2、ロベリア:悪意
水を掛けられ、酔っ払いは目を覚ました。言われた通り店でラ・メイ伯爵家の噂話を流していただけだというのに、いったいなぜこんな目に遭わなければならないのか。殴られ蹴られ、骨を折られた箇所が酷く痛み、情けなく嗚咽を漏らす。
今自分は縛られており、首には縄、男が目を覚ましたことでぐいっと縄が引っ張られた。慌てて男は高さを稼ごうと、目の前の樽の上に乗り上がる。ぐらぐらと樽が揺れた。男の首にかかった縄は天井まで伸びており、その先は下に、目の前の、木箱の上に腰かけている男の手に握られていた。酒場で嵐のような暴力を振るい、男を昏倒させた犯人だ。
「……ラ・メイ伯爵家を見てきた。お前の言う通り、全てが荒らされ、焼け落ち、燃え消えている」
「……!?」
あの酒場から、伯爵領まで連れてこられたのか。男は周囲を見渡した。粗末な小屋、周囲には物音ひとつしない。自分がこれから何をされるかの想像で、男は失禁した。
「屋敷の門の前に夫妻が吊るされていた。下ろす者は伯爵と同罪、国家への反逆者と見なすと書かれていたな」
「………っ、お、俺を……どうする気だ……!!?」
怯え恐怖に顔を引きつらせる男に、誘拐犯は静かに告げた。
「私が知りたいのは、何が起きたのか。誰が何をしたのか。それだけだ。伯爵家の跡地を見て周った。屋敷で働いていた者たちも全員、一か所に集められて外側から鍵をかけられ、建物の中で焼かれ死んでいた。屋敷を襲ったという伯爵領の農民たちは、駆け付けた国軍により制圧され、広場で全員折り重なって殺されていた。皿の上に並べられた事実は、伯爵が農民の怒りを買い、襲われ殺され、王家はそれを鎮圧したということらしい」
「そ、そうだ!そ、そうなんだ、そ、そうなんですよ!へへっ!それで、農民たちがこんなひでぇことをするなんてどんな理由だってんで、お上が調査を行ってくだせぇましてね!それで、伯爵家の悪事がバレたってわけでさぁ。貴族殺しをしたとはいえ、事情のあったこと、仕方のない抵抗だったんだと、聖女さまがそりゃあ涙を流されましてねぇ!!もったいねぇが嬉しいねぇ!」
俺たちの聖女様を悲しませるなんざ、死んでからもラ・メイのくそったれどもは、と、男は悪態をつく。ぎゅっと、縄がまた引っ張られた。男は樽の上でつま先立ちになる。バタバタバタともがいていると、少しだけ縄が緩められ、片足を付けることができた。
「それで、俺たちの聖女様に何かしてさしあげられることはねぇかって!だって当然でしょう!?俺たちの聖女様は、へへっ、王妃様になるっていうじゃあねぇか。生まれがどうのだなんてもう言わせねぇ。あの雌犬に虐められてお気の毒に!あの方の為に何かできねぇかって話し合って、そしたらどうだ!重大な仕事を頂いたってわけよ!」
死の淵に立たされて、男は興奮状態にあった。己の使命を思い出し、紅潮した顔でべらべらと話し続ける。
「あのくそっタレな伯爵一家の話をあちこちに聞かせてやってくれって、金もたんまりもらっちまってなぁ!いやいや見くびっちゃあならねぇよ、俺たちは悪党だけども、あの聖女様の為になることに金なんか受け取れねぇって断ったんだが、どうしてもって、へへへっ、俺たちが街に顔が利くってことを見込んでくださったってわけよぅ!」
「金は誰が?」
「はははっ!いうわけねぇだろ!この×××野郎!」
男は樽の上で犯人に向かって舌を出した。首が閉まり、こうして樽の上で踊っている内に頭が冷静になってきた。酒場で見た男、貧相な格好をした流れ者だ。どういうわけか酷い暴力を使うが、自分達の背後に誰がいるか、想像もしないのだろうと内心馬鹿にする。
酒場での騒ぎはあの方の耳にも入っているはずだ。そうなれば、自分が今どこに連れ去られているのか知らないが、あの方であればこの男を見つけ出し、思う存分痛めつける機会を与えてくださるに違いない。すました顔で座っている誘拐犯に唾を吐き、男は自分が見くびっていい相手ではないぞ、と威厳を見せるように声を張った。
誘拐犯が立ち上がり、柱に縄を結びつける。
男の足元の樽を蹴り飛ばし、ぐいっと、男の首が折れた。
*
「おい、貴様!ここで何をしている!!」
土砂降りの中、門に吊るされた伯爵夫妻を下ろすルシウスに騎士たちが怒鳴った。視界もおぼつかない豪雨だが、ルシウスは構わない。一秒でも早く伯爵夫妻をこの場所から解放することを彼は選択した。そのため、それを邪魔しようとする騎士たちはルシウスにとって排除すべき対象である。
「この知らせが読めないのか!これだから平民はッ!!」
「王家に仕える貴族でありながら民を苦しめた罪人はこうして吊るしておかねばならないのだ!!」
怒鳴り続ける騎士たちは、揃いの紋章付きの制服を纏っている。ここの見張りに王宮の騎士団ではなく、子爵家の騎士団が配属されているらしかった。その紋章を記憶しながら、ルシウスは自分に掴みかかって来た騎士の脚を蹴って払い、反撃のため剣を抜く別の騎士の目にナイフを投げた。上がる悲鳴、呻き声。剣の重なり合う音が少しと、挑みかかる威勢の良い声、それらが次第に恐怖の叫びと悲鳴に変わるが、隣の者の声さえも遮られるような豪雨の中では地面に流し落とされてしまうだけだった。
集まった騎士たちは十人ほどだったが、ルシウスは僅かの時間で自身の作業を再開することができる沈黙を手にする。騎士たちを皆殺しにした手の持ち主とは思えないほど優しい手つきで、大雨でもこびりついて洗い流せなかった伯爵夫妻の顔についた血を落とし、恐怖と苦しみに引きつった顔に布をあてる。
「おい、ルシウス。何を考えてるんだ?」
「……」
ひょいっと、姿を現したのは雨の中でも全く濡れていない、両目と口元を布で覆い、露わになっているのはその境目の僅かな肌だけという奇妙な風体の男だった。フードを被るその男はルシウスの代わりにこの辺りを見て周って、ここに生存者がいないことを断言する。
「……ヴィクトリア様のご遺体は?」
「あ?いや、なかったが……集めた噂じゃ、王都で婚約破棄を宣言され、行方知れずだろう?ここに戻ってくるくらいしか行き場所はないはずだが……」
「ご遺体が無いということは、少なくともこの暴動には巻き込まれなかったということだろう。――探し出すぞ」
ルシウスは男の返事を待たずに踵を返す。男は慌てた。騎士たちを皆殺しにしたのは、てっきり伯爵家の人間をここで丁寧に埋葬するために邪魔だからだと思ったが、埋めないのか??
「ヴィクトリア様がご無事であれば時間が惜しい。屋敷のみなも、伯爵夫妻もそうなさるだろう」
「善良で善徳な、他人の為に行動できる人間ってやつか。美しいね」
ハハハッと男が笑うと口の中からやけに尖った歯が見えた。揺れるフードから除く耳は長く、男が人ならざる存在であることがわかるが、それを見たのはルシウス一人であり、男の正体をエルフだと知っているルシウスからすれば別段驚くことではなかった。
馬を走らせ、ルシウスは思考する。
ここに来るまでに集めた「噂」によれば、ヴィクトリア・ラ・メイ伯爵令嬢は聖なる乙女、聖女レイチェルを幾度も殺害しようとした罪を暴かれ、王太子との婚約を破棄されたということである。
貴族の令息令嬢たちにとって記念すべき卒業式のパーティーにて、王太子と共に現れた聖女を前にラ・メイ伯爵令嬢は声を張り上げ、聖女に掴みかかったのを誰もが目撃している。それを王太子が庇って二人の間に割って入り、「本来であればこの場で罪を暴くことは控えてやろうと思っていたが……もう貴様の横暴には我慢ならない!」と、穏便にことを終わらせようとしていた慈悲を取り下げ、その場で断罪したのだった。そしてその場で身分のはく奪を宣言された伯爵令嬢はそのまま行方知れず。
ほぼ同じ頃に伯爵家の領地では伯爵のこれまでの不正の証拠と領民たちへの圧政が発覚し、人々は王太子と聖女の恋を物語か何かのようにうっとりと口に乗せ、ご退場頂いた伯爵令嬢を「悪役令嬢」伯爵家を「真実の愛により成敗された悪党」とそのように区分けした。
だがそれはあくまで「噂」である。
街で集められる噂話程度では、そのくらいの情報しかない。
ルシウスが今知りたいのは、舞台から退場させられ、人々の関心と悪意から消えた伯爵令嬢の行方だ。
学園を追われた令嬢が頼れる場所など、家族の元しかない。となれば何かしらの手段、馬車などで領地を目指すはずだ。だが婚約破棄の騒動から一週間以上が経過しているが、伯爵家の跡地にヴィクトリアの痕跡はなかった。
どこかに身を隠せているのではないか。
ルシウスは期待した。あの子が震えて、泣きながらどこかで隠れているのなら、今すぐ見つけ出して保護しなければならない。
「生きてるかなぁ」
「ご遺体が辱められていないのなら、ご存命の可能性が高い」
ルシウスは自身の冷静な思考の部分でそう判断した。
いったい何が起きているのか。なぜあの伯爵夫妻が領民たちに反乱など起こされたのか、なぜヴィクトリアが婚約破棄などされなければならないのか。わからないことは多いが、伯爵一家は明確に、確実に、何者かに悪意と敵意を向けられた。
伯爵夫妻という親から逸れている憐れな伯爵令嬢を手にした者が嬉々として、彼女を害する可能性は高く、死しているのならその体はありとあらゆる方法で辱められ、彼女の名誉を侮辱する手段とされているだろう。
「よくそんな想像、うわっ……こわっ……!!」
エルフの男はルシウスの顔を見て、小さく悲鳴を上げた。冷静な部分での思考と、顔面に出る怒りは完全に切り離している。
雨がさらに激しくなり、轟く雷鳴は周囲を昼間のように照らした。
ルシウスは自分が伯爵家から離れたことを後悔している。理由はあった。ドレスを贈った時のヴィクトリアの様子がやはり気がかりで、聖女について彼なりに調べようと考えた。そもそも聖女とはなんだ。聖なる力を持ち、癒すことが出来る乙女だという触れ込みだが、妖精の加護を得た人間にも治癒の術を使うことができる。聖女について、聖なる力について、ルシウスは妖精王を尋ねようと考えた。それでかつての戦友であるエルフのマーカスを尋ね、彼の故郷である妖精の森に行くはずだった。
ヴィクトリアの結婚式までには戻るつもりだった。
いったい何が起きているのか。
ルシウスは馬上で思案する。
冷たく硬くなった伯爵夫妻の苦しみの顔が脳裏に焼き付いた。彼らがあのような死に方をしなければならなかった理由は、いったい何なのだろうか。