『つまらないなら読むな』とは
私は以前、『読んだら感想を書こう』という内容の作品を書きました。まあそんな内容を書いたからには私も感想を書いてます。そして同時に他の方の感想も見させてもらっているのですが、偶に見ることがあるのです。ある方が『つまらない』という書き込みに対して、ある方が『ならば読むな』と書き込む場面を。ここで言う『つまらない』と書き込んだ方は『読むのを止める』等の書き込みはしていなかったと記憶しています。
『つまらないなら読むな』とは何か?
私は単なる人の傲慢ではないかと思います。
人が何を考えてもそれは自由です。たとえ人を愛そうが犯そうが、思うだけなら自由です。少なくとも私はそういう環境で育ってきました。故に『つまらない』も『読むな』も言葉にしなければ何の問題も無いのです。しかし言葉にしたから問題(この場合、私が題材に取り上げたこと)が起きたのです。
私が注目したのは『読むな』という点です。小説を読む読まないは、その小説の内容を問わず読者の意思によって決定されることがほとんどでしょう。たとえ『つまらない』としても読みたいのであるならば読めばいい。しかし『つまらない』ならば『読むんじゃない』というのは違う気がするのです。
『つまらない』は読まなくなる理由の一つに挙げられます。ですが『つまらない』といっても様々な内容があると思います。それらを大きく『期待出来るつまらなさ』と『期待出来ないつまらなさ』に分けて考えてみます。
まずは『期待出来るつまらなさ』です。これは題材にしたものが良かったり、地の文だけが上手だったり、過去に面白い場面があったりする場合です。何処かに魅力を感じるも、ある箇所で総合評価がマイナスになってしまう。その箇所を直せば面白くなると思わせる惜しい作品に見られる『つまらなさ』です。
次に『期待出来ないつまらなさ』です。これは全体的に魅力を感じない、良いところよりも悪いところが圧倒的に多いような場合です。設定が滅茶苦茶、悪い箇所を指摘しても直りそうもない、読む気力の湧かない作品に見られそうな『つまらなさ』です。この場合ですかね、つまらないから読むのを止めると宣言されるのは。
次に『人にものを薦める』ということについて考えてみます。何事もそうですが、薦めるという行為は好意でするものと悪意でするもので大きく違います。
まずは好意。好意からのものは自分も相手もプラスになることを考えての行為です。これ美味しいから食べてみて!と薦めて、相手も美味しいと感じればよし。感じなければ残念。相手にしてみても同様、または薦められること自体が嫌かもしれません。
次に悪意。悪意からの薦めの場合、自分はプラス、あるいはマイナスになろうとも相手をマイナスにする。相手にしてみれば自分ばかりが損をする。そんな場合が多いのではないでしょうか。
では『つまらないなら読むな』の薦めは大別すると好意になるのか悪意になるのか。どちらかといえば悪意になるのかと思います。経験上、『読むな』と言っているのは読者であるパターンしかありません。作者が読んで欲しくないのであれば、おそらくその作品は消されるか非公開にされているでしょう。
何故読者が『読むな』と言うのか。私は言ったことがないので完全な想像で話をしますが、自分の好きな作品が貶されるのが嫌なのではないでしょうか。信者が自分の信仰する神や聖書を批判する輩がいたらどうするか。熱心な信者でなくとも何か物申すかもしれません。
共感は出来ます。そんな経験は何度かありますし、反論したこともあります。しかしながら『つまらない』にも2種類あると、『期待出来ないつまらなさ』故に読むのを止めると自ら言う方がいる。そう私は述べました。『つまらない』としか言ってない方の中には『期待出来るつまらなさ』である方もいる筈です。現に私もその1人です。最初は面白かったのに最近はつまらない。でも更新されたら読んでしまう。また面白くなることを願って。
どのような想いで感想を書いたかは本人以外は理解しようがないですが、『つまらない』けどまだ読んでいたい方々の意思を削ぐような言動は慎むべきであると私は考えます。
また、感想欄が荒れる危険性も考えて、『読むな』という趣旨の書き込みはしないでほしいのです。
読了、ありがとうございました。
何か意見などがありましたら何でも言ってください。