巻ノ拾壱 僕の心臓はまだ動いている の巻
翌朝、大作が目を覚ますとお園の姿は無かった。
バックパックは寝る前にテントの前室に置いたままになっている。
お園が寝ていた所には防寒具代わりに着ていたゴアテックス製のレインウェアがきちんと畳んで置いてあった。
お園はどこへ行ってしまったのだろうか。別れも告げずに消えてしまったのだとしたら寂しいな。そう考えると大作は無性に悲しくなった。
だがテントの外に人の気配を感じた大作は恐る恐るテントから顔を出す。
そこには竃で朝食を温めているお園の後ろ姿があった。大作は思わず胸を撫で下ろす。
お園は大作が起きたのに気付いたのか肩をびくっとさせた。しかしあえて気付かない振りをしているようだ。
大作から声を掛けるしかない状況だ。でも、どんなテンションで?
明るく元気に『グ~テンモルゲン!』とか言うのか?
それとも精一杯の優しい声で『昨日はごめんな……』とか言いながら背中から抱きしめるのか?
どうすれバインダー!! アニメや映画で喧嘩した男女ってどうやって仲直りしてたっけ?
大作は喧嘩した二人が仲直りするシーンのあるアニメを必死になって思い出そうとした。
何も重い打線。そもそも本気で喧嘩している場面ってあんまり無いのだ。
未来少年は相棒と意地の張り合いみたいな喧嘩していた。母をたずねて長旅した少年も結構本気の喧嘩をしていた。豚のパイロットは殴り合いの喧嘩をしていた。
でも男同士の喧嘩なんて参考にならない。男女の喧嘩なんてあったっけ?
宅急便を運んでた魔女っ子は喧嘩してたっけ? 空から降って来た女の子は喧嘩していなかった。アルプスの女の子と山羊飼いの少年は喧嘩してた気がするけどあんな子供の喧嘩が参考になるとは思えん。
これ以上の沈黙はコミュニケーションを取る意思が無いと誤解されかねない。
とりあえず何か言わなければ。
「おはよう。お園」
大作は精一杯の明るい声で平静さを装ってさりげなく話しかける。
お園の小さな肩がびくっと震える。ゆっくりとお園が振り返った。泣き腫らしたような真っ赤な目をしている。
それを見た瞬間に大作はギブアップしたくなった。
「おはよう。大佐……」
お園がほとんど消え入りそうな小さな声で返事をする。
最低限のコミュニケーションは確保できた。でもここからどうするのだ。まるでルールの分からないゲームをやってるみたいだ。正直言って逃げ出したい。
こうなったら敢えて死中に活を求めるしか無い。大作は腹を括る。シリアスな雰囲気をぶち壊すには笑いだ。
「布団が吹っ飛んだ!」
「ふとんって何?」
蒲団は鎌倉時代に中国から禅宗と一緒に伝えられた。ただし現代の物とは全く違う、蒲の葉で編んで作った座禅用の丸い敷物だったらしい。この時代には貴族は畳の上で、庶民は藁にもぐって寝ていた。
「猫が寝込んだ!」
「ねこって?」
猫は飛鳥時代から日本にいたはずだ。室町時代でも非常に貴重だったので首輪に繋いで飼っていたらしい。甲斐の国には猫はいなかったのだろうか。
だが大作は怯まない。ギブアップしたらそこでゲームセットなのだ。
「アルミ缶の上にある蜜柑!」
流石の大作も言った瞬間に失敗に気付いた。アルミ缶なんてこの時代にあるはずが無いやろう。
だが、お園から意外な反応が返る。
「蜜柑食べたことある! 酸っぱいけど美味しかった!」
大作は本当かよと思う。蜜柑は飛鳥時代か奈良時代に日本に伝来したらしい。しかし、室町時代でも庶民の口に入るような物では無かったんだっけ?
いや待て、中世物価の資料で蜜柑二個一文って見たぞ。蝋燭が十文する時代にだ。室町時代の有田市に自然に生った橘が蜜のように甘くて蜜柑と呼ばれるようになったとかいうのも見た気がする。
とにかくきっかけは掴めた。俺のターン!
「蜜柑は美味しいよな」
「でも、あるみかんは知らないわ」
チャンスだ。大作は会話のペースを強引に奪いに行く。
「昨日、お園は俺が何を言ってるのか良く分からないって言ってただろ。実は俺もお園の言葉が半分くらいしか分からないんだ。でも俺は天地神明に誓って嘘偽りは言っていない。だから何でお園が怒ってるのか分からないんだ」
「大佐は私にずっと一緒にいようって約束したのに、萌にも懸想しているって言うんだもん」
お園が頬を膨らませ口を尖らせて言う。僅かに態度が軟化している気がする。
『化粧なんて年頃の女なら誰でもやってるだろう』と言いかけて大作は思わず言葉を飲み込む。何か知らんがお園はそれで怒っている。嘘は言っていないと宣言した以上、それを否定することも出来ない。勘違いで逃げるか? いや、ここは正面突破しかない。
「生須賀大佐は男でござる。化粧に関しては天地神明に誓って嘘偽りは絶対に言わぬ。しかし今回、時間の指定はしておらぬ。だが、十年掛かろうと二十年掛かろうと絶対にお園にも化粧させてやる。俺を信じろ。Trust me!」
大作はさっぱり訳が分からなかったが勢いだけで逃げ切るように宣言する。
お園は小さくため息をつくと不意に大作に口付けをした。
そして頬を真っ赤に染めながらぶっきらぼうに言う。
「しょうがないわね~ 今日はこれで許してあげる。さあ、朝餉にしましょう」
「お、おぅ」
二人の間にぎこちない空気が流れる。でもそれはさっきまでの気まずい空気では無かった。
広い河川敷を登り、街道を西に向かう。一時間ほど歩くと道が少し左に曲がる。南西に長い一本道が続いている。比較的近年に整備された街道らしい。
大作は知らなかったがこの道は古代からの武蔵国と相模国を結ぶ中原街道を後北条氏が整備しなおした物だ。道を作る時に狼煙を上げ、そこに向かって行ったので真直ぐなところが多いらしい。時々小さな集落があるが基本的に何もない寂しい街道だ。
昼前まで歩くと道が少し左に曲がる。南南西に向かって二時間ほど歩くとまた大きな川に着いた。距離や大きさから相模川らしいことが大作には分かった。
平安時代には鮎河と呼ばれていたほど鮎が多く、春には川が黒くなるほどだったそうだ。北関東への物資を運ぶ舟が行き来している。川幅は二百メートルくらいだろうか。
四之宮の渡しには船頭が一人で漕ぐ小さな舟が三艘浮かんでいた。大作は念のためお園の手を握ってみるが昨日ほどは怯えていないようだ。
船頭に一声掛けて小さな舟に二人が乗り込む。巧みな船頭の竿捌きで小舟は流れの緩やかな川面をゆっくりと進み出した。
実にのどかだ。このシチュエーション。大作は猛烈に例の歌が歌いたくなった。月曜ロードショー版ダーティーハリーの『漕げ漕げ漕げよボート漕げよ』だ。
あれって著作権関係はどうなってるのだろう? テレビ吹き替え映画の中で歌われただけの歌詞が著作権登録されている可能性は限りなく小さい。
だが心配性な大作は安全策を取る。ここまで来て無駄なリスクは取りたく無い。明治十七年(1884)の小学校唱歌(三)に含まれている『舟子』の歌詞を歌うのだ。
作詞 里見義(1886年没) 作曲 E.O.ライト(1913年没)
『やよ ふな子 漕げ船を
こげよ こげよ こげよ こげよ やよ ふな子
しお みちて 風なぎぬ
こげよ こげよ こげよ こげよ やよ ふな子』
お園と船頭が驚いた顔で大作を見ている。
『みんな歌え! 歌わないとお母さんを殺すぞ!』と大作は心の中で絶叫する。
あの殺人鬼を演じた役者はイメージが強烈過ぎてあんな役しか来なくなってしまって困ったそうだ。身内のところで五年ほど大工をやったり学生相手に演劇を教えてたってWikipediaに書いてあった。
ところで原曲が発表されていないこの時代なら俺が作詞作曲したと言い張ることは可能なのだろうか? まあ、そんな恥知らずな真似はしないけど。
その時、遠くから女のものらしい悲鳴が聞こえて来る。どっちだ。三人はきょろきょろと辺りを見回す。
最初に気付いたのはお園だった。
「あそこ!」
少し川上を指差してお園が叫ぶ。人が溺れているようだ。手足をバタつかせている。見た感じでは背が立つくらい浅いはずだが一旦足を取られるとどうしようも無いらしい。
大作はポケットに濡れては困る物が入っていないのを確認すると荷物をお園に預けて川に飛び込む。船を廻していては間に合わないように見えたのだ。それに一人しかいない船頭が飛び込む訳にも行かない。
冷たい! 飛び込んだ瞬間に大作は足がつりそうになった。これで溺れたら格好悪すぎる。準備体操を忘れていた。
って言うか、そもそも飛び込んだのが失敗だ。水難救助法に関するサイトでも水に入らないで助ける方法をくどいほど記載している。素人が救命具も持たずに飛び込むなんて自殺行為も良いところだ。プロでも難しいらしい。
だが飛び込んでしまったものはしょうがない。足が立つところなので気を付けていれば溺れはしないだろう。
大作は極力足を気遣いながら腕で水を掻いて溺れている女に近づく。子供だろうか。わりと小柄だ。
さっき見た時と違って暴れていない。もしかして意識が無いのか? これってヤバくねぇ?
まあ抱きつかれて一緒に溺れるよりはマシだろう。
大作は女の肩に手を回して向こう岸に向かう。やっとの思いで岸にたどり着いて女を抱えて川原へ引き上げる。小柄な女だが意識を失っている人間というのは結構重い。子供だと思っていたが小柄なだけでお園と同じくらいの年令のようだ。昔の人は小さいのだ。
まずは二次災害を防ぐため周囲の安全確認だ。川原なので誰もいない。
ちらりと顔を見るとかなり可愛い娘だと大作は感動する。お園には負けるけど。
戦国時代の女なんて欠食児童みたいな奴しかいないのかと思ってたが意外と美人がいるもんだ。
もしかしてこれはイベントなのか? あなたは命の恩人です、結婚して下さいみたいな?
まあ、妄想はあと回しにして次は意識の確認だ。肩を叩きながら声を掛けるが返事が無い。
反応が無かったら大声で助けを求め119番とAED搬送を依頼する。
この時に『だれか119番を』みたいなのは駄目だ。ギャラリーがたくさんいると誰かが呼ぶだろうと思って結局は誰も呼ばないことがあるのだ。
お園と船頭がやって来たので誰でも良いから呼んで来るように頼む。
次は呼吸の確認だ。胸と腹部の動きを見て十秒以内に確認する。死戦期呼吸というしゃくりあげるような呼吸が途切れ途切れに起こることがあるので要注意だ。脈も測ってみるが心肺停止で間違い無い。
ちなみに小柄な割に胸のボリュームが凄い。お園とは偉い違いだ。
溺れた人の場合は心肺停止の原因が心室細動では無いので人工呼吸が優先だ。まずは気道を確保し、水を吐かせるより先に人工呼吸をする。
一回一秒かけて吹き込む人工呼吸を二回、一分間に百回以上のテンポで胸の真ん中が五センチ沈むくらいの心臓マッサージを三十回。これを蘇生するまで延々と繰り返すのだ。
この美少女に人工呼吸して豊満な胸を一分に百回押せってか? お園の見てる前で? 大作は人命救助なんて柄にも無いこと止めときゃ良かったと本気で後悔し始めていた。とはいえ、今さら見捨てる訳にも行かない。
テンポについてはサタデー・ナイト・フィーバーという映画の名曲ステイン・アライヴが推奨されている。アンパンマンのマーチやドラえもんのうたも近いテンポだと言われている。
だが、残念ながら全て著作権の問題がある。
ダッカ日航機ハイジャック事件で福田総理は『一人の生命は地球より重い』と言った。
その人命よりもさらに重いのが著作権だ。今、目の前で消えようとしている命の灯を見殺しにするしか無いのだろうか?
しかし幸いなことに大作はそもそもステイン・アライブの歌詞なんて知らなかった。
『ア・ハ・ハ・ハ・ステイン・アライブ』だけ適当に歌うことで巧みに著作権を回避する。
呼吸停止から二分以内に心肺蘇生を始めれば九十パーセントは蘇生すると言われている。
問題はどこまで続けるかだ。普通なら十分以内には救急車が来るだろう。
でもここには残念ながら救急車は絶対に来ない。絶対にだ!
三回くらい歌い終わった頃には腕がパンパンになってきた。
以前読んだサイトでは変化がなくても三十分続ける覚悟でやれと書いてあった。
マジかよ~! こっちの心臓が止まるぞと大作は思う。
そうこうしている間にも回りにはギャラリーが人垣を作っている気配がする。
これはもうどうせ助からん。今は止めるタイミングが重要だ。
幸いなことに重い荷物はお園が持っている。走って逃げるには身軽な方が有利だ。
人工呼吸しながらお園にアイコンタクトを送ろうとした大作は思わず固まった。
ガラスで出来た仮面を被った女優の白目かよ! メデューサに睨まれた蛙ってこんな感じなんだろうか。引くも地獄、進むも地獄。ならば、やるしか無い!
「動け、動け、動け~! 動かないと死んじゃうぞ! 動け、動け、動け~! 今、動かないと、みんな死ぬぞ! いや、そんなことは無いけど! お願いだから、動け~~~!!」
「げふぅ!!!」
娘が思いっきり水を吐き出した。大作は僅かに残った力を振り絞って娘を横向きに寝かせる。吐いた物が喉に詰まらないようにするためだ。
もう限界。大作は仰向けに倒れると誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。
「シ、シンクロ率が四百パー……」
大作の意識はそこで唐突に途切れた。
◆◆◆◆◆◆
念のために書いておきますが著作権を気にするあまり一次救命処置を躊躇ったりしないで下さい。
心臓マッサージのリズムを取るために歌ったことでJASRACから演奏権使用料が請求されたケースは現時点では確認されておりません。
民法六百九十八条『緊急事務管理』によると緊急時、他人の事務を管理した時に管理者の責任を軽減するとしています。
ただし、もし責任を追及されることがあった場合、本人が緊急事務管理であることを立証しなければなりません。
また、刑法三十七条の『緊急避難』も市民による救急蘇生は違法性が阻却される可能性が高いとしているのみで、完全な免責を保証しているわけではありません。
万一、JASRACから演奏権使用料が請求されても当方では責任を取りかねますので自己責任でお願いいたします。
ちなみに下記の二曲は著作権フリーなので歌っても演奏権使用料が請求される心配はありません。
うさぎとかめ
作詞 納所弁次郎(1936年没) 作曲 石原和三郎(1922年没)
あんたがたどこさ
作詞不詳
毎分百回の胸骨圧迫は目安です。そんなことより強く押すことを心がけて下さい。
素人はどうしても力加減が分からず弱めになってしまうそうです。
私の友人のお母さんが看護師をされていましたが『肋骨を折るつもりで押せ』と言っていました。
◆◆◆◆◆◆
深く深く闇の底に沈んで行く大作の意識に突然、神の声が聞こえたような気がした。
『別に大声を出さなくても頭の中だけで歌えば著作権を気にしなくても良かったんじゃね?』




