最終話:赤い薔薇→「あなたを愛しています」
目覚ましの電子音が、夢の残り香を容赦なく断ち切った。私は布団の中でしばらく動けなかった。胸の奥に、熱を帯びた何かがまだくすぶっている。ひっくり返って天井を見上げる。うん、平凡で平和でのんびりとしたマイホームだ。都内だが川の近く、駅まで自転車で10分。徒歩20分。広さはあるが築年数もあるマイホーム。その寝室のベッドからずり落ちて、天井を見上げてぼんやりと。
「…………」
脳裏に鮮明に浮かび上がる光景。
炎。叫び。銃声。
あれは夢だ。長い、長い夢。
夢にしては妙に生々しくリアリティがあった。ただ、夢の中で「原作小説」やらなにやらを考えていたのだけれど、起きると「そんな小説読んだっけ?」と、夢の中の自分の想像だったような気もしてくる。寝転がりながらスマホで該当する小説を探したが、見つからない。夢の中で覚えていた作家名もうろ覚えで、そんな作家名は存在しないようにも思えてくる。
「あ、仕事しないと……」
呟いて、起き上がる。歯を磨き、メイクをして、身なりを整える。通勤するわけではない。在宅で翻訳の仕事をしているので、基本的には家から出ないのだけれど、オンオフの切り替えということで化粧をしてきちんとした格好をする。
昨日も今日も何も変わらないかのように、キーボードを叩いて資料を漁り、電話に応対し、見る相手もいないのに電話口で笑顔を貼りつけた。自分で定めた昼休み、一度落としたモニターに映る自分の顔がやけに他人事に見えたが、すぐに視線を逸らした。
自分の決めた業務時間を終えて、外出でもしようかと靴を履いて玄関を出る。そういえばどれくらいぶりの外出だっただろうかと、郵便受けにたまったチラシをそのまま共有部のゴミ箱に入れる。光熱費は引き落とし、必要な書類も全て電子でのやり取りをしていると、このポストは何のためにあるのだろうか。ゴミになるチラシを入れるだけならいっそテープでも貼っておこうかとそんなことを考えた。
駅前、雑踏に出ると、現実の空気が肺に重く沈む。酔客の笑い声、コンビニの明かり、排気ガスの匂い。なんだか居心地が悪い。無理やり、この世界に放り込まれたような感覚だ。ただ、あの夢が夢じゃなかったら、私はもう、誰なんだろう。
そのとき、腕を掴まれた。
「――っ!?」
声を上げる間もなく、細い路地へと引きずり込まれる。ヒールがアスファルトを擦り、痛いほど心臓が跳ねる。
か弱いレディを狙う推定性犯罪者か!?
いい度胸だ。私は自分の腕を掴む男の腕に全力で嚙みついた。
「ッ、痛ってぇなァ!」
慌てて私から離れる不審者。位置的に股間を蹴り上げられなかったことが悔やまれてならない。
暗がりの中で、向かい合う。不審者と私。
「……ん?」
スーツでも作業着でもない、場違いな黒いコート。額に青筋を立てながら、笑っている。
「よぉ」
軽く手を上げる、その声は、夢の底から響いてくるようだった。
「探したんだぜ」
一歩、彼が近づく。冷たい壁に背中を押しつけられる。
「もう逃げるなよ、――カッサンドラ」
夜風が止まったように感じた。私の喉がひくりと鳴る。
夢で見た銃声、血、炎。そのすべてが、目の前の男の瞳の奥に、まだ生きていた。
「メフィスト……?」
信じられない、という思いで名前が唇から零れると、男の口角が上がった。機嫌をよくした手が、私の顎を掴んで顔を上げさせる。指先は冷たいのに、声だけが甘やかに響いた。
「俺の傍にいてくれっつったよな?ア?」
「言動がチンピラ……」
「ア゙ァ゙?」
「うそうそ、冗談……っていうか……夢じゃなかったの?」
私はただただ驚く。
「は?夢?」
メフィストは喉の奥で笑った。引きつったような笑い声。一瞬不快、不愉快、心外、ふざけんじゃねぇよ、と怒りににた感情が目に宿ったのを感じた。私がきょとん、としている顔を見てその怒りが霧散する。
「じゃあ、まだ夢を見てんだよ。お前が現実だと思ってるこっちが、全部な。俺たちの現実に戻ろうぜ?」
「……いや、それはちょっと。レイチェルボディもないし……」
私が拒否すると、メフィストが目を細めた。先ほど消えた怒りとは別の感情が湧き上がっている。
「なぁ、俺がどれだけ探したと思ってる? 死にかけながら、お前の名前だけ叫んで――」
そこでメフィストは言葉を切り、深く息を吐いた。怒気が少しだけ和らぐ。
「……もう二度と、勝手に消えるな。わかったか」
怒っているし、傲慢だし、自分勝手な悪魔だが、その声が震えていることにメフィストは気付いていないのだろうか。私は何も言えず、ただ壁に押し付けられたまま瞬きをした。メフィストの瞳の奥に、狂気と執着と、どこか安堵が混ざって揺れていた。
街灯がちらりと彼の横顔を照らす。笑っているのに、その笑みは刃物のように冷たく、けれどどこか懐かしい。
ぐいっと、メフィストが私の手を取った。そのままどこかへ歩いていこうとするので「待って」と声をかける。
「ンだよ」
「あの、メフィスト。私、このままあっちの世界に行くってこと?」
「ア?まぁ、そうなるな。適当な死体を用意してもいいが、自前の身体の方が良いだろ?」
「それは確かに。でも……私でいいの?」
「はァ?」
いや、と私は冷静に、真顔で、メフィストに自分の容姿を確認してもらう。ごくごく平凡な、平均的な日本人女性の容姿だ。ヴィクトリアの気高い美しさやレイチェルの砂糖菓子のような愛らしい顔ではない。
「……?」
そこでメフィストは彼にしては珍しく純粋に不思議そうに、心底「何を言っているのか」と理解できない顔で私を見下ろしてきた。
「……誰がいいとか悪いとかじゃねぇよ」
低く、呆れたように吐き捨てる。けれど次の瞬間、彼は笑った。
「俺がお前じゃなきゃダメなんだよ。わかれよな」
言葉は乱暴で、声は少し掠れていた。胸の奥がずきんと鳴る。少し前にSNSで流行った「自分だけに優しい殺人鬼」に女性は弱いのだという話をなんとなく思い出す。あの夢の世界での出来事を鑑みるに、どう考えたって目の前の人は殺人鬼より厄介な悪魔だ。それなのに私がいいと言って笑う。この人の手を取るとロクな目に遭わないんじゃないかと思うのに、心が嬉しくて仕方ない。
「さ、帰るぞ」
そう言ってメフィストは私の手を引いた。強引にぐいぐいと、嫌ではないが、しかし「このままだと都内在住翻訳家、突然の失踪」という見出しが放送される予感しかしなくて、私は必死に足を踏ん張った。
「ちょ、ちょっとストップ。待って、まずはお互いの認識と……情報共有って大事じゃない?ホウレンソウしよう!なんでメフィストがこっちにいるのかとか……ルシウスは?あれからどうなったの!? レイチェルは――」
質問を連発する私に、メフィストが露骨に舌打ちした。
「チッ……質問多ぇな。面倒くせェ」
やっぱりロクでもないなこの男。
相手への気遣いとかないのか?本当に私が好きなら安心させるとかしないのか??夢の中ではまだもう少し優しさがあったが、今は余裕がないのだろうか。今すぐに私を異世界に引きずり込んで閉じ込めないと落ち着かないというような態度を全身から出しているが、納得も理解もしないで自分の人生を決めてたまるか。
「プロポーズを失敗させたいなら好きにすれば?」
「……話すから。どっか座れるとこ行くぞ」
メフィストは額を押さえ、面倒くさそうに息を吐いた。私は一瞬迷ったが、近くのファミレスの明かりが目に入った。
「……じゃあ、あそこで」
私は指差し、彼を引っ張る。
「はァ、ファミレス?」
「文句あるなら他行く?でもあっちの世界には無いでしょ、ドリンクバーとか面白いのよ」
そう言い返すと、メフィストが一瞬だけ鼻で笑った。どういう反応かと思ったが、それは店にはいるとすぐにわかった。
店に入ると、メフィストは一通り店内を見回し、無言で席に腰を下ろした。タッチパネルを前にして、私は説明しようと口を開いたが、メフィストは慣れた手つきでメニューを選び、画面をスライドし、さっさとドリンクバーを注文した。
「……ちょっと、慣れてない?」
「そりゃあな」
メフィストは肩を竦めた。
「こっちに三年もいりゃ、流石に慣れる。まぁ、ファミレスなんて殆ど入らねェが。ようはこれと同じだろ」
そう言ってメフィストがテーブルの上にひょいっと出したのは、先月新作発表されたばかりの赤果実社の端末だ。しかも一番高いやつ。
メフィストの言葉と、目の前に出された最近機種に私の手が止まった。
「……三年?」
頷くメフィストの表情は、ふっと影が差したように見えた。
「こっちに来るのはそう難しくはなかったンだがな。いかんせん、こっちは人が多すぎるし、広すぎる。まずアンタの民族を特定して、住んでる場所をある程度絞るのに二年かかった」
「そんな……ずっと?」
メフィストはドリンクバーのカップを片手で弄びながら、低く笑った。
「魔術は多少使えるし、魔眼も有効だが、制限もあって大して使えねぇ。こっちの世界じゃただの人間みてぇに暮らすしかなかった」
メフィストが名刺ケースを取り出すと、探偵事務所と書かれていた。この三年間とある人間と組んで探偵業をし、情報収集していたのだと言う。
「…………魔眼で、たぶんアンタがこの辺にいるんだろうと半年くらいでアタリを付けられたが……」
そこでふと、メフィストの額に青筋が浮かぶ。
「……………アンタ、おい、家から出てねぇだろ」
街中の監視カメラをメフィストの魔眼で確認できるようにして私を探し回ったらしいが、魂の色で確認できるはずなのに全く見つからなかったという。いないのか、という不安はなく「いることは間違いないが、監視カメラで姿を捉えられない=家から出てない」と結論付けて半年。
「……いっそこの周囲一帯全部燃やしちまおうかと思ってたところだ」
「ふらっと外食に出て良かったぁああ!」
私が引きこもっているばっかりに洒落にならない大惨事が引きおこるところだった。私は全力で自分の本日の行動に感謝する。
「ッハ。そうだな」
メフィストも肩を竦める。その声は軽く笑っているのに、どこか疲れていた。私は黙って彼の横顔を見つめた。
「なんで探してくれたの?」
ぽつりとこぼれた私の言葉に、メフィストはじろりとこちらを見て、口角をわずかに上げた。
「アンタを俺のものにするって決めてる。だからもう逃がさねぇって言ってんだろ」
ファミレスの明かりが彼の金色の瞳に反射し、チカチカと光った。まるで今にもまた、あの世界に引きずり戻されそうで、私はさっと、顔を伏せる。メフィストの声は低く、けれど淡々としていて、感情の重みだけがテーブルの上に落ちた。私はストローの先を見つめながら、胸がきゅっと痛くなるのを感じた。
「……ルシウスは?」
沈黙が耐えられなくなって、私は尋ねる。
メフィストは少しだけ口元を緩めた。
「他の男の話か?」
「気になるので、そこをなんとか」
「……旧ラ・メイ伯爵領に残った。あいつ、死んだやつらを全部弔ってやったんだとよ。墓を立てて、花を植えて……庭師に戻るとかなんとかな。剣より鋏の方が好きだっつって、英雄卿がふざけてるよなァ」
思わず笑いそうになったが、胸の奥に安堵が広がった。あの人が血ではなく花を手にしている姿を想像し、ヴィクトリアの「ルシウスを死なせない」という目的は本来は異なっただろうが……生きる目標を見失って絶望の内に死んでいくより、ずっといいのではないか。
「レイチェルは?」
「行方不明。燃え尽きたし、骨も見つからなかったが……まあ、あいつのことだ。どっかで生きてるかもしれねぇ。ルドヴィカは一時的に混乱したが、帝国の皇帝が直々に来てクラウディアと会談。結果、『ルドヴィカは関与なし』ってことで決着だ。帝国は外交カードにする気満々だろうがな」
そういえば、一巡前の世界では私がレイチェルとして生まれて半生を過ごしていたのだが、その後のやり直しになった世界では私はどのタイミングで肉体を異界の巫女に奪われていたのだろうか。それ次第では、一巡前の記憶によるとルドヴィカの皇帝は私を溺愛するパッパのはずだが……。まぁいいか。
「クラウディアは?」
「表向きは生存している扱いになってる王太子レオニスと一緒に蟄居。代わりに、クラウディアの子供の中で一番やりたがってなかった庶子が王位を継いだ。嫌がってたくせに、今じゃ立派にやってるぜ。王妃になった女が中々やり手でな。ケプラー公爵家の女だ。まぁ、上手くやるだろ。ウォール家に嫁いだ女がとんでもない起業家で社交界に参入してからはあちこちの家が潤ってるしな。あぁ。ルイスとシルビアは婚約した。ルイスが尻に引かれてるが、良い夫婦になるんじゃねぇか?」
じょ、情報量が多い。しかし、私が知りたがりそうなことを、面倒くさがったわりにはメフィストは丁寧に説明してくれる。
「ドルツィア帝国はすっかり『英雄卿ルシウスによる新時代』ってわけだ。吟遊詩人の歌の通り、ルシウスが帝国の建国記念日の宴に乗り込んで、黒薔薇を玉座から引きずり落とし、新たな王が玉座に就いたってな」
そこまで語ると、メフィストはふと吹き出した。
「あぁ、そういや、親父の葬式やったんだよ。騒動も落ち着いて、さすがに公爵の葬式をしねぇわけにもいかねぇし、俺が仕方なく手配してやったんだが……葬儀の最中、棺の中から親父が出てきやがった」
「……はい?」
「『このエリック・ドマが首を斬られた程度で死ぬわけがないだろう』だとよ。会場は阿鼻叫喚、悪名高き悪の貴族が消えたと喜んでた連中も恐怖に震えるやら、怒りに燃えるやら。まあ、生きてたってことでドマ公爵家は親父のものだ。俺は今回の件口止め料として子爵領をもらった。いらねぇっつってんだが……まぁ」
アンタを迎えるなら自分の領地くらいあった方が良いだろう、とメフィストが頬をかく。
急に可愛らしいことを言うので、思わず笑いがこみ上げると、メフィストはむっとした顔でストローを噛んだ。
「おい、笑うなよ。ちゃんと領地経営してんだぞ。温泉付きの土地だ。アンタも絶対気に入る」
その一言が、私の心をぐらりと揺らした。当たり前みたいに言わないでほしい。まるで、あの世界が――もう私の帰る場所だと言わんばかりに。
「私、こっちでの生活に不満がないし……」
言いかけて、メフィストと目が合う。その瞳の奥に、怒りとも焦りともつかない感情がかすかに揺れた。
「戻るとか戻らねぇとかじゃねぇ。お前がいないと、俺が嫌なんだ。つまり、アンタがこっちの残りたいってなら、それでいい」
メフィストが自分の主張を引いた!?
嘘だろ!?私が目を丸くして驚くのが面白いのか、メフィストが身を乗り出し、手を伸ばして頬に触れてくる。
「アンタがあっちで暮らしたいって強請るように週末はあっちで過ごそうぜ。俺も平日はこっちにいる。アンタも仕事もあるんだろ?邪魔する気はねぇよ。でも、週末はあっちに行こうぜ。俺の屋敷で過ごせ」
「……は?」
あまりに唐突で、私は思わず口を開けたまま固まった。
「だから、平日はこっち、週末は向こう。簡単だろ」
「いや、簡単じゃないし!」
私は思わず声を上げる。ファミレスの隣の席の大学生がこちらをチラッと見た。私は小声に切り替えて抗議する。
「そもそも屋敷って……貴族のお屋敷ってドマ家みたいなお屋敷!?カッサンドラじゃないし、ヴィクトリアの教養補正もないんだよ!?平凡な庶民が寛げるわけないでしょ!」
「ア?好きにしろよ。誰も文句言わねぇ」
メフィストは面倒くさそうに肩を竦める。
「料理人もメイドもいるし、温泉もある。週末は俺とあっちで飯食って、寝て、遊んで、そうすりゃいい。最高だろ?」
「遊んで……って、具体的に?」
「まぁ、狩りとか、馬とか、アンタが望むならパーティーの招待状をバラまいてもいいぜ」
メフィストはにやりと笑う。それは挑発的で、でもどこか子供じみた笑顔だった。
「週末婚みてぇなもんだろ。悪くねぇだろ?」
私は思わず言葉を失った。週末婚、なんて単語がメフィストから出るのもあまりに似合わなくてどう反応すればいいかわからない。まるで、私の平凡な日常とあの血の匂いのする異世界が、ようやく同じ地平に並べられたみたいだった。
「それ、断るのって、できる?」
絞り出した声は、思ったよりも弱かった。
「ハハッ、なら試しに断ってみろよ」
「……遺言になりそう」
「おいおい、俺がアンタを傷つけるわけねぇだろ。まぁ、監禁か洗脳くらいはするが。殺さねぇんだし、構わないだろ?」
構うが?
yesオアdeadではないだけマシだと思わなければならないのだろうか?
私は「うぅん」と考えるように唸る。メフィストはタッチパネルを押してデザートを追加注文した。
「え、食べるの?」
「アンタが食うだろ。考えるには糖分が必要だぜ?栄養とって、ちったぁマシな答えを出してくれよ」
そう言って、メフィストは冷めた珈琲を一気に飲み干す。その横顔は、どこか満足そうで、まるで「もう答えは決まってる」と確信しているようだった。
しばらくして、店員がデザートを運んできた。チョコレートパフェが目の前に置かれると、私は反射的にスプーンを手に取った。
「……甘い」
一口食べて、じんわりと広がる糖分にほっと息が漏れる。メフィストがにやりと笑った。
「ほらな。食ったらちょっとは考えもまとまるだろ?」
「……かもね」
窓の外はすっかり夜だ。通りを行き交う人々、ヘッドライトの光、街灯に舞う小さな虫。さっきまでの夢と現実の境界線が、少しだけぼやけていくように感じた。
「ねぇ、メフィスト」
「ん?」
「……週末婚、やってみようかな。楽しそうだし、メフィストといたいしね」
メフィストが一瞬、驚いた顔をして、それからゆっくりと口角を上げた。
「へぇ……言ったな?」
「言ったよ。でも途中で「やっぱ異世界無理」って逃げても怒らないでね」
「怒るに決まってんだろ」
メフィストは笑いながらスプーンを奪い、私のパフェをひと口すくった。甘いものを食べるのかという驚きと、その笑顔が妙に楽しそうで、私はつられて笑ってしまった。
夢の中で見た、血と炎の匂いがまだ遠くで燻っている。
けれど、こうして並んで甘いものを食べていると――あの世界も、この世界も、どちらも生きていける気がした。
テーブルの上で、メフィストの手がそっと私の指先を掴む。
その力は、瓦礫の中で握られた時よりずっと穏やかで、けれど決して離す気がないことだけはわかった。
「じゃあ決まりだな、カッサンドラ」
「……違うんだけど」
「あぁそうか。アンタの本当の名前を聞いてなかったな」
メフィストはそう言って肩を竦め、窓の外の夜空をちらりと見た。遠くで電車が走る音が聞こえる。
「――っていうの、私」
私が名前を告げると、メフィストは一言も聞き逃さないように真剣な目をして聞き入って。心の中と口の中で一度ずつ、私の名前を確認するように頷いて、三度目にやっと口を開いた。
金の眼を光らせて、異世界の悪魔の化身が私の名を呼ぶ。逃げられないんだろうなぁ、と思いながら、私は困ったように笑って、名前を呼ばれたので目の前の男の名前を呼び返した。
お疲れ様でしたーーーーー!!!!!!
本編はこれで完結です。
エピローグとして「ヴィクトリアと、その後のXXXXX」やら「ヴィクトリアとXXXX」やらを予定しておりますが、ここまでお付き合いくださって本当にありがとうございました。二転三転するジャンル、ジェットコースターなみの振り切り、減り続けるブックマーク。たぶん30人も読んでくれてないんじゃないかと震えていますが……ここまで、本当にありがとうございました!




