巻ノ弐百拾壱 釣れ!金目鯛 の巻
日が西の空に傾いたころ船は伊豆半島の先っぽにある石廊崎を掠めるように通り過ぎた。
そろそろタイムアップだろうか。大作は猫の名前会議の結論を纏めに入る。
「それじゃあ猫の名前はネーミングライツをチャリティーオークションに掛けるということで良いかな? んで、銭十貫文を超えた金額はカンガルー募金に寄付すると」
「だけどカンガルー募金って交通遺児を支援する基金なんでしょう? 小田原に交通遺児なんているのかしら?」
「良い質問ですね、お園。でも、小田原には人が何万人も住んでいるんだぞ。時には暴れ馬に蹴られたりすることもあるんじゃね? いなきゃいないで交通遺児が発生するまでキャリーオーバーで積み立てておけば良いさ」
「未唯、分かった……」
不承不承といった表情をしながらも未唯が頷いた。
そんな顔されても知らんがな~! 大作は心の中で絶叫するが決して顔には出さない。
時間内に結論が出なかったんだからしょうがない。長く考えたからといって良い考えが出るんなら誰も苦労なんてしないのだ。
そんな阿呆な話をしている間にも水平線の彼方には下田の城山が見えてきた。
「やっと帰ってこれたな。ポルフィもびっくりするくらいの長い旅だったぞ。オズの魔法使いのドロシーじゃないけれど、やっぱ『故郷がいちばんいい』っていうのは本当だよな」
「別に下田は故郷でも何でもないんだけどね。それに、まだ小田原まで二十里くらいは残っているはずだわ」
「細かいことを言う奴だなあ。『百里の道を行くときは九十九里をもって半ばとせよ』って言うだろ? かと思えば『千里の道も一歩から』とも言うし。結局のところ気持ちの持ちようでどうとでもなるんじゃね? これぞ相対性って奴だな」
「そうかも知れないわね。そうじゃないかも知れないけど。まあ、私は美味しい夕餉さえ食べられればそんなことはどうでも良いわ」
お園の言葉に未唯はme tooといった顔で激しく頷く。未唯だけにme tooってかよ? 大作は心の中で激しく突っ込むが決して顔には出さない。
そうこうしている内にも船は赤根島を回って北へと向きを変える。完全に風に逆らうことになったので帆を降ろして水主たちが力いっぱい艪を漕ぎだした。
これといって手伝うことも無い大作たちは接岸を今か今かと待ち構える。だが、手持ち無沙汰でいると碌な考えが浮かんでこないものだ。大作の胸中に漠然とした不安感が首を擡げてくる。
「なあなあ、お園。俺、なんだか急に心配になってきちゃったよ。第一次遣独潜水艦作戦の伊号第三十潜水艦を知ってるか? あれって遥かドイツまで行って無事にシンガポールまで戻ってきたっていうのに港内で味方の機雷に触れて沈んじまったんだぞ」
「機雷っていうのは船に触れると破裂して船底に穴を開けちゃうんだったわね。でも、何でその潜水艦とやらはお味方の機雷に触れちゃったのかしら?」
「その理由っていうのがこれまた酷いんだ。潜水艦がドイツに行ってる間に安全航路を変更したんだけど、それを伝える暗号も変わっていたのを忘れてたんだとさ。それで機雷源を安全航路だと思って通っちゃたんだ。水上航行中だったおかげで死者が十三名で済んだのが不幸中の幸いだったよ」
「んで? 大佐は下田の港に機雷があるかもしれないって憂いているのかしら? だけどそんな物はまだ作ってもいないのよ。それって正に杞憂そのもなんじゃないかしら」
お園は大作の妄言を歯牙にも掛けず泰然と受け流した。
だが、一度首をもたげた不安感というものは簡単には拭えないものだ。赤毛のアンのお化けの森じゃ無いけれど、自分の想像が具現化してしまうって可能性も無いとは言えない。
漂流教室にもそんなエピソードがあったような無かったような。分からん、さぱ~り分からん。
大作は艫屋倉に戻ると猫トイレを大事そうに抱えて船尾へと移動する。これならいざという時に浮き輪代わりに使えるかも知れん。使えないかも知らんけど。
大事そうに寿司桶を抱えた大作に対してお園は鼻を詰まんで顔を顰めた。
「ねえ、大佐。その猫の厠、なんだかとっても臭いわよ」
「しょうがないだろ。この二日間は砂利を洗っていないんだからさ。それに敷き藁だって換えていないしな。前に言っただろ? 猫の尿は凄く濃いって。それに糞がちょっぴり下痢気味だったのも痛かったし。こりゃあ匂いを吸収する活性炭かシリカゲル製の猫砂を開発した方が良いかも知れんな。とにもかくにも下田に着いたらトイレ掃除を頼むぞ、未唯」
「えっ! 私? 何で私が猫の厠を清めないといけないの? 今の私は姫様なのよ。厠を清める姫様なんて見たことも聞いたことも……」
「Shut up! あんたも姫さまじゃろうが、わしらの姫さまとだいぶ違うのお。まあ、そんなに掃除が嫌なら別にやらんでも良いぞ。ただし、この猫トイレは未唯の部屋に置くんだ。この猫トイレは使うたびに臭さがはるかに増す。その変身をあと二回も残している。この意味が分かるな?」
さぱ~り分からんという未唯の顔を見ているだけで大作はもうお腹一杯の気分だ。って言うか、そんな阿呆なやり取りをしている間にも船は静かに砂浜に乗り上げていた。
やっぱり機雷なんて無かったんだ。心配して損したぞ。まあ、磁気機雷だったので木造船に反応しなかっただけかも知らんけど。大作は心の中の磁気機雷を二十ミリ機関砲で爆破処理した。
浜の人が掛けてくれた梯子を伝って船を降りると見覚えのある老人が近付いてくる。こいつ誰だっけ?
いやいや、上野介じゃんかよ。大作は際どいところで老人の正体を思い出した。
「御本城様、今宵こそは儂の館にお泊り下さりませ。心許りの馳走を振る舞わせて頂きましょうぞ」
「おお、吉良殿! あっちの船に乗っておられたのですか。道理で二日も見掛けなかったわけですな。男子三日合わざればと申します。際どいところでしたぞ」
「馳走ですって! じゅるる~! いったい何を食べさせて頂けるのかしら。私、楽しみでしょうがないわ。早く行きましょう」
言うが早いかお園は吉良殿と大作の手を掴んで足早に歩き出す。
「おいおい、吉良殿のお屋敷がどこにあるのか知ってるのか?」
「知ってるわよ。前きた時にお邪魔したんですもの」
「督姫様、斯様に急がれずとも馳走は逃げたりは致しませぬぞ。いま少し緩やかにお歩き召されませ」
「いいえ、吉良様。一寸先は闇。脳科学者の茂木健○郎様も申されたそうな。どうなるか分からないから人生は面白いんだと。もし緩緩と歩いておる間にご馳走が逃げ出したら如何なされるおつもりで?」
言葉使いは丁寧だが眼光の鋭さには殺意すら込められているような、いないような。
吉良殿も阿呆なことを言ったもんだ。こんだけ期待させておいて手抜き料理なんて出したら大惨事だぞ。って言うか、手の込んだ料理なんて作ってる時間は無いんじゃね? 大作は他人事ながら心配になってくる。まあ、本当に他人事なんだけれど。
だが、吉良殿の屋敷とやらに着いてみればそんな心配は杞憂にすぎなかった。さすがは下田の漁港だけあって新鮮な魚の入手には事欠かないらしい。鮃、笠子、鰺、エトセトラエトセトラ。芥川龍之介の芋粥かよ! 大作は見ているだけでお腹いっぱいだ。
でもこれ、今から料理する気なんだろうか? 腹を空かせたお園がのんびり待ってくれるとは思えないんだけどなあ。
と思いきや、包丁を持った男が不意に現れて深々とお辞儀をした。そして魚の鱗を落とすと流れるような手付きで三枚に下ろして行く。その手際の良さはまるで鮪の解体ショーを見ているようだ。
固唾を飲んで待ち構える女性陣や藤吉郎の眼前に新鮮その物といった刺し身が次々と並べられて行く。
「お待たせ致しました。御隠居様、御本城様、督姫様、その他大勢の皆様方。大したお持て成しもできませぬが心許りの膳にございます。どうぞお召し上がり下さりませ」
「有り難うございます、吉良殿。折角の新鮮なお魚ですが申し訳ございませぬ。拙僧の分だけは火を通して頂けませぬか? 実はつい先日、クドア・セプテンプンクタータだったかアニサキスだったかで死ぬ思いを致しましてな」
「つい先日じゃと、新九郎? そちにそのようなことがあったかのう?」
訝しげな顔の氏政が口一杯に刺し身を頬張りながら疑問を口にする。物を食べながら話をするなんて行儀が悪いなあ。大作は心の中で顔を顰めるが決して顔には出さない。
「あった物はあったのです。現実から目を背けても何にもなりませぬぞ。ちなみにクドア・セプテンプンクタータは中心温度七十五度で五分以上の加熱。アニサキスなら六十度で一分以上。ノロウイルスなら中心部が八十五度~九十度で九十秒以上で安全だそうですな。そんなわけで九十度で五分ほど茹でて下さりませ。あと、調理済みの料理に素手で触らないで下さりませ。箸も食器も煮沸消毒をお願い致します。お手数をお掛けして申し訳次第もござりませぬが食品安全性のためでございます。宜しゅうお頼み申します」
「心得ましてございます。では御本城様、今暫くお待ち下さりませ」
待つこと暫し、五分も茹でた物だから完全に煮魚みたいになった刺し身が運ばれてくる。
もはや鮮魚でも何でも無いが食中毒の危険を回避するためには止む終えぬ犠牲だ。
「うぅ~ん、美味い! 煮込んだ刺し身も悪くないな。ちなみに加熱すると肉が固くなるのは何でか知ってるか? 答えはタンパク質の熱変性って奴だな。水素結合が切断されると立体構造が崩れる。んで、高分子の内側は水との親和性が低いから外側に出てきてタンパク質同士が凝固しちゃうんだとさ。ばんざ~い、ばんざ~い!」
「そう、良かったわね。吉良様。鮃、笠子、鰺、美味しゅうございました。お督はもう走れません」
「さ、左様にござりますか。堪能して頂けたなら何よりにござります」
どうやらお園の満足も得られたようだ。大作は警戒レベルを引き下げると先ほどから気になっていたことを吉良殿に聞いてみる。
「時に吉良殿、下田と申さば金目鯛が特産ではござりませぬか? 冬の今時分は脂がのって大層美味いと聞き及んでおりますが?」
金目鯛と言えば下田。下田と言えば金目鯛。なにせ金目鯛の水揚げ量日本一の港は下田なのだ。そして下田で水揚げされる魚の八割が金目鯛と言われている。そして金目鯛の旬は冬。なのにどうして金目鯛が出てこないのだ?
だが、吉良殿や料理人は人を小馬鹿にしたような顔をしながら鼻で笑った。
「金目鯛と申さば、あの赤くて目の大きな魚にございますか? 斯様に気色の悪い物を御本城様や督姫様にお出しするわけには参りませぬ」
「いやいや、あれって高級魚じゃありませんでしたっけ? キロ何千円もしたはずですが」
「高級魚ですって! それってさぞや美味しいんでしょうね。じゅるる~!」
「あのねえ、大作。金目鯛っていうのは深海魚なのよ。あの大きな目を見たら分かるでしょう? それと昔の人は赤い魚に拒否反応があったみたいね。魚市場で取り扱うようになったのは昭和五十年くらいからだそうよ。ちなみに赤くなるのは死んだ後だから生きてる時は銀色なんですって」
またもや萌に無駄薀蓄で一本取られた大作は悔しさに唇を噛み締めることしかできない。
だが、お園は新たな食材に対して興味津々といった表情だ。もしかするともしかして、またもや面倒臭いことになったんだろうか。大作の胸中に漠然とした不安感が広がって行く。
「それってまだ誰も食べたことがないってことかしら? だったらこれを食べずして下田を離れるわけには行かないわね。大佐、大急ぎで何とかして頂戴な!」
「あのなあ、お前は『森は生きている』の我儘な王女様かよ! 何とかって言われても相手は深海魚なんだぞ。簡単に獲れるわけないだろう? 水中戦はエヴァだって第八話 「アスカ、来日」で死ぬほど苦戦してたじゃんかよ」
「あんたバカァ? わけわかんない魚を獲ろうっていうのよ。ふりかかる火の粉は払いのけるのが当然じゃない?」
駄目だこりゃあ。怒りで我を忘れているっぽい。静めなきゃ谷が…… 大作は必死になって無い知恵を絞るが何一つとしてマトモなアイディアが沸いてこない。
「ちなみにあの話で艦隊が辿り着いた新横須賀っていうのは旧小田原なんだぞ。何だか不思議な縁があるよな。って言うか、俺たちも帰り路で第六使徒ガギ○ルに襲われたりしないかな?」
「そんな心配は無いと思うわよ。アレって新劇場版にも出てこれないような小物なんですもの。たかが通常兵器に殺られるなんて使徒の面汚しも良いところだわ」
何だか知らんけど良い感じに話が逸れたんだろうか? 大作は思わずほっと安堵の胸を撫で下ろす。
だが、お園の食に対する拘りを完全に甘く見過ぎていたようだ。直後にそれを後悔することになった。
「それで? 金目鯛っていう魚はどうやって捕まえるのかしら? 詳らかに教えて頂戴な。今すぐに。Hurry up! Be quick!」
「いやいや、お園。俺たちは急いで小田原に戻らないといけないんじゃないのかな? 何せ無意味な上洛で十二日も無駄にしちまったんだぞ。この遅れを取り戻さないと五か月後に迫った戦で……」
「大佐! 私の…… 私たちの目的は歴史改変だったはずよ。豊臣が勝とうが北条が勝とうがつまるところは中央集権的な武家政権ができてお仕舞いでしょう。だったら私の金目鯛プロジェクトの方がよっぽど大事なることじゃないかしら。目的と手段を履き違えてはいけないわ、大佐」
「ぐぬぬ……」
こいついつの間にこんなに口が立つようになったんだろう。って言うか、そもそも理屈でどうこうできる相手では無さそうだ。
大作は秘儀、捨てられた子犬のような目で萌に助けを求めてみる。だが、返ってきたのは馬鹿にしたような半笑いだった。
「金目鯛漁は普通、底立て延縄釣りとかいう方法を使うそうよ。鮪延縄なんかと似たようなやり方ね。でも今からそんな大規模な物は作っていられないわ。やるとすれば立縄釣りとか立延縄とかいう方法かしら。えぇ~っと…… 長い釣り糸の先っぽに何十本も枝針を付けて縦に垂らすらしいわ。手釣りや樽に付けて釣るんですって」
「だそうよ、大佐。さ~あ、みんなで作りましょう!」
満面の笑みを浮かべたお園は有無を言わさぬように詰め寄ってくる。大作は黙って頷くことしかできなかった。




