巻ノ弐百弐拾八 死んじまえ!馬に蹴られて の巻
愛宕山城(碓氷城)を後にした大作と愉快な仲間たちは一路帰国の途へと就いていた。時計を見ると時刻はまだ九時前といったところだ。
「まずは松井田まで歩いて戻らんといかんな。だって舟はあそこに泊めてあるんだもん。って言うか、まだ泊まっていたら良いんだけどなあ」
「たぶん泊まってるんじゃないかしら。だって船頭の方々も一緒にきてるんですもの。松井田までは三里足らずだから昼までには着けるわね。そこからは舟に乗って川を下るだけの簡単なお仕事よ」
「参る折とは違うて帰りは川の流れに乗るだけで済みます故、ずっと速うございますぞ。日が暮れる前に古河城の辺りまでは参れるのではありますまいか」
聞いてもいないのに政四郎が得意気な顔で話に割り込んでくる。黙っていてもセリフが貰えないことに今ごろ気付いたんだろうか。大作は心の中で嘲り笑うが決して顔には出さない。
「まあまあ、そう申されますな政四郎殿。行けるところまで行ってみては如何でしょうかな? 限界なんて物があるとすれば、それって諦めた瞬間なんですぞ。相棒10の元旦SPで右京さんがそんなことを申されておられました」
「大佐ったら本に右京様のことが好きなのねえ。もしかして、そのお方にも懸想してたのかしら?」
「はいはい、お約束、お約束」
余裕の笑みを浮かべた大作はお園のボケを軽くいなす。だが、深刻そうに眉根を顰めた政四郎が声を潜めて囁いた。
「いま、右京大夫と申されましたな。御本城様は佐竹も次なる戦で豊臣に寄するとのお考えにござりましょうや?」
「右京大夫? いやいや、拙僧の申しておるのは警部殿の右京さんにござりますぞ。確か苗字は杉下ですな。人違いではありませぬか?」
「さ、左様にござりまするか。されど、佐竹までもが攻めてくるようなことがあらば一大事ではござりますまいか。もし、斯様な仕儀と相成れば如何なさるおつもりで?」
「その時はその時ですな。まあ、史実の小田原征伐で佐竹が大活躍したなんて話はついぞ聞いたことがありませんぞ。放置しても大事ごさりますまい。とにもかくにも今は松井田まで歩くことに集中しましょう。頑張って行きまっしょい!」
大作は自分自身を鼓舞するように大声を張り上げると握り拳を天に向かって突き上げた。
それはそうと、アレって確か高校ボート部を舞台にした作品だったっけ。川下りの船旅とちょっとだけ関連があるような、ないような。
映画版には大杉漣とか小日向さんも出ていたはずだ。原作者本人も保健室の先生役で出演していたらしい。ってことは……
「ねえねえ、大佐。私たちこんなに遠い碓氷峠とやらまでやってきたのは良いけれど、何ぞ得になることはあったのかしら? 土産の一つも無いみたいなんだけど」
あらぬ方向へと向かい掛けていた大作の意識がメイの何気ない一言で現実に引き戻された。
「得だって? いやいや、物事を損得だけで考えていたらスケールの小さな人間になっちまうぞ。って言うか、そもそも旅行っていうのはそんな物ではないんじゃね? 命の洗濯? っていうか魂のリフレッシュ? いろいろと経験やら教訓やらあったじゃん。思い出っていう物はプライスレスなんだよ」
「ぷらいすれす? それって、只ってことよね? 只より高い物は無いんじゃなかったかしら?」
「そ、それはどうかな? 世の中には金で買えない物だってあるんだぞ。例えば…… 例えばほら! 著作者人格権とかがそうだろ」
「そうなのかしら? 私、著作権って売買できる物だとばかり思っていたんだけれど」
メイが新たな話題にがっつり食い付いてくれたので大作はほっと安堵の胸を撫で下ろす。
「違う違う。今しているのは著作者人格権の話だよ。譲渡可能なのは著作権だろ? 著作者人格権は譲渡も相続もすることができず、保護期間は永遠に切れない。だから日本書紀を編纂したのは舎人親王だし、古事記を編纂したのは太安万侶なんだ。編纂したのは俺だとかいって出版することはできないんだな、これが」
「何を阿呆なことを言い出すのよ、大佐。そんなの当たり前のことじゃないの」
「ところがぎっちょん!(死語) 世の中にはゴーストライターなんて職業もあったりもするんだぞ」
「ご~るどらいたん? それって美味しいの?」
突如としてお園の目の色が変わった。って言うかこいつ、良くもまあそんな古い作品を知っている物だ。知識の偏りが酷すぎるんじゃね? 大作は関心するやら呆れるやらでどう反応したら良いのかさぱ~り分からない。
「アレは食べない方が良さげだな。ちなみにあの番組って企画段階には『わんぱく戦隊アバレンジャー』なんてタイトルが付いてたんだとさ。もしそのまま通っていたら『爆竜戦隊アバレンジャー』は違うタイトルになっていたかも知れんぞ。んで、話を戻すとゴールドじゃなくてゴーストな。ちなみに幽霊って意味の英語にはファントムってのもあるんだぞ。ゴーストってのは人に害を及ぼすような怖い幽霊。ファントムには幻って意味もあって、どっちかというと実害の無いメルヘンっぽい幽霊なんだ」
「ふ、ふぅ~ん。それで? その幽霊とやらを生業としていれば著作者人格権は気にせずに済むってことなのかしら?」
丸っきりピントの外れたことを言いながらお園が小首を傾げる。だが、大作の集中力は早くも切れ掛けようとしていた。
「お、お前がそう思うんならそうなんだろう。お前ん中ではな。んで、そろそろ話を戻しても良いか? とにもかくにも、我々はこの旅の楽しい思い出を明日への糧として生きて行くんじゃよ。人間だもの。そうだ! これからは盆と正月くらいには皆で旅行に行くことにしないか?」
「それは良いわね。でも、なるべくなら私は船で行きたいわ。もう歩くのは懲り懲りよ」
「俺も歩くのは勘弁して欲しいな。だからと言って、馬に乗るのも嫌だし。だけど鉄道は問題外だろ? 何百キロもレールを敷き詰めるなんて非現実的なんだもん。そうなると…… ポク、ポク、ポク、チ~ン 閃いた! 飛行機を作ったらどうじゃろ。ヒトラー総統だってルフトハンザで全国を遊説して回ったじゃん」
「それって鳥の如く空を飛ぶ絡繰りだったわね。気球と違ってずっと早いんでしょう。だけど、もしも落っこちたら怖いわよ」
両手を羽ばたくように広げたお園が表情を僅かに曇らせる。食に対する積極性とは対照的に相変らず心配性なことだ。
まあ、飛行機に乗ったことが無ければ当然の反応かも知れんな。って言うか、大作も飛行機に乗ったことは一度も無いんだけれども。
「そんなん言い出したら自動車や電車だってぶつかったら怖いし、船だって沈んだら怖いだろ? そもそも飛行機は輸送距離当たりで比較すると最も安全な移動手段なんだぞ。意外なことに徒歩や自転車の方が千倍も危険らしいな」
「珍妙な話もあったものねえ。天下の往来を歩いているより空を飛んだ方が余程に全しだなんて。いったい何をどうすれば歩いているだけで死ぬような危ない目に遭うなんてことがあるのかしら?」
「歩行者事故の大半は道路横断中の事故だっていうからやっぱ相手は自動車なんじゃね? アレ? ってことは自動車が無い時代には何が原因だったんだろうな? もしかして馬とかかな? 人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死ぬとか何とか」
「私、そんな話はついぞ聞いたことも無いわよ。確かボルトキーヴィッチは申されたんだったわね。プロイセンの騎馬隊において二十年の間に馬に蹴られて死んだ兵の平均値はλ=0.61人でポアソン分布に似通っているって」
かの有名な作者不明の都々逸が作られたのは江戸末期ごろだそうな。そんなことを知る由もないお園は納得が行かないといった顔で首を捻っている。
「まあ、航空機の実用化には小型軽量な内燃機関の開発が前提になるんだけどな。だからどんなに頑張っても十年やそこらは掛かるだろう。気長に行こうや」
「そうね。急いては事を仕損じる。慌てる乞食は貰いが少ない。緩々と進めるのが良いと思うわよ。それと私は高度な安全性が保証されるまで乗るつもりはないからね」
「はいはい、無理強いはしないよ。ところで話は変わるけど、お園。今回の視察旅行のレポート? 報告書みたいなのを書いてくれるかな~? いいとも~!」
そろそろこの不毛な遣り取りにも飽きてきた大作は強引に話題を転換させる。だが、返ってきたのは不満を隠そうともしない盛大なブーイングだった。
「えぇ~~~っ、私が? そんなの萌に書いて貰えば良いんじゃないかしら? 私なんかより文を書くのがずっと上手そうじゃないのよ」
「いやいや、行ってもいない奴にレポートが書けるはず無いんじゃね? 知らんけど。とは言え、ゴーストライターって商売はそういうのが得意な連中だったりするのかな。まあ、ダメ元で頼んでみるか」
そんな阿呆な話をしている間にも松井田の城下が見えてくる。一同は川岸に泊めてあるはずの舟を目指して足を速めた。
「船頭殿、準備が完了次第すぐにでも出港して下され。ことは急を要しますぞ」
「へ、へえ。急ぎ支度致しまする。暫しの間、お待ち下さりませ」
皆が舟に乗り込むと大慌てで艫綱だか舫い綱だかが解かれる。船頭が竿を操ると舟はその場で超信地旋回のようにぐるりと舳先を巡らせた。
ぐらぐらと揺れる舟から転げ落ちそうになった大作は必死の形相で船べりにしがみ付く。
上りでは川の流れに散々と苦労させられたものだ。それが下りでは完全に逆に作用している。お陰で舟は驚くほどのスピードで進んで行った。
「サラマンダーよりずっと速いな。十ノット以上は出ていそうだぞ」
「そうね、じゅうのっとくらいね。日暮れまでに三十里は行けそうよ。これは如何にしても葛西城まで参らなばならないわ。大佐、この意味が分かるわね?」
「はいはい、鼈のことだろ。覚えていますとも。船頭殿、セリヌンティウスが人質になってるつもりで死ぬ気で頑張って漕いで下され。拙僧どもは是が非でも日没までに葛西城に辿り着かねばなりませぬ。もし間に合えば特別ボーナスをお支払い致しますぞ。頑張れ! 頑張れ! できる! できる! 船頭殿なら絶対できる!」
「ぼ、ぼおなす? 其れは如何なる物にござりましょうや?」
気になるのはそこかよ~! 船頭の突っ込みに大作は心の中で盛大に突っ込み返すが決して顔には出さない。
茄に棒を突き刺すジェスチャーをしながら余裕の笑みを浮かべた。
「ローマ神話に成功と収穫の神様、Bonus Eventusとか申す輩がおったそうな。んで、Bonusがラテン語でラッキーって意味になったんだとか。そんなこんなで予定外のプレゼントみたいな意味で使われるようになったらしいですな。めでたしめでたし。ちなみに日本初のボーナスは明治九年(1876)の三菱だといわれております。とは言え、江戸時代にも四季施って習慣があったそうですぞ」
「さ、左様にござりまするか。なれば一所懸命に御奉公させて頂きましょう」
ボーナスに目が眩んだ船頭たちは俄然やる気になったらしい。欲望に忠実な奴は信用できる。大作は船頭たちを纏めて心の中のシュレッダーに放り込んだ。
それからは延々と退屈な時間が続いた。舟はどんぶらこっこどんぶらこっこと川を下り、一同は虚ろな目をして景色を眺める他にすることは何も無い。だって向きが反対になっただけで、くる時と景色が全く同じなんだもん。
って言うか、寒うぅ~っ! 風速が増した分だけ寒風が骨身に染みるんですけど。大作はぶるぶるっと体を震わせると首を竦めた。
お園へと目を向けて見ればゴアテックスのレインウェアを着ているので文字通りのどこ吹く風といった顔だ。
サツキとメイやナントカ丸は全身にぐるぐると筵を纏っている。なんだか蓑虫みたいだなあ。
政四郎はいつの間にか温かそうな褞袍を羽織っていた。これはこれで温かそうだ。って言うか、みんな用意が良いなあ。
こうしてはおられんぞ。大作もバックパックから百均で買った銀マットを取り出すと体に巻き付けた。
そんな様子を生暖かい眼差しで見守っていたお園が少し挑戦的な調子で口を開く。
「ねえねえ、大佐。私、退屈で退屈でしょうがないんだけれど? 何ぞ面白い話の一つでも無いのかしら。聞いてあげるから話してみなさいよ」
「え、えぇ~~~っ! その意味不明な上から目線はいったいどこから沸いてくるんだよ? 普段だったらすぐに無駄蘊蓄は禁止だとか言って止める癖にさあ」
「しょうがないわよ、だって人間なんだもの。って言うか、前に言ってたじゃないの。こういう移動時間に評定をやれば時が無駄にならないとか何とか。此度の検分で得られた知見みたいな物は無いのかしら」
ちょっとタレたお園の大きな瞳が物憂げな視線を送ってくる。
大作は何だか試されているような気がして心が落ち着かない。だけど、格好悪いところは見せられんなあ。小さくため息をつくと無い知恵を絞るように言葉を捻り出した。
「うぅ~ん、そうだなあ…… 碓氷峠って思っていた以上に交通の要衝だっただろ? だからこそ、史実の北条があそこで北国勢を防げなかったのは痛恨の極みだな。それもこれも兵力を出し惜しみして、たったの四千ぽっちしか出さなかった氏政が悪いんだろうけどさ。奴が広い領内の百にも及ぶ支城ネットワークに絶対の自信を持っていたことは良く理解できる。だけど、過去何度もの小田原籠城による成功体験があったのが反って災いしたのかも知れんな。とにもかくにも豊臣の軍は支城を次々と攻略する。そうなると小田原城の総構えだけが頼りの綱になってくる。そこへきて石垣山一夜城のパフォーマンスだろ。何年でも包囲を続けるという気構えを誇示して籠城側の心を折ったわけだな、これが」
大作はそこで一旦言葉を切って上目遣いに顔色を伺った。だが、お園の瞳からは如何なる種類の感情をも読み取ることはできない。ただ、黙って軽く頷くのみだ。その仕草が先を促していると解釈した大作は言葉を続ける。
「最近では豊臣方の補給は実際にはそこまで潤沢では無かったって説も唱えられている。それに豊臣では来年以降に秀長、大政所、鶴松が次々と死んじまう。そもそも当の秀吉本人が八年しか持たないんだからどうしようも無い。それさえ分かっていればこの心理戦にだって如何様にも対応できるはずだろ?」
「そうかも知れないわね。そうじゃ無いかも知れないけれど。続けて頂戴な」
相変わらずの仏頂面を崩さずお園が軽く頷いた。
何だか雲行きが怪しくなってきたなあ。まるで面接試験を受けているような気がするんですけど。大作は萎む一方のやる気に無理矢理オーバーブーストを掛ける。
「つまるところ、小田原に戦力を集中し過ぎたのがそもそもの敗因なんだ。碓氷峠、山中城、韮山城、下田、エトセトラエトセトラ。肝心の防衛拠点がどこもかしこも戦力不足に陥ってしまったんだもん。然るべき場所に然るべき戦力を配置する。まずはこれが肝要だな」
「攻撃三倍の法則だったわね。味方の兵は足りてるんだし城に籠って戦えば幾らでもやり様はあるんでしょうけど。それで?」
「そうなると後はひたすら我慢比べだ。ところがフィクションの世界には兵站警察っていうのがいて補給切れに対して厳しいペナルティを課してくれる。すると兵の多さなんて重荷にしかならんだろ? 鉄道もトラック輸送も無い時代に二十万もの兵に補給を確保するには海上輸送しかあり得ない。そこで我が北条水軍は通商破壊に徹する。兵糧攻めを得意とした秀吉を逆に兵糧攻めしてやるんだ。どうよ?」
大作は内心の不安を押し殺して精一杯の虚勢を張る。
しかし、退屈そうな顔のお園から返ってきたのは予想外の厳しい反応だった。
「何だか随分と地味な話だわねえ。歴史改変っていうのは楽しくなければ意味が無いんじゃなかったのかしら? だけど、大佐の歴史改変はこれっぽっちも面白くないわよ。そんな百人いれば百人が思い付くような歴史改変に何の値打ちがあるっていうのかしら。がっかりだわ……」
「きゅ、急にどしたん? ちょっとキャラ代わりすぎじゃね、お園?」
「変わったのは大佐の方よ。もしかして大佐、ちょっと丸くなったんじゃないの? 始めて出会ったころの大佐はなんていうのかしら。鋭い刃みたいに尖っていて、ちょっと触れただけで手傷を負いそうな危うさがあったわよ。北条の御本城様なんて立場になったせいで、すっかり守りに入っちゃったんじゃないの?」
「そ、そうなのかな? そうなのかも知れんなあ。だっていきなり御本城様なんて立場になっちゃったんだぞ。ハングリー精神が無くなるのも仕方ないんじゃね? まあ、アレだな、アレ。この小田原征伐編は罰ゲームみたいな物だろ。適当で良いんだよ、適当で。さっさとクリアして山ケ野に戻ろう。な? な? な?」
目一杯の愛想笑いを浮かべながら大作は上目遣いで顔色を伺う。
だが、お園は返事を返すことも無く川岸の景色を眺めていた。




