→スイレン:清純な心
ヴァリニ子爵は、これまでの生涯で最も深く悩んだ。これほど思案したのは今は亡き妻との初夜を「奪ったら二度と味わえなくなる」と葛藤して以来だろう。
目の前にはヴァリニ子爵が何度も夢に見る程に憧れた英雄卿と名高いルシウス・コルヴィナスその人だ。かつてと全く変わらない青の瞳に銀の髪。戦場では皇帝陛下のお傍に少しでも呼んでいただくためにと身ぎれいにされていたが、今のこの粗野なお姿もなんと素敵であろうか!
「どうした。選べないか?」
「いえっ……いいえッ、どうかもっとじっくりと、閣下が私にお与えになるものを考えさせてください」
ヴァリニ子爵は執事を呼び、この屋敷で最も上等なワインや料理でコルヴィナス卿をおもてなしするようにと何度も念を押した。幸いヴァリニ子爵家のワインセラーは潤沢だ。市場に出回ることのない幻の一本から、金額は安いが「美味い」と言われる名品まで、成金趣味ではなく正統に味の追及を極めた子爵だからこそのコレクションである。このコレクションはヴァリニ子爵の自慢であり、宰相が一度ワインセラーを見学させてくれないかと丁寧に申し出てきた時に「ご冗談を」と軽く笑って断る程に大切にしているものである。
管理を任されてきた執事は驚き「よろしいのですか」と眉を顰める。
もちろんヴァリニ子爵は「当然だ!」と返答した。素晴らしい一流の物は素晴らしい一流の方が消費すべきで、ヴァリニ子爵はそれが自分ではなくルシウス・コルヴィナス卿であると断言できる。というのも、子爵という貴族の中では低い身分で、とりわけ領地にめぼしい名産もなし、先の大戦で手柄を立てたわけでもなく、物語で言えば「ちょっと名前は出るがそれっきり」程度の端役で、自分のような冴えない男の存在は読者も軽んじるだろうとわかっていた。妻も死に、跡継ぎも得たヴァリニの楽しみと言えば、心の中の偶像に献身することだった。戦場で雄々しく敵を薙ぎ払い、赤い髪を靡かせる麗しい皇帝陛下に付き従い馬を駆った銀の将軍閣下を、ヴァリニ子爵は何度も何度も何度も夢想した。
そしてその方に自分が厳選したワインを献上し、その方の喉に液体が流れ、白い頬が紅潮し瞳に熱がこもるのを想像しては熱い吐息を漏らしたものだった。
その夢が今現実に!!
ヴァリニ子爵は出来るだけ時間を稼ぎたかった。この素晴らしい夢が一秒でも続いて欲しい。その瞳に自分の姿を写し続けて欲しいと焦がれ続け、ヴァリニ子爵はルシウス・コルヴィナスが自分の言葉を待っているという、自分の為だけに彼の時間を消費させることが出来ているこの状況にただただ歓喜した。
どういうわけか知らないが、ルシウス・コルヴィナス卿に死を願われた息子よ、なんと孝行息子であろうか!!と、感謝さえしている。
息子よ!一体何をして閣下に憎まれたのか!
理由などヴァリニ子爵には正直どうでもよかった。息子がどこぞの地方伯爵の悪事を告発した時に、少し英雄じみた横顔を見て「息子も立派になったものだ」と感動した心は確かにあり、息子が懸想している聖女のために何かしらの便宜を図ってやりもした。
息子が心酔する王太子が婚約者を公然と罵り追い出したと知った時も、「今の世代は戦争がない分、こうしたことで悪意を消費するのか」と感心しもした。
だが、それらを「手伝ってやろう」という親心、この国の行く末について、いち貴族の当主として果たす義務についての何もかも、今日この時にルシウス・コルヴィナス卿が門の前に現れたと聞いて、全てどうでもよくなった!
これから閣下は自分を殺してくださるという。その内容に正統性があろうとなかろうと、それもどうでもよかった。表面的にはどこまでも冷静に見えるように、国に従順ないち貴族に見えるように、息子が何をしたのか真実に理解しておらずとも、それでも一定の正義を宿している「正しい人間」の顔でヴァリニ子爵は自分がルシウス・コルヴィナスの凶刃に倒れる姿を想像し、下半身を震わせた。
あぁしかし!しかし!選べない!
ヴァリニ子爵は苦悩した!苦しんだ!
選べるはずがなかった!
殺されるとわかって愛する息子を卿に売り渡し、獣以下の畜生と蔑まれながら卿に殺される私と!!何の価値もない息子を庇う愛情深い父親として卿に敵対し憎まれながら殺される私!!!!!!!なぜだ!!なぜ!!!!一度しか散らすことができないのか!!!!!!!
*
「酒は不要だ」
ルシウス・コルヴィナスは執事が熱心に勧めてくるワインやその他のアルコールの一切を断った。十六年前に記憶が飛ぶ程飲んで以来、酒には手を出さないと決めている。執事は「私が殺されてしまいます!」と怯えたが、なぜ自分の命を投げ出すくらいで他人の考えを変えられると思えるのかルシウスには疑問だった。
代わりにマーカスが次々にワインのボトルを開けていくが、アルコールはおろか毒の一切もきかない体を持つマーカスにとってワインは色と味がついただけの水と同じだろう。
息子と死ぬか、息子より先に死ぬかを選べないでいるヴァリニ子爵を眺め、ルシウスは思案した。あの酔っ払いもそうだったが、連中は「自分たちは正しい」と信じている。そういう価値観のまま殺したところで、彼らに与えられる恐怖というのは微々たるものではないか。ここでアルフレッド・ヴァリニの父親を殺してその首を大広間に置いたところで、アルフレッド・ヴァリニは自分が正義の被害者だと嘆いて自分の行いに酔うのではないだろうか。
「か、閣下!?」
ふむ、と一つ頷いて、ルシウスは立ち上がった。そのままスタスタと部屋から出ようとするので、ヴァリニ子爵が慌てて追いかけてくる。
「ど、ど、どちらに!!?」
行く先を告げる必要性を感じなかったのでルシウスが黙していると、ヴァリニ子爵はぶるぶると顔を震わせた。まるで目の前に降ってわいた幸運が消えうせようとしていることに気付き、泡を吹いているような様子だった。
ただルシウスが出口の方に向かっていくと、その意図に気付いて大声を上げ、騎士たちがルシウスを阻む。
「そ、そ、そのお方を引き留めよ!なんとしてもいい!!傷などお前たちがつけられるはずがないから、何をしてもいい!!」
騎士たちは主人の妙な命令に訝りながら、剣を抜きルシウスを囲んだ。
溜息の一つもなく、ルシウスにとっては歩いた先に小石が転がっている程度の感慨で、それらの脅威を跳ねのけた。
「あ、あぁあああ、ぁあああああ!いか、行かないでください!!どうか、どうか!!私も!私もその閣下の剣で貫いてください!!」
ヴァリニ子爵はルシウスの足に縋りついた。血にまみれた廊下を進み、玄関の扉に手をかけたルシウスに、彼が考え付く限りの興味と関心を引きそうな言葉を並べ立て、ルシウスの瞳に自分を写そうと、あるいは考え付く限りの暴言と罵倒を浴びせ、その剣を握る指に力をこめさせようとするが、ルシウス・コルヴィナスの冷たい表情は変わらない。
元々ルシウスの目的は惨殺ではなく、報復である。ここでヴァリニ子爵を殺したところで、その息子は自身がヴィクトリア・ラ・メイ伯爵令嬢にしたことを悔いはしないだろう。
「私はお前に興味がない。お前が何をしようと、何を考えようとどうでもいい。ただお前の息子の考え、お前の息子の振る舞いに興味があるだけだ」
ルシウスが言い放つと、ヴァリニ子爵は大きく目を見開き、わなわなと唇を震わせた。その瞳には嫉妬の炎と、ここにはいない者への憎悪が満ち溢れているが、子爵の方へ顔を向けないルシウスには見えないものだった。
何を書かせられているんだと思いながら書いていたので、
何を見せられたんだと思ってくださったらOKです。




