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巻ノ百参拾七 君のトラックナンバー2628! の巻

「申し訳次第もござりませぬ。何卒ご容赦下さりませ」


 大作たちの眼前に(やつ)れ果てた様子の青左衛門が平伏していた。

 それを見下ろしながら大作は頭をフル回転させる。

 この天才鍛冶屋は今後の計画に必要不可欠のキーパーソンだ。ソ連のロケット開発計画に例えるならコリョロフといったところだろう。少なくとも替えが見つかるまでは大切に扱わねば。

 だったらこれ以上無理をさせて潰すわけには行かない。とは言え、鉄砲や大砲だけに掛かりっきりになられても困る。

 ぶっちゃけ、島津を倒すだけなら何とでもなる。だが、それまでの三年間を楽しく過ごすためにはいろんな物を次々と開発して貰わねば。下手すると退屈で死んでしまうかも知れない。


 HOIだと研究ラインを増やすにはどうすれば良いんだっけ。工場を建ててICを増やす? だけど肝心の青左衛門がこの調子ではそれどころではなさそうだ。


「お顔を上げて下さりませ、青左衛門殿。無理なお願いを致した拙僧が悪うございました。しかし、それほどまでに忙しいならば人を増やしては如何にござりましょう」

「新たに弟子を取れと申されさまするか。されど、刀鍛冶の技は一子相伝。誰でも良いとは参りませぬ。それに一人前になるまでに十年は掛かりましょう」


 若い鍛冶屋は頭を下げたまま大作の顔を見ようともしない。検討の余地も無いということなのだろうか。


 ネットで読んだ話によると刀鍛冶になるには文化庁主催の作刀実地研修会を修了しなけりゃならんらしい。だが、それに参加するだけでも刀匠資格を有する刀鍛冶の下で四年以上の修業が必要になるんだそうな。

 とっくに対島津戦が終わってるじゃん! 大作は心の中で突っ込むが口には出さない。


「青左衛門殿、我らの理化学研究所が欲しておるのは腕の良い刀鍛冶ではありませぬぞ。マックジョブという言葉を耳にしたことはござりませぬか?」

「まっくじょぶにござりまするか」

「マッキントッシュとジョブスのことではありませぬ。一昔前の産業用ロボットでもこなせるような単純な反復作業。誰にでもできる簡単な仕事にござります。AIの著しい進歩によって近い将来、人の行う仕事の大半はAIに取って変わられることになりましょう。されど今は十六世紀。銭二十文の日当で人足を集めた方が遥かに安く上がりまする。土地、建物、日当。すべて我が寺にて負担を致しましす。青左衛門殿は必要な時、人足に指示を与えて下されば良い。もちろん、拙僧が大殿の密命を帯びていることをお忘れなく」


 説明が面倒臭くなってきた大作は強引に例の決めゼリフで誤魔化した。

 こりゃあ、早いうちに殿に話を通しておかなきゃならん。勝手に名前を使って後でバレたら本当に不味い。絶対に忘れないよう大作は左手の甲にボールペンでメモ書きした。




 青左衛門は大作たちを座敷に通してくれた。その顔には諦観という言葉がぴったりの寂し気な笑みが浮かんでいる。

 その表情を見ているうちに大作は何とも言えない悲しい気持ちで胸が一杯になった。

 こういう生真面目な人ほどブラック企業で違法残業させられているんだろう。そして誰にも相談できず、過労死や自殺といった最悪の結果を招くのだ。

 そんな非道は許してはならん! 絶対にだ! 大作は諸悪の根元が自分だということを忘れて心の中で絶叫する。


「青左衛門殿。話は変わりますが拙僧と三六(さぶろく)協定を結びませぬか。労働基準法第三十二条は労働時間を一日八時間、週四十時間。第三十五条は週一回の休日の原則を定めております。そして第三十六条は『労使協定をし、行政官庁に届け出た場合においては、その協定に定めるところによって労働時間を延長し、又は休日に労働させることができる』と定めておりまする」

「某には難しいことは露ばかりも分かりませぬ。大佐様の思し召しのままに」


 青左衛門が呟くように答える。蚊の鳴くようなその声はコンピュータの合成音声みたいに感情がこもっていない。焦点の定まらない虚ろな目に見つめられた大作は背筋が寒くなった。


 これはもうダメかも分からん。負荷軽減とか言ってる段階では無いぞ。必要不可欠な人材ほどバックアップが必要なのだ。そうなると今やらねばならんのは……


「またまた話は変わりますがトラックナンバーという言葉をご存じにありましょうや? プロジェクト管理において『トラックに轢かれる等の理由でチームから人が抜けた場合、以後の継続が困難になる人数』にござります。我々の鉄砲、大砲開発プロジェクトにおいて青左衛門は余人をもって替えがたき逸材。つまりトラックナンバーが一の状態にござります」

「某の如き者に過分なるお褒めのお言葉。恐悦至極に存じまする」


 口ではそんなことを言っているが少しも嬉しそうに見えない。そもそも『お前が死んだら困る』なんて言われて素直に喜べるかよって話なのだ。


「そこで青左衛門殿のご苦労を少しでも和らげるため、トラックナンバーを二に致しましょう。頼んだぞ、藤吉郎!」

「え、え~~~!」


 大作に軽く背中を叩かれて藤吉郎が目を白黒させた。これくらいのアドリブで驚くなよ。大作は心の中で突っ込みを入れる。


「今日からお前は理化学研究所の副所長だ。青左衛門殿の負担を少しでも軽くして差し上げろ。お前は細かいところに良く気が回る。分からぬことも多かろうが失敗を恐れずチャレンジ精神を持って挑んで欲しい」

「はっ! 大命、謹んでお受け致します」


 雑用を押し付けただけなのだが、藤吉郎は意外とやる気になっているようだ。結果オーライだな。

 大作は姿勢を正すと真面目腐った顔で一人ひとりの目を見つめる。


「それでは今日のところは本来の目的であった印刷のみに絞って話を進めましょう。藤吉郎がメイン担当。青左衛門殿はサブ担当としてフォローをお願い致します」

「某は言加(ことくは)ふるだけで宜しいと申されますか!」


 そう言うと青左衛門が勢いよく顔を上げる。その顔には見たこともないような満面の笑みが浮かぶ。

 なんて露骨な喜びようだろう。あまりの豹変ぶりに大作はちょっと引く。とは言え、やる気にさえなってくれるんなら文句は無い。


「さて。木版印刷が発明されておよそ千年。グーテンベルクが金属活字による活版印刷を発明したのが百年ほど昔のこと。されど、どちらも大層な手間が掛かりまする。もっと簡単で便利なやり方はありませぬでしょうか?」

「便利? (くそ)尿(しと)のことにござりますな」


 顔を顰めながら青左衛門が口を挟む。サブ担当とはいえ真面目に話を聞く気はあるようだ。大作はちょっと嬉しくなる。


「いやいや、ルテニウム触媒を用いた低圧アンモニア合成は別の機会といたしましょう。話を戻しますぞ。十八世紀末にリトグラフが発明されます。水と油を使ってインク…… 墨のような物を印刷したいところだけに載せるやり方にござりまする。二十世紀初頭にはスクリーン印刷が発明されました。糊を使って布を染める捺染にインスパイアされたという説もあるそうな。同じころに平板印刷の一種、オフセット印刷も発明されました。ちなみに、二十一世紀には同人誌から新聞までほとんどの印刷物はオフセット印刷で作られておりますぞ。一方、十九世紀末に発明されたフレキソ印刷というのもございます。環境意識の高い欧米では主流となりつつあるようですな」

「ほほう、さすれば我らは『ふれきそいんさつ』を作れば宜しゅうござりますな」


 青左衛門の瞳に生気が戻ってきた。ようやく新しい知識や技術が効いてきたようだ。大作は胸を撫で下ろす。


「残念ながら紫外線で硬化する感光ゴムやレーザー刻印機は難易度が高すぎますな。同じく十九世紀末にエジソンが発明したガリ版というのもありますが……」


 油紙でも使えば何とかなるかも知れん。だが、あれだと簡単すぎて達成感が足りない。それに、どう考えても鍛冶屋の仕事じゃ無いし。大作は首を傾げて無い知恵を絞る。


「今、手元にある物で手っ取り早く印刷しようと思ったら…… 閃いた! 十九世紀に発明された紙型(しけい)のアイディアを応用しましょう」

「しけい?」


 大作がスマホに表示させた画像をみんなが物珍しそうに覗き込む。

 十七世紀末には粘土、十八世紀には石膏を用いて鋳型を取っていたそうな。よりによってそれを紙で作ってしまうとは凄いアイディアだ。大作は素直に関心する。


「聞くところによれば金属活字で大量印刷すると活字がすぐに擦り減ってしまうそうな。それに金属活字で組んだ版はとっても重いので取り扱いが大変です。そこで活版に湿らせた分厚い紙を押し付けて文字の部分が窪んだ紙の鋳型を作りまする。そこへ溶けた鉛を流し込んでやれば薄い鉛の凸版を作ることが叶う次第」

「されど、溶けた鉛は随分と熱うございますぞ。紙が燃えてしまわぬでしょうか?」

「鉛の融点は摂氏三百二十七度。レイ・ブラッドベリは紙の発火点を華氏四百五十一度だと申されました。摂氏で言うと二百三十三度ですな。されど、実のところは種類によってまちまち。それに、鉛の比熱は水の三十分の一に過ぎませぬ。すぐに冷えてしまうのでご安堵下され」


 鉛の比重は十一もあるんだけどな。だから、体積当たりの熱量は水の三分の一ってところだろう。そのことに大作はあえて触れない。

 ただ一人、お園だけがそれに気付いたらしい。唇の端をわずかに上げて意味深な視線を向けてくる。大作も悪戯っぽい笑みを浮かべながらウィンクを返した。


 なぜだか未唯が笑いを堪えて肩を震わせている。片瞬き(ウィンク)って戦国時代には何か特別な意味があったんだっけ? 不安に駆られた大作は必死に記憶を辿る。


 ウィンクの語源はドイツ語のWinkenで『合図を送る』といった意味らしい。現代みたいな使い方がされるようになったのはいつごろからなのだろう。ディケンズのピクウィック・クラブにそんな描写があったんだそうな。当時の絵画にもそんな婦人像があったとか無かったとか。

 日本では奈良県葛城市の当麻たいま寺が所蔵している敷板にウィンクしている男の落書きが残されているそうだ。平安初期に描かれたそれには、烏帽子を被った男が左目を瞑って微笑む横顔が描かれている。

 だが、戦国時代のウィンクにどんな意味があったのだろうか。そもそもそんな習慣があったのか。さぱ~り分からん。


 性的な意味とかあったら困るなあ。セクハラ野郎だと思われてたらどうしよう。散々に迷った末、大作は恐る恐る未唯にもウィンクしてみる。

 すると、一瞬の間を置いて未唯が急に俯いてしまった。耳まで真っ赤にして肩を震わせている。


 失敗した、失敗した、失敗した、私は失敗した! 大作は激しい後悔の念に苛まれる。

 だが、次の瞬間、未唯がぱっと顔を上げた。その表情はとっても嬉しそうだ。少し恥ずかしそうな笑みを浮かべながらウィンクを返してくる。

 もしかして結果オーライなのか? 大作は小さく安堵の吐息を付いた。




「そんじゃあ、(しょう)…… 菖蒲(あやめ)は材木屋に行って版木に使えそうな板を貰ってきてくれ。竪紙(たてがみ)くらいの大きさの平べったい板だ。(かつら)がベストだけど無ければ彫り易そうな柔らかい木ならなんでも良い。四方を囲む型枠も作るから適当な端材も頼む」

「御意」


 元気良く返事をすると(しょう)…… 菖蒲(あやめ)が風のように走り去った。


「青左衛門殿は完全に水平な台をご用意下りますか。それと鉛の用意もお願い致します」

「心得ました」


 若い鍛冶屋は奥に下がると奉公人らしき若者に指示を出す。


「あとは彫刻刀か。そんな物が戦国時代にあるのかな? 篠笛を買ったりサックスのリードを作って貰った笛師はどうじゃろ。それか轆轤師とか大工さん? 藤吉郎と未唯で手分けして当たってくれ」

「分かったわ」

「畏まりました」


 二人も風のように…… とは行かないが、そこそこ足早に去って行った。

 一人残ったお園が大きな瞳を輝かせながら興味津々の様子で詰め寄ってくる。


「それで? 私たちは何をするのかしら」

「取説に何を書くか考えなきゃならんな。一枚の竪紙の裏表に過不足無く必要な情報を詰め込むんだ。それを三つ折りのリーフレットにしよう」

「り~ふれっと?」


 大作はスマホの中から1964年11月9日の第十三回ユネスコ総会で採択された『図書及び定期刊行物の出版についての統計の国際化な標準化に関する勧告』とかいうPDFを探して表示させた。


「一枚の紙を半分や三つ折りにした物だよ。五ページ以上で四十九ページ未満のは小冊子(パンフレット)。それ以上だと図書になるんだ」

「ふ、ふぅ~ん。紙が何枚あるかで名前が変わるなんて妙な話ね。それで、どんなことを書けば良いのかしら。絵も描くって言ってたわよね。大佐が描くんでしょう」

「まかせとけ! そうだ、裏面の隅っこに山ヶ野では日当二十文に朝夕の食事付きで人を集めてるって求人広告も入れよう。って言うか、それが本来の目的なんだっけ。人が大勢きてくれると良いなぁ」


 そんな話をしながらタカラ○ミーの『せん○い』でレイアウトを決めて行く。


 本製品の使用や故障によって生じた損害、逸失利益または第三者からの請求について当社は一切の責を負いません。

 本製品を分解、修理しないでください。事故、怪我の原因となります。修理の際は販売店、又はお客様相談窓口にご相談ください。

 本製品は平らな場所に置いてご使用ください。不安定な場所でご使用になると転倒などにより、怪我や故障の原因となることがあります。

 お子様の手が届かない場所に保管してください。

 リサイクルの際はお住まいの自治体の定めに従って下さい。

 この取扱説明書の全部または一部を当社の許可無しに転載、複製することを禁じます。


「こんなところかなぁ。他にも何か書くことあったっけ?」

「とりせつってこんな物なの? 何だか言い訳じみたことばかりに見えるわよ。ちゃんと使い方も書かなきゃいけないわ」

「そんなの俺に分かるわけ無いじゃん。そうだ! その辺りは藤吉郎に頼もう」

「……」


 憐れみの籠ったお園の視線を大作は軽くスルーした。




 半時間もしないうちに(しょう)…… 菖蒲(あやめ)が戻ってきた。手にはリクエストの通りに竪紙くらいの大きさの板を持っている。


「ご苦労、(しょう)…… 菖蒲(あやめ)。あれ? 一枚しか無いのか。まあ良いか。両面を使えば何とかなる。とは言え、絶対に失敗できんな」

「しくじったらまた取りに行って貰えば良いわよ。それじゃあ書きましょう。青左衛門様。墨と筆をお借りしとうございます」

「へい、ただいま」


 直に書くのかよ! 大作はお園の大胆っぷりに驚愕する。とは言え、もう時間もそんなに無いし仕方がない。巻きで行こう。


「あとで字のところだけ彫らなきゃいけないんだ。彫り易いように書いてくれよ」

「え~~~! 無体なことを言わないでよ」


 板に字を書いていると藤吉郎と未唯が戻ってきた。藤吉郎が大切そうに包みを抱えている。


「お疲れさん。無事に借りられたようだな。大変だったか?」

「轆轤師、大工、笛師を回りましたが彫刻刀とやらはございませんでした。ほとほと困り果てておったところ材木屋殿が指物師(さしものし)をご紹介下さりまして三角(のみ)をお借りすることが叶いました」

「そうかそうか。あとでお礼に伺わねばならんな」


 お園に一休みして貰って大作は文字が書かれたところを彫ってみる。恐る恐る三角鑿を当てると思ったよりサクサクと彫れた。どうやら本物の桂らしい。

 とりあえず手を切らないことを最優先しなければ。出来の良し悪しは二の次だ。

 って言うか、早くも単純作業に飽き飽きしてきた。


「良し、交代だ。代わってくれ、藤吉郎」

「お任せ下され」

「彫刻刀…… 三角鑿に左手の親指か人差し指を添えてコントロールしろ。前に手を置いたら絶対にダメだぞ」

「心得ておりまする」


 版木彫りを藤吉郎に任せた大作は次の作業に掛かる。


「出来上がった版木に溶けた鉛を流し込まなきゃならんな。三十センチ×五十センチに厚みを一センチとして千五百立方センチだな。鉛の比重って十一くらいだから十六キロ以上かよ…… しょうがない。厚みは五ミリに減らそう。青左衛門殿、鉛を二貫目ほど溶かして下さりまするか。鍋が入用になりまする」

「鉛が二貫目にござりまするか。印刷とは随分と金の掛かる物にござりまするな」

「いやいや、印刷が終わった鉛板はリサイクル可能にございます。ご安堵下さりませ」


 八キロの鉛を溶かそうと思ったらかなりの時間が掛かるはずだ。先に準備しておいて損は無いだろう。

 とは言え、百ページの本を印刷しようと思ったら八百キロの鉛が必要なのか? いやいや、A5サイズなら四ページ刷れるか。

 それでも鉛が二百キロも必要になるとは。三匁半の鉛弾が一万五千発も作れる量だ。洒落にならんぞ。早目に手を打った方が良さそうだ。


 文字を書くお園とそれを彫る藤吉郎は交代で休憩を取りながら作業を進める。

 (しょう)…… 菖蒲(あやめ)、未唯、大作の三人は手伝うことも無いので手持ち無沙汰なことこの上ない。

 とは言え、遊んでいるわけにも行かない。墨を摩ったり馬連を作ったりして時間を潰す。


 日が傾いたころ、ようやく版木が仕上がった。突貫工事の割には見た目は悪く無い。

 くたびれ果てた様子の藤吉郎が手をぷらぷらさせながら頭を下げる。


「少しばかり彫り過ぎてしまったところがございます。申し訳次第もござりませぬ」

「ドンマイドンマイ。鉛板を作ってから削って修正すればリカバリ可能だ。No problem!」


 ちょうど良い具合に鉛も溶けてきたようだ。大慌てで版木の回りを囲む型枠を端材で作る。不意に大作の胸中に不安感が込み上げてきた。


「こんな物に二貫目も溶けた鉛を流し込んで大丈夫かな?」

「そんなの私に分かるわけ無いわ。もし流れ出したら大事よ。地べたに穴を掘って置いた方が良いんじゃないかしら」

「ナイスアイディア!」


 青左衛門に一声掛けると土間の一角に全員で浅い穴を掘る。未唯が笑いを堪えながら口を開く。


「大佐ってどうしていつもこんなに行き当たりばったりなの?」

「いやいや、本田宗一郎も言ってるぞ。『失敗を恐れるな、何もしないことを恐れろ』とかなんとか」

「ふぅ~ん。でも、しくじりを怖がらないのと何も考えていないのは違うと思うわよ」

「……」


 図星を差された大作は黙って唇を噛み締める他にない。まあ、印刷にさえ成功すれば尊敬も取り戻せるだろう。大作は一人ほくそ笑む。


 待つこと暫し。青左衛門が溶けた鉛が入った鍋を運んで来る。何だかとっても重そうだ。鍋の重さも合わせれば十キロくらいあるんだろうか。

 もし引っくり返したら大惨事だな。大作は見ているだけで胸が苦しくなってきた。

 そう言えば、溶けた鉛に指を突っ込むという怖い動画を見たことあったっけ。思い出しただけで指先がヒリヒリするようだ。


「お待たせいたしました、大佐様」

「火傷したら大変だ。お園、未唯、(しょう)…… 菖蒲(あやめ)は離れてろ。お願い致します、清左衛門殿」

「心得ました。されど、平らな台は無用にござりましたな」


 青左衛門が馬鹿にしたような半笑いを浮かべている。大作はイラっとしたが怒らせると怖いので何も言い返せない。なんてったって溶けた鉛を抱えているのだ。


「それでは参りますぞ」


 そう言うと若い鍛冶屋は鍋を傾ける。溶けた鉛がチョロチョロと版木の上に零れ落ちた。見た目は水銀みたいだけど三百度以上もあるとは信じられん。

 もし火傷したらと思うと大作は怖くてしょうがない。けれど、普段から真っ赤に焼けた鉄を扱っている鍛冶屋は何とも思っていないようだ。

 だが、次の瞬間、背後から上がった叫び声に青左衛門の顔色が変わる。


「大佐! 焦げ臭いわよ。もしかして木が燃えてるんじゃない?」

「そんな馬鹿な。俺の勘は確かだぞ。第一、鉛で空気が遮断されてるんだ。燃えるわけが無いじゃん」


 大作は屈んで版木に顔を近付ける。臭いを嗅いでみると確かにちょっと焦げ臭い。こりゃあヤバイかも知れん。ちょっとでも冷ました方が良いんだろうか。大きく息を吸い込むと口を窄めて思いっきり吹き掛けた。


「いけませぬ、大佐殿!」


 青左衛門が血相を変える。その瞬間、版木から火の手が上がった。

 大作はバックドラフトという映画を思い出す。タワーリングインフェルノにもチョロチョロ燃えていた部屋の扉を開けた途端に炎が噴き出してくる場面があったっけ。

 そうか、空気だ。空気がいけないんだ。トム・ハンクスも言ってたっけ。いやいやいや、それどころじゃ無いぞ。逃げなきゃ!


「総員退避ッ! 総員退避~ッ! フッ、間に合うものか……」


 大きな鍋を抱えた青左衛門を置き去りに、大作たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。


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