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薔薇:99本→「ずっと好きでした」



 泣き叫ぶ男の声を聞きながら、クラウディアは自分の体温がどんどん下がっていくのを感じた。この冷たさは、ただの寒さではない。生の終わりを迎えた身体に、死の氷がじわりと染み込んでくるような、深い凍えだった。昔はいつも、こうして冷えきった場所で生き延びていた。半生を過ごした王宮でさえも、薔薇の大君の死後は、彼女にとっては安息ではなく、無情の空洞に満ちた迷宮でしかなかった。


 姉の死から始まった悪夢の日々に体を擦り合わせ、何もかもが不安だった。毎夜クラウディアは自分の温もりを誰に求めていたのか、今になっても思い出すことはできない。体の熱を他の肉で覚まそうと必死だったあの日々、誰かの手に触れ、ただ生きていることを確かめていた夜。今、体の芯から冷えていく感覚は、その記憶の断片を呼び戻す。


「陛下……!クラウディア様……!」


 叫び声はクロヴィツだった。痩せた顔に蟾蜍のような顔の男。その声だけは美しかった。心の清らかさが声に滲んでいる。どうしようもなくやさしい男。

 生前、姉と寝所で語り合った物語も、クロヴィツの声で聞いたからこそ愛おしい思い出になったのだ。クロヴィツに姉の武勇伝を語らせて、嫌がる姉をころころ笑って眺めつつ、葡萄や焼き菓子をつまむクラウディア。幸せな時間。それだけが、今も凍てつく心をかすかに温める。


 今更死を恐れてはいなかった。やっと来た、という気持ちさえあった。ルシウス・コルヴィナスが王都に戻り、若者どもと騒いでいるのを知ってはいたが、それが何だというのか。どうでもいいことだった。ただ、疲れたのだ。あらゆる権力、策略、欺瞞、すべてを背負ってきた身体が、とうとう声も出ないほどに疲れ切っている。


 クロヴィツの必死な叫びも、止血の手も、クラウディアには煩わしかった。心の奥底で、どうでもいいことだと思っていた。走馬灯があるなら、姉との日々を見せてくれたらよかったのに。今の時間が無駄に過ぎていくことが、どうにも惜しい。


「あー、おい、こりゃマジかよ。なんだありゃ、異界の神の祝福込みのルイス・ロートンが、まるで歯が立たねぇじゃねぇか。まぁ、ありゃ人間にどうこうできるモンじゃねぇな」


 声は聞き覚えがある。だが、同時に不思議な音色を帯びて、どこか現世離れしていた。悪魔のように他人の心に入り込み、居座るような、その声。幸いにも悪魔の関心はクラウディアに向けられてはいない。音として耳に届くだけで、彼女の存在を貫かなかった。


「……皇帝陛下」

「……」


 知らない声がもう一つした。だが、どこか聞き覚えのある声。赤い髪に青い瞳の令嬢。あぁ、と、クラウディアは霞む目で、どうにか薔薇の大君の色を持つ女の姿を視界に納めようとする。


「……これから、意味のない問いをします」


 呼吸はもう浅く、身体は熱を失い、指先は氷のように冷たい。血の匂いが鼻腔を満たし、濃密な赤い空気が視界の端を揺らす。


「……お姉様の本心を知りたかった。わたくしを愛していたのか。なぜわたくしに、貴方の肉を割かせ、血をばらまかせたのか。知りたかった。わたくしの心など、どうでもよいとお考えだったのか……」


 最後の問い。吐き出す声は掠れ、口を濡らす唇からは血が零れる。思考はゆっくりと氷解するように広がり、幼いころの空虚な夜、姉と肩を寄せ合った日々、温もりを求めた記憶が、ひとつの連なりとして蘇る。誰も理解し得なかった孤独と、わずかな温もりが、今、最期の記憶として彼女に寄り添う。


 クラウディアは意識を手放さず、ただ見つめる。赤い髪の令嬢の瞳に、全てを問いかけるように。もう答えは返ってこないかもしれない。それでも、確かめずにはいられなかった。血が体を濡らし、声はもう出ない。だが、目はまだ、問いを閉ざさずにいた。過去、未来、すべての嘘と誤解を、最後に自分の胸に刻みつけるように、凍りつく瞳で、ただ見つめた。


 泣き叫ぶクロヴィツの声が遠く、遠く、響き渡る。だが、クラウディアの世界は静かで、温度はゆっくりと下がり、凍結の中で、彼女は微睡むようにその場に沈む。冷たい石畳と壁に囲まれ、最後に見た光は、幼い日の姉の微笑み。温もりと共に遠のく意識。死は、凍りついた世界を包み込み、そして、ゆっくりとすべてを奪っていった。




 目の前で初対面の女性が今まさに死のうとしていて、そして自分に何かとても大切な問いを投げかけてくる。


「……」


 カッサンドラは皇帝クラウディアの青白い顔を見下ろした。血の気を失いながらも、まだこちらを見上げる瞳。その奥に、答えを渇望する炎のようなものが残っている。自分が何か一言かけるのを、この女性が最後の力を振り絞って待っているのを感じ取った。


(……何を言えっていうの)


 死にゆく女性。クラウディア。自分が知っていた物語の中では脇役に過ぎなかった人物が、今は自分の言葉一つを待ち望んでいる。カッサンドラの胸に、妙な焦りと、言いようのない責任がのしかかる。


 血に濡れた手を取る。冷たい。指先からじわじわと生が失われていく感覚が伝わってくる。これが人の死だと突きつけられている気がした。


 カッサンドラは思案した。死にゆく者に向けてなら「愛している」と答えることもできる。あるいは労をねぎらう言葉をかけることもできる。だが、口は重く、言葉は出てこない。胸の奥で小さな声がささやく――自分は本当に、この女を愛しているわけではない、と。


(私に何を求めているの……私は、私自身の言葉では届かない)


 沈黙。けれどその沈黙の間に、カッサンドラは自分が背負った「役割」を思い出す。自分はこの世界の住人であると同時に、物語を知る者。配役を与えられ、演じることができる者。


 脳裏に浮かぶのは赤い髪と青い瞳の「薔薇の大君」。作者が物語の随所に散りばめた存在。クラウディアが生涯追い求め続けた「姉」。ならば、自分にできるのはただひとつ。


 カッサンドラは伏せた目をそっと上げ、困ったように眉を寄せながら、その言葉を口にした。


「……なんだ、嫌だったのか。クラウディア」

「……」


 声は不思議と、自分のものではない響きを持っていた。


「お前ならできると思ったから頼んだんだ。嫌ならちゃんと言わないと、わからないだろう」


 その瞬間、クラウディアの瞳が大きく見開かれた。瀕死の女の目に、一瞬で生気が宿る。驚愕と、そして――解放のような笑み。


「ふ……ふふふ、うふふふ。そう、そうでございましたね。お姉様……」


 苦しみに歪んでいた顔が、少女のように緩んでいく。死の際にあるとは思えないほど、うっとりと、夢見るような眼差し。


「嫌でしたけれど……でも、他の誰かに引き受けさせたら……それもやっぱり嫌でしたわ。ふふ……お姉様……」


 ええ、そうでした、と何度も頷きながら、クラウディアは微笑みを浮かべ続ける。その目は、夜空に瞬く星のようにきらきらと輝き、今までの冷たい女帝の顔ではなく、ただ一人の姉を慕う妹の顔になっていた。


 その輝きは、炎が燃え尽きる最後の煌めきのように、美しかった。


 やがてクラウディアはゆっくりと目を伏せた。頬にはまだ笑みが残っている。まるで永遠に姉を夢見続ける少女のまま、眠りに落ちていったかのように。




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