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巻ノ弐百伍拾壱 桜と猫と牛車と の巻

 とある水曜日の午前中、氏政から急な呼び出しを食らった大作とお園は長い長い坂道を登って八幡山の新城を訪れていた。

 だが、二人の前に姿を現した氏政との会話はイマイチ噛み合わない。どうやら人を呼び付けておきながらそれを忘れてしまっているようなのだ。

 もしかして、このおっさん本気(マジ)で認知症の恐れがあるんじゃね? 前からちょっと怪しいと思っていたんだけれども。大作の胸中に仄かな疑念が首を擡げる。


「あの、その、えぇ~っと…… 父上? 今年が千五百何年だかお分かりになりますか?」

「せんごひゃくなんねん? 何じゃ其れは?」

「分からない? そりゃ分かりませんよね。う、うぅ~ん。それじゃあ…… 今から言う言葉を覚えて頂けますかな? 桜、猫、電車」

「桜、猫、でんしゃ? でんしゃとは何じゃ? 左様な物は聞いたこともないぞ」


 半笑を浮かべた氏政が大袈裟に首を竦めると手の平を上に向けて掲げる。

 これが噂に聞いた無知自慢って奴なのか? どうして知らないってことをこうも自信満々に言えるんだろう。無駄蘊蓄だけを心の支えとして生きてきた大作には到底理解できない心境だ。

 もしかして、これが無知の知って奴なのかも知れんな。毒杯を仰ぐソクラテス? お前もか! 大作は平静を装いながら言葉を続ける。


「電車をご存じない? こりゃまった失礼致しました! だったら、だったらもう…… 大八車! 大八車で行きましょう。覚えてくださりませ。桜、猫、大八車」

「だいはちぐるま? 左様な物は見たことも聞いたことも御座らぬぞ。新九郎、其方は先ほどから何を申しておるのじゃ?」


 またもや氏政の無知自慢が飛び出す。得意満面のドヤ顔を見ているだけで大作はムカついて切れそうだ。

 そのニヤケた顔を吹っ飛ばしてやろうか? だが、反撃されたら怖いのでそんなことはできる筈もない。

 スマホを弄って画像を表示させると二人の眼前に交互に翳した。


「失敬失敬、大八車が発明されたのって江戸時代でしたな。リヤカーの先祖みたいな物にございます。こんな感じの奴ですよ。ちなみに『自転車以外の軽車両通行止め』の道路標識に描かれているのが大八車だってご存じでしたかな?」

「いやいや、儂は先ほどから『だいはちぐるま』を知らぬと申しておるじゃろう。いったい如何なる物なのじゃ? その『だいはちぐるま』とやらは」

「お義父様の申される通りよ、大佐。まずはその『だいはちぐるま』とやらの名前の故を知りたいわ。聞いてあげるから教えて頂戴な」

「気になるのはそこかよ~! えぇ~っとだな…… それについては諸説あるみたいだぞ」


 たった一台あれば八人分の仕事ができるから代八車と呼ばれた

 台の全長が八尺だったから大八と呼ばれた

 滋賀県大津の八町で使われていたから大津八町の車の略で大八車と呼ばれた

 発明者である芝高輪牛町の大工八五郎に因む。

 同じく発明である宮城の針生大八郎に因む

 エトセトラエトセトラ……


「いったいどれが本当のことなのかしらねえ。謎は深まるばかりみたいだわ。まあ、そんなことはどうでも良いんだけど。それで? その、だいはちぐるまがどうしたっていうのよ」

「えぇ~っとだな…… どうして大八車がリヤカーに取って代わられたかっていうと当然ながら理由は幾つもあるんだ。木で作られているから強度不足で重量物が積載できない。空気入りタイヤが無いから振動が酷い。まあ、これは大八車のせいではないけどな。何よりも致命的なのは車軸の上に荷台が乗っているから重心が高いってことだ。リヤカーは左右の車輪が独立して付いているから荷台が低くて重心が下げられるだろ?」

「それって工夫でどうにかならないものなのかしら?」

「木製フレームでは必要とされる強度は得られないだろうな。だけど工夫次第で何とかなるかもしれんぞ。たとえば車軸から荷台をぶら下げるような構造にするとかさ。こんな感じだな」


 大作はバックパックからタカラ○ミーのせ○せいを取り出すと下手糞な絵を描く。氏政は胡散臭そうな顔でチラリと覗き込むと馬鹿にした様に鼻を鳴らした。


「分からん! お主の話はさっぱり分かんぞ、新九郎」

「こ、これだけやっても分かっては頂けぬのですか…… うぅ~ん、そうだ! 牛車(ぎっしゃ)! 牛車ならご存じでありましょう? ね? ね? ね?」

「お、おう。牛車なら存じておるな。源平盛衰記で読んだ故、良う覚えておるぞ。木曽義仲が後ろから降りたが故に京童の笑いものになったそうじゃ。牛車は後ろから乗って前から降りる物じゃからのう。お主も相構へて心置くが宜しかろう」

「ふぅ~ん、そんなものですかなあ。ですけど、大抵の装甲兵員輸送車や歩兵戦闘車は乗降口が後ろに付いている物ですぞ。そうじゃないと降車中に撃たれちゃいますもん。プライベート・ライアン冒頭のオマハ・ビーチを覚えておられましょうや? 上陸用舟艇のタラップが降りた瞬間にMG42で蜂の巣にされておったでしょう。それはそうと牛車にそんな謎のローカルルールがあったとは。びっくりしましたな。へぇ、へぇ、へぇ、へぇ、へぇ…… ですぞ」


 大作は心の中のガッテンボタンを連打する。だが、眉根を吊り上げたお園から秒で突っ込みが入った。


「違うわ、大佐。それは『へぇボタン』よ!」

「そ、そうだな。俺も言った瞬間に気が付いたよ。失敬失敬、許してチョンマゲ。ってなわけで宜しゅうございますかな、父上。桜、猫、牛車ですぞ。よぉ~く覚えておいて下さりませ」

「桜、猫、牛車じゃな。相分かった」


 見たこともないドヤ顔で氏政が顎をしゃくる。この根拠のない自信はいったいどこから湧いてくるんだろう。謎は深まるばかりだ。

 って言うか、その自信がいったいいつまで続くのかな? 大作は心の中で嘲り笑うが決して顔には出さない。


「それでは次のテストです。父上、百から順番に七ずつ引いて行って下さりませ。まずは百引く七は?」

「百から七を減じよと申すか? 百から七…… 百から七とな…… 九十三じゃな」

「では九十三から七を引くと幾つですかな?」

「九十三から七を減じよと? え、えぇ~っと…… 九十から四を減ずると…… 八十六じゃ!」


 必死の形相で無い知恵を絞る氏政の額には脂汗が浮かんでいる。いつ見てもこの表情は堪えられんな。大作は内心でほくそ笑むが決して顔には出さない。


「では八十六から七を引いて下され」

「八十六から七を減じると…… う、うぅ~ん。七十九じゃな。おお、漸う分かって参ったぞ。十を減じて三を加えれば良いのじゃな。其れさえ分かれば容易きことじゃ。んで? 七十九から七を減ずると七十二じゃな。六十五、五十八、五十一、四十四、三十七、三十、二十三、十六、九、二。如何じゃ、新九郎!」


 氏政のドヤ顔が更なる進化を遂げる。こいつのドヤ顔は変身をするたびにパワーがはるかに増すんだろうか? その変身をあと二回くらい奴は残しているのかも知れん。その意味が分かるような、分からんような。

 大作は折れそうな心に喝を入れると無理矢理に笑顔を作った。


「やっときましたね。おめでとう。このテストを かちぬいたのは きみたちがはじめてです」

「げ、げえむじゃと? 其れは何なのじゃ?」

「マジレス禁止! では、次の問題です。正解するとポイントが一挙に二倍ですぞ。頑張って答えて下さりませ。今からお見せする五つの物を記憶して下さりませ」

「何じゃと! ぽいんとがにばいとは俄には信じ難き話じゃな? 真じゃとすれば其れはまた豪儀なことじゃて。して、儂は『きおく』とやらを致せば良いのじゃな? 心得た」


 大作はバックパックからネオジム磁石、ボールペン、碇ゲ()ドウのサングラス、ペットボトル、単眼鏡を取り出すと氏政の眼前に並べて置く。


「宜しいですかな。よぉ~く見て覚えて下さりませ」

「うむ、覚えれば良いのじゃな。じゃが、これはいったい何なのじゃ? 一つとして見たこともない物ばかりじゃぞ。いったい是れは如何なることに用いる物なのじゃ?」

「いや、あの、その、分からないですかな? 分からない? そりゃそうですよね。まあ、何でも結構ですからとにかく見たままを覚えて下さりませ」

「其のまま覚えれば良いのじゃな。うむ、確と覚えたぞ。では、そろそろお主を呼んだ故を話しても良いかのう?」


 不意に氏政が真剣な表情を作ると居住まいを正した。怖いくらい鋭い視線に睨み付けられた大作は思わず視線を外して首を竦める。

 その仕草を無言の肯定と受け取ったのだろうか。氏政は小さく咳払いをすると声を潜めて口を開いた。


「新九郎、八田左近殿から伺うておるぞ。天庵殿の小田城攻めに合力を致すそうじゃな」

「なぁ~んだ、そんなことにございましたか。もしかして何の相談もしないで勝手に決めたから拗ねちゃったんでちゅか? 父上も意外とお甘いようで。アレはその、アレですな……」


 いくら隠居の身とは言え、蚊帳の外に置かれるのはやっぱ我慢ならんのだろうか。にこりともしない氏政はとっても不機嫌そうに見える。

 卑屈な笑みを浮かべた大作は揉み手をしながら上目遣いに氏政の顔色を伺った。


「これは父上の身を案じてのこと…… みたいな? そうそう、その線で行きましょう。あのトルーマンだってルーズベルトがくたばるまで原爆のことを何も聞かされていなかったそうですぞ。父上にはお任せした仕事に集中して頂けるよう、敢えて不要と思われる情報をお伝えしておりませんでした。そんな感じでご理解を賜りとう存じます」

「で、あるか。じゃが、その『じょうほう』とやらの要、不要は新九郎が決めておるのじゃろう? 儂は小田城攻めのことを何も知らなんだ故、八田左近殿の前で恥を掻いてしもうたぞ」


 不貞腐れたような顔の氏政がぷぅ~っと頬を膨らませる。もしかして柳()敏郎の物真似でもしているんだろうか。

 いや、良く良く観察してみれば単純に頬を膨らませているのではなさそうだ。どうやら舌の先で頬を内側から押しているらしい。


「柳()敏郎ですって! 大佐ったら、そのお方にも懸想していたのかしら?」

「あのなあ、滅多なことを言わんでくれるか? そもそもあのお方は大河ドラマで太平記とか北条時宗には出てるけど戦国武将を演じたことは一度として無いんだぞ。まあ、TBSやフジテレビのドラマでは秀吉役を演じたことがあるらしいけどさ。でも、俺はどれも見たこと無いんだもん。しょうがないだろ? んで父上、そろそろ話を戻しても宜しゅうございますかな?」

「お、おぅ……」

「マッカーサー本人だか副官だったかのエピソードをご存じにありましょうや? 司令官に必要な能力とは何かって話にございます。それは数多の情報の中から役に立たない九十五パーセントを読み飛ばし、重要な五パーセントの情報を見抜く能力だそうな。小田城に関する情報は父上には不要だと司令部は判断した。それ以上でも、それ以下でもござりません。こんなところでご納得を頂くことはできませんかな? ね? ね? ね?」


 このおっさんを理屈で説得するのはどう考えても無理だ。どこからどう見ても感情で動くことしかできない脳筋タイプみたいだし。諦めの境地に達した大作はとにもかくにも情に訴え掛けた。

 ひたすら米搗き飛蝗のように頭を上げ下げし、何度も額を畳に擦り付ける。摩擦熱で額が赤くなり始めたころ氏政から小さなため息が聞こえてきた。


「好い加減に致さぬか、新九郎。お主は北条の御本城様じゃぞ。人に見られたら如何する所存じゃ」

「いやいや、父上。過ちては則ち改むるに憚るなかれと申しますぞ。拙僧は父上を軽んじたことを海よりも深く反省しておるのです。その深さたるやマリアナ海溝のチャレンジャー海淵よりも深いんだそうな。 なんとその深度は海面下一万九百十一メートル。エベレストの高さよりもずっとずっと深いんですから驚きにござりましょう? ジェームズ・キャメロン監督のアビスみたいな奴らが住んでるかもしれませんぞ」

「其れは何とも魂消れらるる話じゃな。しかしのう、新九郎。儂は……」

「父上こそ好い加減になされませ! 今の北条の最高司令官は拙僧にござりますぞ。如何に父上とは申せ、統帥権を干犯するとなれば拙僧も捨ててはおけませぬ」


 ここは強気で攻めるターンだと判断した大作は少し声を荒げて詰め寄る。眉根を下げた氏政が僅かに怯んだ顔で後退る。

 よぉ~し、もうひと押しで落ちるぞ。勝利を確信した大作は邪悪な笑みを浮かべる。

 だが、捕らぬ狸の皮算用とは良く言った物だ。突如としてお園が横から口を挟んできた。


「大佐! お義父様をあんまり虐めないでくれるかしら。ほら、見てみなさいな。泣いちゃってるわよ。ほぉ~らよしよし、もう怖くないわよ。悪い大佐はお園がメッ!ってしておきますからね」

「いやいや、お督殿。儂は泣いてなどおらぬぞ。真じゃぞ」

「はいはい、泣いてない泣いてない。分かったからもう涙を拭いて下さいまし」


 懐紙で涙を拭われた氏政は嬉しいのか恥ずかしいのか何とも形容の難い表情で固まっている。

 こんなのが北条の先代当主だったのか? 道理で豊臣ごときに簡単に滅ぼされちまうわけだ。大作は心の中で嘲り笑うが決して顔には出さない。って言うか、出していないつもりだった。

 しかしお園の目を欺くことはできなかったらしい。不意に振り返ると悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「大佐、制服さんの悪いクセね。ことを急ぐと元も子も無くすわよ。それに窮鼠猫を噛むって言うでしょう? 痛い目にあっても知らないんだから」

「そ、それは流石に父上に失礼なんじゃないのかな。そんなことない? そんなことないんだ…… まあ、本人が納得してるんなら拙僧がとやかく言う話ではござりませぬな。とにもかくにもこれにて一件落着。これからは大事なお話は父上のお耳にも入れるよう取り計らいますから機嫌を直して下さりませ」

「そ、そうか。其れを聞いて安堵致したぞ、新九郎。して、小田城には如何ほどの兵を送る心積もりじゃ? 将は誰に任せる? 兵糧の支度は足りておるのか? 日はいつごろに致すのじゃ? 早う教えて信ぜよ!」


 Hully up! Be quick! と大作は心の中で付け加えた。






 大作がふと我に返ると早くも太陽が西の空に傾き始めていた。楽しい時間というものは本当にあっと言う間に過ぎてしまうものなんだなあ。そう言えば、アインシュタインもそんな話をしていたような、していなかったような。

 何せあっちには石垣山みたいに高い山が広がっている。そのせいで日が陰るのがとっても早いのだ。しかも季節は冬なんだからしょうがない。


 氏政はホーム戦だという地の利が精神的余裕になっているのだろうか。数時間前とまったく変わらぬペースで新たな質問を繰り出してくる。


「それで? 薪は如何様な物を支度させたのじゃ? 詳らかに申してみよ」

「え、えぇ~っと…… (ナラ)クヌギ(カシ)(ケヤキ)、桜といったところでしょうかな。大きさや値段の指定はこちらをご覧下さりませ」

「其れでは足らぬぞ。火起こしには杉、松、(ヒノキ)といった火の着きやすい木を用いるが宜しかろう。量は僅かで構わぬ」

「父上の仰せの通りに。お園、記録してくれ」

「はいはい、ちゃんと書き付けてあるから安堵して頂戴な」


 お園は紙切れから視線を上げることもなくぶっきらぼうに返事をした。

 アウェイでなんて戦うんじゃなかったな。大作の胸中に反省の念が浮かんでは消えて行く。

 そうだ、閃いた! 氏政が新たな疑問を口にしようとした刹那を狙って大作はカウンターを取りに行った。


「父上、この城。八幡山の新城でしたっけ? この城を捨てっちまいましょう。こいつぁ偽モンにございますぞ」

「に、偽物じゃと。其れは如何なる意じゃ? この城は儂が作った日の本で一番の城じゃぞ! 高名な築城の名手が描いた絵図面に門の位置がおかしいなどと難癖をつける者はおらぬじゃろう。其れと同じことじゃ! 何故じゃ! 何故に奴を認めてこの儂を認めぬのじゃ!」


 奴って誰のことなんだろう。大作は喉から出掛かった言葉を危ういところで飲み込んだ。

 だって、A word spoken is past recalling. 一度口からでた言葉は呼び戻せないんだもん。


「どうどう、父上。気を平らかにして下さりませ。どうせ城なんて大砲や航空機、ミサイルの急激な発達によってすぐに時代遅れで無用の長物になるんですよ。きっと後世では天正の三馬鹿査定とか言われるに決まってるんですから。まあ、言いたい奴には好きなだけ言わせておきましょう。固定要塞は人類の愚かさの記念碑。パットン将軍もそう申されておられますぞ」

「さ、左様か。儂が…… 儂らが骨を折りて築きし城が愚かさのきねんひとはのう。年は取りとうないものじゃな……」

「如何にござりましょう、お義父様。本城に降りてみなと共にお暮らし頂けませぬでしょうか」

「ナイスアイディア、お園! それが良うございますぞ、父上。あの頑固者のアルムおんじだって最後の方では冬の間、山から降りてきてたじゃありませんか。よし! そうと決まれば善は急げだ。今から降りましょう、父上。Hully up! Be quick!」


 お園と大作に両手を引っ張られた氏政は満更でもないといった風に頬を緩ませた。

 三人は仲良く手を繋いで八幡山の長い長い坂道を下って行く。


「時に新九郎。桜、猫、牛車はどうなったのじゃ?」

「What's? 何のことですかな、父上。桜と申せばそんなくノ一を存じておりますぞ。それと猫ならば未唯が小次郎という雄の三毛猫を飼っておりますな。もし抱っこしたいなら拙僧から未唯に頼んであげましょう。肉球だって触らせて貰えるやも知れませぬぞ」


 大作は卑屈な笑みを浮かべながら取って置きの切り札を披露した。この際、出し惜しみは無しだ。全力を以てお相手致そう。

 二流は交渉前に落とし所を考え、一流はいつNoと言うかを考える。とか何とか聞いたような、聞かなかったような。

 だが、大作にとって最強のカードは氏政に何の興味も持って貰えなかったらしい。まるで感心が無いとでもいうように同じ話を繰り返した。


「いやいや、桜、猫、牛車じゃぞ。儂に良う覚えておけと申したのは新九郎ではないか。肝心のお主が覚えておらぬとは如何なる了見じゃ」

「そ、そうは申されましても覚えておらぬものはおらぬのです。カーラーの救命曲線…… じゃなかった。何だっけ、お園?」

「それってエビングハウスの忘却曲線のことよね? まあ、お義父様とそのお話をしたのは半日も前だから忘れていてもしょうがないわ。それに大佐の物覚えが悪いのは前からだし。きっと大佐は認知症じゃないと思うわよ。知らんけど」


 最後は突き放すように言い捨てるとお園は屈託の無い笑顔を浮かべた。釣られたように氏政も豪快に肩を震わせて笑う。


「わ、わけが分からないよ……」


 大作は二人の顔色を伺いながら控え目な愛想笑いを浮かべることしかできなかった。


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