閑話*メフィスト・ドマという男
名門公爵家の公子という身分がこれほど似合わない男というものはいない。貴族という名をなんと心得るのか。放蕩息子という言葉が可愛らしく見える。悪魔の方が礼儀正しい。
と、それら、そのように日々熱心に、あるいは冷ややかに嘲笑、または畏敬を込めて囁かれるのがドマ公爵家の嫡男、メフィスト・ドマであった。
母親の腹の中で悪魔と契約した噂。生まれ持って魔の瞳を持つ、人の形をした悪魔と言われる青年。しかし、野暮ったい黒ぶち眼鏡をかけていても、多くの者の視線を奪う妖しい美貌は年々増すばかり。破滅すると知りながらも、身を滅ぼすだけだと予期しながらも、メフィスト・ドマの視線に僅かでも入ろうとする者は多く、そして触れられたがる女も多かった。
王立大学の法学部は、これまでゲルト・ケプラー公爵の成績と功績が長く「最高のもの」とされていたが、それらをメフィスト・ドマが塗り替えたのは有名な話だ。法の番人たるゲルト・ケプラー公爵に次いで、華々しい法廷デビューをするものと期待されたメフィスト・ドマが、痴情の縺れの血みどろの殺人事件の犯人を嬉々として庇って、裁判をひっちゃかめっちゃかにしてからは、誰もが「ドマ」が法を学ぶことの意味を理解した。だがそのメフィストはある程度法界を自分のおもちゃにした後は興味を無くしたようだった。数年行方をくらませていたかと思えば、どこぞの小国の独立戦争に参加する傭兵をおこなっていたり、そうかと思えばカルト集団の教祖になっていたりもした。そのカルト集団の信者を「飽きたな」と全員自殺させてから帰国したのだが、次の興味はなんなのだと警戒しているのは王室だけではない。
「……」
その悪魔、あるいは人でなし、人間の肉と骨を持った化け物、呼び方は何でもいいのだが、そういう、他人を不幸にするか破滅させるしか用途を見出さない男が、青年が、メフィスト・ドマが、朝日が少しだけ差し込む寝室でじぃっと誰かを眺めている。
真っ赤な髪に、死体のように白い肌の、まだ若い娘だ。名前は彼が便宜上「カッサンドラ」と名付けた。本当の名前は知らない。うっかり抜けている部分も多い娘だが、名前だけは頑なに守り続けている。死霊遣いに名を知られることのリスクをわかっていてのことか、そうではなくて無意識でも、それはそれで面白いな、とメフィストは思っている。
「……」
そのカッサンドラを見るドマの眼は、当人が思う以上に柔らかい。夜明けからかれこれ数時間は立っているが、二時間、三時間と眺めていて飽きることがない。本音を言えば、目を覚まし、その青い瞳に自分を映して、彼女を見る男がどんな情けない面で惚れた女を見ているのかを確認したかったが、死体人形にはできる限りの睡眠時間が必要だった。
メフィストはこの時間が好きだった。安らかに、穏やかに寝息を立て、彼女が眠っている。未来を知る女という彼女の能力は確かに魅力的だったが、メフィストはそれが彼女の価値だとは感じていない。何もかも一人で出来るだろうな、という妙な確信のある女。それが、メフィストを頼っている。この悪魔に、だ。それがメフィストには面白い。メフィストは自分はドマらしくない者として生まれてきたと、これまで長く思っていた。何をしても、何を得ても、ドマの欲が沸き上がらない。人が破滅する様を「へぇ」と眺める心はあるが、だが、父のように、母のように、祖父母のように、いとこたちのように、ドマらしいと思える「欲」を見つけられなかった。
「……」
自分の視線の先で眠る女をじっと眺める。
彼女は今、とても安らいでいる。
この部屋は、寝室は、彼女を今包む全てはメフィストが彼女に与えたものだ。それらを全て受け取って、何一つ不安を覚えることなく、ただ安心して眠っている彼女を見て、メフィストは満足感を、自身の長年空虚だった器の中に注がれる「欲が満たされる」感覚を得ていた。
惚れた女を幸せにしたい。
それが、メフィストの「ドマ」としての欲だった。
それを自覚した時、メフィストは爆笑した。なんだその、あまりにも馬鹿らしい。なんと、お花畑な欲求はと、自分を嗤い、馬鹿にした。歴代ドマでもそんな阿呆な欲求はなかったに違いない。だが、しかし、だというのに、全く持って、信じられないことに、これが事実で、真実だった。
メフィストはカッサンドラが嬉しそうに、楽しそうに、幸せそうにしている姿を渇望している。
と、これだけみればメフィストが「善人」のようになっていくのかと、そのように思えもした。だが、ドマだった。メフィストはやはりドマだった。
彼女を幸せにしたい、というのは、それは、他のドマが「他人の宝石で身を飾ることでしか満たされない欲」と同じようなものだった。
メフィストは感じている。
カッサンドラが幸せになる、微笑む、嬉しそうにしている、のは、全て自分が起因でなければ、「ありえないだろ」と、腹が立つのだ。
つまり、つまり、それは、善人が、善良でまともな人間が、好きになった相手に対して幸福を願うような、祈るような、そんなきらきら光る星のような、感情ではない。
彼女を自分の手で幸せにすることでしか、得られない満足感。そうでなければ飢える。一度味わったドマの欲が満たされる感覚は、メフィストを焦らせた。
メフィストは彼女の、カッサンドラという名で動く死体人形を、とことん甘やかすことにした。優しくして、優しくして、甘やかして、自分が彼女のための魔法使いのように何でも都合よく叶えてやって、彼女の前ではいつもにこにこと、優しい顔をして過ごすことにした。
そうすれば、優しければ、便利な男なら、彼女にとって「最高」なのは自分であるはずなのだ。
「最高なら、アンタは絶対におれを選ぶだろう?」
眠る愛しい人に、メフィストは問いかける。彼女の赤い髪を一つ房掴んで口づけし、あぁ、こんな悪魔に魅入られてかわいそうにな、とすら、思ってやれないことに同情した。