巻ノ弐百参拾八 猫ちゃんは何処、猫ちゃんは居ずや の巻
大作、お園、未唯のポンコツトリオは萌に別れを告げると足早に射撃試験場を後にした。
時刻は昼を少し回ったくらいだろうか。とっても良い天気で風も吹いていない。冬にしてはぽかぽかと温かくて猫と遊ぶには絶好の日和だ。
未唯はと言えばさっきから深刻な顔で押し黙っている。こういう暗い雰囲気は嫌だなあ。大作は努めて明るい声で話し掛けた。
「んで、未唯さんよ。最後に猫ちゃん(仮)を見たのはどの辺りだったんだ? 思い出してみ」
「えぇっと…… 二の丸の真ん中だったわね。猫ちゃん(仮)ったら座敷から出たいって聞かなかったのよ。だから外で遊ぶことにしたの」
「だけどどうして猫ちゃん(仮)は急にいなくなっちゃったのかしら。何か思い当たる節は無いの、未唯?」
不意にお園が真剣な顔で話に割り込んでくる。未唯は小首を傾げると記憶を辿るように遠い目をした。
「私たち本丸と二ノ丸に掛かった橋の上で遊んでたのよ。そしたら急に大きな音がして走って逃げちゃったの。あれって萌たちが鉄砲を撃ってたんでしょう? きっと猫ちゃん(仮)はあの音に驚いたんでしょうね」
やれやれといった顔の未唯は首を竦める。両の手のひらを上に挙げて肩を軽く上げた。
もしかして猫が逃げた責任を押し付けられようとしているのか? 被害妄想気味の大作は咄嗟に言いわけを考えて頭をフル回転させる。
「しょ、しょ、しょうがないじゃんか。連中はアレが仕事なんだからさ。今は責任者探しよりも猫ちゃん(仮)の捜索を優先させようよ」
「せきにんしゃ? それは大佐で良いんじゃないかしら。だって大佐は小田原城の御本城様なんですもの」
「そ、そうかなあ。まあ、こう見えて俺も猫探しに関してはそれなりに自信があるんだけどな。夜中に飛び出してった猫を探して一時間以上も家の周りを彷徨ったこともあるくらいなんだぞ」
「いちじかんって半時くらいよね? それくらいで見つかれば良いんだけれど……」
がっくりと肩を落とした未唯が表情を曇らせる。どうやら本気で心配しているらしい。
もしかして責任を感じているんだろうか。これはフォローが必要かも知れん。大作は慎重に言葉を選んで話し掛けた。
「知っているか、未唯? オスプレイの戦闘行動半径は約六百キロもあるそうな。んで、野良猫の行動半径は五百メートルくらいらしい。だけど飼い猫の縄張りはせいぜい百から二百メートルしかないんだとさ。取り敢えずはこの範囲を虱潰しに探してみようよ」
「二百めえとるって二町くらいよね? でも大佐。あの猫ちゃん(仮)は小田原にきて十日しか経っていないのよ。それに外に出したのも今日が初めてだわ。そんな猫に縄張りなんてあるのかしら?」
「あのなあ、批判をするなら代案を出せよ。どっちに行ったのかも分からんのだろ? だったらまずは現場を中心に同心円状に捜査範囲を広げるしか無いじゃんかよ」
「そうねえ、私もそれが良いと思うわよ。そうでしょう、未唯?」
何だか不満そうな顔をしている未唯に向かってお園が優しく言い聞かせる。
これといった代案も無かったのだろう。未唯は黙ったまま小さく頷いた。
「まずは南に行ってみようか。猫は開けた土地が嫌いなんだ。何でかっていうと空からの攻撃に弱いからな。あの建物の影に隠れてるかも知れんだろ。城の外には出ていないんだから時間さえ掛ければ絶対に見付かるよ。絶対にだ!」
「何でお城の外に出ていないって分かるのかしら?」
「そ、そりゃあアレだろ、アレ…… ほら、城の周りには水堀があるんだぞ。猫は水が嫌いだから泳いで渡ったりはしないはずだ。もし門を通ったんなら門番が見てるはずだしな」
大作は自信満々といった顔で言い切った。だって外に出ていないんなら中にいるはずだ。空でも飛べるんなら話は別だけど。
だが、口を尖らせた未唯が不満そうに言い返してくる。
「だったら先に門番の方々に猫を見なかったか聞いた方が良いんじゃないかしら?」
「えぇ~っ! まだ聞いていなかったのかよ。それを真っ先に確認した方が良かったんじゃね? こうやってる間に外へ出てたらどうすんだよ」
「どうすんだって言われても知らないわよ。って言うか、さっきから何で未唯だけが責められなきゃならないのかしら。みんなの猫ちゃん(仮)なのよ。みんなで面倒を見てくれないと困っちゃうわ」
「ちょっと待ってくれよ。お前の猫ちゃん(仮)だろ。お前が面倒を見るのは当たり前じゃん。そりゃあ手伝ってはやるけどさ。ちゃんと飼い主としての自覚と責任を持ってくれよ」
未唯はその言葉がよっぽど気に障ったんだろうか。眉を吊り上げて怒りに燃えた瞳で睨み返してくる。その顔を見ているだけで大作は心が折れそうだ。
『もういっそ猫なんてこのまま見付からなければ良いのになあ』
大作は喉まで出かかった言葉を強靭な精神力で飲み込んだ。
三人は二の丸から東西南北へと通ずる門を反時計回りに巡って猫を探した。
門番に会う度に猫を見なかったかを確認する。だが、残念ながらと言うべきか、幸いにもと言うべきか。猫を見掛けたという者は一人もいなかった。
連中が嘘を言っているとは考え難い。見落としたという可能性も低そうだ。そもそもそんなことを疑いだしたら切りがない。大作は考えるのを止めた。
「猫ちゃん(仮)や~い! いたら返事をしなさ~~~い!」
「今からでも遅くないから原隊へ帰れ~! 抵抗する者は全部逆賊であるから射殺するぞ~! お前達の父母兄弟は国賊となるので皆泣いておるぞ~!」
「猫ちゃん(仮)は何処~! 猫ちゃん(仮)は居ずや~!」
三人は二の丸に建ち並ぶ小屋の間をうろつきながら声を枯らして叫び続ける。
もしかして杉野兵曹長を探していた廣瀬中佐もこんな気持ちだったんだろうか。ちなみに杉野兵曹長には二人の息子がいたそうな。それが両方とも海軍大佐にまで昇進し、長男は戦艦長門の艦長まで務めたっていうんだから大したもんだ。
とは言え、着任したのは終戦の僅か三週間前。しかも六日前の空襲で爆弾が艦橋に直撃し、もはや戦艦として行動できる状態ではなかったんだけれども。
それはそうとこの辺りってさぱ~り人気が無いなあ。偶に人が通り掛かったと思ったら、みんな揃いも揃ってとっても胡散臭そうな顔で逃げるように去って行くし。
本当にこんなところにいるのかなあ。いたら良いなあ。って言うか、いなかったら困るぞ。いつまで経っても猫が見付からないから段々と面倒臭くなってきたんですけど。
大作がそんなことを考えていると未唯がくるりと振り返った。
「ねえねえ、大佐。さっきから思ってたんだけど、三人で固まって探すより別々に探した方が広いところを一遍に探せるんじゃないかしら。それと『猫ちゃん(仮)』ってちょっと言い難いわよ。ちゃんとした名前を付けた方が良いかも知れないわね。きっとその方が探すのも楽になると思うわ」
「いやいや、今この場で名前を付けたって猫ちゃん(仮)は自分の名前を知らないじゃん。それじゃあ意味ないと思うんだけどなあ」
「それはそうだけど、猫ちゃん(仮)なんて名前よりも呼び易い名前の方が呼び易いわよ。だってその方が呼び易いんですもの」
う、うぅ~ん…… 何だかマトモに相手をするのが辛い、っていうか阿呆らしいぞ。もう辛抱堪らん。大作は素直にギブアップを決意した。
「極めて遺憾ながら猫ちゃん(仮)生存の可能性は時間の経過と共に低下していると考えざるを得ん。よって真に断腸の思いではあるが猫ちゃん(仮)捜索は現時刻を持って打ち切る!」
「え、えぇ~っ! 探すのを止めるって言うの? 私の…… 私たちの猫ちゃん(仮)はどうなるのよ。あの子は私が御飯をやらないと生きて行けないんじゃないかしら」
「あのなあ、俺だって苦楽を共にした仲間を失うのは辛いんだぞ。だけどもこれ以上の捜索続行は人類そのものの危機に繋がるんだ。二次災害の危険とかだって出てくるしな。とは言え、猫ちゃん(仮)奪還を完全に諦めたわけじゃない。ここからは専門家に任せようって話さ。餅は餅屋って言うだろ?」
「もちや? 餅を売っているお店のことかしら? それって美味しいの?」
気になるのはそこかよ~! 相変わらず歪みねえなあ。大作は素直に感心する。
とは言え、それがほぼ正解なんだから話は早い。
「お園の思っている通りだな。江戸時代に自分で搗いたのより餅屋が搗いた餅の方が美味しいってことから生まれた諺なんだ。ちなみに餅屋って商売は五代将軍綱吉の時代にはあったらしいな。あの有名な犬公方だよ」
「犬の公方様? それって犬のおまわりさんみたいなものかしら? もしかしてそのお方も子猫を探して下さるの?」
「残念ながら似て非なる物だな。ちなみに作詞の佐藤義美は1968年没だから著作権は切れていない。歌うのは2038年まで我慢してくれるかな。それにしてもTPP関連法案ってムカつくよなあ。肝心のTPPが流れちまったのに関連法案だけ成立するってどうなんだ? あと一年成立が遅れていれば藤田嗣治の『猫の本』や村岡花子の『黄色い猫の秘密』とかも青空文庫で読めていたっていうのにな」
「エラリー・クイーンは1982年没だから『黄色い猫の秘密』は無理ね」
お園から鋭い突っ込みを入れられた大作は一瞬、虚を衝かれる。だが、この程度のことはピンチの内には入らん。お得意の卑屈な笑みを浮かべながら努めて明るい声を出した。
「そ、そうだったな。って言うか、エラリー・クイーンってもっと大昔に亡くなったと思っていたぞ。第一次大戦中に看護師をされておられたんだっけかな?」
「あのねえ、大佐。それはアガサ・クリスティーでしょうに。そも、エラリー・クイーンっていうのはフレデリック・ダネイ(1982年没)とマンフレッド・ベニントン・リー(1971年没)の共同ペンネームなのよ」
「いや、あの、その…… 悪いんだけどそろそろ話を戻しても良いかなあ? とにもかくにも文化庁っていうのは本当に糞の巣窟みたいな奴らなんだよ。ダウンロード規制法とかもそうだけどあいつらは何かと言えば規制強化なんだもん。一体全体あの穀潰しどもは誰の利益のために動いてるんだろうな? あの国賊どもだけは絶対に許せんぞ。豊臣を滅ぼして核兵器を開発したら奴らには天誅を下してやらねばならん。絶対にだ!」
長時間に及ぶ猫探しによって大作の中で徐々に蓄積されていたストレスが些細な切っ掛けで一気に爆発した。
だが、お園はすっかり慣れたものといった顔で薄ら笑いを浮かべている。
「どうどう、大佐。気を平らかにして頂戴な。TPP関連法案はもう成立しちゃったんでしょう? いまさら言うても詮無きことだわ。それよりも『せんもんか』っていうのは何方のことを言ってるのかしら?」
「こういうことのエキスパートって言えば奴らに決まってるじゃん。とにもかくにも本丸に一旦戻ろうか」
大作は先頭に立ち北へ向かって歩き出す。お園と未唯は期待半分、不安半分といった顔で黙って後を付いてきた。
水堀に掛かった太鼓橋を渡ると枡形虎口のところにも門番が立っていた。念のために猫を見なかったか聞いてみる。だが、門番から返ってきたのは申し訳なさそうな苦笑だけだった。
本丸に入った途端、奇妙な臭いがどこからとも漂ってくる。何だか嗅いだことのある臭いだぞ。鼻孔を膨らませて大きく息を吸い込んだ大作は思わず顔を顰めた。
「これってもしかして塩素の臭いじゃね? 誰かキッチンハイターでも使ってるのかな」
「えんそ? それって美味しくは…… なさそうね」
「そりゃあ普通に毒だもん。プールの消毒とかで使われてる奴だよ。とは言え、プール独特のあの臭いは実は塩素の臭いじゃないんだけどな。アレはプールの水に混じってるオシッコと塩素が反応して発生した三塩化窒素の臭いなんだとさ。とある調査によれば綺麗に見えるプールの水にも平均七十五リットルものオシッコが混じっているとかいないとか。怖い話だと思わんか?」
「七十五リットルって四斗ほどよね。何でまたそんなに沢山の尿が混じっているのかしら。難儀なことねえ」
そんな阿呆な話をしながら大作たちは臭いの元を探しながら歩いて行く。少し進むと小さな掘っ立て小屋から奇妙な物音と薄い煙が漏れ出てくるのに気が付いた。
「どうやらあそこみたいよ」
「そうらしいわね。いったい何をやっているのかしら」
「何にせよ近所迷惑な話だなあ。一言文句を言ってやらにゃならんぞ。頼もう!」
大作が突如として大声を張り上げたのでお園と未唯がびくっと体を震わせた。
暫しの間を置いて小屋の中に人の気配が現れる。戸口から不意に顔を覗かせたのは三人が見知ったおっちゃん。江戸城代、遠山筑前守景政の弟である川村秀重その人であった。
「おや、御本城様ではござりませぬか。斯様な所へお出でになるとは如何なされましたかな?」
「そういう政四郎殿の方こそ斯様なところで何をしておられるのですかな。って言うか、貴殿は拙僧が直接雇用したと思っておったのですが?」
「萌様を手伝えと某に申し付けたのは御本城様ではござりませぬか。もしやお忘れになられたのではありますまいな? いやいや、どうせお忘れになられたのでしょうな。小さなことが気になってしまう。某の悪い癖にございまして」
ドヤ顔の政四郎が一人で勝手に盛り上がったかと思うと勝手に納得して大人しくなった。
相変わらず喜怒哀楽の激しい奴だなあ。大作は心の中で嘲り笑うが決して顔には出さない。
「それで? 貴殿はここで何をされておられるのでしょうかな? 教えては頂けませぬかなぁ~?」
「いいとも~! 某は萌殿の命により海から汲み上げた水から臭素を集めておりまする。まずは海の水を硫酸とやらで酸化をば致します。これに塩素とやらを吹き込んでやれば臭素が遊離するのだそうな。あとは空気を吹き込んで出てきた混合ガスに亜硫酸ガスを還元させて水蒸気蒸留させるだけの簡単なお仕事にございます」
「そ、そうなんだ……」
こいつ本当に意味が分かって言ってるんだろうか。もしかしてさぱ~り分かっていないんじゃないのか。まあ、どうでも良いんだけどさ。むしろ必要以上に知られ過ぎても始末に困っちゃうし。
そんな大作の気持ちを知ってか知らずか政四郎は相変らず得意気な顔で話を続ける。
「この実験プラントが首尾よく参れば洒水の滝で普請が進んでおる発電所のお披露目も間近にござりましょう。既にハーバーボッシュ法やオストワルト法も目途は付いておりますれば後は水素の量産を待つばかり。其れさえ叶えば程無くして数多の無煙火薬を拵えることもできましょう」
「そ、そうなんだぁ~ だけどもうそんなところまで開発が進んでいたとはびっくりだな。俺、全然知らなかったよ」
「ねえ、大佐。それってみんな報告書に書いてあった筈よ。これっぽっちも目を通していなかったのね。どうりで萌が怒るわけだわ」
「萌様の仰せによればアセトンの量産にも目処が立ったとの由。海の水から玉薬が拵えられるとあらば床下の土を掘る手間も省けますな」
先ほどにも増して政四郎が偉そうに踏ん反り返る。もしかしてこいつ調子に乗っているんじゃね? ここらで思い上がったその鼻っ柱をへし折ってやった方が良いのかも知れん。大作はどんな態度を取るべきか無い知恵を振り絞った。
だが次の瞬間、小屋の中から顔や手を煤で真っ黒けに汚した男が顔を覗かせる。見覚えの無い男は職人風の着物を着た大柄な男だ。
彼は大作たちの姿を認めると深々と頭を下げた。暫しの沈黙の後、ゆっくり頭を上げると遠慮がちに口を開く。
「お語らいのところ御無礼仕りまする。川村様、二番ボイラ? ボイラーの蒸気圧が下がっておるようです。水量も火力も足りております故、因の見当が付きませぬ。ちとばかりご覧下さりませぬか?」
「いま参ります故、暫しお待ち下さりませ。然らば御本城様、某は萌様より賜ったお役目に戻らねばなりませぬ。此れにて御免下さりませ」
政四郎は軽く頭を下げると足早に小屋へと戻って行った。どうやら彼の頭は仕事のことで一杯といった感じだ。
「なあなあ、お園。あいつには俺の雑用をこなして貰おうと思っていたんだけどなあ。何であんなに素っ気なかったんだ? もしかして萌に乗っ取られちまったのかな?」
「大佐がそう思うんならそうなんでしょう。大佐ん中ではね」
「そんな顔しないで頂戴な。大佐には未唯がいるじゃないの。未唯はいつだって大佐の連絡将校よ」
思いっ切り背伸びをした未唯が優しい手付きで頭を撫でてくる。ちょっと憐みを含んだような目付きで見詰められた大作は情けないやら嬉しいやらでどう反応したら良いやら判断に困った。
それはそうと留守にしていた十日ほどで萌は北条家臣団を掌握しつつあるような、ないような。またもやクーデターなんてことになったら敵わんぞ。
とは言え、豊臣さえ滅ぼせばこの面もクリアだ。どうせ山ヶ野に戻るんだから旅の恥は掻き捨てだろう。大作は考えるのを止めた。
「さてと、臭いの元も分かったことだし猫探しに戻るとしようか」
「そうそう、あんまり臭いんですっかり忘れかけてたわ。それで、そのエキスパートってお方は何方にいらっしゃるのかしら?」
「もう目と鼻の先だよ。そんじゃあ本丸を目指してLet's go together!」
大作はくるりと踵を返すと本丸の入り口を目指して歩き出した。




