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巻ノ弐拾壱 猿との遭遇 の巻

 よほど疲れていたのだろうか。翌朝、二人は少し寝坊した。お園の寝相の悪さで起こされなかったのは良かったが夢は全く覚えていない。

 実は覚えていないだけで萌と大事な話をしていたらどうしよう。だが考えても仕方ない。大作は考えるのを止めた。


 テントを畳んで朝食を済ませると二人は豊橋を目指す。田植え前の水田が広がる平野を南西に進むと二時間ほどで豊橋に着く。


 豊橋という名前は明治政府が決めたものだ。三河国吉田藩の藩名が伊予国吉田藩と似ていて紛らわしいというのが理由だ。

 そんなこと言い出したら日本中に似たような地名は一杯ある気がするのだが。

 ただし豊川という名前は古代律令制の時代からあったらしい。


「今から行くのは吉田って言う町だけど伊予にも吉田って言うところがあるんだぞ」

「信濃国にもあるわよ。良い田んぼなんて何処にでもありそうね」


 豊川が大きく曲がった辺りに吉田城という平城が建っている。作られた当初は今橋城という名前だったらしい。


 大作が下調べしたところ豊橋市大村町にある八所神社に天文八年(1539)に大津波で、天文九年(1540)に大内潮で大村の人家がことごとく流失したという記録があるそうだ。

 大村町は河口より十キロも離れている。大内潮と言うのが何だか知らんけど凄いことがあったらしい。だが災害の爪痕は特に見受けられない。何もかも流されたからこそ痕跡が無いのかも知れない。


「この辺りでは十年ほど前の洪水で何もかも流されたらしいぞ」

「甲斐でも笛吹川や釜無川が荒れると難儀したわ。何とかならないのかしら」

「俺が住んでたところでは地面の下に首都圏外郭放水路って言う物凄く大きな穴を掘って大雨が降ったら流してたぞ。地面の下、深さ三十間に太さ五間の穴を一里半ほど掘ったんだ。作るのに十四年も掛かったんだ」

「地面の下に川を通すなんて、さぞや骨折りだったでしょうね」


 托鉢は後回しにして二人はとりあえず港を目指す。川に沿って一時間ほど西に行くと港があり大きな船が何艘も浮かんでる。

 安濃津の辺りに行く船を見つけて乗せてもらえるよう交渉しようと大作は考えていた。


 いきなり近づいて良いものか判らない。大作は少し離れた所から単眼鏡で慎重に観察する。


 伊勢船みたいな大きな船が沖合に停泊して小舟が浜との間を行き来している。ここも遠浅なんだろう。昔の人は港を浚渫(しゅんせつ)するとか桟橋を作るとか思い付かなかったのだろうか。


 前後が平たい箱型をしているので造波抵抗が酷いことになりそうだ。当時の人は流体力学を知らなかったのだろうか。そんなはずは無いから単に速度より積載量を優先したんだろうと大作は納得した。


 周囲の人間との対比からすると全長は三十メートルくらいだろう。当時の船には甲板という物が存在しない。雨が降ったり波を被ったら最悪だ。


 低い帆柱に(むしろ)の帆が掛かっていて櫂も何本かあるようだ。和船特有の上下に可動する巨大な舵も見えた。


「お坊様」

「うわぁ! びっくりした」


 突然声を掛けられて大作は死ぬほど驚いた。もし単眼鏡を落として壊したらどうしてくれるんだ。


 大作が血走った目で後ろを見ると少年が立っていた。粗末な着物を着ているが身ぎれいにしているので不潔感は無い。髷を結っていないし頭巾もかぶっていない。大作には年齢がさっぱり判らなかったが年上ということは無さそうだ。


 俺に気付かれずに後ろをとるとは只者では無いなと大作は思った。実際には単に大作が船に夢中だっただけなのだが。


「驚かせてしまいましたでしょうか。申し訳ございません」

「お気に召さるるな。して拙僧に何用でございますかな」

「お坊様のお持ちになっておられる物はいかなる物にござりましょうか」

「これは望遠鏡と申します。よろしければ覗いて見られませ」


 そう言って大作は単眼鏡を少年の手に渡す。ただし持ち逃げされたり落として壊されたりしないようストラップから手を離さない。

 単眼鏡を覗いた少年が目を丸くして驚いているのが大作にも分った。


「おお、これは不可思議な。いったいどのような絡繰りにございますか?」

「お園、レンズを貸してくれるか」

「はい、大佐」


 少年が素直に驚いてくれたので大作はとても嬉しくなった。ちょっとだけ相手をしてやろう。大作はお園からレンズを受け取ると少年の目の前に掲げる。少年が不思議そうにレンズを覗き込む


「これはレンズと申しまして光を捻じ曲げまする。小さい物が大きく見え申す」

「さては面妖な。向こう側が透けて見えまする。どういった絡繰りにござりますか?」


 こいつはヘビーな質問だぜ。大作は頭を抱えたくなった。お園の手前、格好悪いところは見せられない。


 そもそもガラスって変な物質なのだ。三十年ほど前まではガラスは液体がそのまま固まった状態だという説もあったそうな。

 だが、ガラスが液体と言うのは無理があり過ぎたらしい。その後『過冷却状態を経由してガラス状態になった物』という説が一般的になったようだ。

 2015年には京都大学の研究チームが『ガラスが固体であることを示す有力な証拠』を発見した。大作はネットのニュースで読んだのを思い出す。


 ガラスは二酸化ケイ素が網の目のようになった結晶構造をもたない非晶体なんだっけ? 分子が可視光の波長より充分小さいから光が透過するんだ。

 いや、違うな。光は物質を素通りしてるわけじゃ無いや。屈折率に応じて速度が下がるじゃないか。それは光が物質と相互作用してるせいだ。だんだん思い出して来たぞ。


「これはガラスという透き通った石でございます。光がガラスを構成する原子とぶつかるとエネルギーは電子に吸収されますが、すぐに光を再放出します。この光は隣の電子にぶつかります。その電子はまたすぐ光を放出します。そのせいで光の速さは真空中より遅くなります」


 こんな説明で良かったのか? とは言え、他にどんな説明があるんだ。もう知らん。


「ようするに水晶のごとき物にございます」


 水晶は粒界をもたない単結晶だ。結晶構造をもたない非晶体のガラスとは似ても似つかない。

 説明が面倒臭くなってきたので大作は適当に誤魔化した。行きずりの少年にあまり時間を掛けてもいられない。レンズをお園に返す。


「然らばこれにて」


 大作は軽く頭を下げて立ち去ろうとする。少年が深々と頭を下げながら声を掛ける。


「お坊様、よろしければお名前をお教え下され」

「私は生須賀大佐。ラピュタ王国の正当なる王位継承者にございます」


 大作は振り返りもせず鷹揚に右手を振った。


(それがし)は藤吉郎と申します。珍しい物を見せて頂きありがとうございました」

「と、と、と、藤吉郎?!」


 数メートルは離れていたところから大作は慌てて戻ってくる。突然の大作の行動にお園もかなり驚いているようだ。


「もしやご母堂は中村郷にお住まいの、(なか)殿と申されませぬか」

「いかにも、母はなかと申します」




 豊臣秀吉の生年は従来は天文五年(1536)とされていたが最近の研究では天文六年(1537)二月六日とする説が有力らしい。

 尾張国愛知郡中村郷で百姓の弥右衛門と、なかの子として生まれたとされる。

 弥右衛門はただの百姓では無く足軽大将だったとか木下姓を名乗っていたという説もある。

 一方で木下は、おね(ねね)の母方の苗字だったという説もある。


 弥右衛門は天文十二年(1543)に亡くなり、なかは竹阿弥と再婚するが藤吉郎は嫌われていたらしい。

 酷い児童虐待に耐えかねて天文十九年(1550)に家を飛び出したというのが一番ポピュラーな説だろうか。


 その後は駿河国に行商に行ったとか、侍を目指して遠江国に行ったとか言われている。


 江戸初期の『太閤素性記』では実の父である弥右衛門が七歳の時に死亡、光明寺に八歳の時に預けられたとされている。

 だが、何があったのか分からないがしばらくして寺を出たそうだ。その後のことは良く分からんけど天文二十年(1551)十五歳の時に亡くなった実父の遺産分与を受けて針の移動販売業を開始。そして松下嘉兵衛だか加兵衛だかに拾われたらしい。

 今川家の直臣・飯尾氏の家臣・松下之綱って奴だな。だが、この男は藤吉郎と同い年の満十四歳なので不自然だという説もある。

 なので父の松下長則に仕えたと言うのだ。なんせ親子揃って嘉兵衛を名乗ってたというのだからややこしい。


 ところが『太閤記』では竹阿弥が実父だとしている。だとすると、こいつが木下姓だったのか?


 Wikipediaには秀吉の出自について『改正三河後風土記』は与助という名の泥鰌掬(どじょうすく)い説、村長の息子説、大工・鍛冶等の技術者集団や行商人などの非農業民説、水野氏説、さらには漂泊民の山窩出身説、エトセトラ、エトセトラ。

 いったいお前は何者なんだ? わけが分からないよ……


 天文二十三年(1554)に織田信長に小者として仕えた辺りからは信憑性が高くなってくる。


 とりあえず1550年に十三歳の藤吉郎が豊橋にいてもそれほど不自然では無さそうだ。

 とは言え、こんな偶然あるだろうか。もしかして宇宙人か未来人の仕業なのかも知れん。


 大作は秀吉に対してもあまり良い印象を持っていない。織田家から政治権力を簒奪したのはまだ許せる。

 政治権力は相続するより簒奪する方がよっぽどマシだって若本さんも言ってた。

 だが朝鮮出兵の失敗は許しがたい。当時の日本の人口はスペインの二倍、イギリスの三倍以上もあったのだ。

 もっと上手くやれば中国・インド・シベリア辺りは余裕で征服できたはずだ。


 まあ中国やインドはいずれ独立してしまうだろうから大作はやるつもりは無い。

 それよりまだ手付かずのオーストラリアやアメリカ西海岸を押えた方がずっと良い。


 そんな先の話は後で考えるとして、とにかくこいつは是非とも味方につけなければ。




「藤吉郎殿は今、何をなされておるられるのですか?」

「駿河国で行商でもやろうかと思うておりますが。いかがなされましたか」

「拙僧は故有(ゆえあ)ってこちらの歩き巫女のお園と旅をしておりますが東国は止めた方がよろしかろう。それよりも拙僧どもと筑紫島に参りませぬか。先ほどの望遠鏡やレンズなど南蛮渡来の類い稀なる品であふれておりますぞ」

「あれは南蛮渡来の品だったのでございますか。どうりで珍しいはず。合点がいき申した」


 効いてる効いてる。大作は手応えを感じたので一気に畳み掛けることにした。バックパックから次々と品を出しながら話をする。


「これはライターと言って片手で簡単に火を起こすことができます。これはLEDライトと言ってとても明るく光りますが触っても熱くありません。これは浄水器と言って汚れた水を綺麗にします。これはカロリーメイトと言うバランス栄養食です。一つ食べてみて下され。南蛮渡来の品は珍しい物ばかり。いま行商をやるなら筑紫島になさい」


 しまった、やり過ぎたか。藤吉郎がちょっと引いている。大作はお園にだけ聞こえるようにそっと耳打ちする。


「こいつは役に立つ。愛想良くして何とか仲間に引き込むんだ」

「分かったわ」


 お園はとびっきりの営業スマイルを作る。そして藤吉郎の手をそっと柔らかく握ると聞いたことも無い優しい声音で言った。


「藤吉郎殿、そなたからは不思議な力を感じます。どうか(わらわ)と共に大佐を手伝って下さいまし」

「Let's go together!」


 大作も必死に笑顔を作る。藤吉郎の表情を見るにまんざらでも無いようだ。

 児童虐待を受けて愛情に飢えた少年なんて承認欲求が強いはずだ。その後の秀吉の行動もそれを裏付けている。


「大佐様、よろこんでお伴させて頂きます」

「藤吉郎殿、様は不要です。大佐とお呼び下され」

「こちらこそ殿は困ります。藤吉郎と呼び捨てて下さりませ」

「分かった。よそよそしいのは止めだ。藤吉郎、よろしく!」


 大作は藤吉郎の手を取ると固く握手した。そうだ、あれをやろう。一体感が強まるぞ。大作は左手の甲を上にして出す。


「たった三人だけど円陣を組もう。お園、藤吉郎、左手を重ねて」

「分かったわ、大佐」

「はい」


 二人が怪訝な顔をしながらも従う。大作は今度は右手を重ねる。


「今度は右手だ。俺がファイトって言ったら二人はオーって言うんだ。これを三回繰り返して最後のオーで手を上に上げるぞ」

「おーで上げるのね」

「分かりました」

「いくぞ、ラピュタ王国! ファイト! オー! ファイト! オー! ファイト! オー!」


 凄く良い感じだ。後は徐々に信頼関係を構築して疑似家族みたいに持って行ければベストだ。


「よし、夕日に向かってダッシュだ!」

「大佐、まだ朝よ」

「そうだな、ダッシュは夕方まで待とう。ところで藤吉郎、針を持っているか?」

「いかにも某は針を商っております。なんでお分かりになりました」


 藤吉郎は懐から針の束を取り出す。冗談で言ったのに本当に針を売ってたとは。大作は本気で驚いたが顔には出さなかった。

 ちなみにネットで読んだ話では中世の針売りは身体障がい者や下層民の手軽な商売だったので被差別対象らしい。


「商いをしていると言っていた割に荷物が無かった。だから嵩張らない物だとおもったんだ。一本売ってもらえるか」

「お代は結構でございます。我らはもはや(ともがら)ではござりませぬか」

「いやいや、仲間内だからこそ金銭トラブルは避けたい。お園、払ってくれるか」

「え~! それって矛盾してない?」


 お園が突っ込みを入れるが顔はとっても楽しそうだ。お園も天涯孤独なので弟が出来たようで嬉しいのだろうか。


「俺とお園は一心同体少女隊だろ」

「それだと藤吉郎は仲間外れってことになるわよ」

「分かった分かった降参だ。一本もらうぞ。二人とも俺のハンドパワーを良く見てろよ」


 大作はダイソーで買ったネオジム磁石を二人が気付かないうちに左手に隠し持っていた。

 藤吉郎から針を受け取るとそれを先端から穴の側まで磁石に擦り付ける。

 そして草鞋から飛び出した藁の先っぽを千切って茎の中に針を入れた。

 チタン製クッカーに水を入れてそれを浮かべる。チタンの常磁性は非常に弱いので大丈夫だろう。


「これがどうしたの?」

「良く見てみろ。針が北と南を向いているだろ。磁石になったんだ」

「じしゃく?」


 二人が初耳といった反応をする。大作は出鼻をくじかれた気がした。

 奈良時代の続日本紀には和銅六年(713)に近江の慈石を天皇に献上したとの記述がある。

 平安時代には方位磁石が中国から伝わり、その後は輸入した磁鉄鉱を使った方位磁石の製造も行われていたはずだ。

 とはいえ一般庶民にとっては無用の長物だ。知らなくても無理は無い。というか知ってる方が不思議だ。


「曇っていてお天道様が見えなくても南北が分かるんだぞ。凄いだろう。手で擦っただけでそんな物を作ったんだぞ。もっと驚けよ」

「ふぅ~ん、凄いのね」


 お園のあまりにも薄いリアクションに大作は心が折れそうになる。

 藤吉郎は気配りが出来る奴なのだろうか。気を使って聞いてくれた。


「これはいかなる仕掛けにございますか」


 気を使ってくれたのは嬉しいがこりゃまた難しいことを聞かれた。格好悪いところは見せられないので大作は必死に記憶の糸を手繰る。


「え~っと。鉄は二十六個の電子を持ってるんだけど3d軌道にある五個の不対電子が全部同じ方向のスピンを持ってるんだ。外部から強力な磁界で物質全体のスピンの向きを揃えてやると全体として大きな磁気モーメントを持つようになる。これを強磁性って言うんだ」

「……」


 藤吉郎は目が点になっていた。お園はまたいつものが始まったといった顔で右から左に聞き流しているようだ。


 まあ今さらこんなことで落ち込んでもしょうがない。そもそも二人を驚かしたくてやったのでは無いのだ。大作は唐突に話題を変える。


「藤吉郎、お前はこれから高野山へ行って出家する小坊主だ」

「えっ?」

「そういう設定で行くぞ。口裏を合わせるんだ。お園は藤吉郎の親御さんから同行するよう頼まれた。俺は豊橋、じゃなかった吉田で二人と出会った。それで高野山に行くんなら同行しようということになったんだ」

「分かったわ」

「Here we go!」


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[気になる点] 主人公が物の道理や道具の仕組みを現地人に説明するのに、意訳せずにそのまま説明するの、キチガイやろ。 作者はなんのつもりなん。
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