巻ノ百参拾 温泉に入ろう の巻
日が大きく傾いたころ、やっとこさっとこ大作たち一行は平佐城の二の丸に辿り着いた。
「夕餉の支度を急がせておるが今暫くは掛かりそうじゃな。千手丸、先に湯を浴むと致そう」
「御意」
本丸まで登ると思っていた大作はほっと胸を撫で下ろす。
馬に乗ったままの重朝に続いて千住丸、大作、お園、未唯が金魚の糞みたいに続く。
って言うか、みんなで入るの? マジかよ! 大作は本気で心配する。
だが、そんな心配を他所に重朝は途中で馬に乗ったまま別方向に分かれて行った。
ローマ皇帝は公衆浴場で庶民に混じって入浴したとか何とか。クイズ番組で言ってたような言って無かったような。
きっと戦国時代の日本にそんな文化は無かったんだろう。いやいや、もしかして馬に乗ったまま入れるペット同伴可の温泉があるのかも知らんけど。
そんな阿呆なことを考えながら南に向って少し歩く。だんだんと卵の腐ったような臭いが漂い、立ち昇る湯気が見えてきた。
「これはお湯の香りね」
「し、知っているのか、お園……!?」
大作は虎丸になったつもりで大袈裟に驚いた振りをする。そう言えば、範清蒲生の小姓も虎丸って名前だったっけ。しかし、お園の表情が急に険しくなった。
「私は甲斐の生まれだって何遍も言ったわよね!」
「ごめんごめん。そういや、甲斐国にも温泉があったんだっけ。ところで、ニュースで『硫黄の臭い』って言ったレポーターに東大教授が『硫黄は無臭』ってツイートした事案を知ってるか? でも硫黄って言葉は湯泡が変化した物だから硫黄の臭いでも良いんじゃねって突っ込まれたんだ。まあ、正しくは硫化水素の臭いだって覚えとけば大丈夫だ。卵の腐ったのと同じ匂いだな」
「紫尾神社でもこんな香りを嗅いだことがあるわ」
未唯も不思議そうに首を傾げる。そういや、あの神社にも温泉があったんだっけ。
「ガス臭いなんて言葉もあるけど天然ガスも無臭なんだ。あの変な臭いはチオールって物質で、エタンチオールはギネス登録されている世界一臭い化合物だぞ。フランスの工場でチオールが漏れ出した時はイングランドにまで臭いが届くほどの大惨事だったらしいな」
「ふぅ~ん。難儀なことね」
そんな無駄話しをしているうちに一行は板壁で囲まれた一角に辿り着く。
「こちらにございます。ごゆるりと湯浴みなされませ」
千住丸が麻っぽい布切れを一人ひとりに手渡す。これを湯文字の代わりに腰に巻けってことなんだろうか。
板戸を開けると中には広々とした露天風呂があった。番台も無ければ脱衣籠も無い。そんな物があるとは思っていなかったが洗面器やバスチェアすら無い。
何だか地獄谷野猿公苑みたいなワイルドな温泉だな。まあ良いや。タダで入れて貰うのに贅沢は言えん。大作は考えるのを止めた。
「さっさと済ませて夕餉を頂きましょう」
お園の頭はすでに夕飯で一杯らしい。言うが早いか真っ先に白衣と緋袴を脱いで湯文字を腰に巻いた。未唯も競うように後に続く。
あまりにも堂々としているので大作は微塵もエロさを感じない。やはり羞恥心の感覚が現代人と違うのだろうか。
ちなみにWikipediaによると鎌倉時代の人たちも褌や湯帷子を着けて蒸し風呂に入ったそうだ。それが素っ裸で入るようになったのは安土桃山って書いてある。
ところが、湯文字の項目には江戸時代の女性は湯に入る時、必ず湯文字を着けていたとも書いてある。お湯の中で捲れないよう、念の入ったことに裾には鉛の錘が縫い込んであったそうな。
胸は見せても良いけど下は駄目ってことなんだろうか? まあ、その逆ってことはあんまり無いような気もする。フランス女性がビーチでトップレスになるという習慣も過去の物となりつつあるとか何とか。
ともかく、男女混浴とはいっても最低限のルールはあったようだ。って言うか、好き好んで混浴にしていたわけでは無いらしい。風呂屋が薪や水を節約するためだって説もあるようだ。
炉筒煙管ボイラーとか作って熱効率を高めればワンチャンあるかも知れん。ちなみにJISではボイラだ。一般社団法人日本ボイラ協会なんてのもある。とは言え、国家資格はボイラー技士だったりもするのだが。
そもそも羞恥心という物は時代や地域で大きく異なる。
古代エジプト人は胸を丸出しにしていたらしい。だが、ギリシアやローマの時代には胸はちゃんと隠していたようだ。
ずっと時代が下るとフランスの勝利王シャルル七世の愛妾アニェス・ソレルみたいなのが出てくる。上流階級の女性が公の場で乳首丸出しのドレスを着るなんて日本では考えられない。
ところが足は絶対に人目に晒さない。売春婦ですら長いスカートを履いているのだ。膝から下すら必死に隠していたのだから不思議だ。
ちなみに大作はシャルル七世も大嫌いだ。もし次にタイムスリップする機会があればジャンヌ・ダルクを助けてフランスを無茶苦茶にしてやりたい。って言うか、1430年って言うとフス戦争の真っ最中か。そっちに介入した方が面白いかも知れん。鉄砲を改……
「大佐も早く脱いだら?」
未唯の声に妄想世界に浸っていた大作の意識が現実に引き戻される。慌てて僧衣を脱いで布切れを腰に巻く。
「やっぱり今日は僧衣を脱ぐ日だったのね」
お園が悪戯っぽい目をして含み笑いを浮かべる。いつまでその話を引っ張ってるんだよ~! 大作は心の中で突っ込んだ。
「忍びを連れてこなかったのは失敗だったかも知れんな。湯浴みの最中に殺された有名人って結構多いんだぞ。たとえば太田道灌は当方滅亡って叫んで死んだ。でも辞世の句も二首残しているんだ」
「ふぅ~ん。随分のんびりと亡くなったのね。でも、夕餉の前に殺されるのは困るわ」
お園が眉間に皺を寄せる。気になるのはそこなんだ~! 大作は心の中で突っ込む。
「源義朝は首に紐を巻かれたうえ、急所攻撃されたそうだ。男としてはちょっと同情しちゃうな。幡随院長兵衛は殺されるって分かってたんだと。でも、逃げたら笑われるとか言って堂々と風呂に入ったそうな。俺に言わせりゃタダの阿呆だな。源頼家は『我れに木太刀の一本なりともあれば』とか言ったらしいぞ。俺たちも風呂に持って入っても大丈夫な防水性のある拳銃の開発を急いだ方が良いかも知れんな」
「そんな話はお湯に浸かってからにしましょうよ。裸じゃ寒いわ」
お園と未唯に手を引かれ温泉まで進む。手を浸けてみると無色透明な湯はかなり熱い。
「ちょっと待った。掛け湯をしなくちゃ。手足から始めて心臓に遠いところからだんだん暖めろ。急に湯に入ると血圧が上がっちゃうからな」
「心の臓ね。未唯、覚えた! えぃ!」
「いやいや、心臓は最後なんだって。それ!」
「やったわね~ ほら!」
暫しの間、三人でキャッキャウフフとお湯の掛けっこをしてから湯に入る。
「風呂はいいな~ 風呂は心を潤してくれる。リリンの生み出した文化の極みだよ。そう感じないか、お園」
「も~、大佐ったら。それは歌でしょう。でも、お湯も良いわね。山ヶ野にも欲しいわ」
「そうだな。冬までには何とかしよう。炉筒煙管ボイラ、ボイラー? どっちでも良いや。青左衛門に頼もう」
「ろとうえんかんぼいら、ぼいら~ね、未唯覚えた!」
これ以上あいつに仕事を押し付けたら切れるんじゃ無かろうか。大作はちょっと心配になる。
そうだ! あいつも風呂に入れてやろう。そうすれば良さが分かるはずだ。
「それで、大佐。さっきの話の続きは?」
「何だっけ? そうそう、最近だと筑後国人の星野重泰って奴が大友の家臣に殺されたそうだ。海外に目を向ければジャン・ポール・マラーも風呂に入ってる時に殺されてるな。とは言え、こいつは近代化学の父、ラヴォアジェを私怨で処刑した糞野郎だ。同情には値しないぞ。殺されたわけじゃ無いけど江崎グリコの社長も風呂に入ってる時に誘拐されてるな。素っ裸で連れ去られるなんて気の毒な話だろ」
「のんびり湯浴みもできないなんて、ゆうめいじんって憂いが絶えないわね」
「江戸時代の風呂屋みたいに二階で刀を預かるのが良いかも知れんな」
お湯の温度は思っていたより遥かに熱い。いくら大作が江戸っ子だと言っても熱すぎる。湯あたりするとアレなのでさっさと上がることにした。
「バスタオルが無いじゃん! しょうがない。バッグにタオルがあったはずだ」
「手布なら私も持ってるわ」
適当に体を拭いて着物を着る。湯文字はどこに返したら良いんだろう。後で怒られるのも嫌だ。三人はグルグルと振り回して乾かしながら二の丸へと戻った。
二の丸には木造の櫓や門、板葺き屋根の長屋みたいな小屋が建ち並んでいる。入口の脇に立っていた千手丸に生乾きの湯文字を返す。案内された大広間には重朝が座っていた。
「おお、大佐殿。随分と早うござったな。良う温もられたか?」
「いえいえ、岩見守様ほどではござりませぬ」
大作は『お主も悪よのぅ~』と心の中で付け加えた。
重朝は淡い茶色の透素襖に着替えている。ってことはこのおっさんも入浴したんだろう。馬がどうなったかは知らんけど。
まるで待ち構えていたように膳が運ばれてくる。例に寄ってレディーファーストだ。
これで鯰が出てきたらびっくりなのに。もしそうだったらどんなリアクションを取れば良いだろう。だが、大作の取り越し苦労は杞憂に終わる。
本膳は鮃の潮汁だった。直球過ぎてちょっとアレだが冒険して失敗されるよりは遥かにマシだ。横目でお園の様子を伺うと満面の笑みを浮かべている。
中心温度七十五度で五分以上の加熱調理をしているんだろうか? まあ、この後には刺身も出てくるんだ。心配してもしょうが無い。
大作は捨て鉢気味の覚悟で椀に口を付ける。塩味が濃いので美味いんだか不味いんだか良く分からない。
二の善は鮃の刺身だった。たまり醤油みたいな漿醤が添えられている。
クドア・セプテンプンクタータが心配な大作は切り身の断面に目を凝らすが異常は認められない。胞子の大きさは十マイクロメートルくらいなので見えるわけも無いのだが。
いやいや、アニサキスも心配だぞ。アレは二センチくらいあるはずだから肉眼でも見えるはず。目を皿のようにして観察するが見当たらない。
クドア・セプテンプンクタータに関しては最悪でも死ぬ心配は無い。覚悟を決めて口に入れるが緊張で味が良く分からない。
お園はと言えば大きな目をキラキラと輝かせている。感動で言葉も出ない様子だ。
「どうじゃ。美味いか? 直答を許す」
「さっぱりと淡白で上品な味にございます。コリコリとした歯応えが何とも申せませぬ」
「左様か。夏の大口カレイは卵を産んだ後じゃ。秋から冬に採れた旬の大口カレイはもっと美味いぞ。食べ比べてみるのも一興じゃろう」
そう言うと重朝が上機嫌な様子で豪快に笑った。お園も満面の笑みを浮かべている。だが、大作はこんなスリリングな食事は真っ平だ。
クドア・セプテンプンクタータが最も危険なのは夏だと書いてある。冬から春は安心らしいので当分は遠慮しておこう。
三の膳は鮃の鱠だ。酸っぱい物が苦手な大作には美味いんだか不味いんだか良く分からない。
与の膳は鮃の煮つけだった。ちなみに与なのは四だと死を連想させるからだとか何とか。
途中までは鯰が出てこなくてラッキーと思っていた。だが、まさか鮃づくしだったとは。もう当分のあいだ鮃は見たくも無い。
大作は完全にうんざりしていたがお園は満足げな様子だ。ちょっとのけ反った姿勢で帯を緩めてお腹を摩っている。若い娘が行儀悪いんじゃね? まあ、重朝も似たような恰好をしているので放って置いても大丈夫だろう。
膳が片付けられるとデザートに干し柿が出てきた。茶碗には抹茶ラテみたいな緑色の泡立つ液体が入っている。これって薄茶なんだろうか?
干し柿を齧りながら重朝が口を開く。
「さて、大佐殿。船の話の続きを致そうか」
「御意」
音も無く板戸が開いて三人の男が入ってくる。こいつら誰だっけ? いやいや、船大工たちだっけ。さすがの大作もその程度の記憶力はあるのだ。
挨拶も無しに重朝から質問が投げかけられる。
「して、先ほどの船はいつごろ海に出られるのじゃ?」
「木綿で作りし帆の手間が大層と掛かっておりまする。あと半月ほどお待ち下さりませ」
「何故、帆にそれほどの手間が掛かっておるのじゃ?」
「お坊様が申されたように二枚重ねにして太く撚った糸で縫い合わせております。これが五十反もありますれば……」
棟梁が深々と頭を下げる。このおっさん、謝りつつも俺に責任を転嫁しようとしてんじゃね? 大作は急に不安感に駆られる。
「何じゃと! 一反で銭一貫文もする木綿を五十反も使うたと申すか。船より高く付きそうじゃな、大佐殿」
「いやいや、筵の帆とは性能が段違いにござります。それに丈夫で長持ちいたしますぞ。そもそも輸入品を買うから高いのでございます。先月も申し上げましたが綿花の栽培から糸紬ぎ、機織りまで一貫生産いたしましょう。値が下がればいずれは民草の着物も木綿となりまする。巨大な市場が見込めますぞ。木綿の種まきは五月とのこと。今年は間に合いませぬが来年の冬にはずっと安うなっておりましょう」
「そうなれば良いがのう。それで? 大佐殿は陶の水軍は六百艘も船を持っておると申されたな。我ら入来院の水軍はそのような敵に敵うのか?」
話題の方向が変わったことに大作は胸を撫で下ろす。
「先ほどの二百五十石船は単なる実証試験機に過ぎませぬ。風に向かう間切り走りが可能なことを検証する。そして、船乗り…… 水主? の技術習得が目的にござります。物量に対抗するには質の向上しかありませぬ。百艘の小早に囲まれようと、物ともせぬ大船が入用ですな」
「大船とはどれほどの船じゃ? 先ほど三千石の大船があると申されたな。入来院にて、そのような大船を作ることが叶うのか?」
「千石船の排水量は二百トンほどと申します。サン・ファン・バウティスタ号が五百トンにござりますれば三千石舟はそれより一回り大きいに過ぎませぬ。拙僧の考える大船はもっともっと大きゅうござりますぞ」
「ほほぅ!」
船大工たちが大袈裟に驚いた。その顔を見た大作は心の中でほくそ笑む。スマホにサスケハナ号の画像を表示させると一同がそれを覗き込んだ。
「黒船で有名なサスケハナ号は資料によっては2450トンとされておりますな。されど、それはBMトンと申しまして、船の長さと幅から計算した積載力を表す数値。真の満載排水量は3824トンもござります。およそ二万石といったところにござりましょう」
「に、に、二万石じゃと!? そのように大きな船、作れたとしても操ることが叶うのか?」
「この程度の船は驚くには当たりませぬぞ。1857年にイギリスで作られたアドリアティックは4145トン。1859年の木造戦列艦HMSヴィクトリアは6959トン。USSダンデルベルクに至っては7800トン。四万石もあったそうな」
「作るだけで国が傾きそうじゃな。して、その船は何ぞ功を上げたのか?」
思いっきり胡散臭そうな顔で重朝が疑問を口にする。
「何の役にも立たなかったそうですな。丁度そのころから急に鉄船への移行が進みました。その鉄船の時代も僅か二十年ほどですべて鋼船に置き換えられたそうな。めでたしめでたし」
「それほど大きな船を鉄で作れとな? いったいどれほどの鉄が入用か見当も付かぬぞ」
「ニ百万貫目といったところにござりましょう。国内生産量の十年分ほどになりましょうか」
がっくりと肩を落とす重朝。それと対照的に棟梁が盛大にズッコケる。
沈黙が支配する広間にお園の小さなため息が響いた。




