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巻ノ拾 化粧と懸想 の巻

「音楽はいいなぁ…… 音楽は心の汚れを洗い流してくれる。人類の作り出した芸術の極致だよ」


 大作は独りごちた。僧侶と巫女が二人で仲良く童謡を歌いながら戦国時代の街道を歩く。

 もし人に見られたらどう思われるだろう。大作はそんなことを考えて少し照れ臭くなった。たまに小規模な集落があるだけなのでそんな心配はほとんど無いのだが。


 五反田と思われる辺りで道が少し右に曲がる。西南西に向かっているようだ。西日が眩しい。

 この地名は江戸時代に五反の水田があったことにちなむそうだ。まだ田植えシーズンには早いらしく、田んぼでは田起こしをしているようだ。


 洗足池らしい池を右手に見ながら寂しい街道を進む。千束八幡神社が遠くに見える。

 千束の稲が租税免除されたからだとかなんだとか。池で日蓮が足を洗ったので洗足になったらしい。


 すぐに多摩川の土手が見えてきた。夕飯に備えて二人で薪になりそうな物があれば拾い集める。

 半時間ほどで多摩川の土手に辿り着いた。二十一世紀に比べると随分と南を流れているらしいのだが比較対象が無いので正直言って良く分からない。


 結構急な坂道を上ると広い河川敷の向こうに大きく蛇行している多摩川あった。

 少し北の田園調布雙葉(ふたば)の辺りには入江がある。その船着場に荷物を運ぶ船が何艘か見えた。


 スマホで調べると多摩川は万葉集に万葉仮名で多麻河(たまがわ)として出て来るそうだ。承和二年(835)大きな河川に浮橋を作ったり渡し船を増設せよとした太政官符に武蔵国石瀬河(いわせがわ)の名前で登場している。

 十一世紀の更級日記にも同じ名前で現われている。武蔵と相模の境界『あすだ川』の手前にあると記述されている。だが『あすだ川』は更級日記の他には出て来ない謎の川だ。隅田川や大岡川だと言う説もあるがどうやら違うっぽい。境川のことじゃ無いかって説が有力みたいだ。

 この時代には丹波川(たばがわ)と呼んでいるらしい。江戸時代には玉川(たまがわ)の名が使われることが多かったようだ。


「これが多摩川だよ。結構大きな川だろう」

「渡し船に乗るのね。私、船に乗るのは初めてなの。ちょっと怖いけど楽しみだわ」


 口ではそう言っているがお園の緊張感は大作の目にも明らかだった。大作は脱いだ傘で船頭から見えないように注意しながらお園の手を握り締めた。手に汗が滲んでいる。


 丸子の渡しには船頭二人の小さな平底の船が三艘あった。川幅は広いが浅くて流れも緩やかだ。歩いて渡るのも難しく無さそうだが僧侶や巫女は無料なのでありがたく乗せて頂く。船頭は竿(さお)で川底を突いて器用に船を操る。


 舟が動き出した途端にお園は借りてきた猫のように固まった。体を丸めて精一杯縮こまって小さく震えている。船頭が見かねて声を掛ける。


「そげえに怖がらんでも大丈夫だぞ、巫女さん。今日は流れも緩やかじゃけ何も心配いらん」


 お園がひきつった笑顔を船頭に向けて力なく頷く。緊張で声も出ないようだ。繋いだ手が震えているのが大作にも良く分かった。


 大きいと言ってもたかが百メートルほどの川なのですぐに向こう岸に着いた。

 船頭に礼を言って船を降りると川崎市だ。この時代には何と呼ばれているのだろう。少し薄暗くなってきたので大作は予定通り川原で野宿することにした。




 お園にも浄水器の使い方を覚えてもらったほうが良いだろう。大作は一緒に水を汲んで濾過をした。


「こんなに綺麗な水なのに『ろか』をしないといけないの?」

「綺麗に見えても目に見えない小さな虫がいるんだ。それに上流の人や獣の糞尿とかも混じってるんだぞ」

「それは気持ち悪いわ。でも随分手間がかかるのね」

「お腹を壊すくらいなら良いけど寄生虫は本当に怖いんだぞ」


 お園はいまいち納得していないような顔をしているが大作としてもこれだけは譲れない。

 そしてクッカーの焦げ付きに気を付けるように念押しして食事の用意をお園に任せた。


 風向きに注意してテントを設営する。十分足らずで設営完了。完璧すぎて大作は自分で自分が怖くなった。

 何か重大な見落としはしていないだろうか。あるいは宇宙人だか未来人だかは大作が失敗するのを期待しているのでは無いだろうか。

 まあ考えたからといってどうなるわけでも無い。大作は考えるのを止めた。


 お園が作ってくれた雑炊は普通に美味しかった。初日に大作が作ったゲロ不味い雑炊とは偉い違いだ。


「お園が作ってくれる食事は美味しいよ。これからも作ってくれる?」

「大佐が喜んでくれて嬉しいわ。私、気張って作るわね」


 これで食生活が画期的に改善できる。大作はとても嬉しくなった。あと、心配なのは栄養バランスだ。雑穀だけでは動物性タンパク質が不足している。漁村に立ち寄った時に魚でも入手しよう。順調に行けば明後日には小田原に着くのでそこで何とかなるかも知れない。


 歯を磨いた後、川の水でタオルを絞って体を拭く。本当なら熱い風呂に入りたいがこの時代にそんな物は無い。

 羞恥心が現代とは違うのだろうか。お園も平気で裸になって体を拭いている。大作は江戸時代は男女混浴だという話を思い出した。たぶんそれ以前はもっとおおらかだったのだろう。

 折角のヒロインの裸目撃エピソードだというのに実に勿体無い。あれはヒロインが恥ずかしがるから成り立つ物なのだと大作は痛感した。

 もし宇宙人か未来人がこれを視聴しているとすれば同じように悔しがっているのだろうか。




 暗くなったのでテントに入って横になるが二人ともすぐには眠れそうも無い。大作は何か適当な話題が無いか頭を捻る。


「江戸から京都まで歩いて二週間くらい掛かるんだったかな?」

「にしゅうかん?」


 七曜(しちよう)は平安初期に空海(弘法大師)が唐から持ち帰ったらしい。十世紀ごろから暦表に書き込まれていたことを大作は知っていた。だが、明治以前は一週間を生活のサイクルとして使っていたわけではなかったのを忘れていた。

 大作は表現を変えて言い直す。


「半月くらい掛かるのかな?」

「京の都は凄く遠いってことしか知らないわ」


 お園にそっち方面の情報を期待するのは諦めた方が良さそうだと大作は覚悟した。


「たぶん半月くらい掛かると思う。京から九州、じゃなかった筑紫島(つくしのしま)までも同じくらいだ。一月くらいは旅が続きそうだな」

「筑紫島ってそんなに遠いのね。どんな所かしら」


 大作は中学校の修学旅行の記憶を引っ張り出す。大浦天主堂やグラバー園はこの時代には無いな。

 そう言えば原爆資料館の展示を見たのが原爆に興味を持ったきっかけだったっけ? 萌は元気にやっているのだろうか。


「火山や温泉がいっぱいあるぞ。余裕あれば見に行こう」

「かざん?」

「富士山みたいに噴火で出来た山だよ。富士山は今は噴火していないけど筑紫島には阿蘇山や桜島みたいな活火山がいっぱいあるんだ」

「そんな所に行って大丈夫なの?」


 お園の顔が急に不安げに曇る。

 怖がらせるのは不味い。大作は努めて明るい口調を心がけた。


「広い筑紫島で阿蘇、普賢岳、桜島が時たま噴火するくらいだからね。あとは鶴見岳、由布岳、九重山、霧島、いむた、池田…… 他に何かあったかな? 時々そんなのから煙や湯気が出るくらいだよ」

「大佐は筑紫島に行ったことがあるの?」


 話題の方向が変わったことに安堵した大作の口が思わず軽くなる。


「修学旅行で行ったんだ。萌と同じ班だったな。いろいろ可笑しなことがあったぞ」

「萌って女の人? 美しい?」


 お園が『可笑しい』を美しい、心が引かれるという意味の『趣深(をかし)い』に誤解したことに大作は全く気が付かなかった。


「正直言って綺麗なのは間違いないな。まあ俺にとっては妹みたいな奴だけど」


 実際には大作の方こそ弟みたいな扱いをされていた気がするが、お園にそれを言うのは格好悪い。大作は見栄を張った。


(いも)? 大佐はその女に懸想(けそう)していたの?」


 お園の口調が僅かに怒気を孕んだものに変わる。

 妹には妻や恋人という意味がある。同じように()には夫や愛する男という意味があり、()(きみ)と言えば夫を指す。

 大作は懸想なんて言葉を知らないので適当に返事をする。


「化粧? リップくらいは塗ってたと思うぞ」

「そんな女がいるのに昨日、私にあんなことを言ったのね。ずっと一緒にいようって……」


 絶望感を一杯に含んだお園の声で一瞬にして空気が凍り付く。

 飛行機の胴体に穴が開いて急減圧すると一瞬で霧が掛かったようになるそうだ。大作はそんな幻覚が見えたような気すらした。


 何を勘違いしてるのか分からんが誤解を解かないと。丸一日掛かって構築した信頼関係を一気に失いかねない。それだけは何としても避けなければ。

 大作は脳を必死にフル回転させる。萌との十年来の付き合いは伊達じゃない。どうにかこうにか、女が怒った時の対処法を記憶の底から引っ張り出すことに成功した。


 まずはとにかく謝る。次になぜ怒っているのか正しく理解したうえで謝る。次からは失敗しないことを約束する。言い訳は絶対にしない。

 絶対にやってはいけないことは『なぜそんなに怒っているの?』と聞くこと。こちらからそれを聞かずに不満を吐き出させることが重要だ。結局は女はストレスを吐き出したらスッキリするんだろう。

 これで駄目なら後は冷却期間を置くしか無い。


「ごめん、俺が悪かった」

「悪いと思ってるってことは昨日言ったのは嘘だったってこと? 私を騙したの?」


 怒気を孕んだ声がテント内の空気を震わせる。真ん丸で少しタレ目なお園の目が細く吊り上っていた。

 昨日、嘘を言った自覚は無い。なのにここであれは嘘だったなんて認めたら収拾が付かない。だったら否定した方が良さそうだ。


「嘘なんかじゃないよ。あれは絶対に本当だ」

「じゃあなんで謝るの?」


 不味い。最悪のパターンに嵌ったことを大作は悟った。ここで何が悪いか分からないのに謝っていることを認めるのだけは絶対に駄目だ。恥も外聞も無くひたすら謝るしか無い。狭いテントの中で大作は額を床に擦り付けて土下座をする。


「本当にごめんなさい。もう二度としません。お願いだから許して下さい」

「大佐のことを信じてたのに……」


 お園の目尻に涙が浮かぶ。もはや考えられる限り最悪の事態だ。萌が泣いてるのは何度か見たことがあるが、怒ってる状態から涙を流すなんて見たこと無い。大作には対応方法が全く分からない。


 お園は大作に背を向けて横になると黙ってしまった。押し殺したような小さな嗚咽が狭いテント内を満たす。


 大作は居たたまれない気持ちで一杯になる。何が悪かったのだろう。一日歩いて疲れ果てていたはずなのに二人はこの晩、なかなか寝付くことが出来なかった。






 その後、大作は二度と萌の名前を口にすることは無かった。


 諸国を放浪した二人はやがて奈良で小さな無住の荒れ寺に住み着く。何年も掛かって里の人々の信頼を得た大作は皆の協力を得て荒れ寺を再建して住職となった。お園との間に一男一女を授かり豊かとは言えないが幸せな日々が続くと思われた。


 だがそんな日常は突然に終わりを告げる。天正九年(1581)に織田信長が高野聖の虐殺を命じたのだ。

 本堂でお経を上げていた大作は突然乱入した侍たちに境内へ引きずり出される。


「大佐!」


 お園の魂を絞りだすように(うめ)く悲しげな叫び声が大作の心をかき乱す。


『すまない、お園。お前を幸せにしてやれなかった』


 大作は心の中で謝る。いったい何が間違っていたのだろう。

 侍の振り上げた白刃に日光が煌めく。


「ぐえっ!」


 背中に鋭い痛みを感じて大作は唐突に夢から覚めた。






 お園の膝が大作の背骨を蹴り上げていた。

 信じられないくらい酷いお園の寝相を再認識させられる。

 これじゃ体がもつわきゃないよ。インナーマッスルでも鍛えた方が良いのだろうか。それとも藁でプロテクターでも作るべきか。


 それはそうと、もしかしてこれからも毎晩のように悪夢を見るんだろうか。大作は思わず身震いした。


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