8、ハナズオウ:不信仰
王都の王宮は、灰色の石壁と金箔の装飾が織りなす冷たく荘厳な迷宮だった。
そこを堂々を歩くのは黒衣に黒ぶち眼鏡のメフィスト・ドマ。新たなドマ公爵として呼び出され、書類の山を処理するために渋々足を運んでいた。眼鏡の奥で金の瞳を細め、貴族の儀礼に付き合う退屈さを隠さず、廊下を歩く彼の足音は終始面倒くさそうである。
英雄卿の正義の剣の切っ先に晒されているのに不用心な、父親の死に恥じ入る所はないのかしら、などと宮中の貴族たちがひそひそと囁くが、そんなものが一々ドマの耳を煩わせるわけがない。さっさと義務とやらを片付けて、ルイスのお守りとルシウスを誘い出す方法をカッサンドラと話すべきだと、メフィストはそれしか考えていない。
だが、その歩みを止めたのは、控えめなメイドの声だった。
「ドマ公爵様、聖女レイチェル様がお呼びです。離宮にてお待ちしております」
メフィストは片眉を上げ、メイドの緊張した顔を見下ろした。ドマの男に声をかけるメイドなど、あまりにも勇気がありすぎる。そうするだけの気持ちを振り絞れるほど、彼女の主人への敬愛の気持ちが強いということだ。
「聖女様がおれに?王太子サマに知られたら、ドマの悪魔と密会したって不貞を疑われるんじゃねぇのか」
メイドは目を伏せ、ただ「どうぞこちらへ」と手を差し出す。メフィストは舌打ちし、肩を竦めた。相手の話を聞かない無礼なメイドに、ではない。ここで「少し興味が出た」自分の性質にだ。目下、レイチェルはカッサンドラにとって余計な存在であることはわかっているが、それはそれとして、この自分を呼びつけようとしている。その目的や度胸に気が引かれた。面白いものを見逃せないドマの性分である。
カッサンドラとの時間を中断してまで来た王宮に長居なんぞしたくない。だが、好奇心が勝ったので仕方ない。
聖女レイチェル。
王太子レオニスの新たな婚約者で、神殿の神託を背負う女だ。
その聖女様がドマに何を企むのか、覗いてみる価値はある。
離宮は、王宮の喧騒から隔絶された静かな庭園に囲まれていた。白い大理石の柱と薔薇の花壇が、絵本のような美しさで賓客を迎える。メフィストが通された部屋は、柔らかな光に満ち、壁には神殿の紋章が刻まれたタペストリーが揺れていた。そこに、麗しい令嬢がいた。金髪をゆるやかに編み、純白のドレスに身を包んだ彼女は、王女のような気品を漂わせ、微笑みを浮かべていた。
「まぁ、メフィスト。来てくれて嬉しいわ」
メフィストは鼻で笑い、椅子に腰を下ろした。まるで友人に会ったような反応だ。
「聖女様がドマと友達とは、随分と物好きだな。王太子殿下にバレたら、どう言い訳する気だ?」
レイチェルは美しく微笑んだ。
「レオはわたくしがレオを深く愛していることを信じてくれているから、疑いなんて抱きませんわ。わたくしもレオだけを愛しています。メフィストがどんなに魅力的でも、わたくしの心にいるのはレオだけですもの。わたくしはただ、貴方に少しだけお手伝いをしてもらいたいだけなの」
メフィストはレイチェルの言葉はそれほど重要性を持っていないので聞き流し、注意深く全身を観察した。金の瞳が、彼女の微笑み、仕草、肌の質感を捉える。完璧な美しさ。だが、その完璧さが不自然だった。メフィストの魔眼は、すぐに異常に気づいた。
レイチェルの身体は、生きている人間のものではない。血の流れも、鼓動も、生命の熱もない。死体だ。なのに、動いている。まるで――カッサンドラのように。
「アンタ、面白いな」
メフィストは口元に皮肉な笑みを浮かべ、レイチェルに視線を固定した。悪魔の目を真っ正面から受けても、レイチェルは微笑みを崩さない。
「この世に、おれ以外に死体人形を作れる人間はいねぇはずだ。アンタは何だ?」
レイチェルは微笑みを崩さず、ただ首を傾げた。瞳に、答えを拒む穏やかさが宿っている。メフィストはさらに探りを入れる。
「協力しろって言う前に、まずその胡散臭い正体を明かしたらどうだ?」
レイチェルは答えず、立ち上がって手を差し出した。白い手だ。指には王太子の婚約者としての指輪が嵌められている。メフィストは一瞬、そういえばカッサンドラに似合う指輪を見繕っていなかったことを思い出した。彼女にはどんな指輪が似合うだろうかと考える時間を多くとりたいが、今はそういう状況ではない。
「メフィスト、ちょっと来て。見せたいものがあるの。」
メフィストは警戒しながらも、彼女に導かれ離宮の奥へと進んだ。薔薇の香りが漂う回廊を抜け、たどり着いたのは小さな聖堂だった。そこには薔薇の匂いが全くしない。薔薇だけではなく、この世に作られたものの匂いが全くしなかった。
白い石の床に、金と青のモザイクで「ルドヴィカ」の神の紋章が描かれている。聖域と呼ばれる空間は、静寂と不気味な空気に満ちていた。レイチェルは祭壇の前に立ち、微笑んだ。
「ここで、神様をお迎えするの。」
メフィストは眉をひそめ、腕を組んだ。
神。信仰。先代皇帝の時代までは祖霊信仰が主流だった。そもそも先代皇帝は「神なぞいない」というお方だったと聞く。敬うべきは祖先だと、国を切り開き守り続けた祖霊であり、国民すべてがいずれは英霊になるのだという考えだった。国民たちは祖霊に恥じぬ振る舞いをすることを選んで生きてきた。
だが、大陸の外からやってきた神聖ルドヴィカという宗教団体が、いつからかあちこちの国に根付き、クラウディアの時代には権力の半分を握るほどになっていた。国民たちは自分や家族が死して英霊になることより、顔も知らぬ他人が作り上げた「神様」の物語を必死になって信じることで、救って貰えることを望むようになった。
「おれが作り物の神サマってやつを信じると?」
レイチェルは祭壇に手を置き、穏やかに答えた。
「ルドヴィカは、外から来た神様よ。神様には人間の信仰が必要なの」
メフィストの金の瞳が鋭く光る。外から来た神。死体人形として動くレイチェル。ヴィクトリアの「ルシウスを死なせない」要求。同じく胡散臭い匂いが漂う。メフィストは一歩踏み出し、レイチェルの微笑みに正面から向き合った。
「アンタ、ヴィクトリアと何の関係がある?」
「……ヴィクトリア様はとても悲しい決断をしたわ。彼女はわたくしのお友達になれるはずだったのに、神様のために協力することを拒んだの」
レイチェルは再び微笑んだ。だが、その瞳には、遠くの星を見つめるような、冷たく輝く光があった。
メフィストは一瞬、言葉を失った。レイチェルの声には、ヴィクトリアの「これでいいんですよ」を思わせる不気味な響きがあった。死体の聖女。外から来た神。
何が起きてる?
メフィストの魔眼でもこの女の頭の中が覗けない。これは初めてのことではなかった。自分より強い悪魔と契約している人間にはメフィストの魔眼が通用しない。父、エリック・ドマがそうだった。
メフィストは笑みを浮かべ、眼鏡を押し上げた。
「ヴィクトリア・ラ・メイには何をさせようとしてたんだ?」
「貴方にはできないことよ?関係ないでしょう?」
「アンタのことを知りたいんだ。教えてくれよ」
メフィストは相手に魅力的に見える表情がどういうものか知っていた。それは得体の知れない相手であっても有効だった。たっぷりと愛嬌を込めた目線を送ると、ポッとレイチェルの頬が赤く染まる。
「ちょっとしたことよ。あの子の身体を頂戴って言ったの」
「へぇ」
「でもヴィクトリア様は嫌だっておっしゃって……でも、このお洋服も素敵でしょう?」
ゆっくりとレイチェルは優雅にターンして見せた。優雅で美しい令嬢の短い踊りは花のように美しく、それを眼鏡の奥で眺め、メフィストはカッサンドラと舞踏会に出るのも良いな、と手頃な招待状を頭の中で探した。まぁ、それは今はいいとして。
「おれは惚れた女にしか協力しないんだが、」
「ごめんなさいね、わたくし、レオ以外愛することができないのよ」
「なんでおれが振られたみたいになってる??――面白い女は利用してやってもいいぜ?」
まぁ!と、レイチェルは少女のように驚いた顔をして微笑んだ。
「あなたって本当に面白いわ。利用されるのって初めてよ。どんな気持ちになるのかしら」
聖堂のモザイクが、薄い陽光に輝く。メフィストはレイチェルの微笑みを冷たく睨み、胸の奥でカッサンドラの赤い髪を思い出した。ヴィクトリアの「真実」、ルシウスの剣、そしてこの死体人形の聖女が導く「神」。すべてが、王都の血と嘘の渦に飲み込まれていく。だが、メフィストは決めた。
レイチェルの「神」を利用し、ヴィクトリアの企みを暴き、そして、ルシウス・コルヴィナスには死んで貰う。
そうなれば、カッサンドラが自分の前から消える、なんて未来にはなれないだろう。
またしても何も知らない王太子。