巻ノ百六拾九 朝の包囲網 の巻
テントの外を取り囲んでいる見知らぬ大勢の男たち。いったい奴らは何者なのだろう。くノ一たちは何故このタイミングで裏切ったんだ。いくら考えてもさぱ~り分からん。
大作はテントの中で頭を抱え込み、ガタガタと小さく震えることしかできない。
だが、お園はすぐ隣で我関せずといった顔をしている。この異常事態に際してもまるで動じていないようだ。小さくため息をつくと他人事のように気楽な調子で口を開いた。
「ねえ、大佐。ひとまずは朝餉にしましょうよ。私、お腹が空いて堪らないんだけれど」
「お前なあ~! この状況が理解できてんのか? 俺たちは正体不明の敵に十重二十重に取り囲まれてるんだぞ。まさに蟻の這い出る隙間も無いって奴だ。まるで総統官邸地下壕のヒトラーみたいじゃんかよ。のんびり飯なんて食ってる場合か?」
「えぇ~~~っ! お亡くなりになる前のヒトラー総統だってスパゲッティを召し上がったんじゃなかったの? それに、腹が減っては戦はできぬとも言うわよ。そも、朝餉を食べないと血圧が上がって脳出血のリスクが三十六パーセントも上昇するんじゃなかったかしら?」
「そりゃそうだけどさ。でも、脳出血の心配は明日からでも良いだろ? それに、ヒトラー総統はスパゲッティに手を付けなかったって言わなかったっけ? とにもかくにも、まずは『今そこにある危機』に対処しなきゃ。悪いけどお園、ちょっくら行って一時休戦を申し入れてくれるかな?」
大作はそう言いながら寝る前に拾っておいた薪の先っぽにタオルを結びつける。そして怪訝な顔をするお園に半ば無理矢理に手渡した。
「ほい、これさえ持っていれば手を出してこないはずだぞ。ハーグ陸戦条約第三章第三十二条に書いてあるんだ。白旗を掲げた奴は軍使だから絶対に攻撃しちゃダメだってな」
とは言え、軍使の受け入れを拒否することもできるんだけど。大作は心の中で呟くが決して顔には出さない。
「しろはた? 白い旗を持ってるだけで安穏だっていうの? そんなんで済めば世話はないわよ」
「大丈夫だって。白旗が降伏を意味するようになったっていう歴史は結構古いんだぞ。キツヒメとかいう奴が日本武尊に降伏するときに白旗を掲げたとか何とか。この時代でもちゃんと通じるはずだから安心して行ってこい」
「また日本武尊なの? あのお方って何処にでも出てくるわよね」
「そうだな、いったい奴の本業は何なんだろうな。ま、それはともかく白旗は絶対なんだ。いいかお園、自分を信じるな。白旗を信じる俺を信じろ!」
こういう時は根拠なき楽観論に限るのだ。大作は努めて気軽に言い放つとお園の背中を軽く押す。
だが、お園は不機嫌そうな表情を崩そうともしない。白旗を突き返すように置くと急に声を荒げた。
「こんな布切れが信じられるわけがないでしょうに! そも、私が軍使に行く理由は何かあるんでしょうか? 大佐じゃあ駄目なんでしょうか?」
「いやいや、この中で女はお園だけじゃんかよ」
「だったら男も大佐しかいなわよ。軍使が女だなんて誰が決めたのかしら。山ヶ野はジェンダーフリーなんでしょう。男女共同参画社会は何処へ行っちゃったの? そんなこと御仏が許しても巫女頭領の私が許さないわよ! もしもそんなことが……」
目をギラギラと輝かせたお園が腕をプルプルと振るわせながら声を限りに絶叫する。
はいはい、瞬間湯沸かし器(死語)乙。大作は心の中で苦虫を噛み潰すが決して顔には出さない。
「どうどう、落ち着いて。分かった分かった、降参だ。だったらここは公平にじゃん拳で決めようよ」
「こうへい?」
「fairってことだよ。ちなみに同じスペルで展示会って意味にもなるけどこっちはラテン語で休日のことらしいな。そんじゃあ行くぞ! 最初はグー、じゃん拳……」
その瞬間、大作の言葉を遮るようにテントの外から大きな声が聞こえてきた。
「大佐に告ぐ、直ちに降伏せよ! お前達の父母兄弟は国賊となるので皆泣いておるぞ!」
どうやら声の主はほのかのようだ。相も変わらず訳の分からんことを言っているな。大作は心の中で顔を顰める。
いやいや、これってまだ希望が残ってるってことじゃね? 諦めるのはあらゆる可能性を試してからでも遅くはない。
「降伏勧告ってことは殺す気は無いってことなのかなあ? でも、油断させてのこのこ出てきたところを殺す気かも知れんぞ。戦国時代ってそんな糞野郎ばっかりだもんな。信長だって秋山虎繁を許すって騙して磔にしただろ。俺はああいう騙し討ちが大嫌いなんだ。って言うか、むしろ簡単に騙される馬鹿の方に腹が立つよな。大阪城の掘を埋められた秀頼なんて馬鹿の中の馬鹿。キングオブ馬鹿じゃん。それとか……」
「私、なんだか本にどうでも良くなってきたわ。もう、一時休戦でも二時休戦でも何でも良いから朝餉にしましょう。お腹が減って目が回りそうなのよ。飢えて死ぬくらいなら戦って殺される方が万倍もマシじゃないかしら。それに『今日は死ぬには良い日』だわ」
お園は吐き捨てるようにそう呟く。そして白旗を拾うと大きく振り回しながら足早にテントを出て行った。
大作はテントの中で黙ってお園の帰りを待つ。あいつは立派に軍使としての役割を果たしているんだろうか。意外とノリノリで『Nuts!』とか言ってたりして。
これであいつまで裏切ったら面白いのにな。想像するだけで思わず吹き出しそうだ。
って言うか、ここには自分一人しかいないんだ。誰に気兼ねすることもなく思い切り笑っても良いんじゃね?
「クク、クックック…… フフフ、ハハハ…… ウワ~ッハハハハハ!」
「どうしたの、大佐? 何がそんなに面白いのかしら」
「へぁ?」
不意に背後から聞こえた声に振り向くとテントの入り口から未唯が顔を覗かせていた。
「こ、これはアレだな、アレ? 夜の女王のアリアを練習していたんだよ。ハァアアア~ ハハハハハハハハハ~ ハァアアア~ ハハハハハハハハハ~ ハハハハハハハハ ハハハハハハハハ げふんげふん……」
「随分と妙な歌ね。そのうち未唯にも教えてくれる?」
「まかせとけ! エマヌエル・シカネーダーは1812年没だから著作権はとっくに切れている。んで? お前がきたってことは休戦協定は無事に結ばれたってことなのかな?」
「きゅうせんきょうてい? 私はお園様に大佐を呼んでくるように頼まれただけよ。朝餉ができたからすぐにきて頂戴って。三分間待ってやる、こないと先に食べるわよって言ってたわ」
こりゃあ悠長にテントを畳んでいる暇は無さそうだ。大作は大急ぎでテントを解体すると適当に丸めてバックパックに押し込む。忘れ物が無いかぐるりと辺りを見回すと飛び出すように河原を後にした。
天気が良く、すでに日も昇っているので辺りはかなり明るくなっていた。通りには早起きな人たちが忙し気に行き交いしている。真っ暗闇だった昨晩とはまるで違う場所のようだ。
大作は未唯に手を引っ張られるようにして通りを突き進んで行く。
「こっちよ、大佐。ちょっと急がないと間に合わないわ」
「いやいや、まだ二分くらいはあるはずだぞ。お園がいるところってそんなに遠いのか?」
「そうじゃないわ。未唯がこっちにくるまでに二分くらい掛かっているのよ」
「えぇ~~~っ! それって無理ゲーじゃんか。まあ良いや。さすがに二分やそこら遅れたくらいで食べる物が無くなるわけじゃないし。着く三歩くらい手前から走り出してゼーゼー言いながら飛び込めば良いんだよ。あとは言い訳とかは一切しないで真面目に謝っている振りに徹することだな」
大作は必死に頭を捻って遅刻したときの対処法を絞り出す。それを黙って聞きながらも未唯は歩みを緩めない。
そうこうするうちにも材木屋ハウス(虎居)が見えてきた。
「俺がテントを張ったところってこんなに近かったのかよ! さんざん夜道を走り回ったと思ってたんだけどなあ。もしかして同じところをグルグル回ってただけかも知れんな」
「そうかも知れないわね。そうじゃないかも知れないけど。さあ、着いたわよ」
ガタガタと大きな音を立てて未唯が引き戸を開く。狭くて薄暗い襤褸小屋の中にはお園、メイ、ほのか、藤吉郎、四人のくノ一に加えて十人ほどの見知らぬ男たちが犇めくように座っていた。
あんなに急いだというのに残念ながらやっぱり遅刻したらしい。すでに食事が始まっているようだ。みんな黙って雑炊を啜っている。
例に寄って食器が足りていないんだろうか。男たちは鍋の回りに群がって直に食べている。
お行儀が悪いなあ。もしかしてこの中に割って入らないといけないのか? そんな下品なことをするくらいだったら一食くらい抜いた方がマシかも知れん。それともカロリーメイトでも食うかな。大作は眉値を寄せて真剣に考え込む。
カロリーメイトの賞味期限は製造後一年間だ。まだ当分の間は大丈夫だけれど適当なタイミングで食べなければならん。死蔵していて賞味期限切れになったら勿体無いお化けが出てきそうだ。
ちなみにカロリーメイトにはロングライフっていう賞味期限三年のタイプもある。ただしチョコレート味しかないうえに結構なお値段なのだ。
あれを買うくらいならバランスパワー6YEARSを買った方がお得なんじゃないかな。
大作がそんなことに思いを巡らせながら男たちの囲んでいる鍋を観察していると……
「ちょっと待ったぁ! あの鍋ってもしかして俺のシュタールヘルムじゃね?」
「そうよ、大佐。あのお方たちがわざわざ拾ってきてくれていたのよ。後でちゃんとお礼を言った方が良いわね」
「そうなんだ~! ぱっと見は怖そうな人たちだけど『みかけハこハゐがとんだいゝ人だ』ったんだな」
大作と未唯がそんなことを言っていると雑炊を食べ終わったお園から声が掛かる。
「何をしているの、大佐。早くこっちにきて座りなさい。ちゃんと大佐と未唯の分は取ってあるわよ」
食べるの早っ! まさかフライングしたんじゃなかろうな? 大作の心に微かに疑惑の念が浮かぶ。
「ありがとう、お園。助かったよ。さあ、未唯。早く食べちゃおう。ところで、あの方々は誰だったんだ?」
大作は雑炊の入った碗を受け取りながら目線で小屋の一角を指し示す。
そこでは相変らずヘルメット鍋を囲んだ十人の男たちが雑炊を啜っている。何だか知らんけど随分と纏まりを欠いた雑多な集団だ。
傀儡子や猿楽師みたいな芸能関係者? かと思えば物売りやお百姓さん、お遍路さんみたいな白衣を着た奴、エトセトラエトセトラ。
一体こいつらは何者なんだろう。こんな奴らに怯えて一晩中ガタガタ震えていたとは我ながら情けない。
幽霊の正体見たり枯れ尾花。なんて言うけれど、恐怖心というのがこんなにも人の目を狂わせる物だったとは。
大作は心の中で『こんな人たちに負けるわけにはいかない!』と絶叫するが決して顔には出さない。
「そう言えば私もあの方々のことはまだ聞いていなかったわね。でも、メイが知っているみたいよ」
「し、知っているのか、メイ!?」
驚きのあまり大作は一瞬、碗を落としそうになったが何とか間一髪で堪えた。もし落としたら勿体無いお化けが出てくるかも知れん。
そんな風に慌てふためく大作の様子をメイが生暖かい目で見詰める。そして悪戯っぽい笑みを浮かべながら口を開いた。
「し、知っているわよ、大佐! 常ならば密か事なんだけど、どうしてもって言うんなら教えてあげなくもないんだけどなぁ~」
「そ、そうなんだ。そんじゃあ悪いんだけど教えてもらっても良いかな?」
「知らざあ言って聞かせてあげるわ。では、城戸様。皆様方に自己紹介して頂いて宜しゅうございますか?」
お前が教えてくれるんじゃなかったのかよ~! 大作は心の中で激しく突っ込むが決して顔には出さない。
メイに指名された年配の男は大作の方に向き直ると鷹揚に頷いた。男は雑多な集団の輪から一人だけ少し離れたところに悠然と座っている。まるで武芸者のようなその格好は何だか物凄く浮いた感じだ。
「拙者は丸柱村の音羽から参った城戸弥左衛門と申す者にござる。皆からは音羽ノ城戸と呼ばれており申す。和尚は随分と鉄砲にお詳しいそうじゃな。儂も鉄砲には一家言を持っておる。お役に立てることがあるやも知れぬぞ」
「は、はぁ。左様にござりまするか」
いったい何が始まったんだ? もしかしてこの武芸者は就職活動中なんだろうか。山ヶ野で人材募集してるって聞いて自分を売り込みにきたとか?
だったら履歴書くらい書いてきて欲しかったんだけどなあ。ドヤ顔でふんぞり返るおっさんに大作はどう答えたら良いか返事に困る。
その沈黙を先に進めとでも解釈したのだろうか。大作から一番近いところに座っていた若い物売りが向き直って頭を下げた。
「某は阿山郡柘植村字野村から参りました大炊孫太夫と申します。構へて用に立って見せましょう」
「や、役に立てば良いですな……」
役に立つって何のだ? 武芸者ならともかく物売りなんて必要としていないんだけど。そもそもこいつは何を売っているんだろう。さぱ~り分からん。
大作は内心の動揺を隠して曖昧な浮かべることしかできない。続いてすぐ隣に座った百姓みたいな格好の男がにっこり微笑む。
「儂は阿山郡西柘植村字新堂より参った金森小太郎にございます。みなには新堂の小太郎とか金藤と呼ばれております。宜しゅうお頼申します」
「こ、こちらこそ宜しゅう……」
まさかとは思うけどここに居候でもする気なんだろうか? まあ、家賃を払ってくれるんなら留守番くらいには使えるかも知れんけど。
その隣に座っているのは芸人みたいな風体をした男だ。狼狽える大作を無視するかのように平然と軽く頷くと口を開いた。
「儂は阿山郡上野村の高羽佐兵衛と申します。上野の左とお呼び下さりませ」
「……」
この辺りで大作の記憶力がオーバーフローした。最初の武芸者の名前は何だっけ? 必死に記憶を辿るがまったく重い打線!
ここは切り札を使うしかないかも知れない。大作は捨てられた子犬みたいな目でお園の顔色を窺う。するとお園がにっこり笑いながら頷き返してくれた。
これは当てにしても良さそうだ。当てにできたら良いなあ。当てにしてもバチは当たらんだろう。
そんな大作の気も知らずそのまた隣の白装束の男がにこりともせずに鋭い視線を向けてきた。
「某は山田郡友田村字より参った高山の太郎次郎にござります」
今度は傀儡子みたいな男がやけに愛想良く微笑む。いったい何がそんなに嬉しいんだろう?
「儂は山田郡山田村の瀬登八右衛門と申します」
上目遣いで卑屈な笑みを浮かべた中年男が深々と頭を下げる。こいつは何か企んでるんじゃなかろうか。
「名張郡神戸村の小南。お見知りおきのほどを」
次の男は百姓みたいだが物売りみたいに見えなくもない。もう何が何だか分からん。どうとでもなれ~! 大作は心の中で絶叫する。
「阿山郡河合村字石川の五右衛門でございます」
男たちの自己紹介を右から左に完全スルーしていた大作の意識が急に現実に引き戻される。
石川五右衛門だと! 同姓同名なんだろうか? いやいや、石川は地名だな。たぶん、五右衛門なんて名前はそれほど珍しくも無いんだろう。
って言うか、さっきのメイの『知らざあ言って聞かせやしょう』ってここに繋がってたのかよ。何て回りくどいことを。大作はちょっとだけ感心する。
弁天小僧菊之助って最後はどうなるんだっけ? あれって男の娘の元祖みたいな存在だよな。
だが、妄想世界に戻りかけた大作の意識は次に自己紹介した猿楽師の言葉で再び現実に引き戻される。
「阿山郡下柘植村の上月佐助と申します。木猿とお呼び下さりませ。こちらは弟の小猿にございます」
「さ、さ、佐助殿? も、も、もしやルーク・スカイウォーカーのモデルにもなったとも言われる、あの超有名な伝説の忍者。猿飛佐助殿にござりまするか?」
「猿飛ですと? 木猿やら佐助やらとは呼ばれておりますが猿飛と呼ばれたことはござりませぬ。されど、木から木へ猿のように飛び移るというのも悪くはござりせぬな。お許し頂けるならそう名乗っても宜しゅうござりまするか?」
瞳をキラキラと輝かせながら木猿と名乗った男が興奮気味に食いついてくる。初めてマトモなレスが反ってきたことに大作はちょっと感動した。
誠意を持って接すればこいつらとコミュニケーションを取ることは不可能ではないってことだ。
「つまり今現在に猿飛佐助という名義で活躍されている有名人はおられぬということですな。その名前が商標登録もされていないのでしたら何も問題はござりませぬ。加護○依や能年○奈みたいになりたくないなら商標登録しておいた方が無難ですぞ。ただし、出願と登録で合わせて四万円くらいの印紙代が掛かってしまいます。されど、将来のトラブルを未然に防止したいなら是非やっておくべきでしょうな」
「しょうひょうとうろく? にございますか」
「弁理士に頼むと何万円も掛かるそうですぞ。もし宜しければ拙僧が手続きを代行して進ぜましょう」
「おお、これは有り難や。宜しゅうお頼申します」
佐助が満面の笑みを浮かべながら深々と頭を下げた。何か知らんけど良い感触がする。
こいつは久々に出現した有名キャラだ。優秀な人材は喉から手が出るほど欲しい。どんな卑怯な手を使ってでも手に入れねば。絶対にだ!
大作は卑屈な笑みを浮かべながら上目使いに佐助の顔を見つめる。そして揉み手をしながら擦り寄った。
「時に佐助殿。いや、佐助様。どうか我が寺にて、その類い希なる才能を遺憾なく発揮しては頂けませぬか? 給料、じゃなかった、俸禄? 扶持? そういうアレは弾みますぞ。銭五貫文で如何でしょう?」
「たったの銭五貫文なの? それって私たちより随分と少ないわね」
「何と申された。此方の女性らは一体どれほどの禄を賜っておられるのでしょうか?」
メイのボケに対して佐助がさらなるボケをかます。
これって突っ込み不在な状況なんだろうか。誤解は早く解いておかねば。大作は佐助に向き直って糞真面目な表情を作る。
「年ではございません。月に銭五貫文ですぞ」
「何ですって! 月に銭五貫文って私めの五倍にもなるんじゃない?」
「それはまた随分と豪気なことで。されど、あまりのこと故、俄には信じ難いお話にござりますな」
「いやいや、この金額にはちゃんとした理由があるのでございます。知りたくありませぬか? どうしてもって言うんなら教えて進ぜますぞ。佐助様は憲法第二十五条の生存権をご存じですかな。健康で文化的な最低限度の生活を営む権利とか何とかいう奴にございます。これに必要な金額っていくらくらいだと思われまするか?」
大作はここで一旦言葉を区切った。そして真っ直ぐに佐助の目を見詰めながら意味深な笑みを浮かべて首を傾げる。
眉間に皺を寄せた佐助も同じ方向に首を傾げ返した。とりあえず興味は持ってくれたようだ。
「拙僧の生国においては生活保護と申す社会保障制度がございます。地域や年齢にもよりますが単身世帯だと七、八万円プラス家賃といったところですな。つまり、働けぬ者に月に銭五百文ほどを施すのでございます」
「それって日に銭十八文くらいにもなるわね。懸命に働いても銭二十文にしかならない人足の方々がちょっと気の毒だわ」
半笑を浮かべたお園が横から茶々を入れた。って言うか、あまり真剣にこの話を聞くつもりは無いらしい。食後のデザートに干し柿を頬張っている。
「まあ、二十一世紀と今じゃ生活水準が違い過ぎるから単純比較は難しいけどな。だけど、一つの指標にはなるだろう。それでここからが本題だ。消費、貧困、福祉の研究でノーベル経済学賞を受賞された米プリンストン大のアンガス・ディートン教授というお方が申されたそうな。幸せを感じる年収は七万五千ドルで頭打ちになるってな。これって為替相場にもよるけれど銭六十貫文くらいだろ? つまり月に銭五貫文ってことだ」
「ふ、ふぅ~ん。そういう物なのかしら?」
「そういう物なんだよ。だって、これより多くの金を貰っても使い道に困るだろ? 良い着物を買うとか、美味い物を食べるにしたって十倍の値がする着物は十倍着心地が良いか? そもそも十倍も値が張る米なんて売っていないだろ? もしあったとして十倍も美味しいと思うか? 月に銭五貫文というのはそういう次第で決めさせて頂きました。どうかご理解を賜りたく存じます」
大作は強引に話を戻すと佐助に向かって深々と頭を下げる。この理屈ならみんなも納得してくれる筈だ。何たって相手はノーベル経済学賞の受賞者なんだから。
だが、予想に反してこの説明は火に油を注いだだけのようだ。まるで火が点いた様に女性陣たちから抗議の声が上がりだす。
「だからって女と違いが大き過ぎるわよ!」
「何でそんなに私たちの禄は少ないのかしら!」
「いくら何でもこんなのってないわよ!」
「もしや大佐は佐助様が一人で我ら五人分の働きをすると思うておられうのでございましょうや?」
「こんなの男女差別でしょう! 労働基準法第四条、男女同一賃金の原則に違反しているわ! そんなの御仏がお許しになっても女子差別撤廃条約が許さないわよ!」
ほのかやメイ、くノ一たちから一斉に巻き起こった壮絶な大ブーイングをお園が締め括る。
いったい何なんだろう。この、女性特有の団結力は。ノーベル賞の権威もまったく通じていないみたいだ。
藤吉郎や謎の男たちは完全にドン引きした様子で話に加わろうともしない。
「どうどう、落ち着いてくれ。降参だ。くノ一の給料も同額まで引き上げるよ。って言うか、当初の月給が銭一貫文ってのも金山が安定稼働するまでの暫定的な措置だったんだ。先月に遡って差額を支払う。絶対にだ!」
大作は慌てて五本の指先を上向きに揃えて花の蕾のような形を作る。このジェスチャーはアラブ圏ではダキーカといって『wait a minute』の意味があるのだ。
しかし、残念なことにそのジェスチャーは誰にも意味が通じていないらしい。誰一人として関心も示してくれる者はいなかった。




