巻ノ弐 豊葦原の瑞穂の国 の巻
地平線の彼方まで続く一面の原野。
遙か彼方に丘が見えるが比較対象が無いので距離は判らない。
抜けるような青空に浮かんだ綿雲がゆっくりと風に流されて行く。
都会っ子の大作は写真でしか見たこと無い光景だ。
Windows XP初期設定壁紙の草原がもっと伸びたらこんな風になるんだろうか。
「これはアシ? いやヨシかな?」
『アシとヨシは同じ物だって知ってた?』
大作は子供のころに萌に教えてもらったことを思い出す。
興味が無かったのできれいさっぱり忘れていたのだ。
平安時代まではアシと呼ばれていたがアシは「悪し」に通じるので縁起が悪い。
なので「良し」と呼ばれるようになったのだそうだ。
高さ一メートル以上の葦がそよ風に揺れ動いている。
その風景はどこか幻想的でまるでこの世の物ではないかのようであった。
「人間は考える葦である、とか言うけどこんな人間がいたらびっくりだな。パスカルの言葉だったっけ? 萌だったら…… 萌?」
フラッシュバックのように記憶が急に甦る。
「萌はどこ行った? トラックは?」
慌てて周囲を見回すがアシだかヨシだか判らない植物しか見当たらない。
「もえ~ もえ~」
声を限りに叫んでみるが何の反応も無い。
もし知らない人に聞かれたら恥ずかしくて死にそうだ。
返事が無いということは声が聞こえる範囲にいないのか、あるいは意識を失っているのか。
そもそも人の気配というか人間生活の痕跡すら全く感じられない。
屈伸したり体を捻ってみるがどこも痛い所は無い。
トラックにはぶつからなかったらしい。
一番危険な所にいた自分が無事だということは萌たちもおそらくは大丈夫なんだろう。
何の根拠も無いがこういう時こそポジティブシンキングだと大作は思った。
腕時計を確認すると十一時五十二分。
最後に時計を見てから二分しか経っていない。
記憶が飛んだりはしていないようだ。
ともかく情報収集だ。ぐるりと一周を見回してみる。
まもなく十二時なので太陽がある方向が真南のはずだ。
南に少し離れたところに数百メートルはありそうな大きな池があった。
西には南北方向に延びた台地が見える。距離は一キロくらいだろうか。
北には葦が生い茂っているだけだ。東にも遥か遠くに小高い丘が見えた。
大作はバックパックから単眼鏡を取り出す。ブッシュネルの十倍四十二ミリ口径。
通販で三万三千円ほどで購入した物だ。手のひらに収まるくらいコンパクトで重さは三百七十四グラム。
萌に『そんな物を持ち歩いてると覗きと間違われるわよ』とよく馬鹿にされたがやっと役に立つ時がきた。
単眼鏡を使ってもう一度ゆっくりと周囲を見回すがやはり人間や人工物は確認できない。
役に立ってないやん! 大作は自分で自分に突っ込みを入れる。
ここにいてもどうしようも無い。移動すべきか? 迂闊に動くべきでは無いのか?
ラノベ主人公は開始三分でヒロインの裸を目撃しなければならないってネットで読んだことがあるのを大作は思い出した。
大作はなんの根拠も無いが南の池に向かったら良いんじゃないかと思う。
エルフの姫かなんかが全裸で行水とかしてそうな雰囲気がある。
そして唐突に現れたモンスターを倒したり、その拍子に姫と一緒に倒れて胸に触ってしまったりするのだ。
思わず現実逃避してしまった。大作は大きく頭を振って妄想を振り払う。
残念ながら萌と合流できる可能性は非常に低い気がする。
そうなると真面目な話、女性キャラの補充は喫緊の課題だ。
そうは言っても地図で現在地点を確認するのが先決だろう。
そう考えて大作はスマホの電源を入れる。しかし画面には無情にも圏外の表示。
「どんな僻地だよ!」
思わず大声で叫んでしまった。
気を取り直してスマホの電源を落としSIMカードを抜く。
接点を上着の裾で綺麗に拭いて挿しなおす。そして再起動する。
相変わらずの圏外表示。どうやら本当に圏外なのかも知れない。
だが、大作は少しも慌てない。山奥に行ったり災害等で電波が拾えない状況は十分に想定済みだ。
こんな時のためにインストールしておいたGPS Statusというアプリを起動する。
これならGPS衛星の電波のみで緯度や経度を確認できるのだ。
「ワシのサバイバル術は二百五十六式まであるぞ!」
いったいここはどこなんだろうとワクワクしながら待つこと数分。
「なん……だと……!?」
大作の期待は見事に裏切られる。
こんな大草原の真ん中でGPS衛星の電波が一つも拾えないなどあり得ない。
スマホのGPS受信機能だけが壊れたのか?
大作は二台目のスマホを取り出す。
スマホが一台では故障や紛失に対応できない。
「戦いとは、いつも二手三手先を考えて行うものだ」
『そういうのを杞憂っていうのよ』と萌には散々馬鹿にされたものだが、やはり持ってて良かった。
そう思って二台目スマホを試す大作だったが、何となく想像が付いていた通りに結果は全く同じだった。
「天は我々を見放した……」
大作はがっくりと肩を落とす。とりあえず二台のスマホを機内モードに設定する。
『圏外だと基地局を探し続ける為に無駄にバッテリーを消耗する』と萌が言っていたのを思い出したのだ。
地平線まで見通せる原野なら最低でも六個はGPS衛星の電波が拾えるはずだ。
スマホが二台同時にGPS受信機能だけ壊れるなんて偶然があるのだろうか?
有事の際にアメリカがGPSの精度を意図的に落とすとかいう話はネットで見たことがある。
あるいは敵陣営がGPSを妨害しているのか。まさか世界規模の戦争が始まりつつあるのか?
そういえばGPSジャマーとかいう装置がネット通販されているのを見たことがある。
GPS衛星は地上から二万キロも離れているので地上に届く電波は非常に弱い。妨害は割と簡単だ。
それとも大規模な太陽フレアが発生して衛星が全滅したのかも知れない。
そして分厚い大気に守られた地上にまでは影響が無かったのでスマホは無事だったのだろうか。
まさかGPS衛星の電波が拾えない状況があるとは想定すらしていなかった。
イリジウム携帯を持っていれば何とかなったのだろうか。
高度二万キロのGPS衛星が死んでいても高度七百八十キロのイリジウム衛星ならば生きているかも。
いや赤道上空三万六千キロの静止衛星インマルサットの方が期待できるのだろうか。
だが、流石の大作もこんな事態を想定して毎月五千円も払う気はしない。
そもそも衛星電話くらいで何とかなる問題なのだろうか。
『正常性バイアスって知ってる?』
大作はずいぶん前に萌に聞いた話を思い出す。
人間は心の平静を保つため、異常事態に直面すると都合の悪い情報を無視したり過小評価してしまう。
そのために客観的事実を冷静に判断できなくなるというのだ。
トラックにぶつかると思った瞬間に周囲の景色が全く変わってしまい、一緒にいたはずの萌が消えてしまった。
そして時間経過はほとんど無い。こんな異常事態に合理的な説明を求める方がどうかしている。
「考えたって分かるわけが無いか」
大作は考えるのを止めた。
腕時計を確認する。十二時十分なので日没まで六時間ほどだ。
ここで野宿するのは勘弁して欲しい。周囲の見通しが悪するぎるので野性動物が来たら怖い。
葦が生い茂っているので焚き火もできそうにない。
やはり西に一キロくらいにある台地に向かうのがベストだろう。
だが、その前に現在地点に目印を付けておきたい。
ここに戻ってくる必要があるかも知れないのだから。
「戦国に行った自衛隊の伊○三尉たちだって出現地点に祠を建てていたもんな」
大作は足元の葦を引き抜いてみた。それほど力は必要無かった。
これなら何とかなりそうだ。同心円状に葦を引き抜いて徐々に範囲を広げて行く。
十五分ほど掛かって直径二メートルほどの草抜きが完了した。
草を抜いた後には目印に石でも並べようかと思っていたのだがその必要は無かった。
最初に草を抜いた地点を中心に十文字に握り拳くらいの大きさの石が丁寧に列べられていたのだ。
「なんじゃこりゃ~!」
葦が生い茂る以前から列べられていたようだ。これが自然物とは考えられない。
自分がここに出現したのは偶然では無い。大作は確信した。
やっぱり誰かがどっかから見ているのでは?
ドローンでも飛んでいないかと大作は空を見回す。
だが、そんな物は見当たらない。
代わりに東の地平線近くに淡く輝いている半月を見つけた。
さっそく単眼鏡で観察すると月には見覚えのある模様がある。
「ここは地球だったんだ~!」
『猿の惑星』のテイラー船長もこんな気持ちだったのだろうか。
もしかして異世界転生かもしれないと心配しかけていた大作は少しだけ安心した。
大作は考えるのを止めて西の彼方にそびえる台地に向かって歩き出した。
大作は太陽を左に見ながら一歩一歩、葦原をかき分けるように踏み進んで行く。
戦争映画で見たベトナムのジャングルを進むシーンを思い出す。
マシェットか鉈でもあれば便利なのだがさすがにあんな物は七つ道具に入っていない。
あれを携帯していて警官に職務質問されたら問答無用で即逮捕だ。
「プレデターでソニー・ランダムが使ってたのがあれば良かったのにな~」
大作はネイティブアメリカン・スー族の末裔のビリーが丸木橋の上でプレデターを迎え撃つシーンを思い出す。
ビリーはあっけなく殺されて頭蓋骨をトロフィーにされてしまうのだが。
足元が良く見えないので何があるか判らず足取りは非常に遅い。
こんな大草原の真ん中で変な物を踏んで足を怪我したら致命的だ。
せいぜい時速二キロといったところだろうか。
几帳面な大作は百歩毎に指折り歩数を数える。歩幅が小さ目なので一歩で五十センチくらいしかない。
遠くに見える台地と太陽だけが目当てなので心細いことこの上ない。孤独と不安でストレスがマッハだ。
大作はトム・ハンクス主演のキャスト・アウェイという映画を思い出す。
無人島に流れ着いた主人公はバレーボールにウィルソンという名前を付けて話し相手にしていた。
考えてみればどこに行くにもいつも萌が一緒だった気がする。
脳内で萌を想定して会話でもしようか? いやいやいや、寂しすぎる。
「誰でも良いから姿を見せて~! できたら美少女を希望~!」
大作はほとんどやけくそ気味に叫ぶ。
この異常事態は絶対に自然現象では無い。神か宇宙人か未来人がやったに違いない。
神が退屈しのぎにやったとか、宇宙人の子供が夏休みの宿題で実験観察にやったとか。
もしかして大作をモニタリングしていてリクエストに答えてくれるかも知れない。
どのみち言うだけならタダだ。
「小柄で黒髪で色白で少しタレ目な娘を希望!」
言った途端に葦原が途切れて河原になった。
小柄で黒髪で色白で少しタレ目な娘が姿を隠すようにしゃがんでいた。
娘は浅黄色とグレーを混ぜたような質素な着物に、同じような色の前垂れを巻いていた。
頭髪はターバンのような白い手ぬぐいで包み、前で結んで両側に垂らしている。
足には草鞋を履いているようだ。
時代劇の撮影? とっさに大作は思った。
もしかして撮影監督に怒られるのだろうか。
なぜか娘は怯えたような顔つきで鋭い目をして睨んでくる。
「あなかま~!」
小柄で黒髪で色白で少しタレ目な娘が小声で叫ぶ。
なんじゃこのかわゆい生き物は……!!?? CGか? CGなのか??
『あなかま』は感動詞『あな』に形容詞『かまし』の語幹が付いたもので『静かに』という意味だ。
大作にはさっぱり意味が判らなかったが状況的に気持ちは痛いほど伝わった。
ただ『小声で叫ぶ』ってどうなんだろうと思った。
「かかる所は如何でかは在らんや! ゆるさじとす!」
突然の甲高い叫び声。大作から見て数メートル右の葦原から小柄な中年の男が現れた。
着物は麻の筒袖で括袴を穿いている。脚には稲わらの脛巾を着けて草鞋履きだ。
男は激しい怒りを吐き出すように大作と娘を交互に睨む。
「助けよや! よや! よや!」
「ちょ、おま」
娘が光の速さで大作の背後に回って抱き付く。服の裾を掴んだ両手から震えが伝わってくる。
背中に押し付けられた娘の慎ましやかな胸の感触がなまめかしい。
「かくのたまふは、誰そ!」
男はさらに甲高い声で叫ぶ。そして鬼のような形相で手が届きそうな距離まで近付いて来る。
もし『どっちに付く?』と聞かれたらルパンでなくとも『女!』と答える状況だ。
いまフラグを立てなくて、いつ立てると言うのだ。
やるしか無い。大作は即決した。
問題は話し合いで解決できるのか、戦闘が避けられないかだ。
男の手に武器は見えない。単純な腕力なら有利だろうと大作は思った。
だが、男の格闘能力は未知数だ。先制攻撃を受ければ致命的かも知れない。
大作は刺すような視線で男を牽制しながら手を後ろに回してバックパックの両サイドのポケットを探る。
そして左手に催涙ガススプレーを、右手にスタンガンを握りしめた。
距離を取るべきか? だが、後退は弱気と取られかねない。弱気は見せるべきでは無い。
でも距離を取らないと先制攻撃を受けたらかなり不利だ。
下がる? 下がらない? 下がる? 下がらない?
例によって思考停止に陥った大作は男と睨み合いを続ける。
二人の血中アドレナリン濃度が徐々に下がって行った。