巻ノ弐百四拾七 飛べ!常陸の不死鳥 の巻
いつもと変わらぬ火曜日の朝、食事を終えた一同は季節外れのクリスマスソングで時間を忘れて盛り上がっていた。
だが、憩いの時間という物は長く続かないものなのだろうか。一時の安らぎを終えた大作に萌が厳しい現実を突き付けてくる。
「ミニエー銃の実戦証明が必要ね。小田氏治の小田城奪還作戦を利用しましょうよ。これぞ正に佐竹征伐だわ」
「う、うぅ~ん。だけど佐竹って物凄く印象が薄いんだよなあ。史実の小田原征伐でもまるで歴史から消されたみたいに情報が無いしさ。あの影の薄さは対フランス戦におけるイタリア軍を彷彿させる…… 彷彿とさせるぞ」
「アレってドイツの勝利がほぼ確定したのを見てからの駆け込み参戦なのよね。ちょっとでも勝利のおこぼれにあずかろうっていうケチ臭いハイエナ根性が嫌だわ」
「ちょ、おま…… あんまりハイエナのことを悪く言わんでくれるかな。サバンナの掃除人なんて呼ぶ奴もいるけどブチハイエナなんか本気出したら凄いんだぞ。ヌーやシマウマ、トムソンガゼルみたいなのを普通に狩ってるんだもん。時速六十五キロで走れるし骨だってバリバリ食べちゃうくらい顎が強いそうな。むしろライオンがハイエナの獲物を横取りすることすらあるくらいなんだぞ。百獣の王なんていう割に意外と狡っ辛い(死語)奴なんだよな。ライオンって」
大作は思わず熱くなってライオンのことを扱き下ろす。だってこの方法ならさり気なく無駄薀蓄を傾けることができるんだもん。
いやいや、これはハイエナの名誉を守るためにやっているんだ。決して無駄薀蓄を披露したいわけではないぞ。断じて違うのだ。大作はムキになってハイエナ擁護を続ける。
と思いきや、それまで黙って聞いていたお園から意外な援護射撃が入った。
「確か『らいおん』って獅子のことだったわよねえ。我が子を千尋の谷に突き落とすんだったかしら。前にも聞いたけどそんなことして死んじゃわないの?」
「多分だけど大丈夫なんじゃね? 猫科の動物は体が柔らかいからな。それに子供なら体重だって軽いしさ。こんな話がサイエンス・タイムズとかいう雑誌に載っていたらしい。1984年のとある五ヶ月間にニューヨークの高層マンションから落下した猫について調べたそうな。それによると記録の取れた百二十九匹のうち死んだのは八匹だけ。それも高いところから落ちた方が助かった率が高かったんだとさ。なんと七階より上から落ちた二十二匹で死んだのは一匹だけ。九階より上から落ちて死んだ奴はいなかった。しかも生存猫の十三匹中で骨が折れたのはたったの一匹だったんだ」
「妙な話もあったものねえ。何ぞ得心の行く故があるのかしら」
「獣医師の説によれば猫の落下終端速度は時速六十マイル、九十六キロくらいなんだとさ。猫は手足をムササビみたいに広げて着地の衝撃を和らげるらしい。だから何とかなるんじゃね? 前に家で飼ってた猫も三階の踊り場から飛び降りたことがあったけど怪我一つしていなかったぞ。あの時はびっくりしたなあ」
「ああ、あのベンガル猫なら私も覚えてるわよ。目の前で飛び降りた時は心臓が止まるかと思ったわ。まあ、止まらなかったんだけどね」
萌が禿同といった顔で何度も大きく頷いた。鋼鉄の女サッチャーだって人の子だ。目の前で猫が死ぬところなんて見たくはないんだろう。
ビルの三階と千尋の谷では大きな隔たりがあるのは百も承知の助だ。だが、大作はあえてその点に目を瞑る。
しかし、お園も萌も海のように広い心でそれを見逃してくれるらしい。敢えて突っ込みを入れることはせず、さり気なく話題を反らしてきた。
「だったら獅子の子も安泰なのかしら。安堵しても大事なさそうね」
「ちなみにギネスブックによると高度三万三千フィート(一万百六十メートル)からパラシュート無しで落下して死ななかった人がいるそうね。1972年のJATユーゴスラビア航空機爆破事件で奇跡的にも一人だけ生き残ったヴェスナ・ヴロヴィッチさんよ」
「そ、そんなん言い出したら蟻とかはどんなに高くから落としても死なないぞ」
「地べたの中にいる蟻が空高くになんて行く筈もないでしょうけどね」
未唯が突っ込みを入れると皆の顔に笑みが浮かぶ。何だかとっても良い雰囲気だ。こうして今日も小田原城の平和な一日が……
「って、あかんやろ~~~! 話が全然前に進まないじゃんかよ! 無駄薀蓄禁止!」
「どうどう、大佐。気を平らかにして頂戴な。そも、無駄薀蓄を始めたのは大佐じゃないの。それを咎めるなんて逆切れも良いところだわ」
「いやいや、そんなことは百も承知の助だよ。だけど本来ならブレーキ役のお前らが無駄蘊蓄返しをしてくるなんてルール違反? マナー違反? 何かそんなのじゃんかよ。だから止むおえず俺が突っ込み役を買って出てるんだな、これが。これぞ夫婦の理想的な役割分担って感じだろ?」
「そう、良かったわね大作。ところでさっきのサイエンス・タイムズの話は本気にしちゃ駄目よ。アレは獣医師の冗談だったらしいわ。そもそも前提となるデータが病院に搬送された猫の数ってところが問題でしょう? 落下で死んだ猫を病院に連れて行く人はいないわ。怪我していない猫を連れて行く人もいないでしょうしね。正確なデータが欲しいなら……」
「だ~か~ら~~~!」
大作は例に寄ってあらん限りの雄叫びを上げる。座敷に集った全員も例に寄って迷惑そうに顔を顰めた。
取り敢えず大作は御馬廻衆へ緊急招集を掛けるためにナントカ丸を走らせる。確か連中は氏直の直轄だったはず。ならば多少の無理は聞いて貰えるんじゃなかろうか。聞いてくれたら良いなあ。って言うか、聞いてくれないと困っちゃうぞ。
大作は頭を激しく振って不吉な予感を追い払った。
「えぇ~っと。小田原衆所領役帳によると御馬廻衆は九十四名、役高は八千四百二十六貫五百二十四文って書いてあるな。二十七貫文に付き足軽三名とすれば……」
「九百三十六人になるわね。それを率いる侍が三百十二人だから合わせると千二百四十八人よ」
お園が得意の演算能力を発揮する。まあ、実際にはそこまで単純計算ってわけでもないはずなんだけれど。
「関東八州諸城覚書にも北条氏直の馬廻は七百騎、北条氏政は五百騎って書いてあるな。とにもかくにも千数百人だとしたら大隊以上、連隊未満くらいのスケール感ってことだ。まあ、輜重隊は別勘定だし商人とかもくっ付いてくることがあるらしいけどさ。今回は佐竹と全面戦争するつもりは無い。移動とか現地での宿泊なんかも考えたらこれくらいコンパクトな方がいろいろと都合が良いかも知れんな」
「そうかも知れないわね。そうじゃないかも知らんけど」
「そもそも今さら文句を言っても増えたり減ったりするわけじゃなし。今ある物で我慢するしかないよ」
そんな阿呆な話をしている間にも初老の男たちが集まってきた。大作の傍らにはお園、萌、小次郎を抱っこした未唯、ナントカ丸が控えている。って言うか、残りの面々は仕事に行ってしまったのだ。
ずらりと並んだ五人のおっちゃんたちは全員が似たような背格好でヘアースタイルもくりそつ(死語)だ。没個性的で地味な素襖を着て腰には揃いも揃って同じような二本の刀を差している。お前らはMr.ウォーリーかよ! 大作は心の中で『見分けが付かんがな~!』と絶叫するが決して顔には出さない。
「いやいや、皆様方。朝っぱらからお呼び立てして申し訳ござりませぬな。ささ、どうぞお楽にして下さりませ。今お茶をお出ししますんで」
「御本城様、随分と急なお召しにございますな。いったい如何なる用向きにござりましょうや?」
似たり寄ったりの面々の中、他よりちょっとだけ貫禄のあるおっちゃんが一同を代表するように答えた。
ナントカ丸の話によればこの人が御馬廻衆の筆頭、山角康定(上野介)らしい。しょっちゅう朝飯を食べにくる山角紀伊守の兄なんだとか。
「い、いきなり本題ですか? そりゃまあ気にもなりますかな。皆様方も既にお聞き及びとは存じますが我らが北条は来春にも豊臣との戦が避けがたい状況にございます。そこでウォーミングアップをやってはみませぬか?」
「うぉおみんぐあっぷ? にござりまするか。其れは如何な物にござりましょうか」
山角康定は困惑の表情を浮かべると助けを求めるように周囲のおっちゃんたちの顔を見回した。って言うか、こいつらそもそも意味が分かっているんだろうか。
大作は少しでも分かり易い説明をしようと頭をフル回転させる。しかしなにもおもいつかなかった!
「此度の戦において我々は数々の新しい兵器や新しい戦術を試そうかと思うておりまする。そのためには兵たちに新しい兵器の取り扱いを学ばせねばなりませぬな? また、兵器が期待通りの性能を発揮するかどうかの検証も欠かせませぬ。スペイン内戦におけるナチスのコンドル軍団の如き物と思し召されるが宜しかろう。たとえば初期のB-29はエンジンのオーバーヒート問題を抱えておりましたでしょう? お陰で戦闘による損害より故障によって失われた機体の方が多かったそうな」
「それは当時の米軍が確実な証拠が無い限り何でもかんでも原因未確認にしちゃったせいじゃないかしら?」
不満げに口を尖らせた萌が突っ込みを入れてくる。大作は軽く手を掲げてそれを制した。
「ごめんごめん。ちょっと例が悪かったな。だったら…… だったらパンター戦車だ。アレとかも初期のD型とかは戦闘による損害より故障の方が多かったとか何とか。とにもかくにも新兵器は実戦証明が重要にございます。それをサボった結果がツィタデレ作戦の惨めな敗北に繋がるのです」
「さぼった?」
「気になるのはそこにござりまするか?」
「サボと申すはフランス語で木靴のことを申しまして不奉公の意にございます。職人が木靴で絡繰りを蹴って壊したとの故事に基づくそうな」
例に寄って例の如くお園が完璧過ぎる解説をしてくれた。お陰で御馬廻衆の面々も納得といった顔だ。
だが、ここは補足が必要だな。大作はアイコンタクトでお園に謝意を表すと言葉を引き継ぐ。
「ちなみにAPFSDS(離脱装弾筒付翼安定式徹甲弾)で発射時のガス圧を受け止めて侵徹体に伝える装弾筒のこともサボと申しますな。ここ、試験に出るので覚えておいて下さりませ」
「……」
「何か納得の行かぬことでもござりましたかな、上野介殿? 笠原殿、伊東殿、松田殿、岩本殿も疑問点があれば遠慮なくお尋ね下され。対話の門は常に開かれておりますぞ」
「御本城様の思し召しとあらば我ら御馬廻衆、水火をも辞さぬ覚悟にござりまする。然れども余りに急な仰せ故、皆と語らう暇を賜りとう存じまする」
深々と頭を下げながら山角康定が慇懃無礼に返答する。他の面々もシンクロするかのように揃って頭を下げた。
これってもしかして拒否なのか? やんわりとした拒絶なんだろうか? まさかとは思うけどまたもやクーデターじゃあるまいな。勘弁してくれよ~!
こうして小田城奪還作戦は有耶無耶の内にペンディングとなってしまった。
数分後、御馬廻衆たちを見送った大作は座敷で呆けていた。お園、萌、小次郎を抱っこした未唯、ナントカ丸から向けられる冷たい視線が痛い。
「ま、まあ人生なんて思い通り行かないのが常なんじゃね? だからこそ人生は面白いんだな、これが。あは、あはははは……」
「脳科学者の茂木健○郎様が仰せになったのよね。それで? これからいったいどうするつもりなのかしら」
「うぅ~ん。たとえばだけど女子挺身隊や国防婦人会を使ってみるのはどうかな? 連中に活躍の場を与えるには絶好の機会かもしれんぞ」
「それはどうなのかしらねえ。まだ女子挺身隊や国防婦人会はできてあがってもいないのよ。いきなり戦に連れて行っても役に立つとは思えないんだけれど」
お園の口振りはあまり乗り気ではないことを隠す気すらないらしい。
とは言え、御馬廻衆が使えないとなったら連中を使う以外に選択の余地はなさそうだ。だって他に当てなんか無いんだし。
何とかしてやる気を出して貰うことはできないんだろうか。そのためには対象に興味を持って貰うのが先かも知れん。大作は適当な言い訳を探して頭をフル回転させた。
「アレだよほら、アレ。残り物には福があるって諺もあるだろ? これはウーマンパワーの真価を披露する絶好の機会なんだ。史実だと今ごろ小田氏治&守治父子は佐竹の白川攻めを終え、常陸国の筑波郡豊里町の手子生城に入ったころだって書いてある。んで、文を書いて家臣を招集したんだとさ。ところが現実は厳しいもんだ。実際に参陣したのは板橋豊前守らわずか五百騎だったそうな。だったらここでミニエー銃を装備した兵を千人ほど投入すれば簡単に勝敗を引っくり返せるとは思わんか? 思うだろ? 思ってくれよん。な? な? な?」
「そも、小田氏治ってお方は如何なる御仁なのかしら。そのお方の人となりを教えて貰えて頂戴な。なるたけ詳らかにね」
「ああ、それもそうだな。えぇ~っと…… 小田氏は宇都宮氏の一門、八田知家を祖とする関東の名族らしいな。関東八屋形の一つだそうな。んで、氏治って輩は第十二代将軍足利義晴の従弟なんだとさ。天正八年(1580)ごろ出家して法名を天庵と号しているそうだ。とにもかくにも常陸の不死鳥の異名を持つ戦国最弱の武将なんだぞ」
「異議あり!」
突如として萌が腹の底から響くような絶叫を上げる。同時に左手を真っ直ぐに伸ばすと人差し指をピンと突き付けてきた。
「戦国最弱の武将なら一条兼定で決まりよ。そもそも氏治が最弱だったら九回も負ける前に歴史からフェードアウトしてるはずだわ」
「どうどう、餅つけ萌。俺が悪かった。戦国最弱は一条兼定に譲るよ。小田氏治は二番目ってことで頼むわ」
「其れは如何なる由にござりましょうや、御本城様!」
突如として掛けられた声に振り向いて見れば座敷の入り口に中年の男が平伏していた。
「如何に御本城様とは申せ我が父のことを悪し様に貶されては聞き捨てなりませぬぞ。其の本意をお聞かせ願いとう存じまする」
深々と頭を下げてはいるがその表情はとても硬い。鋭い目付きの底には怒りの炎がメラメラと燃えているかのようだ。
って言うか、これって誰だっけ? 大作は思わず助けを求めるようにナントカ丸の顔を伺う。
「此方のお方は八田左近様にございますぞ。小田氏治様の御長男、小田友治様にございまする。氏治様の御嫡男、守治の庶兄であらせられます」
瞬時に意図をくみ取ってくれたのだろうか。ナントカ丸が得意満面の顔で解説役を買って出る。
このおせっかい野郎めが。大作は心の中で嘲り笑うが決して顔には出さない。
いやいやいや、そんなことよりも今そこにある危機を何とかしなきゃ。えっと、えっと、ええっと~
「I'm sorry, I don't speak Japanese.」
大作は引き攣った笑みを浮かべながら小首を傾げた。もちろん手のひらは上に向けて肩の高さで掲げている。
まるで鏡写しのように小田友治も引き攣った笑みを浮かべながら小首を傾げて応えた。
お前は真似っこのマネリ○かよ! 大作は心の中で激しく突っ込むが顔には出さない。
大して広くもない座敷の中を重苦しく淀んだ空気が漂う。この静けさはまるでお通夜みたいだな。大作はお園、萌、小次郎を抱っこした未唯、ナントカ丸の顔色を順番に伺う。だが、誰一人として目を合わそうともしてくれない。
どうすれバインダ~! ただ一人、雄三毛猫の小次郎だけが大作の目をじっと見つめ返すと耳まで裂けるような大欠伸をしてくれた。




