巻ノ拾七 旅の終わり? の巻
もうこの時代の生活リズムにもすっかり慣れた大作は夜明けと共にスッキリ爽やかに目覚めた。
お園の様子が少し変だったが上機嫌のようなのでそっとしておく。
少しでも先を急ぎたいので朝食を取り歯を磨いたらすぐに出発する。
昨日と違って平坦な道なので頑張れば静岡、この時代は駿府だっけ? その辺りまで行けるだろうと大作は思っていた。
三島の町を抜けて二人仲良く街道を西へ向かって進む。
半時間ほどで黄瀬川に着く。それほど大きな川ではないので歩いて渡る。
どうやら今川の対北条防衛ラインはこの辺りらしい。黄瀬川や狩野川に沿って城がいくつも築かれているのが遠目に確認できた。
お園が興味津々といった顔で尋ねるてくる。
「沼津には何があるの?」
またまた無理難題を言われたと大作は焦る。四百年以上も昔の地方都市のことなんて情報が少なすぎる。
そもそも戦国時代なんて庶民が気軽に旅行できる時代では無いので名物とか観光名所なんて概念が無いのだ。
お園に楽しい旅の思い出を作ってやりたいのは山々だが大作は本当に何も思いつかない。
「漁港はこの前に行ったばっかりだから止めとこう。富士山の絶景ポイントもスルーだな。二時間も歩けば嫌でも見られる。う~~~ん」
「何にも無いのね」
さっきまでニコニコしていたお園の表情が急に曇る。
蒲鉾作りみたいなイベントを起こすにも時間が足りない。心を鬼にして先へ進むしか無い。
「これと言って面白い物も無いから先を急ごう。きっと駿府の町の方がずっと面白いぞ」
「分かったわ。楽しみにしておくわね」
言った瞬間に大作は激しく後悔した。何でわざわざ自分からハードルを上げるようなことを言ってしまったんだ。
こうなったら何が何でも静岡に着くまでに名物を思い付かなければ。
うなぎパイ? あれは浜名湖だったっけ。そもそも養殖が始まったのは明治だったような気がする。
黒はんぺん? 時代的にはギリギリ行けそうだけど蒲鉾とネタが被ってるな。
麦とろご飯? これも時代的にはギリギリだな。でも麦飯に自然薯の汁をかけて食べるのがそんなに美味いのか?
桜エビ? 聞いた話では明治二十七年(1894)に由比の漁師がアジの網引き漁をしてた時、偶然にも網が深く潜ってしまい大量の桜エビが捕れたとか何とか。昼は水深二百から五百メートルに棲んでいるが夜は三十から六十メートルまで上がってくるらしい。漁師に教えてやれば獲ってきてくれないだろうか。
安倍川餅は? あれは家康が安倍川近くの茶店に立ち寄った時に名前を付けたとか言ってたような。一説には慶長年間(1596-1615)まで遡るんだとか。それに古来からお盆のお供え物に黄粉と黒蜜をかけた餅を供える風習があったらしい。
最悪でも黄粉と餅を入手すれば何とかなりそうだ。とりあえずそれで行こうと大作は思った。
一面の田畑を突っ切って街道をひたすら西へ進む。南に沼津の町や港が見えるがスルーして先を急ぐ。
根方街道との分岐に差し掛かったので南の東海道を選ぶ。
「真っすぐ行った方が近道じゃないの?」
お園が不思議そうな顔をする。
「道の先を見てごらん。根方街道の先には興国寺城が建ってるだろ。城の中を突っ切るのはこりごりだ。ちなみに東海道と繋がる竹田道が城の中で合流しているらしいぞ。これぞ交通の要衝ってやつだな」
北西に見える愛鷹山麓の尾根の中腹に興国寺城が建っている。今までに見たショボい砦と違って本格的な土塁が見えた。
何だか改修工事をやってるようだ。平和そうに見えるが戦への備えも怠っていないらしい。
この城は北条早雲の戦国大名としてのスタート地点ともいえる城だ。
今川の客将だった早雲が今川の家督争いで活躍し、長享元年(1487)にこの城が早雲に与えられたことは文献に残っている。
異説もいろいろあるらしいが通説ではそうなっている。
早雲はその後、伊豆に進み韮山城を奪取すると居城をそちらに移す。だが西の備えとして重要拠点だったはずの興国寺城は何だか良く判らないうちに今川に奪われてしまう。
天文五年(1536)には北条氏綱が駿東郡に侵出して奪還する。そして天文十四年(1545)の第二次河東一乱で今川義元に再奪還されるという流れだ。
歴史通りなら来年、天文二十年(1551)に北条氏康が駿河へ侵入して今川義元から興国寺城を一時奪取するも、義元は再び奪い返す。
もし一年遅かったらこんな風に仲良く歩いてはいられなかっただろう。まあ、その場合は中山道を通っただろうけどね。
浮島沼と呼ばれる湿地帯が遥か西の方へ広がっている。
その南を通る東海道をしばらく進むと愛鷹山の向こう側に富士山が顔を覗かせる。
「富士山が見えてきたぞ。お園は富士山を見たことあるか?」
「私は甲斐の生まれだって何遍も言ったわよね! 富士のお山が見えないわけ無いでしょう!」
何だか知らんけど軽く怒らせてしまったぞ。大作はとりあえず謝ったほうが良いと思った。
「ごめんごめん。そんなに怒るなよ。可愛い顔が台無しだぞ」
「それに富士のお山なら何日も前から見えていたわよ」
「そ、そうだっけ? 気が付かなかったよ」
お園の何とも形容し難い視線を無視して大作は話題を変える。
「富士山の歌を知ってるか?」
「聞いたことないわね」
知ってたらびっくりだよと内心で思いながら大作は明治四十四年(1911)刊行の尋常小学読本唱歌(二)に載った『ふじの山』を歌う。
作詞 巌谷小波(1933年没) 作曲 不詳
あたまを雲の 上に出し
四方の山を 見おろして
かみなりさまを 下に聞く
富士は日本一の山
「富士のお山の上からだと雲が下に見えるのね」
「お園は富士山に登ったこと無いのか?」
「登れるわけないわ。女人禁制なのよ」
しまった。また馬鹿なことを聞いてしまったと大作は反省する。
「俺は三回登ったぞ。てっぺんまで登ったのは一回しかないけど」
「それ本当の話なの?」
お園のとっても疑わしげな顔に大作は気付く。そんな疑われるような話だろうか。
推古天皇六年(598)に聖徳太子が白い甲斐の烏駒で富士山を駆け上ったという記述がある。もし伝説じゃなきゃびっくりだ。
富士山開山の祖と言われる役小角は天智天皇二年(663)に初登頂したそうだが本当なんだろうか。
貞観十七年(875)に都良香が『富士山記』を記している。この中には煮えたぎる火口湖や、虎みたいな形の岩のことが記されている。本当に登ったか、登った人にインタビューしたんだろう。その僅か十年ほど前には有史最大の貞観大噴火があったというのだから命知らずの突撃取材だ。
十二世紀には末代上人が何百回もの登山を行って登山道を開いたそうだ。
十六世紀初頭には既に先達と呼ばれる案内者・先導者がいたことが文献に残っている。
江戸時代の富士講みたいな富士登山大流行ほどでは無いが十三世紀ごろからは修験者が大勢いたって読んだ気がする。
「ちゃんと準備して行けばそんなに難しくない山だぞ。止めた方が良いって言われてるけど夜通し登ってその日のうちに降りてくる弾丸登山なんてのもあるくらいだからな」
「やっぱり雲が下に見えたの?」
「俺が登った時は雲ばっかりでどっちがどっちか分からなかったな。火口には深さ百間の大穴が開いてるぞ」
「なにそれこわい」
昼前に富士市の辺りまで進むと富士山の裾野まで良く見えるようになる。宝永火口の無い富士山は大作にはとても新鮮に見えた。
お園も裾野まで見えている富士山は物珍しいのだろうか。真剣な表情で眺めている。
「百五十年ほど後に富士山の中腹が大噴火するんだぞ。江戸まで灰が飛んで二寸も降り積もるんだ」
「ふぅ~ん。難儀なことね」
こりゃまた酷く反応が薄いな。まあ、孫の孫の世代よりまだ先の話なんて心底どうでも良いんだろうと大作は思った。
「富士山に登るのに二百四十四文の山役銭を取られるって知ってたか?」
大作は退屈しのぎにスマホで読んだ豆知識を披露する。
「ずいぶんと高いのね!」
お園が目を丸くしている。富士山爆発よりこっちの方に驚くとは思わなかったぞ。
でも、人足の日当が二十文だっけ? 本当だ! 凄く高いぞ。大作も本気で驚いた。
「後に半額の百二十二文に値下がりしたらしいな」
「ふぅ~ん。それでも高いわね」
お園はまだ納得いかないといった顔をしていた。
沼川の河口付近で渡し船に乗る。潤井川は歩いて渡る。
さらに進むと富士川が見えてきた。現代に比べるとずっと東を流れているらしい。
江戸時代初期に五十年以上の歳月を掛けて直線的な流れに変えたんだそうな。川成島の渡し船に乗せてもらう。
この川や糸魚川の辺りを境界に商用電源は東が50Hz、西が60Hzに分かれている。ただし東海道新幹線は60Hzで運行しているとのことだ。
治承四年(1180)の富士川の戦いでは源頼朝と武田信義は東岸に、平維盛は西岸に布陣した。平家軍は水鳥の羽音に驚き慌てて逃げ去ったとかいう伝説が有名だが兵力差が二十倍では戦いようが無い。
大作は頼朝も大嫌いだ。もし次にタイムスリップできるなら源平合戦の時代に行って平家を勝たせてやりたいと思っていた。
蒲原関を素通りして空を見上げると太陽は既に真上を通り過ぎていた。渡し船のロスタイムもあって思ったほど進めていない。
今日中に駿府に着くのは難しそうだ。清水辺りで一泊だろうか。大作は頭の中で予定を修正する。
徐々に山が海に迫ってきて平地がどんどん狭くなる。街道も海岸ギリギリまで近づく。
「お園は海は初めてだろ。どうだ?」
「大きいのね。向こう岸が見えないわ」
「パプアニューギニアって島まで四千キロ、っていうか千里くらい何にもないぞ」
「え~~~! 本当に海って広いのね」
こんな時に最適の歌があるぞ。『うみはひろいな大きいな』ってやつだ。どれどれ。
作詞 林柳波(1974年没) 作曲 井上武士(1974年没)だと!
が~んだな…… 出鼻をくじかれたぞ。
文部省唱歌だと思って油断していた。
よその国に行ってみたいかどうかとかで話が盛り上がるかと思ってたのに。大作は心底がっかりした。
しかたない。ここはピンチヒッターに登場してもらおう。
尋常小学読本唱歌(1910年)に載った文部省唱歌の『われは海の子』を大作は探し出す。
作詞も作曲も不詳となっているが宮原晃一郎(1882-1945)という説が有力だ。芳賀矢一(1867-1927)という説もある。また宮原の原作を芳賀が改作したとする説もある。
我は海の子白浪の
さわぐいそべの松原に
煙たなびくとまやこそ
我がなつかしき住家なれ
うわ~! ルビを振るのが面倒臭いぞ。何か専用ツールとか無いのか?
お園も何だか良く判らないといった顔をしているようだ。
「海の水はこっちに来たり向こうに行ったりするのね」
「波だな。風が強いと大波になって大変だぞ。海の水は塩辛いって知ってたか?」
「それは聞いたことがあるわ。海の水から塩を作ってるそうね」
どうせ今日中に駿府まで行けないなら少しくらい寄り道しても良いだろう。ちょっと道を離れて波打ち際まで行ってみる。
「海の石は丸いだろう。波に揉まれて丸くなるんだ」
「なんでこんなに砂が一杯あるのかしら」
「石も砂もみんな川の流れが運んでくるんだ」
波打ち際で恋人同士の追いかけっこなんてしたら楽しそうだが荷物が重い。大作は涙を呑んで諦めた。
海に向かってバカヤローで我慢しておこう。
「バカヤロ~!」
「急にどうしたの? 大佐」
「お約束って奴だ。お園もやってみ。気持ち良いぞ」
「ばかやろ~!」
お園って思ってたよりずっと乗りの良い奴だったんだと大作は感心した。
もしかしてこれならあれも行けるかも知れない。
「よし、夕陽に向かってダッシュだ!」
「えっ? まだお昼過ぎよ。ちょっと待って大佐。待ってよ~」
「あはははは」
「うふふふふ」
なんか知らんけど恋人追いかけっこだぞ。
せっかくのイベントだというのになぜか大作は『炎のランナー』という映画のラストシーンが頭から離れなかった。
由比を通りすぎるとさらに山が海に迫ってきて切り立った崖と道しか無い。
これって台風とか来たらマジで通れないだろ。天気が良くて助かった。
あまりにも狭いので岬の辺りで道が無くなっているように見える。目の錯覚ってやつだなと大作は一瞬納得しかける。
いやいやいや! これってヤバくね? マジで道が無いぞ! そんな馬鹿な!
『大作とお園の旅はまだ始まったばかりだ! 先生の次回作にご期待下さい』という文字が大作の脳裏に浮かぶ。
緩すぎる展開に呆れた宇宙人か未来人に打ち切りでも食らったのか?
お、お、落ち付け。こんな時ほど冷静にならねば。a,bを実数、iを虚数単位とするときa+biとa-biの関係が共役複素数? なんのこっちゃ。とにかく素数だ、素数さえ数えれば落ち着けるんだ。
「一……三……五……七……九 うわ~~~! 全然駄目だ、冷静になんてなれない。どうすれバインダー!」
大作の絶叫は太平洋の荒波に吸い込まれていった。




