→青:安心感を覚える
「ほら!さっさと水を汲んできなよ!本当にどんくさいんだから……!」
ぐいっと、乱暴に桶を押し付けられてシルビアは衝撃に尻もちをついた。しかし彼女がいくら痛みに顔を顰めても、にわか雨でぬかるんだ土で泥だらけになろうと、それを気遣う者はいない。クリフトン伯爵家の使用人たちはシルビアに辛く当たれば当たるほど、自分たちの待遇が良くなることをこの数年の間にすっかり学んでしまった。最初は陰ながらにシルビアに優しくしてくれる使用人もいたが、そうした人たちは心無い使用人たちによって告げ口をされ、屋敷からいなくなった。
「……」
もう相手を睨んだり、逆らったりする気力もない。
シルビアはあかぎれた手で桶を持ち上げ、とぼとぼと井戸へ向かう。かつて自分が自由に行き来できたクリフトン伯爵家。今夜は盛大なパーティーが開かれている。シルビアは自分がなにをしたのだろうかと、今でもよくわからない。
父と母の仲は昔から良くなかった。それは子供心にもわかっている。けれど、貴族の夫婦というものはそういうものだった。家同士のための結婚は、商家の契約関係によく似ているとシルビアは友人に聞いたことがある。仲は良くなかったが、それほど悪いわけでもなかった。母は父に従順だったし、父も母が伯爵夫人として必要な振る舞いをしていることに満足しているように見えた。
「……」
顔を上げて、パーティーが行われているであろう本館に視線を向ける。バルコニーには灯りが設置されており、今は無人だが、ダンスの熱を冷ますべく、誰かが外に出てくるかもしれない。
シルビアは来客の目に自分が入らないようにしなければならないと思い、すぐにその場を離れようとした。しかし久しぶりに見る、華やかな貴族の世界は年若い娘の足をその場にとどまらせるには十分だった。
「本当なら、あの会場の光は貴方のものだった。――違う?」
「!?」
幸福な時代に心を戻していたシルビアは、自分の方へ一人の貴族令嬢が近づいてくるのに気付けなかった。声がして、はっとそちら側を振り向けば、月明りに輝く赤い髪に青い瞳、漆黒のドレスの美しい令嬢が悠然とシルビアに微笑みかけていた。
「……ヴィクトリア……?じゃ、ないわね?……貴方は……」
友人の名を呟き、シルビアは首を振る。
伯爵令嬢でなくなったシルビアとも文通を続けてくれたたった一人の友人と、目の前の令嬢はよく似ている。けれどヴィクトリアはこの令嬢のように微笑んでいても人に対しての情が一切感じられないような冷酷な瞳はしていなかった。
「カッサンドラ・ドマ」
「……ドマ家の」
ひゅうっと、シルビアは警戒するように喉を鳴らし、一歩後ずさる。
「怖がらないで。何もしないわ」
「……」
そのシルビアにドマ家の令嬢は穏やかに微笑み、自身の口元に手を当てる。
「お友達になりたいだけなの。シルビア・クリフトン伯爵令嬢」
「……ドマの方ならご存知でしょう?私は、」
「わたくしが貴方をクリフトン伯爵令嬢と呼んでいるのに、そうではないことなんてあるのかしら」
ドマの令嬢は小首を傾げる。
その意味を、貴族社会を知るシルビアは察した。
「…………なぜ?」
ドマ家に令嬢がいるとは聞いたことがなかったが、あのドマ家なら娘の一人二人、隠して育てていてもおかしくない。カッサンドラ・ドマと名乗った令嬢の立ち振る舞いはシルビアが知るドマ家の人間の振る舞いととてもよく似ていた。相手の価値観や考え、ルールをよく承知しておいて、それに対して自分の思考を合わせることをしない傲慢さ。けれどそれが許される、あるいは許させる人たちなのだ。
シルビアの問いにカッサンドラはにこにことした顔のまま黙した。
「貴方はクリフトン伯爵やエミリーさんのように自分の思い込みを事実にしないのね」
「父や妹をどうするつもり?」
「望む通りにしてさしあげようと思っているの」
「……?」
「エミリーさんはご自分が正義の代弁者だと思っていらっしゃるでしょう?そしてクリフトン伯爵はご自分が正義の執行者に正される被害者であって欲しいと思っていらっしゃる。あの方ったらおかしいのよ。わたくしがヴィクトリア・ラ・メイで、彼女は先代皇帝陛下の遺児だとお考えになられているの」
ほほほほほ、とカッサンドラが笑う。
なるほど、父らしい思い込みだとシルビアも頷いた。
父にはそういう所があった。自分の身に起こることに、自分に都合の良い物語を作り上げる。母と結婚したのは現皇帝陛下の即位の前後に行われた貴族の大粛清から逃れるための、お家のための自己犠牲だとそのように。けれど実際のところは破産寸前だったクリフトン伯爵家の借金を返済するためだ。伯爵家の古くからの付き合いがあるシルビアの母の家が、娘と結婚するのならと条件を出した。シルビアの母が幼馴染である伯爵を心から愛していたからだ。しかしクリフトン伯爵は自身の父の愛人と関係を持ち、激怒した先代伯爵が愛人を追い出した。それをなぜ真実の愛だの、引き裂かれた悲劇の恋人だののたまうのはシルビアにとっては理解できないことだったが、父には、そしてエミリーには、物事を自分の見たいようにしか見ない愚かさがある。
そういう父と妹だから、何かドマの怒りに触れることをしたのだろうか。
「貴方は明日、伯爵令嬢に戻れるわ。シルビア・クリフトン伯爵令嬢」
「……そう」
「疑わないの?」
「ある日突然、わけもわからずに伯爵令嬢から平民になったのよ。今更、わけもわからず伯爵令嬢に戻ることになっても、それがなんだっていうの?」
「貴方の好きなことをしてほしいの。だって、お友達なんですもの」
カッサンドラはそっと、シルビアの手を取り、何かを握らせる。手のひらに収まる、硬い石だった。ただの石。何の変哲もない、その辺に落ちているだろう石ころだった。しかしシルビアはこの石に見覚えがある。
「……」
どうして、とシルビアが掌の石を見つめ、驚いて顔をあげる。しかしそこにはもうカッサンドラ・ドマ公爵令嬢の姿はなかった。
呆然と暫くその場に佇んだシルビアだったが、しかし、やがて、そのうちに、公爵令嬢は幻だったのではないか。自分の心が見せた、それこそ、クリフトン家の人間らしい思い込み、勘違い、自分勝手な夢だったのではないかと恥じた。
*
翌朝も、シルビアは水汲みを言いつけられた。
言われた通りに桶に水を汲んで戻ると、シルビアに水を言いつけた使用人が慌ててやってきた。
「ちょっと!どこに行ってたんだい!」
「どこって……水を」
「そんなのもういいから!!さっさとおしよ!旦那様が先ほどからずっとアンタを待ってるんだ!」
ぐいぐいっと、シルビアは腕を掴まれ、引きずられるようにして調理場から廊下、使用人たちが使用することを許されない部屋に連れていかれる。
「……」
そこには父がいた。
シルビアを見ると、ぱっと、表情を明るくさせる。希望を見出したような、縋るような目に、シルビアはぎゅっと、胸が苦しくなった。
「あぁ、あぁ!娘よ!」
「……」
お父様と、再び呼んでも良いのだろうか。最後に呼んだ時、父は汚らわしいとシルビアの頬を殴った。これからは庶子として身の程を弁えて生きるようにと、父の事は「旦那様」と呼ぶようにと、多くの人間がシルビアを怒鳴り、殴った。
けれどシルビアはそれでも父は父だった。夫婦仲は良くなかったが、悪かったわけではない。シルビアは伯爵家の唯一の子供で、跡取りとして大切に育てられ、父が自分を愛してくれていると信じて生きてきた。その心を完全に消し去るにはシルビアには他人を憎む素質がなかった。
「どうか、どうか、助けておくれ。お前だけが頼りなんだ!」
何か父が困っていて、そして自分を頼ってくれているらしい事実に、シルビアは胸の内がじんとする。
ぎゅうっと、クリフトン伯爵がシルビアを抱きしめた。久しぶりに感じる、自分を傷つけない人のぬくもりはシルビアを安心させた。
「はい、お父さま」
ゆっくりと頷くシルビアに、クリフトン伯爵は全身で喜びを表した。
「そうか!そうか!私を助けてくれるか!なんとできた娘だ!そうか!エミリーの代わりになってくれるか!!あぁ、よかった!!!!!」
どん、と、クリフトン伯爵がシルビアを突き飛ばした。
「……え?」
よろめくシルビアが何かにぶつかる前に、後ろから騎士二人に羽交い絞めにされる。混乱し、叫び声を上げる間もないシルビアに、笑顔のままのクリフトン伯爵は続けた。
「エミリーを失うことは死と同じだと、愛しい妻が嘆くんだ。しかし、エミリーと私は喜んで殺されなければならない。国家に歯向かうなどという気はなく、私の死により、新たな時代が来るというのならこれほど名誉なことはないのだよ。けれど、それでも、愛しい人を悲しませたくはないんだ。だから、わかるね?シルビア。お前がエミリーの代わりに、私と一緒に死ぬんだよ」
顔を潰して、髪を全て抜いてしまえばわからない。
私が罪を恥じて自ら娘を殺したと、そのように告白すればいいと、クリフトン伯爵は満足気だ。
シルビアは落胆した。
そうだ。
そうだ。
この人は、どこまでも、そういう人なのだ。
失望することは何度もあった。もうこれ以上の落胆はないだろうと、これ以上落ち込むことはないだろうと、いつもいつもそう思っても、まだまだ底には遠いらしい。
「ふ、ふふふ……あは、あっははははは!!!!!!」
シルビアは笑い出した。
気が狂ったのかと、父や騎士たちが訝るのもどうでもいい。
髪を振り乱し、シルビアは全身の力を入れて、騎士たちの腕を振り払った。か細い娘にロクな抵抗が出来るはずがないと油断した拘束は簡単にほどけた。
「無礼者!!」
「!?」
シルビアは自身を再度拘束しようと掴みかかってくる騎士たちを一喝した。それが以前の、自分の運命もわからぬまま翻弄され、なにも選択できない被害者であったら、騎士たちは怯みもしなかっただろう。しかし、彼らの前にいるのは貴族の傲慢さを取り戻した伯爵令嬢、だった女だった。
「シルビア!」
「ご存知かしら!お父様!」
娘の抵抗に怒鳴るクリフトン伯爵に、シルビアは甲高い笑い声と共に父に叫び返した。
「ドマのご令嬢が、私を伯爵令嬢に戻してくださるんですって!アハッ!ありがたいわよね!そんな程度で、私が納得できると思う!?」
シルビアは思い出した。
何もかも奪われた。
母も、恋人も、自分の持ち物も矜持も何もかも、そうだ、そういえば自分は、あまりにも理不尽に奪われたのだった。
それが元に戻るからと言われて、それに満足などできるものかと、シルビアは笑い飛ばす。
気弱だった、奪われるだけでメソメソするくらいしかできなかった娘の豹変にクリフトン伯爵は唖然とする。その伯爵の胸倉をシルビアは掴んだ。
「お父様、私とお母さまへの慰謝料に、爵位を譲ってくださいな。それで私は、お父様を許してさしあげましてよ」
「ふ、ふざけ……!!」
娘の反抗をクリフトン伯爵は認めなかった。一瞬で顔を真っ赤にし、娘を殴ろうと手を上げる。
パァンッ!
「!?」
だがその振り上げた手は、シルビアを殴ることなく、真上で破裂した。
クリフトン伯爵の絶叫。飛び散る血。
すぐに騎士たちが周囲を警戒する。
どこかからか攻撃されたことだけはわかるが、彼らがその先を理解することはなかった。その前に、騎士たちの脚が、腕がパァンン、パンパン、パンパンと、次々に破裂していく。絶叫、しかし、致命傷には至らない。身動きが取れない状態にされ、血だまりの中に無傷のシルビアが一人佇む。
「わかったわよ、カッサンドラ・ドマ。貴方の友情を受け取ってあげる。でも、エミリーには手を出さないで頂戴。妹は私がやるから」
*
「えぇえ……えぇ……なんか、すごいことに……」
私はお兄様こと、メフィスト・ドマ公子に抱えられながら、クリフトン伯爵家を監視できる樹の上で状況を把握し、顔を引きつらせた。
シルビア・クリフトン伯爵令嬢。
原作小説で魔法使いが現れないverのただ虐げられるだけのシンデレラがモデルですか、というような扱いの彼女をエミリーの凶器にできないものかと思って接触したが……。
「思ってたのと違う」
「アンタにも予想外のことってのがあるのか」
「私を何だと思ってるの、メフィスト公子」
「未来を知る女」
違うのか、と、メフィスト・ドマ公子はきっぱり答える。その片腕は私を抱えるために使われているが、もう片方の手は私の記憶だとライフルによくにた魔法道具が握られている。もちろん銃ではなくて、メフィスト公子がこれを構えて相手を魔眼で認識すると、攻撃が可能になる。距離や威力の制約はあるらしいが、魔眼と魔弾の組み合わせの容赦なさは、今シルビアの目の前で披露していただいた。
私の予想では、シルビアがエミリーに自分がされたことをそのままやり返す――部屋やドレスを奪いかえす――だろうと思った。エミリーはとても悔しがるだろうとそれを見にきて、メフィストは私の護衛として勝手についてきた。
だが、シルビアはただやり返すだけでは嫌だということで、伯爵の地位を慰謝料として請求している。
予想外である。さすがに予想外だ。
そんなつもりはなかったと私は真顔でメフィストに告げるが、メフィストは私が謙遜、あるいは冗談で驚いているフリをしているのだと考えている。
「あの令嬢一人じゃ伯爵に殴られて終わりだった。だからアンタがここに来た。俺がついていけば、こうしてあの令嬢をサポートしてやれるからな」
わざとだろうとメフィストは言う。
勘違いはクリフトン家だけにしてほしい。だがメフィストは私が未来を知っていることを知っている。私が何を言っても下手なごまかしだろうと考えるに違いない。
私はとりあえずメフィストに、シルビアがエミリーの部屋に着くまでに、邪魔する人がいたら全員排除して欲しいとお願いした。
アマプラで配信中の「ザ・メニュー」という無人島にある高級レストランにセレブが集められて天才シェフのコース料理に舌鼓を打って始まる殺人事件を観ました。チーズバーガーが食べたくなったので作ったんですが、チーズドックになりました。