【最終章】薔薇:青→喝采
王都の夜は星空の下でそのような生臭いことが起きていようと、星空の煌めきが変わらないように、一見は静かで美しい。吟遊詩人の歌が暁の英雄ルシウス・コルヴィナスを讃えるのと同じくらいの熱量で、赤い血文字が貴族の屋敷に刻まれる恐怖を謡う歌が流行り始めた。悪の筆頭ドマ家の悲劇は多くの者にとっては喜劇、痛快な出来事で、正義の剣による「正統な殺戮」だとそのように。これらを流行らせた人物がその現ドマの当主の青年であることなど誰も知らず、王都では歌が流れる。
ルシウス・コルヴィナスの記憶は薄れていた。妄執、執念、あるいは悲哀の様々な感情が浮かび、または注がれて元々の彼だったもの、器が歪みにじみ出る色が彼の正気や自我のようなものを飲み込んでいる。これらは何者かの悪意と言って差し支えないだろうが、もっと適切な言葉で言えば、そうであるようにと元々望まれた役目、あるいは配役、使命、運命、そうしたものから逸脱しようとしていたので「そうではないでしょう」と、従順なくるみ割り人形が列から出ようとするのを上から抑えこむのと一緒だった。つまりは悪意という程度の言葉ではなく、それらはある種の正統性があったのかもしれない。
今や国内で英雄卿の復活、凱旋、我らが救世主、この国の守護者だなんだと渇望され喝采され、謡われる男、ルシウス・コルヴィナス。だが当人は亡霊のような顔で、ただただ「報復を」という一念で動いていた。すでにルシウス・コルヴィナスにまともな意識はない。彼の頭の中にはしきりに、必死に、善良なるラ・メイ伯爵夫妻の死に顔と、彼の愛おしい名付け子の憐れな姿が浮かんでいる。それらをかき消そうとする気力すらルシウスにはなかった。無念を晴らそうという思いを越えて、浮かぶ彼らのその顔を消すために剣を振るわなければならないと、そのように。
「……ルシウス・コルヴィナス卿……?」
夜の王都の路地裏で、ルシウスを呼ぶ声があった。反射的にルシウスが振り返る。そこには、記憶より年齢が加わったかつての部下がいた。ロバート・ラスだった。その顔には驚愕と、そして恐怖の色が浮かんでいる。そこでルシウスは、自分に何か話しかけてきた騎士たちを数人……いや、十数人、斬り伏せていたことに気付く。
「………………本当に、貴方なのですね?」
「……ロバート・ラス」
今や騎士団長の席にいるロバートは、慌ててここに駆け付けたのか息が乱れていた。ルシウスの進んだ途中に倒れる部下たちの躯に一度、唇を噛む。
王太子レオニスの命により、騎士団長ロバート・ラスは鋼の鎧に身を包み、二十人の騎士を従えていた。ルシウス相手に一瞬の油断もできないことを心得ているロバートは長剣を抜き、ルシウスを見つめる。騎士団長として帝国の秩序を守る男として、行うことは何なのか、この状態になってもまだ、ロバートにはわからない。
「……貴方をお迎えに上がりました。コルヴィナス卿」
「…………」
様々な感情を飲み込んで、ロバートが話しかける。ルシウスはロバートを切るべきか、頭の中で囁き続けるヴィクトリアに判断を委ねた。無残な姿のヴィクトリアは何も言わない。ロバートを切る理由はなく、ルシウスは彼を無視して進もうとした。
「王太子殿下が、レオニス様が、貴方と会って話をしたい、と」
「………………」
ロバートの出した名に、ルシウスの歩みが止まった。
「レオニス……」
「……コルヴィナス卿。貴方のこれらは本当に、世直しなのですか?」
ロバートは慎重に問いかけた。確かに、薔薇の大君の最も忠実な剣であったルシウス・コルヴィナス卿であれば今の世を憂いてこのような行動を取る……可能性もあるだろう。
だが、本当に?
だとすれば、なぜ今なのだと、ロバートには納得できなかった。もっと前。彼が姿を消したこの十年の間に、ことあるごとに、国の大きな節目があった。クラウディア陛下がクロヴィツを王配に決め、そして宰相の座につけた時。あるいはクラウディア陛下があちこちの既婚男性に手を付け、認められぬ子を出産した時。王家の威信が揺らぐ、あるいは身の内より泥を湧き出したことなどこれまで何度もあった。それを考えれば今回は何か、過去のような醜聞があっただろうか。
ロバートの背後では騎士たちが弓や剣を構え、路地の出口を塞いでいた。
「貴方は……今の国を、王家を憂い……大君のご威光を取り戻すべく……ご帰還されたのですか?新たな薔薇の君主の選定を行うため……今の王家の剪定を…………」
「世直し、だと……ハハ、ハッハハハ!!!!!馬鹿々々しい!!!!」
沈黙し答えないルシウスに言葉を投げつけるロバートだったが、ふとルシウスが笑い声を上げた。
先ほどまではどこか焦点の合わない。亡霊のような顔をしていた男。だが今は、はっきりとその目に光を取り戻し、ぐしゃぐしゃと自分の髪を乱暴にかき上げる。
「お前たちは俺がこの国を救うと、救ってくれと願っているのか」
「……………貴方はそれを行う力と、そして資格がある」
「あぁ、そうしてやろう。レオニスを殺させろ」
ロバートは眉を顰め、長剣を構えたまま一歩進んだ。
「……閣下。貴方はヴァリニ子爵、クリフトン伯爵、そしてドマ公爵家。この国の汚点たる悪の貴族の血でこの王都を洗った。だがこれ以上は……ただの殺戮ではないのですか?レオニス殿下は確かに王家の人間ですが……ただの青年だ」
ルシウスが手に駆けた者たちは確かに、皆それぞれ断罪されるべき罪があったとロバートも理解できる。だがレオニスは。ただ王家に生まれたというだけの青年だ。正しくは、王家に認められた女の腹から生まれただけの青年。まだ政治的な功績もなく、公務を十分にこなせるだけの能力も身についていない。年相応よりは確かに優秀だが、これから周囲がお支えし、立派な君主になっていただく方であった。
ロバート自身がレオニスを好きか嫌いかはさておき、ロバートにとってレオニスはまだ「年若い青年」なのだ。目の前の、災害のような男の殺意の元に晒していいとは、大人として思えない。
「……レオニス殿下は閣下に興味を持っておいでです。コルヴィナス卿、貴方が今の世を憂い、薔薇の大君の頃のような、輝かしい国の御世を取り戻したいとお考えなら……どうか、レオニス閣下を導いてさしあげてくださいませんか」
毒婦。淫婦。元奴隷。今や宰相の傀儡と化した無能なる皇帝クラウディアに期待している者はいない。ルシウスが皇帝の首を望むのであれば、それが薔薇の大君の意思であると納得する者の方が多いだろう。だがロバートは、ルシウスが、大君の忠実な剣であったルシウスがレオニスを導くのなら、この国の未来は明るいのではないかと、そんなことを……この瞬間考えてしまった。
「……………導く、だと?」
ロバートの訴えに、ルシウスの青い瞳が嘲笑に歪んだ。
「この俺が……?この俺が……あの愚か者を……!!」
ルシウスの声には狂気があった。ロバートは警戒し、騎士たちの間に緊張が走った。弓を引き絞る音が響くが、ロバートは手を上げて部下を制した。
「……コルヴィナス卿。どうか言葉を選んでください。殿下はこの国の、正統なる後継者です」
「騎士団長ともあろうものが何を見ていた?あの愚かな男が何をしたのか、なにも見ていなかったのか?」
「……………………」
ロバートは必死に、ルシウスの言葉の意図を理解しようとする。元々昔から、得意なものは肉体言語というような男だった。それがエリック・ドマの涙ぐましい努力により、多少まともなコミュニケーションがとれるようになっただけ。このように狂気の渦にいる野生の熊相手には、こちらが努力を人力で回し続けなければ意思疎通が叶わない。
「………………ヴィクトリア・ラ・メイ伯爵令嬢のことか?」
「……」
そこで初めて、やっと、初めて、ルシウスの表情から狂気が消えた。だが、ロバートにはわからない。
「……あのご令嬢との婚約解消が、なぜこの殺戮に繋がるのです……?あれは……仕方のないことだった」
ヴィクトリア・ラ・メイ伯爵令嬢。王太子の婚約者に選ばれた幸運な娘。薔薇の大君と同じ色を持つことから、皇帝陛下が是非にと望んだ縁だった。だが、薔薇の大君の姿と似ていたところで、その魂や気高さまでも同じではない。彼女は過ちを犯し、自ら王太子妃の資格なしと示してしまったのだ。
大勢の人間の前であえて婚約解消を突きつけた王太子の行動は確かに軽率であると言えるが、それらは若いころの失敗。こうした程度のものは誰にでも1つや2つあるものだろうと、そういう程度のものだった。
「ヴィクトリア様は死んだ」
「…………そうか、それは…………」
お気の毒に、とロバートは思った。
死因はわからないが、レオニスに捨てられたことによるものだとロバートは考えた。長く恋した相手との別れが、若い娘には耐えられなかったのだろう。死ぬほどのものではなかっただろうに、とそのように思う。
「俺は彼女の名付け親だ」
「……………………………………………は?」
このロバートの驚きは、ルシウスがヴィクトリアの名付け親だったことによる驚きはほんの二割程度しか含まれていない。ルシウスとコミュニケーションを取ろうとフルに回転している普段は脳筋チームの一員であるロバートは、普段より察しが良くなっている。つまり、ロバートは、ルシウスがヴィクトリアの名付け親であるという事実を知ったその一瞬後に、今回の「世直し」と歌われる騒動の真相に誰よりも一番にたどり着いてしまったのである。
「……………つまり、閣下。貴方は……ただの復讐をされているのですか?」
くらり、と、ロバートは眩暈がした。
次々と国の癌を排除している、というのはただの偶然?
目の前に進むのに邪魔だったから避けるのではなくて潰して進んだと、そういうだけのこと。
「……ラ・メイ伯爵家は、私の光だった」
色んな感情と戦っているロバートを他所に、ルシウスは淡々と続ける。
薔薇の大君を失い、生きる意味を失ったルシウスを救ったラ・メイ伯爵夫妻。そこに生まれた天使のように愛らしい赤ん坊。彼女を守り成長を見守ることがルシウスの第二の人生の全てだった。
「………………」
ロバートは額を抑える。
言っていることはわかる。
絶望していた、死人のようなルシウスに希望を与えてくれた存在が、死んだ。
その原因がレオニスだという。
言いたいことはわかる。
わかるのだが…………。
ようは、名付け子が自業自得で男に振られたショックで死んだ。それを知った名付け親が相手を殺そうとしている、ということだ。
「…………え、たった、そんなことで……?」
「あ、馬鹿、お前……!!」
ロバートの後ろで聞いていた騎士の一人が、たまらず声を上げてしまった。慌ててその隣の騎士がその若い騎士をひっつかんで黙らせたが、遅かった。二人の騎士の首は落ち、そこから嵐のような暴力が吹き荒れる。
部下を必死に守りながら、王都に流れる英雄卿を讃える歌を聴きながら、ロバートは思う。
これは無理だ、と。
頑張れロバート諦めないで!!
今更ですが、この作品のテーマは「嘘」「不信」「復讐」です。
主要人物はみんなこの3テーマに当てはまります。




