巻ノ百弐拾七 船中十策 の巻
十五石積みの高瀬舟は樋脇川から川内川へと入る。流れが少し緩やかになったが川幅は大きく広がった。おかげで船頭は全力で漕げるようになり随分と速度が増したようだ。
舟に乗っているのは重朝、千手丸、護衛か御付きの三人の若い侍、大作、お園、未唯。それに船頭の三人を加えて合計十一人だ。
合流ポイントから一キロほどで川が左に大きく曲がった。さらに二キロほど下ると見覚えのある中州が現れる。
「ここって斧淵の辺りかしら? だったら右の山にあるのが山崎城ね。その奥には鶴ヶ岡城があるはずだわ」
「そうだな。東郷様には帰りに寄らせていただこう」
「ねえ大佐、あれは何かしら?」
未唯が川の右岸にある小高い丘を指差した。そのてっぺんで何かが動いているのが目に入る。大作はバックパックから単眼鏡を取り出して覗く。そこに見えたのは手に持った巨大な旗を振り回す若い男の姿だった。
茶色の地味な素襖を着ているってことは下級武士なのだろうか。右手の赤旗と左手の白旗を上げたり下げたり横にしたりしている。
「もしかして旗揚げゲームでもやってんのかな? いやいや、あれは手旗信号だぞ」
「てばたしんごう?」
「亡国○イージスのラストに出てきただろ。あの映画には庵○監督も絵コンテで参加してるんだ」
良く見ると遥か彼方に聳える山崎城の櫓でも同じように旗を振っている。
東郷の奴らって思っていたより遥かに凄いな。一月足らずの間にほとんど独力で視覚通信システムを構築しやがったってことかよ。
そのことに注意を奪われていた大作は回りの様子が全く見えていなかった。
「大佐殿、その手にしておられる筒は何じゃ? 儂にも覗かせては貰えぬか?」
「ぎくぅ!」
不意に重朝から掛けられた声に大作は思わず望遠鏡を落としそうになるが何とか踏み止まった。
うわぁ~! えらいこっちゃ~! 東郷の視覚通信に気を取られて油断してたぞ。望遠鏡もまだ極秘なんだっけ? どうやって誤魔化せバインダ~!
「こ、こ、こんな物より岩見守様、あれをご覧下さりませ。東郷では旗振りによる視覚通信が実用段階に入っておるようですぞ」
「何じゃと? どれどれ……」
大作に押し付けられた単眼鏡を重朝が怪訝な表情で覗き込む。数瞬の後、重朝が狐につままれたような顔で振り返った。
「この筒は何じゃ? 何故に遠くの物が大きく見えるのじゃ? これは和尚が作られた物なのか? どういう絡繰りになっておるのじゃ?」
矢継ぎ早に質問が飛ぶ。全然誤魔化せて無いやん! こうなったら強行突破しか無いぞ。大作は灰色の脳細胞にオーバーブーストを掛ける。
「こんな物より視覚通信の方が遥かに重要にござりますぞ! ナポレオン時代のフランスでは百五十里の彼方まで僅か八分で情報が伝達できたそうな。ここから京の都くらいにござりましょうか? これは軍事にも経済にも非常に大きな影響を与える画期的な大発明ですぞ」
「はっぷん?」
「エ○ァとウルトラマ○の活動限界を足した長さにござります」
目を白黒させている重朝を見かねたのだろうか。横からお園が助け舟を出す。だが、その説明はまったくと言って良いほど役に立っていないようだ。いやいや、むしろこれに乗っかろう。
「庵○監督は学生時代に自主制作映画でウルトラマ○を演じるほどの大ファンだと聞き及んでおりまする。それにつけても三分とは実に切りの良い長さですな。『三分間待ってやる!』とか『三分間待つのだぞ』とか名セリフに事欠きませぬぞ」
「エ○ァは五分間よ。五分間にも何か名セリフはあるのかしら?」
大作の意図に気づいたのだろうか。お園も言葉尻を捕らえて強引に話題を反らせに行く。重朝を完全放置して話が脱線する。
「イギリスの哲学者バートランド・ラッセルが提唱した世界五分前仮説ってのがあるぞ。この世のすべては五分前に作られた物かも知れないんだ」
「ふぅ~ん。それは大事ね。ところで『から~たいま~』って敵にウルトラマ○が弱っていることをわざわざ教えているような物よね。何でそんなことをするのかしら。合点が行かないわ」
え~! なんぼなんでも話の反らせ方が強引過ぎるだろ~! 大作は盛大にズッコケそうになったが紙一重で踏み止まる。
「そ、それはアレだな、アレ…… え~っと、擬傷って聞いたことあるか? 千鳥や鶉なんかは怪我した振りをして敵の気を引くことがあるんだ。それとか自然界にもハナアブとかミノカサゴみたいに敢えて目立つ外見をすることで捕食者から逃れようとする生物が居たりして…… う~ん、さぱ~り分からん。もしかして自然界最強生物のウルトラマ○には天敵なんていなかったんじゃね?」
大作はお手上げとばかりに握りこぶしを頭の上に掲げる。四歳のシリア人難民少女がとった降伏のポーズだ。
お園はそれで満足したのだろうか。鷹揚に頷くと山崎城の旗振り男に視線を移して黙り込む。
重朝は首を傾げて何事かを真剣に考え込んでいるようだった。
斧淵を通り過ぎると川はまた左に急カーブして南に向かう。何とか話を反らすことには成功した。だが、まだまだ道のりは長い。新たな話題を求めて大作は頭をフル回転させる。
「岩見守様、先ほどは拙僧の考えが足りず皆様方に不快な思いをさせてしまい申し訳ございませんでした。そこで此度は拙僧は遠慮させて頂きます故、残り十人で策を出してみては如何にござりましょう。船中十策なら語呂も宜しゅうございますぞ」
「せんちゅうじゅっさく? 先ほどから和尚は何を申しておるのじゃ。何が何やら儂にはさっぱり分からぬぞ」
「Just a moment, please.」
そこに突っ込まれるとは思ってもいなかったぞ。大作は慌ててスマホを取り出すと船中八策に目を通す。
「オリジナルは船中八策と申しまして次の八つにございます。大政奉還、上下両院の議会政治、人材登用、不平等条約改正、憲法の制定、海軍強化、御親兵設置、金銀レート改正、エトセトラエトセトラ。いやいや、八つだけなので他はございまぬな」
「たいせいほうかんとは何じゃ?」
「天皇? 帝? 天子様? 拙僧も会ったことはありませぬが京の都に偉い方が住んでおられますな。その方に政権を返上するのでございます」
「せいけんをへんじょうするのじゃな」
さぱ~り分からんといった顔で重朝が曖昧に頷く。気不味い空気を吹き飛ばそうとでもいうのだろうか。お園が横から口を挟んだ。
「けんぽうって何なのかしら?」
「憲法第十七条。何人も公務員の不法行為により損害を受けたときは法律の定めるところにより国又は公共団体にその賠償を求めることができる。みたいな奴だよ」
「厩戸皇子がお作りになった十七条の憲法のことね。あれって真のことなのかしら」
「日本書紀が編纂された時代の創作だというのが定説だな。文章表現や内容が時代と合わないとか何とか」
「ふぅ~ん。そうなんだ」
がっかりした様子でお園が肩を落とす。憲法十七条に何か思い入れでもあったんだろうか。
「そんなに気を落とすなよ。世界にはイギリスみたいに成文憲法が無い国だってあるんだぞ。俺たちは恵まれてる方なんだ」
「そうね。下を見たら切りが無いわ。今ある物で我慢しなきゃ」
そう言うとお園はちょっと寂しそうに微笑んだ。これは何とかして立派な憲法を制定せねば。大作のやる気に火が灯る。
まずは有識者を集めて憲法草案を…… いやいや、一般大衆から広く意見を聞いた方が良いかも知れん。明治憲法発布の時、絹の布を貰えると勘違いした人がいたなんて笑い話もある。
民の目線に立ってパートの老婆や人足の辺りから意見を聞いて行こう。とりあえず山ヶ野に戻ったら五平どんに憲法策定委員会の議長を頼んでみるか。
大作の意識が妄想世界に没入して行く。だが、重朝の呼び掛けで急激に現実に引き戻される。
「して、大佐殿。儂らも策を十ばかり出そうと申すのじゃな?」
「如何にも。まあ、我らと坂本龍馬では時代や状況が大きく異なりまする。入来院様に合った策を考えましょうぞ」
「策と申されてもなぁ…… そうじゃ、れでぃ~ふぁ~すとじゃったな。まずは女性の二人から策を出すが良いぞ」
重朝がお園に話を振った。気持ちは分からんでも無い。だがそれは必ずしも良い選択ではないぞ。大作は心の中で突っ込む。
一人が一つアイディアを出すって状況で後手を取るのは不味い。後に行くほど碌なアイディアが残らない物なのだ。
それはそうと、お園は何を言うつもりだろう。大作はwktkしながら聞き耳を立てる。しかし、お園の口から飛び出した衝撃的な発言に大作は肝を冷やす。
「妾の策は望遠鏡にござります。口径四寸でF10くらいの金属鏡を用いた反射式望遠鏡を作らば目では見えぬ暗い星を見ることが叶いまする」
「何を考えてんだよ。望遠鏡はまだ極秘事項だぞ」
大作は慌ててお園に耳打ちする。だが、お園は顔色一つ変えない。いや、むしろ不満気な様子だ。ちょっと口を尖らせて言葉を続ける。
「だって大佐に任せていたら何時まで掛かるか分からないんですもの。岩見守様、望遠鏡は航海術には必須となりまする。金属鏡は反射率が低い故、ハーシェル式が宜しゅうございましょう。像が左右反転となりまするが天体観測なら然程は障りがありませぬ。是非ともご一考のほど、お願い奉りまする」
一息に言い切るとお園が舟底に敷かれた筵に額を擦り付けるように頭を下げた。
首を傾げながらその話を聞いていた重朝が口を開き掛ける。だが、大作はその隙を与えず話に割り込んだ。
「次は未唯の番だ。山ヶ野で出した案は駄目だぞ。こういうのはオリジナリティーが大切なんだ。二番煎じは遠慮してくれよ」
大作は精一杯のさりげなさを装って未唯に釘を指す。良いアイディアなんて出さなくて良い。何とか話の流れを変えなければ。
「待たれよ大佐殿。ぼうえんきょうとは先ほど覗かれておった筒のことじゃな? あれを作ると申しておるのか? その話、詳らかに聞かせては貰えぬか?」
重朝が目の色を変えて望遠鏡に食い付いてくる。しかし大作はガン無視を決め込んだ。
「ブレインストーミングではアイディアの質より量が重視されます。まずはアイディア出しを優先させましょう。次は未唯の策を聞かせてくれるか?」
極秘事項をペラペラ喋るんじゃ無いぞ。心の中で念じながら大作は未唯の目を見つめてウィンクする。意図が通じたんだろうか。未唯はにっこり微笑んで軽く頷いた。
「私もお園様と同じ考えにございます。ぼうえんきょうがあれば遠くの物が……」
「ストーップ!」
大作は絶叫しながら未唯の口を手で押さえた。ぷにぷにした唇の艶めかしい感触に思わず頬が緩むる。それを見たお園が眉を顰めているがそれどころでは無い。
「未唯、人のアイディアを丸パクリするのは駄目だぞ。大事なのはオリジナリティなんだ」
それを聞いたお園がすかさず横から口を挟む。その顔は不機嫌そうに歪んでいる。
「人のアイディアに乗っかるのは良いんじゃなかったの? だったら電波望遠鏡にしたらどうかしら。東郷様では電磁波を作っているんでしょう? 前にX線でブラックホールの降着円盤を観測できるって言ったわよね?」
「無茶を言うなよ。X線は透過力が強いから鏡面スレスレの小さい入射角しか反射しない。だから金メッキした回転放物面と回転双曲面をバウムクーヘンみたいに何百枚も重ねた構造なんだ。それにX線は電磁波の一種だけど普通はX線望遠鏡を電波望遠鏡とは言わないぞ。そもそも分厚い大気の底にX線が届くわけ無いじゃん」
「ふぅ~ん。でも、蒲生様で作った気球を使えば空気の薄い空の上までX線望遠鏡を持って行けるんじゃないかしら」
「空の上に登るじゃと! 和尚らは蒲生でそのような物を作りおったと申すか?」
口から唾を飛ばしながら重朝が大声で喚く。それを見たお園が眉間に皺を寄せて視線を反らせた。
大作は頭を抱えて心の中で唸る。それにしても、こいつらには秘密情報の保護という意識が根本的に欠けてるんじゃなかろうか。帰ったら徹底的な再教育が必要だな。
これ以上の情報漏洩は致命的事態になりかねん。ギブアップするらな傷の浅いうちに限る。大作はポンと手を打ってみんなの注目を集めた。
「実を申さば経営学の世界では『ブレストのアイデア出しは効率が悪い』というのは常識だそうな。考えてみればいくら批判厳禁とはいえ殿の御前にて自由に意見交換など出来よう筈もござりませぬ。二策しか出ておりませぬが岩見守様、総括をお願い致します」
「お、おぅ。そうじゃのう。やはり儂は望遠鏡が頭から離れぬ。あれを入来院で作ることは出来ぬものかのう」
目をギラギラと輝かせた重朝が狭い舟の上で詰め寄る。大作は思わず後ずさりしそうになるが何とか踏み止まった。こういう時は退いたら負けなのだ。
こうなったらチキンレースにとことんまで付き合ってやろうじゃないか。追い詰められた大作は捨て鉢な心境になる。
「岩見守様、有視界でしか使えぬ望遠鏡など過去の遺物に過ぎませぬ。あんなものにすがって生きのびてなんになりましょう。それより時代はレーダーにござりまするぞ」
「れ~だ~?」
重朝が間の抜けた相槌を打つ。例に寄って大作の行き当たりばったりは本人にすら制御不可能な方向に向かって転がり出した。
大作は頭を抱え込んで考える。勢いで言ってしまったけど言うに事欠いてレーダーとは。なんぼなんでも難易度が高過ぎるんじゃね?
第二次大戦中の日本でも凄い苦労をしていたはずだ。それでも実用レベルに達したか達しなかったか微妙な出来だったような。
とは言え、必死でスマホの中を漁ってみると意外な情報が見つかった。
ヘルツが実験室で電磁波の発生に成功したのが1888年。それから僅か十六年後の1904年にはドイツでクリスティアン・ヒュルスマイヤーとかいう男が実験を成功させたそうだ。五キロ離れた船に電波を照射して反射波を検知したんだとか。
PPIスコープとかAスコープとか無くてもレーダーって言えるんだろうか? 言えるんじゃね? 大作は考えるのを止めた。
お園が期待と不安の入り交じったような目をしながら口を開く。
「れ~だ~って何なのかしら。望遠鏡より役に立つ物なの?」
「確かRadarっていう言葉はRadio Detecting and Rangingのアクロニムだよな。日本語だと電波探知測距だ。どんなに大きな望遠鏡でも真っ暗闇だと何にも見えないだろ。自分で光っている物は別だけどな。それと霧や雲の向こうも見えないし」
「れ~だ~ならそれが見えると申すか!」
またもや重朝が興奮気味に食いついてくる。その口から飛び出した唾を見たお園の顔が歪む。
口角泡を飛ばすって言うけど見ていてあんまり気持ちの良い物では無いな。
注意した方が良いんだろうか。でも、小さいとはいえ国人領主に向かって何て注意すれば良いんだろう?
こういう人は飲食業や食品製造業には就かないで欲しいな。まあ、ああいう業界ではちゃんとマスクをしてるんだろうけど。
閃いた! マスクを製造すれば良いんじゃね? 金鉱石の粉塵対策にも役に立ちそうだし。大作は心の中のメモ帳…… じゃなかった、未唯の顔を見つめる。
「未唯、マスクを作っ……」
「殿、新田八幡宮が見えて参りました。平佐城にはお立ち寄りになられましょうか?」
千手丸が右前方を指さしながら声を上げた。川の左右に聳えていた山が途切れて遥か彼方にぽつんと小山が見えている。
「いや、早う船を見たい。先を急ぐとしよう。そうじゃ、夕餉の支度をさせておくが良いぞ」
鷹揚に頷きながら重朝が答える。拍子抜けするほどあっさりと話題が変わったことに大作は思わず胸を撫で下ろした。
少し下ると川が緩やかに右に曲がっていた。曲がりきった辺りで左岸の船着き場に舟が立ち寄る。
千住丸が陸に駆け上がると風のように走り去った。きっと夕飯の支度でも申し付けに言いに行ったんだろう。
待つこと暫し。戻ってきた千住丸を乗せて舟は再び滑るように川を下り出した。
ここから河口まで残り十五キロくらいだろうか。思っていたより遥かにハイペースで進んでいるらしい。
とは言え、まだ一時間くらいは掛かりそうだ。大作は性懲りもなく新たな話題を模索する。
「聞くところによれば新田神社と枚聞神社は薩摩国一宮を巡って争うておるそうですな」
「元々は枚聞神社が一宮だったそうじゃな。されど、蒙古襲来の折に島津が剣と神馬を新田神社に納めたと申すぞ。新田神社が一宮で良いのでは無いか?」
「ほほう、左様にござりまするか」
イマイチ話が広がらないな。重朝の蘊蓄を右から左に聞き流しながら大作は新たな話題を求めて脳をフル回転させる。
ちなみに人間の脳は体重の二パーセントに過ぎないが酸素消費量は二十五パーセントにも達するそうな。大作は波紋呼吸法で酸素を取り込む。
少し進むと今度は右手に泰平寺が見えてきた。大きな伽藍が幾つも立ち並んでいる。
大作は重朝に聞こえないように声を落としてお園と未唯に囁き掛ける。
「あれがかの有名な泰平寺だ。天正十五年(1587)の九州征伐で島津義久が秀吉に降伏したところだぞ」
「島津に義久などという者がおったかのう?」
「ぎくぅ!」
重朝に背後から声を掛けられた大作はその場で小さく飛び上る。このおっさん地獄耳かよ。
聞かれたからには説明するしか無いな。大作は小さくため息をつくと重朝に向き直る。
「初めから義久と名乗っておったわけではござりませぬ。幼名は虎寿丸だと書いてありますぞ。今は元服して忠良、通称は又三郎を名乗っておるようですな。天文二十一年(1552)には足利義輝から偏諱を貰って義辰と名を改めまする。その後に義久と変わり、秀吉に降伏する際に剃髪して龍伯を名乗ったそうな」
「島津の又三郎と申さば三郎左衛門尉の倅ではないか。儂の妹の雪窓が三郎左衛門尉に後添えとして嫁いで産んだ子じゃ。儂から見れば甥にあたるのう」
「さ、左様にござりまするか……」
何だか知らんけど人間関係が随分と面倒臭いことになっているようだ。島津の奴らなんてジエチルエーテルの焼夷弾で城ごと焼き払うつもりだった。だけどそう簡単にも行かんのだろうか?
史実でも祁答院の若殿は討ち死にしたけど大殿は岩剣城からの脱出に成功している。蒲生範清も城に放火して祁答院に亡命だ。
顔見知り同士の戦争って意外となあなあで済まされることが多いのかも知れん。
まあ、そん時はそん時だ。大作は考えるのを止めた。
話が一段落したのを見計らってお園が大作にだけ聞こえるほど小さな声で囁く。
「あのお寺で何があったんですって?」
「宥印法印って住職の有名なエピソードがあるんだ。秀吉の使者がやってきて上から目線で敷地を貸せって一方的に退去勧告したそうな。そしたら意固地になって死んでも嫌だとか言って断ったらしい。そんで秀吉側が下手に出たら代わりの寺を用意しろとか要求をエスカレートさせたんだ。結局は島津の降伏の仲介とかもやって恩賞を賜ることになったんだけどそれも断る。なんだかんだで刀や茶碗を貰ったんだと」
「どんな方なのかしら。そのご住職に会ってみたいわね」
「元亀年間(1570~1573)には岡山県の千柱寺で住職をやっていたって書いてあるけど、今どこにいるかは分からんな。天正十九年(1591)没なんだとさ」
「ふぅ~ん」
何だかんだ言って凄腕のネゴシエーターなんじゃなかろうか。とは言え、歴史通りならこっちに来るのは二十年以上も先だ。会うことも無いだろう。
お園もそれは分かっているらしい。話に食い付くことも無く新たな話題を振ってくる。
「お寺の隣に広がっているのは何かしら?」
「茶畑みたいだな。そう言えば鹿児島はお茶の生産量が日本二位なんだっけ。お土産に買って帰れたら良いな」
「そうね。でも、あんまり高く無ければ良いけど」
「それにしても立派なお寺だな。とは言え、秀吉は八万の大軍を引き連れていたらしいぞ。一体どこで寝泊りしたんだろう。コミケの徹夜組みたいなことになってなきゃ良いけど。この立派なお寺も明治の廃仏毀釈で取り壊されてしまうんだから悲しいよな。大正十二年に再建されるけど小さなお寺になっちゃうぞ」
さらに川を下ると左手の川辺に小さな山が見えてきた。大作はスマホの地図で確認する。
「見ろ、お園。あれが猫岳だぞ。ってことはゴールまであと五キロほどか。もうひと踏ん張りだな」
「また猫なの。大佐って本当に猫が好きなのね」
お園がにっこり微笑む。何にせよ退屈で死人が出なくて何よりだ。
新幹線のぞみで例えれば新大阪のあたりだろうか? 大作はエコノミークラス症候群で血栓ができないようにつま先を上げたり脹脛を揉んで時間を潰した。




