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薔薇:365本→「毎日貴方が恋しい」


 クラウディアの胸が上下する。

 まるで長い夢から引き揚げられるように、かすかに閉じられていた瞳が震えた。


「……ぁ……」


 その小さな声に、私はほっと息を吐いた。全身が水から上がったかのように重い。歌うのを止めた途端、ドクドクと心臓が激しく鳴った。感覚でわかる。これは奇跡の代償。私の魂が削られた。


「クラウディア様……!」


 クロヴィツさんが呼びかける声が震えていた。自分が何をしたのか、まだ完全には理解できていない。ただひとつわかるのは、死にかけた命が戻ったという事実だけ。そしてその代わりに、私の中の何かが失われた。ただこれは当然のことだと、感覚でわかっている。


 クラウディアは暫くして、薄く目を開き、朦朧とした視線を彷徨わせた。


「……お姉……さま……?」


 掠れた声は幻影を追うように頼りなかった。私は首を振る。クラウディアの瞳がわずかに揺れ、再び閉じられる。その顔には苦悶ではなく、安堵の影があった。


 剣戟の響きは止まない。ルイスの荒い息づかいが壁に反響する。ルシウスの刃が閃くたび、火花が散る。それでも戦場の空気は変わっていた。淡い金色の光が回廊に漂い、血の匂いを薄めていた。


「……おい、アンタ、今何をした?」

「痛っ」


 ぐいっと、メフィストが私の手首を掴む。彼の目には、ルイスでもルシウスでもなく、私が映っていたが、これまでと違う、剣呑な、強い怒気を孕んでいる。


「……何を怒ってるの?」

「…………そんな力、使うんじゃねぇってこった」


 舌打ちをして、メフィストが私の身体をあちこち触診する。首を掴まれ、喉を撫でられる。メフィストの眉間の皴が深くなった。

 私は力を使った反動で身体は重く、膝が震えるので、メフィストの機嫌を取っている余裕はない。


 ただ、私は自覚した。

 私は転移者ではない。この物語の外側から来た観客でもない。ここに生まれ、ここで生き、この世界に必要とされる「聖女レイチェル」として、転生していた日本人だったのだ。



 ルイスの髪は真っ白になっていた。この十数分の攻防の中で若々しかった顔はすっかり老いに襲われ、相対したルシウスよりずっと年上のそれに変貌している。


「く……っ、こんな……!」


 壁に叩きつけられた彼の声は震え、血に濡れた額が汗のように光る。だが、目だけは諦めず、ルシウスの動きを注視していた。


 これで終わりだというのは、ルイスとルシウスの双方の間で明らかなことだった。死なないルイスの命を削り続けて何度も何度も追い詰めたルシウスの顔に達成感はない。ただ一つの作業が終わったという顔で、ルイスに向かい剣を振り上げる。


 そこに、花火の音。


 盛大で、寛大で、壮大な音。歓声。上がる、上がる、色とりどりの炎の花は帝国の夜空を明るくした。


「あぁ!素晴らしい日だ!」

「おめでとう!おめでとう!」

「なんていう素敵な日だろうか!」


 ワイングラスを手に持って、酔って浮かれた貴族たちが回廊にやってくる。華やかな紳士淑女の面々が、酔って浮かれて、彼らの横を通り過ぎていく。


 ごちゃごちゃと、ざわざわと、祝いの言葉と喧噪が回廊を飲み込んだ。取り残されているのはルイスやルシウス、カッサンドラやクラウディア、クロヴィツである。


「我らが神の復活だ」

「素晴らしい日だ」

「我らが王と聖女様」


 浮かれた貴族たちは広場でレオニスと聖女レイチェルが挨拶をしていることを話した。彼らの目は皆、真っ赤だった。


 何か異変が起きていることは明らかだった。


「……ひとまず、様子を見に行くっていうのはどう?」


 カッサンドラは挙手し、意見を述べる。重傷を負っているルイスとクラウディアはこの場に残るべきだろう。クロヴィツはクラウディアの傍を離れないと言った。


「それじゃあ。私とメフィストとルシウスで、どう?」

 

 状況的に考えれば、皇帝であるクラウディアがいた方が有利になる場も多いだろうが、死にかけていた高齢の女性を連れまわすのは外道に過ぎる。ルシウスはレオニスがいるのならそこに向かうことに異論はなく、メフィストの方は「行ってもロクなことにならねぇぞ」と嫌がった。


「……何が起きてるのか、メフィスト、知ってるってこと?」

「当然だろ、一枚噛んでるからな」

「じゃあ説明して」

「するわけねぇだろ」


 言ったら面倒くさいことになるとメフィストは肩を竦めた。ついてこないならそれでもいいとカッサンドラがルシウスと去ろうとすると、腕を掴んでそれを阻止する。


「行くなって」

「嫌よ。邪魔しないで」

「俺が行くなっつってんだろうが」


 腕を掴まれたカッサンドラが顔を顰めると、ルシウスが二人の間に割って入った。


「ンだよオッサン。邪魔すんな」

「…………」


 ルシウスからすれば、やはりカッサンドラの外見はヴィクトリアであり、ヴィクトリアが害されているように見えて反射的に体が動く。サッと、カッサンドラはルシウスの後ろに隠れた。


「ッチ。クソが。――要するに、戴冠式でもやってるんだろ」

「戴冠式?」

「レオニスを異界の神を降ろす器にするのがレイチェルの目的の一つだ。広場にゃ半死半生になった貴族共が上手い事体を乗っ取られて、今頃向こうで盛大に、同窓会でもやってるんだろ」


 つまりあちらは完全に敵陣。ルシウスが一人でノコノコ行くなら黙っているが、そこにカッサンドラを巻き込むなと、メフィストは言いたいらしい。


「つまり……広場にいるものを全員斬ればヴィクトリア様の望みは叶う、ということか」

「そうかも!レオニスは間に合わなくて可哀想だったけど……仕方ないわよね!」


 物事が単純になってきた、とカッサンドラは喜び、ルシウスも目的が明確化されてわかりやすいと頷いた。


「……だから、行くなっつってんだろうが。行ってどうなる?」

「どうって、ヴィクトリアの目的を達成するのよ。それで…………」


 カッサンドラが答えようとしていると、隣のルシウスががくっと、膝を崩した。


「ルシウス?」

「……ッ」


 脂汗をびっしりと額に浮かべ、これまで苦痛の一つも顔に刻んでいなかった男が膝を付く。カッサンドラは慌ててルシウスを支えようと手を伸ばしたが、メフィストがその腰を掴んで引き寄せた。


「やーっと効いたか。遅ぇんだよ。超人サマはこれだから」

「メフィスト?」

「……私に何をした」

「ア?決まってんだろ。毒盛ったんだよ。アンタが盛大に弾き落としてくれた魔弾にこの俺サマが何も仕込んでねぇわけねぇだろ」


 ただの飛び道具だと舐め腐ってんじゃねぇぞ、とメフィストは楽しそうに笑う。いかに超人、常識はずれの怪物であっても、身の内からくる攻撃を防ぐ手段は乏しいものだ。


「……ッ!」


 ルシウスは膝を付いた姿勢から、剣を杖のように突いて立ち上がった。肩で荒く息をしている。額に浮かぶ汗が赤黒く光った。


「……立てるのかよ。やっぱ化け物だな、アンタ」


 メフィストが口の端を吊り上げ、銃口をわずかに下げた。その銃は奇妙な造形をしており、金属の内部で青白い光がうねる。次の瞬間、銃声。耳をつんざく爆音と同時に、弾丸が壁に当たり、跳ね、ルシウスの背後から飛び込んできた。


 ルシウスは剣を振り抜き、火花と共に弾を叩き落とした。


「……っ!」


 跳弾が床に突き刺さるより早く、メフィストが肉薄する。銃を片手に握りしめたまま、もう片方の拳がルシウスの顎を狙った。しかしルシウスは身を沈め、肘でメフィストの脇腹を狙う。骨が軋む鈍い音。だがメフィストは顔色一つ変えず、踏み込みと同時に銃口を腹部に押し当て――発射。


 爆ぜる音と焦げる匂い。ルシウスは呻き、後ろへ飛んだ。


「やめて!二人ともやめてよ!」


 カッサンドラの叫びが回廊に響いた。


 だが戦闘は止まらない。メフィストは弾を装填する暇すら惜しみ、銃を逆手に持ち替えて殴りつける。ルシウスはそれを剣で受け流し、踏み込んだ足でメフィストの膝を払う。メフィストが片膝をつく。その瞬間、ルシウスの剣が閃き、銃身を弾き飛ばした。


「やるじゃねぇか」


 メフィストが笑い、逆にそのまま間合いを詰め、首を狙った回し蹴り。ルシウスが腕で受けるが、毒のせいか動きがわずかに遅れる。受けた腕が痙攣する。


「……くそっ」


 ルシウスが歯を食いしばり、剣を逆手に握り直して突きを放つ。メフィストは紙一重でかわし、弾かれた銃を拾い上げると即座に引き金を引いた。跳弾がルシウスの肩、壁、床と連鎖し、まるで意志を持つ蛇のように彼を追い詰める。ルシウスは剣で二発を弾き、残り一発を肩で受けた。血が飛び散る。


「ルシウス!」


 カッサンドラが駆け寄ろうとするが、メフィストが弾丸を足元に撃ち込み、石床を割った。


「おっと、動くな、カッサンドラ!アンタはそこで良い子にしててくれよ」


 低い怒声に、カッサンドラは足を止めるしかなかった。ルシウスは血を吐きながら唸った。


「……彼女に怒鳴るな」

「ア?まだやれるのかよ。素直に寝とけっての」


 メフィストが舌打ちし、再び銃を構える。ルシウスは剣を構え直す。その姿勢は、さっきまでの疲弊が嘘のように鋭い。二人の殺気がぶつかりあい、回廊は再び轟音に満ちた。


 金属が打ち合わされ、火花が散り、壁が砕け、血が飛び、弾丸が軌跡を描く。


 戦いは止まらない。止まる気配すらなかった。



 メフィストの目的は、驚くほど単純かつ冷たいものだった。


 ここで――今、ルシウスを抹殺する。たったそれだけ。異界の神が降臨しようが、広場の貴族たちが亡霊と化そうが、帝国が燃えようが、彼にとっては二の次、三の次でしかない。重要なのは、カッサンドラがこの場に留まることであり、彼自身が「常に最高の状態」であり続けることだった。


 彼女がいなければ、世界は乾く。色も、温度も、味も、すべてが枯れていく。

 飢えるのだ──肉体でも、精神でもなく、もっと根源的な飢え。メフィストはそれを知っている。だからこそ、彼はこの国を滅ぼす可能性があっても、彼女を手放したくはなかった。


(傍にいてくれよ)


 願うことはただ一つ。その一語のために、彼は血を流させても構わないと計算する。やさしく教え込んだつもりだ。自分から離れないように、甘さと恐怖を混ぜて彼女の世界を形作った。だが、なぜか彼女は不意に表情を変え、ふと彼の掌をすり抜ける。理解できないことに、彼は苦々しく苛立つ。


(優しくしてやっただろう。俺のそばが一番安全だって、わかってるはずだ)


 メフィストのその「やさしさ」は、所有欲の仮面をかぶった暴力だった。彼女が笑う瞬間に満たされる快楽のためなら、この世界のすべてを供物に捧げる覚悟があった。だが彼は、口に出さない。口にすれば、すべてが壊れることを知っているからだ。


 回廊に銃声と剣の金属音が断続的に鳴り響く。火花が飛び、石が砕け、血の匂いが鼻腔を満たす。メフィストは冷静だった。動きは無駄がなく、銃の構えも格闘も両方に長けた殺人者の所作だ。だがその瞳の奥には、いつもカッサンドラの姿が反射している。


 ルシウスは猛然と斬り込む。剣技は凌厳を極め、格闘は刃の延長となって敵の肉を穿つ。だが毒に蝕まれ、体は正確さを欠き、脚は鉛のようだ。白くなった髪が汗で張り付き、眼は怒りと疲労で赤い。彼はそれでも立ち向かう。メフィストに向ける視線は、怯えではなく宿命的な憤怒だ。


 メフィストは銃口を揺らして、跳弾を操る。青白い光を吐く弾は、ただ飛んでいくのではない。一度放たれた弾丸は壁で跳ね、床で反転し、意志を持つ蛇のように標的を追う。ルシウスは剣で二発を弾き落とし、肩で一発を受ける。血が飛ぶ。身体が収縮するが、彼は歯を噛みしめる。


 カッサンドラは走る。できることがあれば何でもする女だ。自身がどうなろうと、まず両手を伸ばし、二人の間に割って入ろうとするが、メフィストは素早く床に弾を撃ち込み、石を砕いて障壁を作る。破片が跳ね、彼女は立ち止まるしかない。叫び声だけが回廊に食い込む。


「やめて! お願い、やめてって言ってるでしょ!」


 声は震え、喉は嗄れていく。だが戦闘の轟音がそれを飲み込み、叫びは無力に消えてゆく。彼女の手は届かない。間合いは狭まることなく、血が濡れた石畳と火花の中で二人は肉弾戦を続ける。


 メフィストが前に出る。銃の柄でルシウスの顎を殴り、剣を払う。近接戦闘においても彼は軽快だ。片手で銃を引き、逆手で拳を叩き込み、足を掛けて倒す。ルシウスは転びながらも床を蹴り、彼の腹部へ膝を叩き込む。双方の呼吸は荒く、時間は血のように濃厚に流れる。


 メフィストの胸中には冷たい計算が流れている。ルシウスを屠れば、異界の神に対抗する道具を失わせられる。そうなればヴィクトリアの「願い」は叶わない。カッサンドラはここに残るしかない。彼女は彼のもとで、彼が干からびずに居られる唯一の湿りとなる。


(ここで終わらせる。終われば、全てが静かになる。お前はもう俺のものだ)


 メフィストの指先が、引き金にかかる。だがルシウスは折れない。彼は剣を取り、間合いを詰め、メフィストの肋をえぐるように斬りつけた。皮膚が裂け、赤い線が走る。メフィストは一瞬、驚きの色を見せるが、それはすぐに嗤いに変わる。


 互いの動きが早まる。剣の刃と鉄の銃床が、肉と骨を殴打する。金属の焦げる匂いと酸っぱい血の匂いが混ざり合い、回廊は凄惨な舞台と化す。


「っ、きゃぁっ!」


 悲鳴が聞こえた。カッサンドラのものだった。メフィストの注意は、神経は、全ての警戒心はその声に全て引き寄せられる。メフィストが造った障壁が崩れ、カッサンドラの頭上に降り注ごうとしていた。


 メフィストは引き金を引いた。ルシウスを殺すために込めた魔弾だった。だが躊躇うことなくそれをカッサンドラの頭上に放つ。魔力を込めた弾は瓦礫に命中し、破片は花弁に変わった。


(あぁ、きれいだな)


 彼女の上に降り注ぐものは雨だって許せない。鋭利な破片なら猶更だ。美しいものだけを与えたいんだ。


 その瞬間、ルシウスが決定的な一撃を放つ。刃がメフィストの胸元を襲い、血が噴き出す。メフィストはその瞬間、笑うしかなかった。


「ッチ、なんてザマだ。この俺サマともあろう者が」


 彼の右手はわずかに震えたが、銃はまだ温もりを保つ。弾丸はまだ数発、薬室に残っている。メフィストは血を拭きながら、カッサンドラの顔をちらりと見る。よかった。無事だった。彼女は美しい花弁を頭や肩に乗せ、メフィストの傍に駆け寄って来た。カッサンドラの唇が震え、眼に涙が滲む。この瞳だけが、彼を生かす燃料だった。しかし、ずっと見ていたいのに、メフィストの視界が滲んできた。


(あぁ……離れるな。消えるな。俺だけを見ててくれよ。俺がアンタの欲しいものを全てを取ってやるからさ)


 カッサンドラの声が聞こえる。その腕が自分に伸ばされ、メフィストは遠い過去を思い出す。魔眼に残された記憶。今の自分の一巡前。愛した女一人守れなかった男は、次こそはと、女を守れるように胎児の頃に悪魔と契約した。次こそは女を見つけられるようにと悪魔になった。そんな記憶。だが、今はどうでもいいことだ。


 メフィストの傷を治そうとするカッサンドラの手を、メフィストは引き離す。


「……アンタがいないと生きていけねぇってのに、アンタの命を奪えるわけねぇだろ。バカ」


 聖女の奇跡。寿命の切り売り。メフィストは、ゆっくりと視線をルシウスへと戻す。血塗れの姿を見下ろしながら、ルシウスの表情は変わらない。


 回廊の端で、歓声は消えない。祝祭はまだ燃えている。だがここにいる者たちの世界は、もう修復できないほどに裂けていた。メフィストは震える指先でポケットから小さな布を取り出し、指先の血をぬぐうより先に、カッサンドラの頬を拭った。


「頼むから、泣かないでくれよ。アンタに泣かれると気が狂いそうになる」


 彼の声には約束と脅迫が、やわらかく混じっていた。夜は深く、花火の残り火が空に溶けてゆく。


 メフィスト・ドマはゆっくりと呼吸を繰り返し、去って行くカッサンドラとルシウスの足音に耳を澄ませ続けた。



メッフィー!!!!!!!!!!

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メッフィーが愛の為に生きて愛のために退場した…!!!!
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