表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
162/516

巻ノ百六拾弐 あなたのお蕎麦に の巻

 お園の口から飛び出した思わぬ冗談に大作、藤吉郎、未唯たちは暫しの間、大笑いした。

 一頻り盛り上がった後、大作は急に真顔に戻ると芝居がかった態度で口を開く。


「時間だ、答えを聞こう!」

「答え、でございますか? な、何の答えでございましょうか?」

「未唯たち、何か尋ねられていたかしら?」


 藤吉郎が首を傾げ、未唯が不満そうに頬を膨らます。それに対し、大作はここぞとばかりに力を込めて絶叫する。


「ち~が~う~だ~ろ~~~っ! 違うだろ~っ! 違うだろっ!!! くぁwせdrftgyふじこlp! そこは、二人が手と手を重ねて『バ○ス!』じゃん!」

「はぁ? ば○すとは如何なる意にござりましょうや?」

「未唯、そんなの聞いたこともないわよ」

「こんな有名なセリフを知らんのか~! いいからやってみ。きっと楽しいぞ~!」


 恐る恐るといった顔で藤吉郎が手を差し出す。そこに手を重ねた未唯がちょっと恥ずかしそうに頬を赤く染めた。

 それを見た大作の胸中をどす黒い思いが満たして行く。何だか寝取られみたいで物凄く嫌な気分がするぞ。


「ば、ば○す!」

「あぁ~! 目がぁぁぁ、目がぁぁぁぁ!」

「大佐、目がどうかしたの?」

「マジレス禁止。さて、お約束も済んだことだ。ちょっと早いけど材木屋ハウス(虎居)に帰って夕飯にしようか」


 返事も待たずに大作は先頭に立って歩き出す。お園たちも慌てて後に続いた。

 途中で方々の店へ適当に寄り道する。薪や食材等を買い込み、みんなで手分けして持つ。

 この時代には無料の配達サービスとか無いんだろうか。これってもしかしてビジネスチャンスじゃね? サスペンション付きの軽量な馬車さえ実現できれば物流革命を起こせるかも知れん。夢がひろがリング!

 そんなことを考えている間に材木屋ハウス(虎居)に辿り着いた。


 相も変わらず見事なばかりのボロ小屋だ。金も手に入ったことだし、リフォームくらいした方が良いかも知れん。

 小屋の前では牡丹、紅葉、菖蒲、楓が退屈そうにたむろしている。まさか、こいつらが先回りしているとは夢にも思わなかった。

 HOIでも国民不満度が上がるといろんな効率が悪くなる。ご機嫌取りをするなら早い方が良いな。微妙な雰囲気をぶち壊そうと大作は明るく元気に大声を張り上げた。


「ハイサ~イ!」

「はいさぁい???」


 怪訝な顔をしながらも、くノ一たちが相槌を打ってくれた。


「いやいや、女の子はハイタイって言わなきゃ。ハイサイは男だけだぞ。それはともかく、お勤めご苦労さん。じゃなかった、ありがとう。おかげで助かったよ」


 とある調査によれば日本人は一日に平均七回半『ありがとう』って言うらしい。だけど、自分が言われるのは五回足らずだそうな。その差、二回半はどこに消えたのか? たぶん、聞こえていないんだろう。


 要注意なのは『ご苦労さん』とか『お疲れさん』みたいな労いだ。アドラーに言わせればこういのは上から目線で他人をコントロールしようとしているってことになるらしい。

 そんな言い方をせず、素直に『ありがとう』と感謝すれば良いのだとか何とか。

 だが、四人のくノ一たちは相も変わらず不思議そうに首を傾るばかりだ。その様子に大作の不安が爆発する。


「あの名主の身辺調査をやってくれてたんだろ? な? な? やっぱり餅は餅屋。情報収集はくノ一だな」

「しんぺんちょうさ? そは、如何なる物にござりましょうや?」

「た、頼んだよな、俺? 名主を洗えって。叩けば埃が出るとか、身辺を嗅ぎ回れって。もしかして手ぶらで帰ってきちゃったのか?」


 正直言ってこれっぽっちも当てにしていなかった。とは言え、本当に収穫ゼロだったとは。こいつらに給料を払って雇う意味はあるんだろうか?

 と思った瞬間、くノ一四人組が一斉に笑い出す。とうとう緊張で頭が可笑しくなったのか? 大作は思わず一歩ほど後ずさる。

 だが、楓だか紅葉だか分からない娘が一歩前に出るとにっこり笑って口を開いた。


「相済みませぬ。確と調べておりますれば、ご安堵下さりませ。大佐はお戯れが随分とお好きなご様子。我らの戯れは如何でございましたか?」

「お、おう。初めてにしてはまあまあじゃないかな。んで、名主はどうだった?」

「どうやら名主には彼方此方から大層な借銭があるとの由にございます。愛と舞がそう申しておりましたので間違いはございません」

「えぇ~! 愛と舞から聞いたってか? そんなの情報ソースとして信頼できるのかな。まあ、あいつらも三週間もあの村に入り浸ってるんだ。それなりに信用できるかも知らんけど。とは言え、あの二人から聞いた話を俺に伝えるだけの仕事にくノ一が四人も必要だったのか?」


 そう言うと大作はがっくりと肩を落とす。その仕草を見たくノ一たちがまたもやどっと笑い声を上げた。

 もしかして馬鹿にされてんのか? 大作はイラっとしたが決して顔には出さない。感情を押し殺して上目遣いで卑屈な笑みを浮かべる。

 すると、楓だか紅葉だか分からん娘がちょっと申し訳なさそうな顔で軽く頭を下げた。


「相済みませぬ。これも戯れにございます。四人で村中を回り、確と話を聞いて参りました」

「そ、そうか。悪いんだけど大事な報告をするときは戯れは止めてくれるかな? まあ、俺もあんまり偉そうなことは言えないんだけどさ」

「畏まりました。次からは控え目に致します。して、村人らはみな申しておりました。名主の借銭は銭四百貫文にも上るそうな。詳しくは此方をご覧下さりませ」


 そう言いながら楓だか紅葉だか分からない娘は着物の胸元に手を入れる。そして小さく折り畳んだ紙切れを取り出すと恭しく差し出した。例に寄って紙切れはちょっと湿っていて生暖かい。

 何だかエロいな。思わず大作の鼻の下が伸びる。その表情を見たお園が忌々しそう顔を顰めた。


 受け取った紙切れを開いて目を通す。目を通したのだが……

 読めない! 読めないぞ~! 例に寄ってミミズののたくったような文字だか何だか分からん記号が並んでいる。

 大作は曖昧な笑みを浮かべながらお園にそれをスルーパスした。


「Thank you so much! 銭四百貫文っていうとあの村の年貢収入の四年半に相当するな。名主が最後に言ってた銭三百六十貫文で買えば計算上は八年半で元が取れるか。まだちょっと割高かも知れんぞ。今度会った時にこれを突き付けて値切ってみよう」

「お役に立ちますれば何よりにございます。時にメイ様とほのか殿は何処に?」

「あの二人には金貨作りをやってもらってるんだ。夕飯までには帰ってくると思う。それまでにみんなで食事の支度を済ませちゃおうか」

「御意!」


 くノ一たちの顔がぱっと綻んだ。よっぽどお腹が減ってたんだろうか。これは急いだ方が良いかも知れん。

 みんなに水汲みや火起こしなどを手分けするように頼み込む。大作とお園は材木屋ハウス(虎居)に入るとバックパックから荷物を取り出した。


「いろいろと買い物したけど今日の夕餉は何なのかしら。心ときめくわ」

「本日のスペシャルメニューは二八蕎麦だぞ。俺が十五年後の話をした時に食べたがっていただろ」

「天麩羅はどうするの?」

「残念ながら今日のところは諦めてくれ。新鮮な海老も天麩羅粉も天麩羅油も手に入らん。次回のお楽しみにしよう」


 お園はちょっと悔しそうな顔だが渋々で納得してくれたようだ。物が無いのに駄々を捏ねるような子供じゃなくて助かった。大作は安堵の胸を撫で下ろす。


「それで、二八蕎麦って何なの? 蕎麦掻きとは何処が違うのかしら」

「それには諸説あるらしいな。蕎麦粉が八、小麦粉が二で混ぜるって説。一杯の値段が二掛ける八の銭十六文だったって説。時代が下って安物の蕎麦は蕎麦粉が二、小麦粉が八で混ぜたって説なんかがあるそうだ」

「銭十六文の蕎麦ですって! そんなの高過ぎるわよ! ぼったくりじゃないの? たかが蕎麦に銭十六文なんて御仏がお許しになっても、巫女頭領の私が許さないわよ!」


 はいはい、瞬間湯沸かし器(死語)ご苦労さま。この無尽蔵のエネルギーを人類に有益な形で活用ができないんだろうか。いやいや、今はそれどころじゃないな。大作はお園の抗議がひと段落するのを待って口を挟む。


「銭十六文の蕎麦がポピュラーになるのは寛政年間っていうから江戸末期の話みたいだな。銭六十文の褌クリーニングの四分の一なんだから高くないんじゃね? むしろ安いくらいだぞ。まあ、海老天は載ってないだろうけど」

「ふ、ふぅ~ん。それにしても妙な話ね。蕎麦って小麦よりずっと安い筈よ? どうして小麦を多くした方が安物になるのかしらねえ」

「知らん! だけど、江戸時代に入って蕎麦の美味しい食べ方が普及すれば需要も増える。きっと穀物相場も逆転したんじゃね? これって相場で大儲けできるチャンスかも知れんぞ。まあ、そんな先の話を気にしてもしょうがないか。って言うか、俺は小麦粉が戦国時代にあったってだけで驚いたな」

「まあ、良いわ。そのことは、また日を改めて考えましょう。お腹も空いたし、メイやほのかが帰ってくる前に作っちゃわなきゃ」


 空腹時のお園の頭の中は食べ物のことで一杯らしい。気が変わる前にさっさと作ってしまおう。大作はスマホでレシピを確認する。

 十人前だと蕎麦粉が二百匁に小麦粉が五十匁ってところだろうか。ここには秤なんて無いので目分量で適当に量るしかない。

 二種類の粉をよく掻き混ぜてから水を加えて捏ねる。捏ねるって…… どこでだよ!


「鍋が無かったっけ?」

「お湯を沸かすのに使ってるわよ」

「何でだよ~! お湯が要るのはもっと後じゃんか。いま欲しいのは空の鍋なんだけど……」

「しょうがないわね~! とりあえずお湯を器に移しましょう。誰か手が空いてたら手伝ってくれるかしら?」


 行き当たりばったりにやったことだから段取りが悪いことこの上ない。

 水を二合ほど入れてぐるぐると掻き混ぜる。まだボソボソだが水をさらに二合ほど入れてひたすら掻き混ぜる。

 体重を掛けて捏ねる。ひたすら捏ねて、捏ねて、捏ねまくる。腕が攣りそうだ。


「誰かやってみたい人!」

「……」

「ちょっとずつで良いから代わってくれよ。腕が攣りそうなんだ。って言うか、働かざる者食うべからず。手伝わない奴は夕飯抜きだぞ!」

「やるわよ、やれば良いんでしょう。誰もやらないなんて言っていないでしょうに!」


 逆ギレかよ~! お園が不承不承といった顔で交代する。

 まあ、ちょっと言い方も悪かったかも知れん。これはフォローしておかなければ。大作は太鼓持ちになったつもりで揉み手をしながら愛想笑いを浮かべた。


「いやぁ、お園は何をやらせても器用だな。俺なんかよりずっと上手いぞ。こりゃあ美味しい蕎麦が食べられそうだ」

「煽てたって何にも出ないわよ。次は未唯の番ね。はい、バトンタッチ」


 そう言うとお園が手のひらを上げる。未唯がそれに合わせて平手打ちした。いやいや、それはハイタッチじゃん! 大作は心の中で突っ込む。

 藤吉郎、くノ一四人組が順番に蕎麦を捏ねる。ところでみんな、ちゃんと手を洗ったんだろうか。何で先にそれを確認しておかなかったんだろう。今ごろになってそれに気が付いた大作は目の前が真っ暗になる。

 まあ、しっかり茹でれば悪性細菌は死滅する筈だ。腹を壊したりはしないだろう。それに、今さら考えてもどうにもならん。次から気を付けよう。


「こんな物で良いんじゃないかしら、大佐」

「そうだな。次は打ち台に打ち粉を振って…… 打ち台は無いのかな? 無い? あるわけないよな。しょうがない。そこの板の間を綺麗に洗ってくれるか?」

「えぇ~! こんなところに食べ物を置くっていうの?」


 苦虫を噛み潰したような顔のお園を大作は必死に宥め賺す。

 みんなの協力も得て、気合いを入れて床板を拭き掃除した。


 床板に薄く打ち粉を敷いて生地を置く。手のひらで丸く地延しする。

 生地を左手で回しながら押し広げて行く。一編に十食分も作ろうとしたけど多すぎたんだろうか。思っていたより随分と巨大な円盤ができ上がった。


「次は麺棒で…… そんな物は無い? こりゃまった失礼いたしました! しょうがない。テントのポールを使おう。ちょっと細いけど何とかなるんじゃね?」

「そ、そうね。何とかなるんじゃないかしら」


 床板を打ち台にした時ほどの抵抗感は無いようだ。大作は綺麗な水でポールを丁寧に洗う。

 生地に打ち粉を振り、ポールに巻き付けては伸ばすを繰り返す。

 レモンみたいに歪な形になったら方向を変えて同じことを繰り返す。

 何となく四角くなったら、もう少し伸ばして厚みを整える。


「やっと食べられるのね? 美味しいのかしら。じゅるる~ もう我慢できないわ。早く私の分をちょうだい!」

「いやいや、気が早すぎるだろ。これを細く切った物が蕎麦なんだ。それに茹でなきゃならん。あと、汁も必要だな。鰹節も醤油も無いから味噌を使おう。ってわけで湯を沸かしてくれ」

「わかったわ、大佐。でも、私の忍耐にも限りって物があるのよ。覚えておいてね……」


 ドスの聞いた低い声でお園が唸る。これはヤバイかも知れん。大作は大慌てで麺を切ろうと…… 包丁が無い!

 ナイフで切れってか? よりにもよって床板の上で? 蕎麦なんて止めときゃ良かった。激しい後悔の念に襲われながらも大作はナイフで蕎麦を切ることに没頭した。






「蕎麦掻きを切っただけかと思ってたら、蕎麦って随分と美味しいのね。床板で作るって聞いた時はどうなるかと思ったわ」

「細く切ると表面積が増えるから汁がたくさん付くんだろう。それに食感も変わるしな。まあ、本当の蕎麦は味噌味なんかじゃないんだけど。よし! 次回は鰹節や醤油を手に入れて蕎麦汁もちゃんとした物を作ろう」

「蕎麦の作り方は確と覚えたわ。次からは私も手伝うわね」

「そうだな、頼むよ。俺はあんまり料理に向いていないみたいだしな」


 どうやら味噌味の蕎麦モドキはお園のお気に召したようだ。満面の笑みを浮かべながら蕎麦を手繰っている。それを見た大作はほっと胸を撫で下ろした。

 未唯やくノ一たちも物珍し気な顔をしながらも美味しそうに蕎麦を手繰っている。

 と思いきや、くノ一たちが揃って急に真顔になると聞き耳を立てた。数瞬の後、楓だか紅葉だかがごくりと音を立てて蕎麦を飲み込む。そして緊張した声で囁いた。


「大佐、何者かが近づいて参ります」

「ま~た~か~よ~~~! やっぱ、この屋敷は呪われてるんじゃね? 一度お祓いしてもらった方が良いかも知れんな」

「巫女なら二人もおられますぞ。お願いしてみては如何にござりましょう」


 藤吉郎が笑いを堪えながら相槌を打つ。その顔には緊張感の欠片も無い。


 だけど、三度あることは四度あるとも言うしな。大作はちょっとでも面白い展開に持って行けないかと思案する。

 もしかして、伊賀から呼んだ忍びがようやくやってきたんだろうか? とは言え、いくら凄腕の忍びでも早すぎるような。

 だとすると、またぞろ孤児でもやってきたのか? まあ、扉を開ければその瞬間に波動関数が収束するだろう。


「んじゃ、藤吉郎。誰がきたのか見てきてくれるかな?」

「そ、某がでござりまするか?」

「そこは、いいとも~! だろ。もしかして怖いのか?」


 大作は馬鹿にしているかしていないかギリギリの際どい表情で微笑み掛けた。

 自尊心を傷付けられたのか。あるいは逆に自尊心に火がついたのか。藤吉郎が目を剥き、激しく手を振ってアピールする。


「いやいや、怖くなどござりませぬ。如何に大佐とは申せ、お言葉が過ぎますぞ。されど、くノ一の方々ですら用心しておられるご様子。某には些か荷が重すぎるような。餅は餅屋とも申します。ここは菖蒲殿が見に行って頂けませぬか」

「結局は怖いんだろ~! ところで、饅頭怖いって話を知ってるか?」

「饅頭ってあの食べる饅頭? 何であんな物が怖いのかしら。私なら幾つでも食べられるわよ」


 三杯目の蕎麦を完食したお園がお腹を摩りながら鷹揚に微笑む。やっぱ、甘い物は入るところが別なんだろう。


「知っているのか、お園? 饅頭の起源も諸葛孔明だってことを。奴が中国南部に遠征した時、現地人が川の氾濫を抑えるために人の頭を生贄に捧げるとかやってたそうな。そんな野蛮なことを止めさせるため、羊肉とか豚肉を小麦粉の皮で包んで人の頭みたいに作ったんだとさ。世界ふ()ぎ発見!で見たことあるぞ。(民明書房刊 『古代中国の食文化』より)」

「何なの、その民明書房って?」

「気になるのはそっちかよ~! そんなことより……」


 その瞬間、ガタガタと音を立てて引き戸が開く。もしかして立て付けが悪いんだろうか。敷居の溝に蝋でも塗った方が良いかも知れん。

 とは言え、音を立てないと開けないってことは一種の防犯装置みたいな物だな。大作はポリアンナもびっくりのポジティブシンキングで良い方に解釈する。


「ただいま、大佐。遅くなってごめんね」

「見て見て、七揃いの金貨を作って頂いたわよ」


 戸口に目をやるとそこから顔を覗かせていたのはメイとほのかだった。

 げえっ、関羽! 大作は心の中の動揺を必死に抑え込み、無理矢理に平静を装う。

 何でも良い。何でも良いから面白いことを言わなきゃ。今、面白いことを言わんでいつ言えば良いんだ!


「オカエリナサイ」


 やっとの思いでこの場にぴったりの言葉を捻り出した。もちろん最後のイだけ文字が左右逆になっている。

 しかし、メイやほのかの耳にはそんな大作の言葉は届いていないようだ。二人ともクンクンと鼻を鳴らして匂いを嗅いでいる。と思いきや、次の瞬間には顔色が急変した。


「あら? もしかして、もう夕餉を食べいてたのかしら」

「私めたちは(ひだ)るいのを辛抱してたっていうのに。酷いわ……」

「こ、これはそのアレだな、アレ。毒見! そう、お前らが食べる前に食品安全性を検証していたんだよ。そうだよな? な? な? お園?」

「そうよ。大佐の作った蕎麦、美味しゅうございました。お園はもう走れません。ってね。あんたたちも冷めちゃう前に早く食べなさいよ」


 お園の言葉にはまったく悪びれた様子が無い。やっぱ、こういう時は強気で押し切った者の勝ちなんだろうか。大作は素直に感心する。

 素早く器を二つ手にすると卑屈な愛想笑いを浮かべながら鍋を覗き込んだ。


「さあさあ。どうぞ熱いうちにお召し上がり下さい…… って! 空っぽやん! お前、あんなに作ったのに全部食っちまったのかよ!」

「だって、しょうがないわよ。とっても美味しかったんですもの」


 肩の高さで手のひらを上にしたお園が小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべる。

 これってどういうことなんだろう。もしかしてポーカーでブタなのにブラフを利かしてるような状況なのか?

 大作は頭をフル回転させて打開策を探す。ポク、ポク、ポク、チーン。閃いた!


「蕎麦湯! そうだ、蕎麦湯を飲もう」

「えぇ~~~! この、どろどろを飲めって言うの?」

「蕎麦通なら蕎麦湯まで美味しく頂くのは当然のマナーだぞ。それに、茹で汁には栄養成分が豊富に溶け込んでるんだ。それをすてるなんてとんでもない! 蕎麦の天然ルチンは難水溶性だから蕎麦からは溶け出さない。でも、打ち粉がそのまま溶け込んでるはずだろ。こいつは毛細血管を補強して動脈硬化を防いだり血圧を下げたりしてくれる。血液をサラサラにしてくれるかも知れん。ビタミンB1は脚気の予防、疲労回復、神経や脳にも良い。B2は美肌効果があるそうな。ナイアシンやコリンは肝臓に良いとか解毒作用があるとかアルコールを分解するんだとか。カリウムが何に効くかは書いてないけど何か良いことがあるんじゃね? さあ、何でも良いから遠慮せず飲め飲め」


 こうなったら勢いだけで乗り切るしか無い。大作は濁った茹で汁を器に注ぐと適当に味噌を放り込んで掻き混ぜた。

 器を押し付けられたメイとほのかの瞳が不安気に揺れる。


「大丈夫、怖くない怖くない」

「べ、別に怖がってなんてないんだからね!」

「そ、そうよ。空腹は最高の調味料なんでしょう!」


 奪い取るように器を受け取ると二人が競うように口を付けた。


「熱っう! でも、とっても美味しいわよ」

「そうね。見栄は悪いけど長靴一杯食べたいわ」


 半信半疑だった表情がみるみるうちに驚きに変わって行く。残った茹で汁を二人が何度もお代わりして飲み干してしまう。

 暫くしたころには膨れたお腹を摩りながらメイが満足げに微笑んでいた。ほのかも先ほどまでの膨れっ面が嘘のように上機嫌だ。


「蕎麦湯も美味しかったけど、次は私たちにも蕎麦を食べさせてね」

「蕎麦って蕎麦掻きを細く切った物なんですってね。それって饂飩(うんどん)みたいな物なのかしら?」

「う、うんどん? うどんのことかな? JAS規格の乾めん類品質表示基準では長径1.3ミリ未満が素麺(そうめん)、1.7ミリ未満が冷麦(ひやむぎ)、それより太いのが饂飩だな。ただし、これは機械製法の話だ。手延べだと1.7ミリ未満は素麺・冷麦どっちでも良いんだってさ(民明書房刊 『日本の麺類史』より)」

「ふ、ふぅ~ん。太さで名前が変わるのね。でも、味はそんなに変わらないんでしょう?」


 食べ物の話になった途端にお園が目の色を変えて食い付いてきた。

 まあ、食後の腹ごなしには丁度良いだろう。大作は安心して無駄蘊蓄を披露する。


「話は変わるけど、南蛮にもスパゲッティっていう小麦粉を練った麺があるんだぞ。太さはいろいろあるけど二ミリくらいが普通かな」

「すぱげってぃ? それって美味しいのかしら?」

「イタリア人の主食みたいな物だな。ちなみに、ヒトラー総統がお亡くなりになる前に食べた昼飯もスパゲッティだったって話だぞ。エヴァ・ブラウンと結婚した後の話だ。シャンパンも開けたそうだけどヒトラー総統は手を付けなかったらしいな。そう言えば……」


 夜が更けるのも忘れてヒトラー談義を続ける大作の脳裏から金貨の話は綺麗さっぱり消え去っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ