐。一風軒様、同じネタを二回繰り返すのを天丼と申すそうな。ここ、試験に出るから覚えておいて下さりませ」

「さ、左様にござりまするか。して、我らは何処に向かっておるのでしょうな?」

「此処ではない何処かにございます。全ての道はローマに通ず。このまま歩いて行けばそのうちローマにでも辿り着くんじゃありませんかな」


 大作は半ば自棄糞気味に吐き捨てる。だが、言葉の真意を図りかねた大有康甫は分かった様な分からん様な顔で首を傾げるのみだ。

 マジレスも辛いけどスルーされるのはもっと辛いなあ。堪りかねた大作は坊さんの顔色を伺うように上目遣いで話し掛けた。


「ローマと申すは全世界に十億の信徒を擁するカトリックの総本山にございますぞ。ここからだと北西に一万キロってところですかな」

「……」

「乾の方角に二千五百里の意にございます」

「に、二千五百里ですとな! 歩き詰めでも一年は掛かりそうにござりまするな!」


 お園が入れてくれたフォローに対して随分と大袈裟なリアクションが反ってきた。

 なんだよこいつ、やればできるじゃん。大作は心の中で大有康甫とかいう坊さんの評価を一段階引き上げた。


 広い広い小田原城の本丸を当ても無く彷徨い歩いていると不意に独特の匂いが漂ってくる。少し進むと見覚えのある部屋が現れた。

 まだ夕餉までには時間があるのだろうか。台所では数人の男女がのんびりと料理の下拵えなんかをしているようだ。

 この場の最高責任者たる台所奉行は例に寄って部屋の隅っこで無為に時を過ごしていた。


「池辺? 池波? 池澤? お名前は何と申されましたかな、台所奉行殿?」

「池田新右衛門にございます。御本城様、御裏方様。此方のお坊様はどちら様にござりましょうや?」

「ご存じない? ご存じありませぬか…… 此方は大有康甫(だいゆうこうほ)殿にござります。以後お見知りおきのほどを。伊達左京大夫殿の大叔父にあらせられまするぞ」

「さ、左様にござりまするか。いと遠きところをようこそ参られましたな。して、台所に何ぞ御用でもあられましょうや?」


 姿勢を低くした台所奉行のおっちゃんは顔だけを上に向けて疑問を口にした。

 とは言え、こいつはヘビーな質問だぜ。適当にブラブラしてただけだなんて正直に答えて阿呆だと思われたらどうしよう。大作は頭をフル回転させて適当な言い訳を探す。

 ポク、ポク、ポク、チ~ン、閃いた!


「時に池田殿、この椀に入った水をご覧下さりませ。これって一合くらいでしょうかな?」

「さ、さあ…… そんなところではござりますまいか。其れが如何致しました」

「では、ここで問題です。この椀に入った水を別の椀に半分こして頂けますかな?」

「こ、こうでございまするか? 此れで宜しゅうござりましょうや?」


 大作の意図を測りかねた台所奉行の顔が不安気に歪む。効いてる効いてる。大作は心の中でほくそ笑むと言葉を続けた。


「では、それをさらに半分こして、さらに半分こして、さらに半分こして…… これを何回くらい繰り返せるとお思いですかな。わっかるかなぁ~? わっかんねぇだろうなぁ~」

「何度も何度も半分にせよと? 左様なことをしていったい何の得がありましょうや。小さなことが気になってしまう。某の悪い癖でしてな」

「いやいや、得とか損とかの問題ではございませんから。これは思考(thought)実験(experiment)と申しましてな。頭の中で考えてみるのでございます。んで、その答えですが…… 一合っていうのは百八十ミリリットルにございますな。水の分子量は十八ですから十モルになりましょう? ってことは、この椀に入った水分子の量は6.02×十の二十四乗個くらいってことになるのでございます。それってだいたい二の八十二乗くらいですな。ってことは椀の水を八十二回ほど半分こすれば水の分子が一個だけになっちまうってわけなんですよ。どうです、面白うござりましょう?」

「……」


 お呼びでない? お呼びでないね。こりゃまった失礼いたしました!

 大作は心の中で絶叫すると脱兎の如く台所を後にした。




 廊下を暫く進んだところで一同はまたもや歩を緩めた。

 大作はお決まりのセリフを口にしようと振り返る。だが、それを制するように坊さんがドヤ顔で顎をしゃくった。


「どうやら生き残ったのは我ら三人だけのようにございますな」


 なんじゃこりゃあ~! 一風軒、恐ろしい坊さん…… 大作は大有康甫の評価を更に一段階だけ引き上げる。

 城内を適当に進んで行くと見覚えのあるような、ないような。ナントカ丸の色違いみたいな小姓が暇そうにしている座敷に辿り着いた。


「よう、暇か?」

「これはこれは御本城様、御裏方様、一風軒様。斯様な所にお出でになるとは如何なされましたかな?」


 曖昧な笑みを浮かべた小姓が小首を傾げる。またしてもこいつはヘビーな質問だぜ。大作は適当な話ではぐらかそうと頭を捻る。

 しかし、その機先を制するように一瞬だけ早くお園が口を開いた。


「秀丸殿、人の体細胞はいったい幾つくらいあるか存じておりますか?」

「た、たいさいぼうにございまするか? 某如きには見当も付きかねまするな。宜しければお教え下さりませ」

「知らざあ言って聞かせてあげましょう。人の体は三十七兆個の細胞でできているのよ。一昔前は六十兆個と言われていたそうだけど。ではここで問題です。人の体を真っ二つにします。それを更に真っ二つ、真っ二つと細切れにしていったとして何度これを繰り返すと一つの細胞になるでしょうか?」

「……」


 さっきのクイズの応用のつもりなんだろうか。お園の口から衝撃的なクイズが飛び出す。とは言え、それってバラバラ殺人なんじゃね? 何だかサイコパスな香りがしてきたなあ。富江じゃあるまいし勘弁して欲しいぞ。

 ドン引きする大作を他所にお園は得意気な顔で言葉を続ける。


「答えは四十五回よ。二の四十五乗が三十五兆くらいでしょう? ところで大佐、富江って誰なのかしら。もしかしてその女にも懸想していたんじゃないでしょうね?」

「はいはい、お約束お約束。あの作品は本当に何度も何度も映像化されてるから色んな女優さんが富江を演じてるんだ。まあ、俺の中では菅野美穂のイメージが一番強いかな。やっぱ最初の印象が大きいのかも知らんけどさ」

「ふぅ~ん、そうなんだぁ~ とにもかくにもそういうことよ、秀丸。ここ試験に出るから覚えておきなさいね」

「ぎょ、御意……」


 秀丸とかいう小姓が怪訝な顔で力なく頷く。例に寄って例の如く大作たちは脱兎の如くその場を後にした。




 暫く廊下を進んだところで大作はお園の顔色を伺うように口を開く。何せ歴史と伝統は守らねばならないのだ。


「なあなあ、お園。今度はお前の番だぞ」

「何なのよ、大佐。いったい何の番だって言うのかしら?」


 悪戯っぽい笑みを浮かべたお園が小首を傾げる。


「そんなこと言って、本当は分かってるんだろ? アレだよ、アレ。例のセリフだよ」

「はいはい、分かってますよ。どうやら生き残ったのは私たち三人だけみたいね」

「督姫様は同じ戯れを二度繰り返すことを天丼じゃと申されましたな。三度繰り返すと何と申すのでござりましょうや?」

「さ、さあ…… 海老天が三本載った天丼だってあるんじゃありませんかな? 追加料金を払えば海老天を好きなだけ増やせる店だってあるみたいですし。そうそう、そう申さばこんな天丼屋がございましたぞ……」


 そんな阿呆な話をしながら三人は廊下を歩いて行く。歩いて行くと…… 元の座敷に戻ってきてしまった!

 既に対局は終わったらしく梶原景宗と清水康英の姿は見えない。小次郎を相手にヴィオラ・ダ・ブラッチョを弾いている未唯の姿があるのみだ。

 大作たちの姿を認めた未唯が顔をぱっと綻ばせた。


「あら、大佐ったら随分と早かったわね。もう御城内を一巡りしてきたのかしら」

「そうか? そんなに早かったかな。いやいや、こんなもんだろ。それはそうと対局の結果はどうなった。結局どっちが勝ったんだよ?」

「上野介様の勝ちだったわよ。備前守様も良いところまで行ったんだけど肝心なところで二歩を打っちゃったの」

「ふ、ふぅ~ん。だけどこの時代に二歩を禁止するルールなんてあったのかなあ。Wikipediaには二歩禁止が明文化されたのは寛永十三年(1636)の二世名人大橋宗古による象戯図式からだって書いてあるんだけれど。他にも千日手、行き所のない駒を打ったり不成にすることでその状態にすること、打ち歩詰めなんかを禁止したんだそうだぞ。そこんとこどうなん? なあなあ、未唯さんよ」


 何だか知らんけどまたもや時代考証ミスを見付けてしまったような、そうでもないような。

 まあ、明文化される前からそういうルールがあったとしても不思議ではないんだけれども。

 しかし未唯は大作の言い様がよっぽど気に障ったのだろうか。不満気に頬を膨らませると早口で捲し立ててきた。


「そんなこと未唯が知るわけないでしょうに! 上野介様と備前守様が語らってそう決まったのよ! もうそれで良いんじゃないのかしら? 知らんけど!」

「そ、そんなに興奮するなよ。血圧が上がっちゃうぞ。確かに未唯の言う通りだな。今となっては本当にどうでも良いことだ。忘れっちまおう」


 大作は不貞腐れたように呟くと梶原景宗vs清水康英の棋譜を心の中のシュレッダーに放り込む。


「時に北条左京大夫様。我が殿へのご返答は如何相成りましたかな?」


 相も変わらず大有康甫だか一風軒だかいう坊さんは壊れたレコードのように(死語)同じセリフを繰り返していた。


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