海へのメール
「海へのメール」
母が亡くなったとき、タダシは小学校六年生だった。
病室のベッドの脇で、父と妹のミチコと一緒に母を見つめていた。母は頬がこけ、青白い顔をしていた。荒い息遣いが聞こえ、看護婦が母の顔をガーゼで拭いていた。
母は脇に立っているタダシに目を向けると小さな声で、「タダシちゃん、ごめんなさいね。
お父さんの言うことを良く聞いて、みっちゃんをお願いね」と言った。
「お母さん」とタダシは泣きながら叫んだ。
「良子」と父は涙を流しながら小さな声で、母を呼んだ。
小学校4年生のミチコは怖いものでも見るように、何も言わずに父の手を握っていた。
母の様子を見ていた看護婦が医師を呼びに行き、しばらくして医師が来て母の死を確認した。
母は眠っているようだった。また、目を覚ますのではないか、そんな気がしてタダシは母の顔を見つめていた。
母の葬儀が終わり、またいつもの日常生活が始まった。ただ、そこに母がいなかった。
父は役所勤めをしながら、慣れない家事を始めた。妹のミチコは時々夜中に目を覚ましては、「お母さん」言って泣くことがあった。
タダシは学校へ行くと母の死のことを同級生からいろいろと聞かれるのが嫌だったが、平静を装うことにしていた。
季節は夏の終わりを告げ、秋風が吹き、道端のススキの穂が揺れていた。
タダシは宮崎の都農という小さな町に住んでいた。すぐ目の前は海で長い海岸線が続いていた。
ある日タダシは、漫画を読んでいると、空き瓶に手紙を入れて海に流すというシーンがあった。宛名の無い手紙を瓶に入れて海に投函する。ボトルメールと言うらしい。それは何となくタダシの気持ちに似ているような気がした、宙ぶらりんの心にぽっかり空いた穴、埋めようのない底の無い穴の中に手紙を投げ入れるような感覚。タダシは自分もやってみようと思い立った。
タダシは便箋に手紙を書いた。「僕の名前は日高 正と言います。小学校六年生です。宮崎の都農という小さな町に住んでいます。この前、僕のお母さんが亡くなりました。誰かと僕の気持ちを話せれば良いなと思います。この手紙を受け取ったら連絡をください。
平成六年九月二三日 日高 正 宮崎県児湯郡都農町大字〇〇番地」
便箋を小さく折りペットボトルの中に入れた。
タダシは妹のミチコを連れて近くの海岸に行った。
「みっちゃん、お兄ちゃんはこのペットボトルに入れた手紙を海に出そうと思うんだ」
「お手紙は郵便屋さんにお願いするんじゃないの」
「この手紙は宛名がないから、海に運んでもらうんだ、海が郵便屋さんになってくれるんだよ」
「ふーん、ちゃんと届くといいね でも誰にあげるの」
「どこかの、誰かだよ」
「返事が来るといいね」
そして、二人で一緒にペットボトルを海に投げた。
夕日に映えた海の波間に、ペットボトルはプカプカと浮かびながら沖へと運ばれて行った。
「ばい、ばーい、誰か受け取ってねー」と海に向かって叫んだ。
タダシはミチコの手を握り、いつまでも、海を見ていた。
タダシは小学校を卒業し、地元の中学へ行き、その後宮崎市の進学校へ進んだ。
父は母が亡くなったあと、役所の上司の勧めもあり、再婚した。
再婚した女性は、先妻の子であるタダシやミチコには優しかった。
そのうち、継母である女性は男の子を産んだ。タダシにとっては新しい弟が出来たようなものだったが、思春期にさしかかったタダシにはなんとなく疎ましく、高校に進学し宮崎市で下宿暮らしを始めた時は、ほっとしたような心持を覚えた。
その頃にはすっかり、ペットボトルの手紙のことは忘れていた。
タダシは成績も良く、高校卒業後は東京の有名私立大学へ進んだ。
妹のミチコは宮崎市の短大を卒業すると、地元の銀行へ就職した。
タダシは大学を卒業すると、都内の中堅どころの広告代理店へ営業職として就職した。
東京は景気も良く、仕事は面白くも忙しかった。
タダシは背もすらりと高く、目鼻立ちもすっきりとした好青年に成長していた。
夜は同僚と飲んだり、また女性とも何人かは付き合ったりもした。
そうやって5年が過ぎた。タダシは28歳になっていた。
そんなある日、上司の倉本部長が得意先と飲むからお前も付き合わないかと誘われた。
まあ、よくあることなので別に気にも留めず了解した。
繁華街の中にある、こぎれいな小料理屋へ連れて行かれた。
部長と二人で奥の部屋へ案内された。部屋の前に靴が並べてあり先客は既に来ているようだった。ただ、その靴は紳士靴とハイヒールだった。
部屋へ入ると男性と女性が座っていた。男性の顔は見知っていたが、女性は初めて見る顔だった。
「やあ、お待たせいたしました」倉本部長は機嫌よく挨拶した。
「いや、ちょうど私たちも今来たところです」
男性は得意先のA社の早川部長だった。その横の若い女性が座ったまま頭を下げた。
タダシはその女性と向かい合うように座った。
「日高君、君も良く知っているA社の早川部長さんだ」
「それから、こちらは社長秘書をされている中村めぐみさん」
「初めまして、日高です」と女性にぎこちなく挨拶をした。
タダシは何かこれは変だぞと感じた。もしかして「お見合い?」
その中村という女性は色白で髪が首筋くらいまであり、大きな涼しげな眼をしていた。
紺色のスーツにチェーンのネックレスを付けていた。
「日高君、君もいい年じゃないか。そろそろ身を固めた方がいいと思ってね」
上司はにっこりしながらタダシの顔をのぞいた。
「部長、これはお見合いですか」小さな声でタダシは尋ねた。
「そんな、堅苦しいものじゃないよ、気楽にやろう、ね、早川部長」
「いやいや、そうですよ、気楽にやりましょう」
酒と料理が運ばれてきて、ビールで乾杯をした。
タダシと中村という女性はお互いに名刺交換をした。
A社はよく広告を出稿してくれる、タダシの会社にとってはお得意様だ。
名刺には、「A社社長秘書 中村めぐみ」とあった。
「中村君はね、青森出身で実家は造り酒屋なんですよ。今は社長の秘書としてよくやってくれます」と早川部長はその女性を紹介した。
「えっと、いくつだったっけ」
「今年24歳です」とうつむき加減に彼女は応えた。
「日高君はいくつ」
「今年で28です」
「日高君は宮崎出身でね、宮崎のどこだっけ」
「都農という小さな町です」
「ご家族は」
「父は町の役所に勤めています。妹は宮崎市内の銀行に勤めています。歳の離れた弟がいまして中学生です」
「そうか、九州と東北か、ちょっと離れているけど、これもまあ今時関係ないよね」
と倉本部長は気楽そうに言った。
「中村君は、ご兄弟は」と早川部長は隣の彼女に尋ねた。
「兄と妹がいます。兄は実家の跡を継ぐために家の手伝いをしています。妹は地元の短大に通っています」
その後4人で飲みながら世相のことや仕事のことなどを話しながら歓談をした。
その飲み会がお開きになると、倉本部長と早川部長は「我々はまた二人で飲むから、若い二人はどっかでやんなよと」言いながらどこかへ消えてしまった。
残された二人。
「今日はお疲れ様でした。どこかに行きますか」とタダシは彼女に言った。
「今日は突然すみませんでした」と彼女は頭を下げた。
「いやあ、あの部長はせっかちだから構いませんよ。どっかで飲みなおしましょう」とタダシは彼女を誘った。
タダシは時々行く静かなバーへ彼女を誘い、そこで二人で取り留めもない話をしてその夜は別れた。もちろん携帯電話とメールアドレスそしてラインの交換もした。
バーで飲んでいる時、彼女は麗しい眼をじっとタダシに向け、にこりと微笑んだ。
その後二人は付き合うようになった。休みの日には映画をみたり、食事をしたりして、お互いの距離を縮めていった。
付き合い始めて1年を過ぎたころ、二人は深い中になり、タダシはこの女性と結婚しようと決めた。
タダシは大事な話があると言って、二人で良く行くイタリア料理店に彼女を誘った。
食事の後、タダシは意を決して、彼女に結婚を申し込んだ。
彼女はちょっと驚いたようだったが、ニコリとしてありがとうと言った。
私も大事な話があるんですと、彼女はバッグから封筒を取り出し、それをタダシに渡した。
タダシは怪訝そうに封筒を受け取ると、中には便箋のようなものが入っていた。
それを取り出してみると、なんとそれは16年前にタダシがペットボトルに入れて海に流した手紙だった。
タダシは声を失った。「なぜ、君がこれを」
「やはりあなたの手紙ね、平成7年の6月くらいだったかしら、私が家の近くの海岸で拾ったの、私は小学校二年生だった」
なんだかわからなかったので母に見せると、「これはお手紙だよと言われたの」
「じゃあ返事を書く」と言ったの、でも母から「これは住所が滲んでわからないねえ」だから返事が書けなかったの。「でも何か大切なものを貰った気がしてずっと持っていたの」
タダシはその古く茶色になった便箋をよく見た、確かに僕の字だ、あの時書いたものだ。
そして住所の所が滲んで不明瞭になっていた。父の万年筆で書いたので湿気でインクが滲んだんだろう。
実は、彼女はたまたま早川部長の机の上にあった「日高正」という名刺をみて、もしかしてと思い、いろいろと聞いたので、早川部長から会ってみるかと言われたのだ。
タダシはかつての幼い自分が書いた手紙を読み返した、そしてあの頃の記憶がまざまざと蘇ってきた。母の死、悲しみ、孤独、海の光景。
タダシは嗚咽した。涙が出て止まらなかった。そして彼女に「ありがとう」と言った。
彼女は「これでやっと返事が書けるわと」涙ぐみながらに微笑んだ。
彼女は手紙を持つタダシの手を両手でそっと包んだ。その温かい手のぬくもりを感じながら、タダシはいつまでも涙を流した。
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