→スイレン:信仰
「あの酔っ払いの雇い主はヴァリニ子爵のところの息子。あの酔っ払いだけじゃなく他にもあちこちに声をかけて今じゃすっかり、平民たちは自分達がパンも食べられないのは伯爵令嬢が王室のお金を浪費したからだって思ってる」
各地の妖精たちの囁きをまとめた内容をマーカスはルシウスに伝える。冷たくなったヴィクトリアの身体を運び出し、立ち寄った修道院に金を渡して丁寧に弔ってもらった後のことだ。
「この紋章はヴァリニ子爵家の物だな」
ルシウスは伯爵領にいた騎士たちの制服に刺繍されていた紋章を紙に描き、マーカスに確認する。十六年間田舎に引っ込んでいたがヴァリニ子爵はまだ彼が当主になる前に戦場で共に駆けた記憶がある。小者だが悪人ではなかったはずの男がなぜ、と眉を顰める。
「子爵が伯爵を貶めるような振る舞いをなぜする」
「さぁね。別に領地が近いってわけでもないし、なんでだろ。僕は人間同士がなぜ自分の持ってる物で満足せず、自分の手元じゃなくて他人の手元ばかり見ているのか理解ができないね」
人間ではないエルフのマーカスは肩をすくめる。ルシウスもマーカスに話しかけているつもりはなかったのでそれ以上会話は続かなかった。
「で?ルシウス。ヴィクトリアは亡くなったんだし、これで君は墓守になるのか」
まだ伯爵領では伯爵夫妻やルシウスの最近までの同僚たちが野ざらしになっている。伯爵令嬢の最後は残念だったが、一度落ち着いて彼らの弔いをするべきだとルシウスが判断するのか、マーカスは問うた。
「死んだ者たちへの追悼はいつでもできる。同じ速度で時が流れ続けるのであれば、私が優先すべきことは、彼らを死に追いやった者たちに自らが行った振る舞いについて一秒でも早く考えさせることだ。そのために、私の敵、ヴィクトリア様を苛んだ者たちを知る必要がある」
「……早ければ早いほど、死ぬまでに苦しむ時間が長くなるから?」
「それがなんだ」
当然、王太子と聖女はすでにルシウスのリストの上位に記載されている。
だが、故郷へ戻る馬車からヴィクトリアを攫い、売春宿に売り飛ばした人物。
伯爵夫妻に罪を着せ、伯爵領に混乱を招いた人物。
ヴィクトリア・ラ・メイの不幸に関わる全ての者たちに平等に、その日が来るまで、彼らの想像力の限りを尽くし、自分達が死ぬ姿を夢に見させ続けなければならない。
「……いや、でも王太子と聖女って、殺せなくないか?」
この国で皇帝の次にしっかり守られている人物だろう。しかも聖女の噂が本当なら、致命傷以外の傷は回復させられるらしい。こちらはルシウスただ一人が凶器で、マーカスは「僕は戦力に入れないでくれ」と念を押した。もちろんルシウスもマーカスに暴力を求めるはない。
「そもそも子爵だって、厳重な護衛がいるだろ。これまでみたいなゴロツキや援軍の可能性のない騎士たちとやり合うのとは違う」
「同じだ」
「いや、違うだろ」
「人間が死ぬ理由はいくつかあるが、ほぼ大抵の物は、剣で斬れば死ぬ」
さらりとルシウスは告げ、訝るマーカスに「子爵に会いに行くぞ」と馬に乗った。
*
「かつての英雄殿にお会いできるとは、これほど喜ばしいことはありません」
ルシウスが招待状も何もなしにヴァリニ子爵家を訪ねると、胡乱な目をした門番が半信半疑で家令に取次、慌ててヴァリニ子爵本人と家令が二人を出迎えに門まで駆けてきた。
十六年前に突如として姿を消した大戦の英雄殿の登場にヴァリニ子爵は顔を紅潮させ、金と銀の食器で今夜の客をもてなす。子爵はルシウスが粗末な姿をしていることを当初は驚いたが、ルシウスが昔と変わらず皇帝から授かった剣を腰に下げていることに気付き「お変わりないようで」と微笑んだ。
「ところで今夜は一体どういうわけで?かつての知己を訪ねる名誉に私が選ばれるとは驕れません。何か私にできることが?」
英雄殿に頼られるのはこの上ない幸せだと、ヴァリニ子爵は嬉し気に続ける。エルフへの偏見もないこの、人の好さそうな子爵に様子にマーカスは困惑した。妖精たちの囁きによれば、今こうして目の前にいる、ルシウスの熱狂的なファンにしか見えない子爵はラ・メイ伯爵家の悪評を各地に広めさせている公子の父親だ。嫡男とはいえ、当主でもない公子が子爵家の名で自由にできることは限られているはずで、各地に他の貴族の評判を流すようなことはあまりに大それている。当主の許可なしにできるとは思えない。
「お前の息子を殺す。お前はどうする?息子を私に差し出して私に殺されるか、息子を守って私に殺されるか」
「なるほど。理由を伺っても?」
「え、ええ?」
淡々と、ルシウスは運ばれてきた料理に手を付けながら告げる。それを受けて特に驚いた様子も見せず、ヴァリニ子爵が返すので、かえってマーカスの方が驚いた。
「お前の息子がラ・メイ伯爵家の名誉を傷つけているからだ」
「息子は民衆搾取の事実を裏付ける帳簿を手に入れ、その事実を広めているだけです」
「なんのために」
「国の未来に必要な正義だと、私も納得して許可しております」
帳簿の写しを息子から預かっているとヴァリニ子爵は話し、執事にそれを持ってくるように伝えた。有能な執事はすぐにそれをルシウスの手に渡す。
「…………」
「どうぞお持ちください。複製はこれ一つではなく、すでに息子が卒業式のパーティーにて提出しております」
ルシウスはその複製品を丁寧に調べた。伯爵家の公式印や、使用されている羊皮紙も伯爵家が扱う独自のものだ。十五年前の産業革命により紙が主流になっていて久しいが、今でも貴族の重要な記録は昔ながらの羊皮紙が使われている。
「内容は小麦、大麦などの穀物税が1戸あたり10サック……通常の二倍だな。商業税、売り上げの30%……?公共事業の予算がゼロ……道路整備や施療院運営に関してなにもしないと?前年の洪水対策が未実施」
さらに別の羊皮紙にはヴィクトリアの個人的な出費としてドレス50着金貨500枚、宝石の首飾り金貨300枚、王太子妃のためのお茶会の費用金貨1000枚が記載されており、これらは王室に請求されている。
「コルヴィナス卿、私は貴方様のような武勇でこの国に貢献することは叶いませんでした。ですが先代皇帝陛下を敬愛する貴族の一人として、この国のためにできることがあればどんなことでもしたいと考えております。私は子爵ではありますが、伯爵家のこの横暴を見過ごすことはできず、息子が正義の声を上げることを誇りに思っております。ラ・メイ伯爵領の惨い有様は、多くの人が知るべきです。知る人間が多ければ多いほど、救う手も多くなりましょう」
「そうか。それで、先ほどの選択はどちらを選ぶ」
自分の振る舞いに自信を持ち意気揚々と語るヴァリニ子爵の言葉が終えるのを待って、ルシウスは再度子爵に死にゆく経緯を選ばせた。
あの世の先代皇帝より
「ルシウス・コルヴィナス。会話のキャッチボールをする気がない!相手が投げるのを黙って眺めるマナーを教えたが……受け取って相手が取れる速度で返すことが……できないな!!仕方ない!野球やろうぜ!」




