巻ノ弐百弐拾 インタビュー・ウィズ・覆面調査官 の巻
関宿城の本丸を目指して独断専行した大作とお園は道に迷ってしまい途方に暮れる。だが、偶然にも通り掛かった足軽風の老人のお陰で無事に保護された。
渋る爺さんをあの手この手で宥めすかした大作たちはどうにかこうにか大手門までの案内を頼み込む。やっとの思いで辿り着いた門番の詰め所みたいな掘っ立て小屋の中には三人の若者が大鍋を囲んで座っていた。
八畳くらいの薄暗い部屋には言うまでもないが畳なんて敷かれてはいない。土間で草履を脱いでちょっと軋んでいる板の間に上がると爺さんがここに座れとばかりに筵を敷いてくれた。
どうやら座布団の代わりってことらしい。大作は軽く頭を下げて謝意を示す。
「ささ、どうぞお坊様。お熱い内にお召し上がり下さりませ。奥方様も…… おやおや、もうお召し上がりになっておられましたか。まだまだたんとございます故、腹が飽き足りるまで存分に召されませ」
満面の笑みを浮かべた爺さんが粗末な碗を恭し気に差し出す。中には得体の知れない雑穀雑炊が湯気を立てていた。例に寄って名前も分からない謎の野菜も浮かんでいる。
欲望に正直な奴は信用できるんだっけ? そうは言っても、ここまで露骨に豹変されるとちょっとびっくりだなあ。まあ、別に良いんだけれど。
大作は、さも有り難そうに椀を受け取ると超スピードで般若心経を唱える。そして早くも二杯目をお代わりするお園を横目に箸を付けた。
ア、熱ッ~~~! お園は何でこんな物を平気な顔で食べれる…… 食べられるんだ? 熱い物を食べ過ぎると食道ガンのリスクが高まるんだけどなあ。大作は涙目で犬のように舌を出してハァハァと荒い息を付く。
大鍋を挟んで反対側に座っているちょっと猿顔の若者が笑いを堪えながら茶碗に水を注いで差し出してくれた。
「お坊様、大事ありませぬか?」
「No problem. 拙僧はこう見えてラングドシャでござりましてな。舌には些か自信があり申す」
「さ、左様にございましたか。時にお坊様は御本城様の御供で参られたのでござりましょうや? 夕刻に着いた舟から降りられるのをお見掛けしたような気が致しますが」
若者の顔には『小さなことが気になってしまう。僕の悪い癖』と書いてあるかのようだ。
これは真面目に相手をした方が良いんだろうか。大作は悩む。大いに悩む。散々に悩んだ末、結論を持ち越した。
「沈んだよ。先行しすぎてな」
「沈んだですと? 舟ならば二艘とも繋いでおりますが」
「歯がゆいな。あの御本城様は本物にあらず。替え玉に過ぎぬと申しておるのです」
「かえだま? 其れは如何なる物にござりましょうや?」
若い猿顔の足軽が一段と首を傾げた。眉間には深い皺が寄っている。
もしかして替え玉って言葉は通じていないのか? 少なくとも江戸時代には使われていた言葉らしいんだけどなあ。大作は違う表現を探して頭を捻る。
「影武者? 身代わり? スタンドイン? そう言えば、ヒトラー総統も影武者を使っていたって噂がありますな。とにもかくにも、アレは真の御本城様に非ず」
「これは異なことを! されば、真の御本城様は何処に御座しますや?」
「過日、御本城様は太閤に目通りせんと上洛されたそうな。ところが豊臣の卑怯な騙し討ちに遭われて御隠居様と共々に見罷られた。巷に斯様な噂が流れておるのをご存じにありましょうや?」
「何を阿呆なことを申されるか! 御本城様が見罷られたじゃと? 斯様な話が俄かに信じられる筈も無かろうが!」
それまで黙って話を聞いていた爺さんが突如としてヒステリックに声を震わせる。こいつも瞬間湯沸かし器(死語)なのかよ。どいつもこいつもご苦労なことだ。大作は心の中で顔を顰めた。
「まあまあ、話は最後まで聞いて下され。慌てる乞食は貰いが少ないと申しますぞ」
「乞食じゃと! この糞坊主めが黙って聞いておれば言いたい放題言いおって! 斯様な金など叩き返してやるわ!」
爺さんは懐から金貨を取り出すとこれ見よがしに目の前に翳した。だが、決して手放そうとはしない。
叩き返すんじゃなかったのかよ。大作は心の中で嘲り笑うが決して顔には出さない。お得意の卑屈な笑みを浮かべながら口を開き掛ける。
だが、三杯目の雑炊を食べ終わったお園が一瞬だけ早く話に割り込んできた。
「恐れながら旦那様は思い違いをされておられます。大佐は『慌てる乞食は貰いが少ない』と申しておられるのです。この命題の対偶は『慌てない乞食は貰いが少なくない』にございましょう? あわてない、あわてない。一休み、一休み。ささ、食後のデザートに羊羹なぞ如何にございましょうや」
言うが早いかお園はバックパックから羊羹を取り出してナイフで人数分だけ均等にカットした。
自分の分だけ大きく切ったりはしないんだ。大作はお園の意外な一面にちょっとだけ感動する。と思いきや、半分以上もある切り残しをさも当然のように自分の皿へ置いた。その余りにも堂々とした態度には感心せざるを得ない。
ふと手元を見れば若者が気を利かせて茶を入れてくれていた。色から見て出涸らしの焙じ茶のようだ。大作とお園は軽く頭を下げて謝意を示す。
「さて皆様方、そろそろ話を戻して宜しいかな。ある時は謎の坊主。ある時は金貨をくれた御坊様。ある時は御本城様を偽物呼ばわりした糞坊主。しかしてその実体は? 今こそ、この疑問にお答え致しましょう」
「ぎもん?」
「えぇ~っ! 気になるのはそこにござりまするか。疑問とは『分からないこと』の意にござります。要は拙僧が何者かってことですな。どうですか皆様方、気になりますでしょう? どうしてもと申されるのなら教えて進ぜぬこともござりますまいが。如何にございますかな?」
大作はそこで言葉を切って一同の顔をゆっくりと見回す。だが、みんな羊羹を食べるのに夢中で誰一人として話なんて聞いていないようだ。
「此れは羊羹と申されましたかな。斯様に美味い物を食ろうたのは初めてのことにございます」
「何たる甘さじゃ。口の中が蕩けてしまいそうじゃぞ」
「斯くも珍しき物をお分け頂けるとは。真に有り難き幸せにござります」
「何とお礼を申し上げれば良いやら。いったい奥方様は何処の何方にございましょう」
みんなからの賛辞を一身に受けたお園は得意満面といった顔をしている。存分に称賛を堪能したお園は足軽たちに向き直って最高のドヤ顔を決めた。
「妾はお園と申します。して、こちらにおわすお方は大佐にございます。宜しゅうお見知りおきのほどを」
「いやいや、お園様と大佐様のお名前は先ほどにも伺いました。金やら羊羹やらを斯様に惜しげも無く下さるとは、お二方はいったい如何なる御身分にあらせられましょうや」
「ズコ~~~! あのですなあ、拙僧は先ほどからそれを言おうとしておりましたよねえ? やっと聞く気になってくれたんですかな。まあ宜しい。それじゃあ言って聞かせやしょう。拙僧の正体、それは~~~ ジャン! 本社から派遣されてきた覆面調査官みたいな人でした~!」
その場にいる全員が揃って大きく首を傾げている。もちろんお園もだ。
この光景だけは何度見ても堪えられんな。大作の胸中を小さな満足感が満たして行く。
とは言え、ここからどう話を膨らませば良いんだろう? ノープランでこんな話をするんじゃなかったなあ。後悔するが例に寄って後の祭りだ。とにもかくにも何とかして煙に巻かなければ。
「皆様方は『覆面リサーチ ボス潜入』っていう番組をご存知ですよね? 元々はBBCの『アンダーカバー・ボス』とかいう番組があったらしいですな。そう言えば、なんでも鑑定団だってBBCでやっていた西洋アンティーク鑑定会が元ネタですぞ。まあ、テレビ業界ではこんな風に昔からコンテンツを自国向けにローカライズして……」
「大佐、話が脱線しているわよ。覆面調査官のことに戻して頂戴な」
話の脱線から僅か三十秒足らずでお園から軌道修正の指示が入る。これはもう駄目かも分からんなん。
いや、まだだ。まだ終わらんよ。脱線こそが人類の夢だから! 大作は己の心に活を……
その瞬間、お園の冷たい視線を感じた大作は心臓を掴まれたような気がして震え上がる。
何じゃ、この屠殺場へ運ばれる豚を見るような目付きは! 逆らわん方が良さげだ。大作は精一杯の真面目な顔を作ると首を竦めて声を少し落とした。
「間もなく北条は豊臣との間で天下の命運を賭けた大戦に挑まねばなりませぬ。そこで御本城様は現場の生の声を御所望との由。とまあ、そんな設定でお話をお聞かせ願えませぬでしょうかな? ね? ね? ね?」
「うぅ~む、やはり戦は避けられぬと申されまするか。しょうがありませぬなあ。まあ、金と羊羹で世話になった分くらいはお返しせねば簗田の名折れと申すもの。儂らで分かることならば答えるに吝かではござりませぬぞ。何なりとお尋ね下さりませ」
偉そうに踏ん反り返った爺さんが思いっきり顎をしゃくった。
何じゃこの恩着せがましい態度は。大作はイラっときたが必死に感情を抑え込む。今、怒ってしまっては最後に御本城様だってバラした時の盛り上がりが台無しになってしまうのだ。
「ではお尋ね致します。豊臣との戦、北条は勝てるとお思いにござりましょうや?」
「か、勝てるかじゃと? 勝てねば困るであろうに。左様なことを儂らが案じても詮無きことじゃて」
「うぅ~む、しからば負けるとは思うておらぬのですかな」
「まあ、負けそうとあらば敵に寝返る…… いやいや、今のは聞かなんだことにして頂けるかな」
そう言うと爺さんはニヤリと悪戯っぽい笑顔を浮かべた。こっちが本社の調査員だって言ってるのにそこまで本音トークして良いんだろうか。聞いてる方が心配になってくるんですけど。
とは言え、これが戦国時代の平常運転なんだから仕方がない。ネットで読んだ話によると『城を枕に討ち死に』なんていうのは主君への忠義が美徳とされた江戸時代以降の話なんだそうな。
それを戦国時代の国人領主に求めるなんてとんでもない! 八百屋で魚を求めるような物なんだろう。
史実でも全員玉砕なんてケースは割と珍しい。そういうのはトップが意固地に降伏を拒否したとか、降伏しても殺されるに決まってるから最後まで戦ったとかそんなのが理由だ。
そもそも籠城している者たちに後詰を送るのは主君の義務。援軍がこないせいで降伏となった場合の責任は主君にある。そんな価値観なんだから文句を言ってもしょうがない。
家康が高天神城の降伏を認めずに城兵を皆殺しにしたってエピソードは有名だ。アレは勝頼が高天神城の兵を見殺しにしたというネガティブキャンペーンを打つためのパフォーマンスなのだ。
おのれ家康め。本当にムカつく野郎だ。ジュネーヴ条約やハーグ陸戦条約を公然と無視するとは。
小田原征伐で秀吉や家康が降伏するって言ってきたらどう対応してやろうかな。大作がそんなことを考えていると爺さんの表情が徐々に不安そうに変わってきたのに気付いた。
「あの、その、御坊様。簗田の者はみな、北条様に受けた御恩を一日たりとも忘れたことなどございませぬぞ。一朝、事あらば左近将監様から足軽雑兵は無論、民百姓までもが身を粉にして御奉公致すことにございましょう。簗田は簗田でも水海城の奴らとは北条に御奉公した年季が違いまする」
「みずうみじょう? それってチチカカ湖に浮かんでいるウロス島みたいな奴ですかな?」
「いやいや、此処から北西に一里ばかり川を遡ったとろこに建つ城にございます。利根川や常陸川、長井戸沼に囲まれた正に水の城にございますぞ。はて、これは異な事を。覆面調査員の御坊様が其れを知らぬとは妙な話ですなあ。細かなことが気に掛かるのが儂の悪い癖にござりましてな」
お前もそれかよ~~~! 大作は心の中で絶叫するが決して顔には出さない。例に寄って無理矢理に余裕の笑みを浮かべると少し斜に構えた。
「好奇心は猫をも殺すと申しますぞ。まあ、世の中には百万回も生きた猫だっておりますので油断はできませぬが。それはともかく、実は此度の監査は外部監査でしてな。拙僧は言うなれば社外監査役みたいな? そんな立場にございます。てなわけで、恥ずかしながら北条殿のことについて詳しくは存じておりませぬ。して、水海城の簗田とは如何なる者共ですかな? 教えてチョンマゲ(死語)」
「ほ、ほう。此度は『がいぶかんさ』にござったか。されば合点が行き申した。とにもかくにも、水海城の梁田には用心めされよ。奴らはいざ戦となれば何時、敵に回るやも知れませぬぞ。元はといえば関宿城は彼奴らの城にございましてな。其れが三度の戦の末に水海城に追い遣られ、其れを洗心斎殿は未だに根に持っておられるご様子。努努、気の緩むこと無きよう思し召されませ」
何なんだ、この無駄に凝った設定は? 勝ち誇ったような爺さんの表情を見ているだけで大作はお腹いっぱいになってきた。
例えるならばフレンチインディアン戦争で白人に付いたインディアンと逆らったインディアンみたいな? あるいは自由フランス軍とシャルルマーニュ師団みたいな?
ちなみに大作はドゴールも大嫌いだ。あんな糞野郎がフランスでは英雄扱いされているなんて世も末だぞ。奴はさっさと自分だけ安全なロンドンに逃げたうえでドイツ占領下のフランス国民に非合法なテロ活動を呼びかけた最低最悪の人でなしだ。選挙で選ばれたわけでもないのに独裁者みたいに君臨しやがって。米英におんぶに抱っこしてもらいながらフランスを自力で開放したみたいにデカい顔するんじゃねえ!
自分勝手な行動ばかり取るからルーズベルトやチャーチルからも本気で嫌われていたそうな。って言うか、自由フランス軍と言う名の愚連隊が一体どれだけのドイツ軍捕虜や民間人に対して虐殺や暴行を行ったことか。特にアフリカから半強制的に集められた連中はソ連軍も真っ青な正真正銘の野蛮人だったそうな。
そもそもフランス人の価値観ってちょっとズレてるよな。奴らにとってはナポレオンみたいな大悪党ですら英雄だって言うし。奴は最終的に惨めな敗北者じゃんかよ。あんなのが英雄ならヒトラーだって英雄なんじゃね? だったらもう……
「大佐、大佐ったら! もしも~し! Do you hear me?」
「うわぁ! びっくしりたなあ、もう。脅かさんでくれよ」
「だって大佐ったら急に上の空になっちゃうんだもの。いったいどうしたっていうのよ?」
「それはアレ、アレだな。お腹いっぱいになったら眠くなっちゃったんだよ。では皆様方、今宵はここまでに致しとうござりまする」
言うが早いか大作は目にも止まらぬ早業で土間に一人用テントを設営する。そして呆気に取られる一同を尻目にお園を押し込むと自分も中に入って素早くジッパーを閉めた。
翌朝、まだ薄暗い時間に大作は目を覚ました。肌を刺すような十二月の冷たい空気で徐々に意識がはっきりとしてくる。
「知らない天井だ……」
「大佐ったら本に阿呆の一つ覚えじゃないの。ワンパターンは飽きられるわよ」
「いやいや、いくら何でもそれはちょっと酷くね? せめて、三つ子の魂百までとか言いようは無いのかな? それに、歴史と伝統を守るっていうのも意外と大変なことなんだぞ」
そんな阿呆な話をしながら二人はテントの外へ出る。ちょうど門番の男たちも目を覚ましたようだ。火を起こすと朝飯の支度をし始めた。
お園が料理を手伝っている間に大作は手早くテントを畳む。その途端に勢い良く戸板が開く。慌ててそちらに目をやると少し膨れっ面をしたサツキとメイが立っていた。
「もぉ~う、大佐ったらこんなところにいたのね! どれだけ探し回ったと思ってるのよ! 私たち寝ずに駆け回っていたんだからね!」
「本に心配で心配で命の縮む思いにございました」
「マジかよ! それは悪いことしたなあ。こいつは済まんこってすたい」
大作は精一杯の申し訳なさそうな表情を作りながら上目遣いに顔色を伺う。だが、一瞬の沈黙の後にサツキとメイは悪戯っぽく微笑んだ。
「戯れよ。私たち二ノ丸に泊めて頂いていたの。ちゃんと夕餉も頂いたわ」
「とは申せ、心配で良く眠れなかったのは真にござります。これよりは勝手に飛び出すことなど無きようお気を付け下さりませ」
「いや、あの…… 無理に俺を引っ張って行ったのはお園の方なんだけどなあ。まあ、今後はより一層と気を付けるよ。んで、お前ら朝飯は食ったのか? まだなら一緒に食おう。お園! 二人前追加だ」
「はいはい、そう言うと思ってもう増やしてるわよ。早くお上がりなさい」
お園GJ! 大作は心の中で称賛を…… いやいや、普通に口に出して言えば良いんじゃね?
「ありがとう、お園。相変わらず気が利くな」
「うふふ、褒めたって何にも出ないわよ」
唐突に食卓に着いた謎の美女二人に門番の男たちは唖然としている。それを完全に無視してお園は早々と雑炊に箸を付けていた。
朝食を終えた大作たちは食器を洗って返すと門番たちに丁寧に礼を言って小屋の外に出た。するとタイミング良くナントカ丸と秀重が城の奥から歩いてくるのが目に入る。
って言うか、その後ろにいるのはもしかするともしかして関宿城主の簗田助縄じゃね? 大作は大慌てで真面目腐った顔を作った。
「これはこれは屁えしろ、じゃなかった。平四郎殿。昨晩は随分とご心配をお掛けしたようで申し訳ございませぬ。それに、こんな朝早くからわざわざお見送り頂くとは忝のうございます」
大作のさり気ないボケに反応したお園やサツキ、メイ、ナントカ丸が必死に笑いを堪えている。懸命に真顔を作る者、無表情を装う者、敢えて顰め面になる者、エトセトラエトセトラ。みんな違ってみんな良いって感じだ。しかし、その反応が大作の悪戯心に火を点けた。
「いやいや、御本城様が御無事で何よりにございました。されど、お見送りですと? あの、その、御本城様? 何のお持て成しもしておらぬというに、もうお立ちになると申されまするか? せめてもう一晩だけでもお泊り頂くことは……」
「時に屁えしろ、じゃなかった。平四郎殿。オナラを我慢するとどうなるか知っておられましたかな? ネットで読んだ話によれば屁の成分のうち、酸素は腸内で消費されるんだそうな。んで、二酸化炭素や水素なんかは腸管で吸収されてしまいまする。一方で窒素や硫化水素は吸収されないので溜まったままにございます。つまり屁は我慢すればするほど遥かに臭さが増す。その変身を二回も残している。この意味がお分かりになりしょうや?」
そんなほとんど中身の無い無駄蘊蓄を大作はさも勿体ぶって盛り上げようと空回りする。対する簗田助縄は分かったような分からんような曖昧な笑みを浮かべるのみだ。
こいつ意味が分かっているんだろうか。大作は不安で不安でしょうがない。
だが、簗田助縄は不意に禿同といった顔で頷くと心底から感心したような声を上げた。
「ほほ~ぅ、其れは存じませなんだ。さすれば、屁は堪えない方が宜しゅうございますな」
「Exactly! 昔から出物腫れ物所嫌わずと申しますでしょう? 屁なんて自然な生理現象なんだから別に恥ずかしがる謂れなど微塵もござりませぬ。『御免!』とか言って堂々とやっちまえば宜しいのです。話は変わりますが鉄腕アトムをご存知ですかな? アレって海外ではアストロボーイって呼ばれておりますでしょう? 何故だかご存じにありましょうや? そもそも英語圏では……」
「大佐、そろそろ出立の刻限よ。屁えしろ、じゃなかった。平四郎様。お名残り惜しゅうございますが妾たちは月へ帰らねば…… じゃなかった、碓氷城へ参らねばならぬのでございます。帰りには必ずや寄らせて頂きます故、今日のところはこれにて失礼致します」
お園の鶴の一声によってオナラ談義は強制終了を食らってしまう。何とも風情の無い話だなあ。大作は心の中で苦虫を噛み潰すが決して顔には出さない。
二艘の高瀬舟は権現堂川だか逆川だか分からない川を遡って行く。簗田助縄、爺さんや門番たちと大作一座はお互いの姿が見えなくなるまで手を振って別れを惜しんだ。




