→シロツメグサ:やくそく「私を想って」
「おじさま、おじさま。ルシウスおじさま」
眩しい光に、伯爵家の庭師ルシウスは目を細めた。小屋で苗と種の整理をしていたところ、きりが良いのでこの辺りにと思い庭に出た彼を迎えたのは若い女性だった。
「お嬢様」
燃えるような赤い髪に青い瞳、目じりがやや吊り上がった顔つきをしていて一見では冷酷そうな印象を与えがちだが、自分の顔の特徴を理解している伯爵令嬢は常に目元を優しく緩め、口元に笑みを浮かべている。
やわらかな茶色のドレスを身に纏った伯爵令嬢はルシウスが頭を下げるとふわり、とドレスの裾を軽くあげてお辞儀を返した。使用人相手でも礼儀を示すのは伯爵夫妻がそうしているのを見続け、彼女自身が自分もそうすべきだと考えることができるからだった。
「お戻りになられていたとは存じ上げず、ご挨拶が遅れました」
「ついさっき戻って来たばかりなのよ。ふふ、おじさまを驚かせようと思ってこっそりこっちに入って来たから大成功ね」
ヴィクトリアは口元を少し釣り上げる。いつもの相手に警戒心を与えない笑みの形ではなく、年相応の、世の中をちょっと面白がっている子供らしい笑みだった。ルシウスは伯爵令嬢である彼女は今、王都の貴族の子息子女たちが集められる学園で学びを得ているはずだと訝る。卒業式をもう五日後に控え、卒業式の場で正式に王太子妃になることを宣言される伯爵令嬢ヴィクトリアは、いかに実家とはいえ馬車で二日はかかる伯爵領に戻っている時間などないのではないか。
「お戻りになられるのは卒業式を終えてからばかりかと」
「……ちょっとこの庭を見に来たかったの。ここはいつも変わらず綺麗だから」
「今年の薔薇は見事ですよ。お嬢様のお好きな白い薔薇もございます」
「いくつか頂いていっても良い?」
「もちろんです」
この庭は貴方のためのものなのだから、とルシウスは快諾した。
薔薇を集め、棘の処理を行いながら、庭師は黙って椅子に腰かけている伯爵令嬢の様子を窺う。何か思い詰めた様子がある。態々王都離れ、花を見にために遠く離れた場所に来たなど、誰が聞いても信じないだろう。
伯爵令嬢は、ヴィクトリア・ラ・メイは物静かな気質の子供だった。自身の内面をすっぽり隠してしまうことがとても上手く、火傷をしていても泣きもせず「少し手が痛いから、手当をしてくれないかしら?」と使用人に丁寧に頼むこともあった。僅か三歳の頃のことだ。
「王都は如何です?」
「……素敵なところよ」
少しの間はあったが、ヴィクトリアは静かに答えた。
「おじさまは王都に行ったことは?」
「ございます。と言ってももう随分と昔のこと。お嬢さまがお生まれになる前に」
「それじゃあ先代の皇帝陛下をご存知?」
「えぇ。もちろん。国民の誰もが敬愛する偉大な皇帝でした」
「……………レオニス殿下も、そんな風になれるかしら?」
ヴィクトリアが口に出したのは王太子の名だった。
レオニス・ガレリア。現皇帝クラウディアの息子で、先代皇帝の甥にあたる人物だ。
「ご本人がそれを望まれるのであれば」
あまり評判のよくない人物であることは、田舎にいるルシウスの耳にも入ってくる。だが若い頃の、貴族の青年にありがちな過ちというレベルであり、人はいつだって生き方を変えることができるのだとルシウスは先代皇帝に教えられた。
「おじさま。殿下は今きっと、暗闇の中にいらっしゃるのだと思うの。わたくしは殿下の行く先を照らす光になれるほどの強さも賢さもないけれど、それでも、手を握って一緒に歩くことはできると思うわ。あの方が迷ったときは、こっちじゃないかしらって、一緒に悩むことって、無力だと思う?口うるさいって思う?でしゃばりかしら?」
「いいえ、いいえお嬢さま。道を決めるのはいつだって自分自身であるべきですが、しかし、誰かの助言に耳を傾けることも必要です」
思い詰めた青の瞳がじっとルシウスを見つめる。今にも泣き出しそうな顔をしているヴィクトリアを、ルシウスは優しく抱きしめた。もちろん、ただの庭師が許される距離ではない。だがルシウスはこの震える伯爵令嬢の名付け親だった。
先代皇帝が崩御され、何もかもに絶望し野垂れ死にすることを望んだルシウスが行き着いた先、地方伯爵であるラ・メイ夫妻は素性も知れぬルシウスに優しくしてくれた。自分達の子供の名付け親になってくれと申し出て、小さな手がぎゅっと、ルシウスの指を握り返した時のことをルシウスは今でも忘れない。
「わたくし、レオニス殿下をお慕いしています。あの方が望まれるのなら、それがあの方にとって最も良い道であるなら、それに従います」
名付け親に抱きしめられ、耐え切れずヴィクトリアは泣き出した。気高く完璧さを求められる「王太子の婚約者」である伯爵令嬢の泣き顔は誰も見てはならない。
何度も何度も、ルシウスは名付け子の頭を撫でた。何があったのか、伯爵令嬢は語らない。卒業式の間近に馬を走らせ、泣きにいくほどの事があったとしても。
ルシウスが噂で聞いている範囲では、王太子は王都に現れた聖女を傍に置いているそうだ。平民である聖女にある程度の保護を与える名目で。これは偶然だが、卒業式のパーティーに王太子が聖女のためにドレスを特注で作らせたことも、耳に入っていた。伯爵家はそれほど裕福ではない。家柄はとにかく古く、王家に匹敵するほどだったが、伯爵夫妻が善良で税金をかなり低くしていることと、今年はどこの領地も干ばつが続いた。王太子妃となる伯爵令嬢の卒業式のドレスは王太子が贈るものだとばかり思っていたが、一向にそうした様子はなく、どういうことかと屋敷の使用人たちまでもが案じているところに、王都のサロンの出入り業者が友人にいる使用人が「ありえない!!」とその件を伝えてきた。
ヴィクトリアは王太子の婚約者でありながら、ドレスを贈られることなく、また伯爵家は娘に王太子妃に相応しいドレスと宝石を用意することができなかった。
若い娘にとって、これがどれほどの屈辱だろうか。
ひとしきり涙を出し終えたヴィクトリアに、ルシウスはあるものを渡すときだと判断した。
「お嬢さま、どうぞこちらをお受け取りください」
そういってルシウスは、庭師の小屋の中の――こんな場所があるのかとこの場所で生まれ育って、この小屋を遊び場にしていたヴィクトリアも知らない――厳重に隠された扉を開けると、そこには古い甲冑と剣、そして大きな、古びた衣装箱が置かれていた。
ルシウスはその衣装箱を開き、中から一着のドレスを取り出す。
それは雪のように白く、羽根のように軽いそれは蝋燭の明かりで美しい光沢を放っていた。澄み切った部屋の空気の中に光が転がり込むような静かな美しさだった。近づけば繊細な刺繍が施されていることがわかる。靴は水晶か硝子で作られているのかと思う透明なつくりで、つま先と踵は金が流し込まれたような色をしていた。触れると冷たいが、重くなく、内側は柔らかく、これは履いていても持ち主を苦しめないだろうことが明らかだった。
「おじさま……これは……いったい」
「もちろん宝石もあります」
衣装箱の底には宝石の入った箱が収められており、中から眩いダイヤモンドが連なった装飾品がいくつも出てきた。
ルシウスはドレスは少し手直しする必要があるが、自分にはそうした技術がないことを申し訳なさそうに伝える。ヴィクトリアは慌てた。
「おじさま、あの……わからないわ。だって、おじさまは……庭師で、なのに……どうして?」
「ルシウス・コルヴィナス。それが私の名です」
困惑するヴィクトリアに、ルシウスは十六年ぶりに自分の本名を口に出した。
はっと、ヴィクトリアはルシウスの顔を見、目を見開き、そして衣装箱と一緒にこの部屋にある甲冑と剣に視線をやる。
「かつて戦場を共に駆けた我が主君がこの世を去る前に、私に多くの物を残してくださいました。それらを私は一切望みませんでした。私は貴方の名付け親となり、貴方が成人するその時に貴方の名付け親として恥じない贈り物をしたいと考え、これらを準備していたのです」
本来であれば王太子妃になるその日にと考えていたが、今がその時だろうとルシウスは考える。軍人だったルシウスは女性のドレスに詳しくないが、妖精たちが十年かけて作り上げたドレスは王太子が国一番のデザイナーに依頼したものに引けを取らないはずだ。多少の手直しは必要だろうが、かつて皇帝陛下が愛した型のドレスは王太子妃が纏うに格式として問題ない。ダイヤモンドの輝きは流行りに左右されることなくヴィクトリアの美しさを正しく伝えるだろう。
ルシウスは顔を伏せるヴィクトリアの手を握った。
「貴方の王家への献身と覚悟は偉大です。私は貴方を誇りに思います。どうかこれを貴方の戦場のための鎧としてください。ヴィクトリア様」
ゴシップ氏に書かれたイラストの聖女様。美しい白いドレスに、誰も見たことのない見事なダイヤモンドの首飾り。聖女の美しさに妖精たちが用意してくれたのだと王太子が触れ回った。