第三章 噂の中の彼
六月の雨は、なかなか止まなかった。
校舎の屋根を叩く雨音が、一日中消えることなく続いている。
手が届きそうなほど空は低く、雲はどんよりと重い。まるで浸食されるかのごとく、この町全体が灰色に沈んでいるようだった。
神崎湊は、教室の窓際で陰鬱な気分にさせる外の景色をぼんやりと眺めていた。
篠原黎は、その日も誰とも言葉を一切交わさず、一番後ろの席に静かに座っている。
ノートを取る姿勢は丁寧で、授業中にふと顔を上げる瞬間――その瞳に映る何かが、いつも湊をざわつかせた。
誰かの痛みを感じ取るという彼の言葉が、嘘には思えなかった。
それは、彼の仕草の一つ一つに滲んでいた。まるで、この世界の罪の重さをひとりで背負っているかのように。
放課後、クラスではまた噂が飛び交っていた。
机を囲んでしゃべる数人の女子が、声を潜めながら話す。
「篠原って、前の学校で同級生が死んだんでしょ?」
「なんか、いじめとかじゃなくて……屋上から落ちたんだって」
「事故じゃないって聞いたけど」
「だよね。あいつのせいで、って」
湊は思わず拳を握った。
そういう言葉を、黎がどんな気持ちで聞いているか――彼らは理解することもできず想像もしていない。
放課後、湊は一人で図書室に向かった。
静かな室内、湿った紙の匂い。
資料棚の隅に設置された古い新聞データベースの端末を開く。
――篠原黎、転校、事故、死亡。
いくつかのキーワードを入力すると、ひとつの記事が表示された。
希望が丘学園 第一高等学校 文理選抜科二年 女子生徒転落死。
学校は事故と発表するも、一部でいじめの噂。
同級生数名が事情聴取を受けたが、事件性は認められず。
写真は載っていなかったが、記事の日付を見て、湊の喉が鳴った。
――それは、黎が転校する二週間前の出来事だった。
湊は胸の奥に凍てつくものを感じた。
誰かの死。その痛みを背負ったまま、彼はこの町に来たのか。
帰り道、校門を出ると再び雨が降り始めた。
通学路の先に、灰色の傘を差した黎の姿があった。
湊は迷わず走り寄った。
「篠原!」
黎は足を止め、ゆっくり振り返る。
濡れた前髪の下の瞳は、どこまでも静かだった。
「……何?」
「前の学校のこと。俺、調べたんだ」
黎の表情が一瞬だけ凍った。
湊は息を飲んだが、引かなかった。
「噂になってることが本当なら、お前……ずっと一人で苦しんでたんじゃないか」
「やめろ……」
黎の声は低かった。
「そういうの、もういい。誰も知らなくていい」
「でも――」
「君まで穢る」
その言葉に、湊は言葉を失った。
黎は少し顔を上げた。その頬に、再び“灰色の痣”が浮かんでいる。
それは、前よりも濃く、そして痛々しかった。
次の瞬間、黎の背後で何かが揺らいだ。
水のように歪んだ空間の中から、黒い影が現れる。
人の形をしているが、輪郭が曖昧で表情がない。
ただ、ゆっくりと湊の方を向いた。
「やめろ……見るな!」
黎が叫ぶ。
だが湊の目は離せなかった。
影の中心に、見覚えのある顔があった。
――あの、水たまりの中に映った少女の顔だ。
雨が急に強くなり、世界が灰色に染まる。
湊は耳鳴りの中で、誰かの声を聞いた。
「どうして……助けてくれなかったの?」
雷鳴が轟いた。
気づくと、黎の姿はもうなかった。
その夜。
湊はベッドの中で、あの声を何度も思い出していた。
「助けてくれなかったの」という言葉が、胸の奥を締めつける。
午前二時。
眠れずにいた湊のスマホが震えた。
画面には、またもや“篠原黎”の名前。
【君が見た影、あれは俺の罪】
【俺が感じてる痛みは、あの子のもの】
湊は返信した。
【“あの子”って誰だ?】
少し間を置いて、返事が届いた。
【中学の時、唯一の友達だった】
【俺のせいで、死んだ】
指が止まる。
言葉の一つ一つが、鉛のようにずっしりと重く沈んでいく。
【事故だったんだろ?】
【違う】
【俺が、彼女の痛みを取りすぎた】
意味が分からなかった。
湊はさらに送った。
【取りすぎた、って?】
黎からの返信は、すぐに来なかった。
代わりに、音のない画像ファイルが届いた。
開くと、暗い教室の写真――そこに、黒板に白いチョークでこう書かれていた。
「灰色の子に触れた者は、罪を分け合う」
湊は息を詰め、画面を閉じた。
窓の外では、再び雨が降り始めていた。
遠くで雷が光る。
その光に、一瞬だけ人影が浮かんだ。
黎だった。
校門の前に立ち、こちらを見ていた。
表情は見えない。だが、何かを訴えるように手を伸ばしていた。
湊は迷わなかった。
傘も差さず、靴を濡らしながら外へ飛び出す。
「黎!」
声が雨にかき消される。
近づくと、彼の肩が震えていた。
「もう、終わりにしたい」
「何を……?」
「この“灰色”を。俺のせいで、また君が苦しむ」
湊はその手を掴んだ。冷たい。
「俺は、逃げないって言っただろ!」
「でも、君は――」
黎の言葉は、雷鳴に途切れた。
次の瞬間、空気がねじれ、二人の間に影が走った。
黒い霧が渦を巻き、湊の足元に広がっていく。
その中心に、あの少女の顔が浮かぶ。
今度ははっきりと聞こえた。
「私の痛みを返して」
湊は息を呑み、黎を見た。
黎は微笑んでいた。悲しそうに、けれどどこか諦めたように。
「――それが、俺の罪だ」
次の瞬間、黎の姿が消えた。
残されたのは、雨と、灰色の光だけ。
湊は立ち尽くした。
足元の泥水に映る自分の顔が、ゆっくりと灰色に染まっていく。




