第八章 声のない手紙
朝の光は柔らかいはずなのだが、あの日からずっと薄い灰色をしていた。
カーテンの隙間から差し込む陽射しは、まるで曇りガラスを通したように、輪郭の曖昧模糊な光を落としている。
神崎湊はその淡い光の中で、机の上に置かれた一通の封書を見つめていた。
——差出人:篠原黎。
その文字を見た瞬間、心臓が一拍、確かに鈍く痛んだ。
ありえない。
黎はもうこの世にはいないのだ。
けれど、その封筒に記載されている文字は間違いなく彼の筆跡であった。
端正で、どこかためらいを含んだ書体。
そして、宛名の下に書かれた日付は——“来週”になっていた。
湊は、指先を封にかけることができずにいた。
怖かった。
開けてしまえば、何かが壊れる。そんな予感があった。
だが同時に、開けなければ前に進めないという確信もあった。
——黎。君は、何を伝えたかった?
その問いだけが、胸の奥で繰り返される。
彼は震える指で封を裂いた。
中には、白い便箋が一枚だけ入っていた。
「湊へ」
それだけで、世界が一瞬色を失ったような気がした。
「もしこれを読んでいるなら、僕はもう“そこ”にはいないだろう。でも、怖がらないで。僕はきっと、君のそばにいる。君の苦しみは、僕の苦しみでもある。君が誰かを許せないとき、代わりに僕がその痛みを受け取る。それが僕の“役目”だから」
湊は息を呑んだ。
“役目”という言葉。
それは、黎が最後の日まで言いかけていたもの——「灰色の子」と呼ばれる存在のことを、彼が知っていたという証だった。
読み進めるうちに、指先が冷たくなっていく。
手紙の文字は淡々としているのに、不思議なほど温度を持っていた。
そしてその筆跡の奥からは、黎の声が立ち上がってくるようだった。
「湊、君はきっと自分を責めているね。僕が消えたことも、あの出来事も。でもそれは違う。君は“灰色の子”なんだ。人の痛みを分け与えられる、選ばれた人間。だけどね、湊——それは、祝福なんかじゃない。呪いなんだよ」
その瞬間、湊の喉の奥から息が漏れた。
胸の奥では、何かがざらりと音を立てる。
黎の言葉が、皮膚の下にじんわりと溶け込んでいくようだった。
灰色の子。
人の罪と苦しみを代わりに背負う者。
黎はそれを知っていた。
——いや、もしかすると、黎もまた“同じもの”を背負っていたのかもしれない。
便箋の最後には、震えるような小さな一行が書かれていた。
「湊、もし僕を許せないなら、それでいい。でも、どうか——君自身を許してほしい」
手紙を読み終えたとき、湊はゆっくりと目を閉じた。
静寂が部屋を満たす。
外の世界では変わらぬ日常が流れ、当たり前に誰かが笑い、誰かが生きている。
それなのに、湊の中では時間が止まっていた。
黎の言葉が、胸の奥で何度もこだまする。
“君自身を許してほしい”——
その言葉は、痛みとともに沁みていく。
ふと、机の上の鏡に目を向けた。
そこに映る自分の顔は、どこか違って見えた。
瞳の奥に、もう一人の“灰色の自分”が潜んでいるようだった。
——黎、君は僕にこの呪いを渡したのか。
それとも、僕を救おうとしたのか。
その答えを探すように、湊は手紙を握りしめた。
指先に伝わる紙の感触が、現実であることを確かめさせる。
それでも、どこか遠くで黎の気配が微かに揺れていた。
窓の外には、雨が降り始めていた。
細い雨の筋がガラスを伝い、淡い光を溶かしていく。
灰色の世界が、ゆっくりと形を失っていくようだった。
湊は立ち上がり、窓を開けた。
冷たい雨が頬を打つ。
その感触の中に、黎の声が紛れていた。
——湊、痛みを恐れないで。
——それが、生きているということだから。
雨音がすべてをかき消す。
湊は微かに笑った。
その笑みは涙のように脆く、けれど確かに“生”を宿していた。
そして、胸の中で静かに誓った。
「僕は、もう逃げない。君の分まで、この灰色の世界を見届ける」
その言葉が吐息となって空に溶ける。
灰色の空の下、湊はひとり歩き出した。
背後には、誰もいない。
だが、その足音のすぐ隣で、黎の影が確かに寄り添っていた。




