巻ノ拾参 夜の逃避行 の巻
草木も眠る丑三つ時というのは午前二時から二時半ごろのことだ。丑の刻は午前二時を中心とした二時間。それを四分した三つ目を指す。
二十一世紀なら普通に深夜アニメを放送している時間帯だろう。だが二十世紀前半まではこんな時間に起きている人間はほんの一握りの人間だけだった。
大作はバイブレーションでセットしていたスマホのアラームで目を覚ました。
お園をそっと揺すって起こす。少し寝惚けているようだが寝る前に計画を伝えていたので慌てている様子は無い。バックパックを背負うだけで準備は完了する。
灯りが全く無いので部屋は真っ暗闇だ。しかし眠る前に間取りを完全に把握しておいたので戸惑いは無い。
大作はできるだけ音を立てないよう戸をゆっくりと開く。お園の手を握ってそろりそろりと土間へ向かう。
つっかい棒をそっと外す。これまた慎重に戸を開く。ロリコン伯爵の城に忍び込む怪盗になった気分だ。心臓が破裂しそうなほどドキドキしている。
「こんな夜更けにどちらへ参られるのですか?」
突然掛けられた声に大作は心臓が止まりそうになった。全身に冷や汗が出るのを感じる。灯りが無いので姿は見えないが娘の声らしい。
なぜか大作はミザリーという映画のキャシー・ベイツを思い出した。鬼の形相でハンマーを持ってたらどうしよう。
絶対に音は立てていない。もしかして見張られていたのだろうか。だが大作にはギリギリで想定の範囲内だ。お園には気付かれていないようなので先に外に出す。
「ちょっとトイレ、じゃなかった厠に」
「真っ暗でございます。お足元にお気を付け下され」
怪しまれただろうか。これで失敗したら警戒が厳重になるだろうから二度目のチャンスは無い。外へ出て戸を閉めたらお園と手を繋いで全力で走り出す。気分はもう大脱走だ。バイクでもあれば格好良かったのに。
月も沈んで星明かりしか無い。だが寝る前に厠に行くと言って周囲を確認しておいたので何とか道が分かる。
現在地点は相模川の河口から北に四キロほどだ。北極星で方位を確認して西に五百メートルほど進んでから南に向かう。ここまで来ればひとまず安心だ。
とはいえ遠隔操作型は超スピードの奴も多いので油断は禁物だ。
宇宙人だか未来人だかの期待には沿えなかったかも知れないがちょっとした冒険ではあった。できたら今回はこれで満足して欲しいものだと大作は思った。
大作はバックパックから手回し充電器のLEDライトを取り出して点ける。これで足元が随分と明るくなった。お園が目を丸くして驚いている。
「この明かりは何なの。とっても明るいわね」
「LEDライトだよ。最初の晩にも見せただろ。火じゃ無いから触っても熱くないぞ」
「本当ね。ちっとも熱くない。あの時は珍しい物ばっかりだったので良く覚えていなかったわ。いったいどういう仕掛けなの?」
あんまり関心を引いていないと思っていたが結構インパクトあったんだ。そう思うと大作は少し嬉しくなった。
とはいえLEDの発光原理なんてどう説明したら良いんだろう。
「半導体のpn接合部で電子と正孔が禁制帯を越えて再結合すると光が飛び出す。そのエネルギーは半導体のバンドギャップにほぼ相当する。光のエネルギーは振動数v×プランク定数hだ。だからバンドギャップのエネルギーEgによって光の波長λも決まるんだ」
大作はWikipediaに書いてあることをそのまま読んでやろうかと思ったが宇宙人だか未来人だかは著作権に厳しい気がする。いきなり警告も無しに打ち切りとか食ったら最悪だ。しかたないので適当に単語の順番を並べ替えた。ちなみに意味は余りよく分かっていない。
こんなんで大丈夫なんだろうか? まあ問題があれば宇宙人か未来人の運営から連絡があるだろう。
無い知恵を絞って説明したけど、お園には『光』という言葉だけしか理解できなかったようだ。
「す、凄いのね」
「蛍の光と同じだよ」
蛍の発光はルシフェリンという発光物質と、その化学変化を助けるルシフェラーゼという発光酵素があり、この二つに体内の酸素が反応するためだ。
ケミカルライトはこの原理を応用している。LEDとは全然関係が無い。
全くの嘘っぱちだがお園は納得したらしい。嘘も方便という奴だ。
まあ、この嘘知識を人に話して恥をかく心配は絶対と言って良いほど無いだろう。
二人は黙って夜の街道を歩く。戦国時代の夜は本当に真っ暗闇で生命の気配が全く無い。夜空には見たことも無いくらい見事な星空が広がっていた。
しばらくして、お園が少し拗ねたような顔付きで大作を見つめると意を決したように口を開く。
「あんな綺麗な名主の娘と夫婦になって寺の住職になれるなんて凄い話よ。逃げ出して良かったの?」
「お園とずっと一緒って約束しただろ」
大作は優しくお園の頭を撫でながら精一杯の笑顔を作って言った。巨乳娘を人工呼吸した件のフォローをしておいた方が良いだろう。
『それにあの娘の胸は俺のポケットには大きすぎらぁ』と大作は思ったが引かれそうなので口には出さなかった。
だが、これで一件落着と安心していた大作にお園は追撃を掛ける。
「もし約束が無かったらあの娘を選んでいたの?」
お園って思ってたより面倒臭い女なんだろうか。大作は境界性人格障害という病名を思い出す。幼少期に愛情を脅かされる体験をした人は愛情飢餓が強くなるらしい。もしかして名主の巨乳娘に乗り換えた方が良かったのだろうか。
だが大作は頭を振ってその考えを否定する。そういう不誠実な真似をすると絶対に視聴者の不興を買う。その結果は主役交代。下手すりゃ番組打ち切りだ。
戦で家族を失ったり人買いに売られて異国の地で天涯孤独になれば他者への依存性が高くなるのも仕方ない。本来ならカウンセリングにでも連れて行くのがベストなんだろうがこの時代にはいそうも無い。
せめてSSRIとかがあったら良かったのに。境界性人格障害の人は自我同一性が欠如しているってネットで読んだことがある。いわゆるアイデンティティの欠如という奴だ。将来の夢が無いとか言ってたのはこれが原因なのか? ネットで聞き齧っただけの知識を思い出しながら大作の邪推はどんどん変な方向へ向かって行く。
『お兄ちゃんどいて! そいつ殺せない!』みたいなのだけは勘弁して欲しい。
大作は精一杯の真剣な表情を作るとお園の目を真っ直ぐに見据えて言う。
「お園、今のお前は神経症と統合失調症の境界だ。衝動や感情に突き動かされ易くなっている。Trust me!」
「大佐、あなた疲れていない?」
お園は自分の方こそ疲れているといった表情でため息をつくように言った。
なんてこった。大作は女性捜査官に心配されたような気分になった。
ハンマーを持ったキャシー・ベイツが追っ掛けて来るような気がして大作は気が休まらない。夜中の三時に真っ暗闇を歩くなんて滅多に無い経験なので本当に眠くて疲れる。それにかなり肌寒い。だが、恐怖がそれを上回っているので黙々と先を急ぐ。
街道が右に曲がった。海岸に沿ってひたすら西に向かう。小さな川が何本もあったがどれも徒歩で渡ることができた。
東の空から日が昇るころ大きな川にたどり着く。酒匂川だ。相模川に比べると少し急な流れに見える。
渡し船が夜明けと共に動き出していたので乗せてもらう。お園はもう渡し船に慣れたようだ。
川を越えれば小田原は目の前だ。一休みしたいのは山々だが疲れた体に鞭を打って歩き続ける。励ますつもりで大作はお園に声を掛けた。
「あと一時間、じゃなかった半時も歩けば町の真ん中だ。人混みに紛れ込んでしまえば俺たちの勝ちだ」
「小田原って大きな町なんでしょう。楽しみだけどちょっと怖いわ」
小さな川を越えた辺りから雑然とした町並みが始まる。小田原の町は大作の想像を絶していた。
後に秀吉の軍に対抗するために全長九キロの巨大な総構が作られただけのことはある。江戸城とは桁違いの大きさだった。
大作は小田原征伐に関する記憶を脳の奥底から引っ張り出す。こんなに大きな城があれば秀吉に負けないと思い込んでも仕方無いんだろうか。
マジノ線を信頼しきっていたフランス軍みたいなものか? いや、全然違うな。
小田原城もマジノ線もちゃんと設計通りには役に立っている。有効活用できなかった奴らが悪いんだ。
一説によると北条方の八万に対して豊臣方は二十二万の大軍を擁していたという。
攻撃三倍の法則に従えば微妙なところか。北条方は足並みが乱れて戦意も低かったという話は有名だ。だが、豊臣方だって全員が戦意旺盛だったとは考えにくい。
定説では秀吉が豊富な資金で兵站を完備したのが勝因となっている。余裕を見せつけるために酒宴や茶会を催したとか、茶々や妻女を呼んで箱根温泉に浸かったなんて話は有名だ。
一方で現場はかなり困窮していたという資料もある。飢えた兵の足元を見て農民が高値で食料を売りつけたとか、馬の飼葉にも苦労したとか。
ルイス・フロイスも『日本史』に冬まで粘れば北条が勝ってたかも知れなかったって書いている。
そもそも二十二万という数が眉唾だ。ナポレオンのロシア遠征の半分くらいにもなる。まあ、それは置いておこう。
大作は考える。もし俺が北条方だったらどう戦うだろう。
この時代の大量輸送は海運だ。陸上輸送は効率が悪すぎる。
資料によってバラつきはあるが馬の積載量は百キロから百五十キロ。一日に必要な食料は六キロから十キロ。つまり、往復十数日以上掛かる距離の輸送は不可能だ。片道数日の距離でも荷物の半分くらいが馬の食料になってしまう。
そうなると海上輸送の妨害が効果的だ。史実では北条の伊豆水軍は九鬼や毛利の水軍に撃破されている。
だが、正面から決戦を挑む必要なんて無い。通商破壊で十分なのだ。って言うか、機雷を作れば良いんじゃね?
ジェイム○・F・ダニガ○も言ってたが機雷は本当にコストパフォーマンスの高い兵器なのだ。
太平洋戦争末期には米軍によって日本近海に敷設された機雷の十八発に一発が効果を発揮したらしい。
黒色火薬は炸薬として使うには爆轟が遅すぎるって言うけど貧弱な和船を沈めるくらいなら余裕だろう。
紀淡海峡に数百発の機雷を敷設するだけで海運を麻痺状態に出来るはずだ。
あんまり面白く無いな。大作は考えるのに飽きてきた。寡兵で大軍を破るっていうのは歴史改変の醍醐味だが三対一なんて大したこと無い。
長州征伐では十五万の幕府軍が数千の長州藩に惨敗した。もっとも、あれは幕府軍に問題があり過ぎたんだけれど。
トップは無能、意思不統一、兵の士気は最悪、装備も旧式。将軍・家茂が死んだのが致命的だったな。
まあ、そんなことは今はどうでも良いか。例によって大作が考えるのを止めたころ、二人は小田原城の正面に辿り着いた。
昔の人は早起きなので町はもう随分と賑やかだ。ここまで来ればもう大丈夫だろう。大作はようやく緊張を解いてほっと一息ついた。
朝飯にしたいが城の目と鼻の先で焚き火する訳にも行かない。そのまま進んで城の前を素通りする。
それにしても立派な城だと大作は関心した。どことなくロボット兵の暴走で破壊される要塞みたいで格好良い。お園も驚きで目を丸くして言葉も出ないようだ。
この時代に城といえば山の上に作った砦みたいな山城が普通だ。
しかし、小田原城には立派な天守や水をたたえた堀があり、畝堀や曲輪が幾つも広がっていた。
さらに驚くべきことに、この時代の小田原にはすでに飲料用の用水路がある。
「これが小田原用水だぞ。海に近くて井戸水がしょっぱいから早川から水を引いたらしいな。ブラタ○リで見たぞ」
「井戸から汲むより楽で良いわね」
日本最古の上水道なんだからもっと驚いてくれても良いのに。大作は自分が作ったわけでも無いのに少し残念な気がした。
伊豆の国を支配していた北条早雲が大森藤頼から小田原城を奪ったのは名応四年(1495)から遅くとも元亀元年(1501)の間だと考えられている。その頃の小田原城は八幡山にある小規模な山城だったので早雲は亡くなるまで韮山城を居城としていた。
その後、北条氏の勢力拡大に伴って城も拡張されて現在の小田原城の辺りにまで広がったらしい。
早雲が亡くなった永正十六年(1519)だか氏綱が二代目当主となった永正十五年(1518)あたりに小田原城は北条氏の居城として南関東の政治中枢になった。
永禄四年(1561)に上杉謙信が十一万三千の大軍勢で小田原城を包囲。一ヶ月以上の籠城戦で防ぎ切ったとの話だが実際には十日ほどの包囲戦だったらしい。数もかなり盛っているんじゃないだろうか。
城の南を通り過ぎて一キロほど行くと早川の川原に出た。適当な場所を探して腰を降ろす。少し遅くなったがようやく二人は朝食をとることができた。
大作は北条に仕官するつもりは全く無い。ならば小田原に長居は無用だ。もしかすると数十年後に大作の率いる軍勢が小田原城を攻めることがあるかも知れない。だがそのころは城も総構も今とは全く異なっているだろうから現状を見学してもあんまり意味がない。
強いて上げれば石垣山城がどの辺りに有るのか見てみたいと大作は思った。だが良く考えたらあれが作られるのは今から四十年後だった。
「お園は小田原で欲しい物や見たいところはあるか?」
「どんな物があるのか知らないわ」
大作は小田原に関する記憶を脳の奥底から掘り返す。小田原城はさっき見たよな。どうせ中には入れないし。アサヒビールやライオン歯磨きの工場見学。小田急百貨店。小田急のロマンスカー。江戸時代の農村改革指導者、二宮尊徳の生涯を展示した尊徳記念館。
駄目じゃん…… 早くどげんかせんと……
はっきり言って観光は箱根があるので小田原には何も無いのだ。
蒲鉾はどうだ。小田原で蒲鉾作りが盛んになったのは天明年間(1781-1789)だと言われているが早雲の時代から蒲鉾が作られていたって説もあるらしい。
もっとも現代の蒸し蒲鉾とちがって竹輪みたいに火で炙っていたそうだ。ちなみに蒸し蒲鉾が作られるようになったのは幕末らしい。
大作は少しルートから外れるが小田原漁港に寄ってみることにした。




