→スイレン:信頼
アルフレッド・ヴァリニ子爵令息は有頂天だった。彼は自分が子爵程度の地位で収まる器じゃないと、いつも思っていた。それがまさに、証明されたのだから。
王都の貴族院は基本的には親の爵位に左右されない自由な付き合いができる場所だという建前はあるが、そこでどれほど親しくなろうと、卒業したらその次の日から絶対服従しなければならない貴族社会に放り込まれる。そもそも学園に上がる前に散々階級差というものを思い知らされてきた彼らは、学園の理想に対してただの「建前」であることは承知していた。
しかし、それでもアルフレッドはこれまでちっとも納得できなかった。そもそも貴族の偉そうにしている奴らなど、たまたま偉そうに出来る家に生まれてきただけではないか。アルフレッドは「持って生まれた」「天より授かった」などというただの幸運を嫌悪していた。
「ははっ、なぁ、あの時のヴィクトリア・ラ・メイの顔、マジで笑えたよな!」
貴族としての位は低いが気心の知れた仲間たちと劇場で「貴族の狩猟」を嗜みながら、アルフレッドは自分の帽子の飾りをこれ見よがしに舞台のライトに照らす。逃げ惑う平民女を捕まえ、半裸になって跨る友人たちは苦笑した。やれやれ、またアルフレッドの自慢話が始まるぞ、と。もちろんアルフレッドは友人たちのそんな苦笑に気付いているが、それでもまだあと一か月はこの話を何度もしていいだろうと思っている。
卒業式を間近に控えたヴィクトリア・ラ・メイ伯爵令嬢が外泊したと聞いた時、行先が彼女の生家のあるラ・メイ伯爵領だと知り、アルフレッドは歓喜した。
「あぁ、何度見ても惚れ惚れする。俺にこんな隠された才能があったなんていつ気付いたかって?」
「きいてねーよ!はは!」
「才能なんかじゃない。俺は神に救いを、なんて無能な台詞は吐かないからな。努力さ。全て、俺が地道に努力して得たんだ」
「はは!帳簿の改ざんと捏造の努力ってなんだよ!」
悪友たちは野次を入れる。アルフレッドはしぃっと、唇に指をあて、彼らに沈黙を要求した。アルフレッドにとって、この努力はとても神聖で愛ゆえに生まれたものなのだ。彼らが茶化していいものではない。
アルフレッドの母親は「銀髪の息子を産まなかったから」とヴァリニ子爵に殴り続けられた。処女ではなくなった女に価値はないと「次は必ず!」と縋る子爵夫人を拒絶し、二度と触れず、会うこともなかった。
薄暗い部屋の中で病んでいく母のために、アルフレッドは父の筆跡をまねて手紙を書いた。食事をきちんととるように。髪をとかすように。体をちゃんと温めるように。幼い子供が母の身を案じて、手紙に「子供を可愛がるように」などということは一切書かず、自分の願望ではなくただただ母の為に文字をまねたのだ。
他人の筆跡を真似るくらい、アルフレッドにとっては朝食の片手間に行えることだった。
ラ・メイ伯爵領の「悪事」を記した帳簿があると、アルフレッドはヴィクトリアを脅した。領地から戻ったばかりの彼女も「不正を知っているのだろう」と「卒業式の前に態々実家に戻ったのは、証拠を何か隠すためなんだろう」と突きつけた。
ヴィクトリア・ラ・メイ伯爵令嬢はアルフレッドを静かに見つめ返し「わたくしの家門に恥じ入るところなどありません」とアルフレッドを拒絶した。証拠を見ろと、目の前に突きつけ「これは父の文字ととても良く似ていますね」と彼女が言って「本人のものだからな!」と言ってやっても、ヴィクトリア・ラ・メイは「なぜこんな嘘をつくのです」とアルフレッドを哀れんだ。赤い髪に青い瞳の伯爵令嬢。
アルフレッドはヴィクトリアが強がりを言っているのだと嗤った。本当は今すぐ家族に問いただしに行きたいくせに、俺が怖くて仕方ないくせにと笑い、アルフレッドは彼女を救ってやろうと優しい声で提案した。
『明日の卒業式のパーティーでこの帳簿と、お前の家族の罪を暴かれたくなければお前は俺とパーティーに出ろ』
全ては王太子レオニスと、愛しい乙女レイチェルのためだった。
王太子の婚約者であるヴィクトリア・ラ・メイが心変わりして、子爵に恋をし、自分から王太子との参加を拒否する。これでレイチェルはレオニスとパーティーに参加できるし、レオニスは鬱陶しいヴィクトリアに対処したアルフレッドに感謝するだろう。学園時代と同じ友情を、卒業してからも示してくれるに違いない。
しかし愚かなヴィクトリアはアルフレッドの提案を断った。アルフレッドが明日、証拠と思い込んでいるどんなものをその場に提示したとて、誰も信じないだろうと彼女は言った。馬鹿な女だ。愚かな女だ。アルフレッドは「俺の手を取らなかったことを後悔するぞ」と三度忠告したが、ヴィクトリア・ラ・メイはその手を取ることをしなかった。全くもって、可愛げがなく頭が悪い女だったな。
「レオニスがあいつの言葉を全て否定した時!あいつの両親が王家にたてつく逆賊だと宣言された時!レオニスがあいつの手を振り払ってレイチェルの手を取った時!!はは!気の毒で見ていられなかったなァ!」
「良く言うぜ。その気の毒な女の髪を平気で切ったのは誰だよ」
「あぁ、俺だな?」
何が悪い、とアルフレッドは肩をすくめる。
ヴィクトリア・ラ・メイ。たかだが地方伯爵の娘。王太子であるレオニスの婚約者となるにはどう考えても家格も足りず、性格も王太子妃に相応しくない女だった。それなのに王太子の婚約者に選ばれたのは、彼女が赤い髪に青い瞳の持ち主だったからだ。
たかが髪の色がなんだというのか!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
その事実を知った時、アルフレッドは激高した。秘密を打ち明けてくれたレオニスが驚く程に怒り狂い、そんな理由で王太子妃の座に座るものがいてなるものかと吐き捨てた。アルフレッドはレイチェルに恋焦がれていた。それは間違いない。だが、レイチェルへの恋心よりも、赤い髪に青い瞳というだけで約束された幸運を掴もうとしている者を引きずり落とす憎悪の方が強かった。それゆえ、アルフレッドは自分がレイチェルを得るより、レイチェルを王太子妃にしたいというレオニスへの協力を決めた。
帽子の飾りにした赤い髪に唇を落とし、アルフレッドは高らかに笑う。
「この……!!愚か者が!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
しかし、振り返った次の瞬間、劇場の入り口の扉が音を立てて開き、アルフレッドの父、ヴァリニ子爵が怒鳴り込んできた。ドスドスドスと足音を響かせ、興奮状態の父親が舞台の上に上がる。止めようとした騎士や友人たちをヴァリニ子爵は小柄な男とは思えないほどの強い力で押しのける。
ヴァリニ子爵は息子の傍に荒く息をつきながらたどり着くと、手に持ったステッキで殴りつけてきた。
「ッ!?」
「お前などがお前などがお前などがあああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!」
ガッガッガゴッ、と、力いっぱいにヴァリニ子爵がアルフレッドを殴り続ける。アルフレッドは身を震わせた。子供のころからの習慣だ。頭のおかしい父親の発作的な暴力は黙ってやり過ごす。だが理解できなかった。このところのアルフレッドと父親の関係は良好だった。アルフレッドが生まれた当初ほど、父は銀髪の跡取りを得ることに執着せず、領地から攫ってくる女も銀髪に拘らなくなった。だからこそ手あたり次第に目についた娘を攫い馬車の上で弄び、親元に返す気もなくアルフレッドが劇場で飼育することになっているのだが、それはどうでもいい。
「なぜだ!なぜ!!なぜお前などがあのお方に殺していただけるのだ!!!!!!」
「お、お、親父!!?」
「ああぁああああ!!私が!!私こそを!!!なぜ!!!!!!!!!!!お前のような出来損ないのクズが!!!!!!!捨てる先もないくらいのゴミが!!!なぜ!!!!!!!!!!」
「いや、なんでだよ……」
思わず、アルフレッドは父親の殴る手を受け止めた。
はっとする。
自分は父より背が高く、力も強くなっていた。そうだ。あの伯爵令嬢の方が父より背が高いのに、自分はあの女を腕一本で押さえつけて、思う存分殴ることができたのだ。
こんな、年老いた父親なんて、大したことないんじゃないか?
「この!!この!!放せ!!無礼者め!!」
「なぁ、親父……なぁ!なんでだ?俺たち、うまくいってただろ?俺は殿下の側近になるし、あんたは伯爵家の領地を貰う算段も付いてた。俺たちは子爵で終わらないって、俺とあんたで家門を大きくできるんだって、なぁ、そうなるはずだったじゃないか」
「煩い煩い黙れ!!この私にお前ごときが何を言うつもりだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
顔を、耳を、何もかもを真っ赤にしてヴァリニ子爵が息子の言葉を拒絶する。
「あの方がなぜお前を見るのだ!!なぜお前なのだ!!!!!!!!お前などあの方の偉大さの一つも、美しさの欠片も知らないくせに!!!!!!!!!!!!!!!お前はいったい何をしたんだ!!!!!何をして、あれほどあの方に想われているのだ!!!!!!!!!!!!!」
怒鳴り喚き散らす狂人のたわごとは、アルフレッドにはまるで意味が解らない。ただ、この人はきっとずっと、いつでも今後もずっと先も過去のどんな時だって、アルフレッドを愛する気などなかったのだと、それが段々とアルフレッドにはわかって来た。
「なんで、どうしてだよ」
アルフレッドは父に殴られながら問いかける。
「アンタと母さんにただ愛されたかっただけなのに、なんでこんなにひどいことばっかりなんだ?俺はただ……!!!」
「お前が私の筆跡を真似て自分の母親を自殺に追い込んだ時、お前を殺しておけばよかったのだ!!!!」
二人は同時に叫んだ、その声は同じくらい大きかったのでお互いにお互いの言葉は聞こえなかった。聞こえていたとしても、相手の言葉を理解しようとしないお互いなので、それはどのみち意味のないやまびこのようなものだっただろう。
しかし、二人の怒鳴り合いは長くは続かない。やがて片方の絶叫が響き、そして静かになる。アルフレッドは父親を殴り殺し、混乱して逃げ惑う友人や、村娘たちに次々と襲い掛かった。