→紫:高貴なひと
本日の主役、この屋敷の主人の娘を惨めに這いつくばらせた悪女の振る舞いは、他の貴族たちの記憶からはすっぽり抜けたように、まるで一切合切何もなかったかのように、再び音楽が流れあちこちで歓談が始まる。そうするべきだと参加者たちは心得ていた。ドマ家の当主が娘を連れてやってきた。そうなれば今宵のこの場所は一つの観劇になるのだろうと、貴族たちは理解している。彼らは自分たちが台詞のない端役、あるいは風景であることを望んだ。
しかしエミリー・クリフトン伯爵令嬢はなぜ誰も自分を助けてくれないのか理解できなかった。今日は自分の誕生日だ。おめでとうと祝福してくれた同年代の令嬢たちは眉をひそめて遠巻きに。美しいお嬢さんで伯爵は幸せ者ですなと褒めそやしていた貴族たちは父から距離を取っていた。どうして、なぜ、この女が入ってくるまで、今夜の、この場所の主役は自分だったのに。
(早く、早く来なさいよ……!レイチェル!!)
エミリーにはまだ手札があった。
今夜のこの夜会には、エミリーの親友である聖女レイチェルを呼んでいる。彼女はエミリーが一番の友人だと言っていたし、エミリーもそうだと思っている。レイチェルは王太子レオニスと婚約するはずだから、当然同伴者にレオニスを連れてくるだろう。
王太子とその婚約者がエミリーの誕生日を祝いに来る。それが今夜のエミリーの一番の「自慢」になるはずだった。
「お父さま!なんでドマにペコペコするのよ!!言ったでしょ!?正義は何より正しいのよ!?」
着替えの為に別室に連れていかれたエミリーはすっかり怯えている父を鼓舞する。
エミリーには栄光があった。学園で平民であるレイチェルがレオニスと身分の差をこえて真実の愛を貫くために自分は二人を支えたし、二人があの頭の悪いヴィクトリアを断罪できるように手伝った。
レイチェルはエミリーに「結婚してからも私たち、ずっとお友達でいましょうね。そうなったら素敵ですものね」と微笑んだ。王太子妃の友人。悪くない。本当ならエミリーは自分がレオニスの婚約者になりたかったが、王太子の結婚相手は「聖女」であると予言で決まっている。自分は天使だけど聖女じゃないとエミリーは仕方なくレイチェルに譲ってあげることにして、その代わりにレイチェルがレオニスと結婚したらちゃんと自分を王宮に毎日呼びなさいよと念を押した。
「正しいことをすればいいのよ!お父様!私がしたようにね!」
「お前がしたことは無力な小娘を陥れただけだろう!!!!!」
「違うわよ!!」
何を言うのかとエミリーは父に言い返した。
エミリーがヴィクトリアにしたことを父に自慢げに話した時、父は喜んでくれたじゃないか。母と一緒に暖炉の前で、エミリーが「レイチェルとレオニス殿下が結ばれるように、私、恋のキューピットになったのよ!」と話し、王太子とヴィクトリアの、正しくない組み合わせが結婚する前に婚約解消できるように一生懸命働いた内容を伝えた。
「もちろん簡単じゃなかったわ。ヴィクトリアは友達も多かったし、最初はレイチェルがヴィクトリアに虐められてるって言っても誰も信じなかったけど、レイチェルが怪我をした時にヴィクトリアの持ち物をその場に落としたり、レイチェルの教科書をズタズタにしたのを私がヴィクトリアに言われてやったんだってレオニス殿下に伝えるようにしたの。レイチェルの飲み物に下痢止めを入れて、それに気付いた私がヴィクトリアに飲み物を交換するように言った時、ヴィクトリアはとても嫌がってくれたから皆、あいつがやったんだって想像してくれたのよ」
「……それを正しい行動だと、お前は本気で言っているのか」
「当たり前でしょ。だって真実の愛をレイチェルとレオニス殿下は見つけたんだもの。お父さまとお母さまには私みたいな味方がいなかったから、他の女と結婚させられたんでしょ?私はそんな悲しいことをレイチェルとレオニス殿下にはさせないわ。皆もそれが正しいって言ってくれたし、卒業式のあとの学生裁判なんて、本当に素敵だったんだから!」
まさに正義が行われた瞬間。真実の愛が身分なんてつまらないものに敗北することがないとても美しいものだと証明できた瞬間だったと、エミリーは思い出して気分が良くなる。
「いつもすまし顔をしてたヴィクトリアったら、本当に驚いて動けなかったのよ。アルフレッドが読み上げる実家の不正の証拠には必死に反論してたけど、誰が見たって間違えようのない証拠なのに惨めよね。筋肉自慢のルイス・ロートンに押さえつけられる前に抵抗するから殴られた鼻から血が出ててみっともなかったわ」
エミリーは平民として育った自分でも貴族としての義務を果たせるのだと、会場で自分に力があることを感じた。ヴィクトリアがいかにレイチェルを疎んでいたか、友人だった自分に話して聞かせたことにして会場で朗々と語れば、誰もがエミリーの言葉に耳を傾けた。真実の愛を貫く美しい男女、この国の王太子であるレオニスと純粋無垢な聖女レイチェルの為に友の悪事を暴き、か弱い女の身で立ち上がる自分はまさに愛の伝道師だった。
「私にできたんだもの。お父さまにだって、その正義の力はあるはずよ!ドマなんて叩けばほこりが出るに決まってる。みんな報復が怖いからって手を出していないだけなんでしょ?大丈夫よ、私はレオニス殿下とレイチェルの友達なんだし、お父さまには王家がついてるわ!!」
娘である自分が華々しく、悪女ヴィクトリアを断罪したように、父には悪の貴族であるドマを断罪して英雄になるべきだと、正義を行うべきだとエミリーは父を鼓舞する。
*
クリフトン伯爵はそれを黙って聞いていた。愛しい、最愛の女性との間に生まれた娘。エミリーに素晴らしい生活を与えると愛しい人に言い、そのためならどんなことでもするとクリフトン伯爵は誓った。
こんなに愚かな娘でも、最愛の女性にとって大切な存在なのだから、クリフトン伯爵は彼女の愛するものも全て愛することが自分の彼女への愛の証だと信じていた。
(だが、さすがに庇いきれない)
今にも娘を殴りつけてしまいそうな自分が恐ろしくなり、クリフトン伯爵はその場から逃げるように退室した。
屋敷の主人である自分が長く会場を留守にするのはマナー違反だが、来客たちはクリフトン伯爵の姿が見えないのを幸いに、次々と帰る口実としているだろうことは明らかだ。
自身の書斎の居心地のよい椅子に身を沈め、クリフトンは妻の顔が見たくなった。だが彼女の耳にももうドマの令嬢がエミリーにしたことは届いているだろう。伯爵夫人としての振る舞いに「自信がない」「今日はとくに、エミリーの大切な日だから、私が行って笑われたらエミリーが可哀想だわ」と言って夜会に参加せず、編み物でもしているはずだ。そんな母親の選択をエミリーは「そうね、そうして欲しいわ!私の大切な日だもの!」とあっさり言ったことを伯爵は思い出す。
「…………」
「……やはり貴方でしたか」
ふと、風を感じて顔をあげると、そこには月明りに照らされて輝く銀髪の、自分と同じ年の男が立っていた。
コルヴィナス卿、とクリフトン伯爵は丁寧に挨拶をする。かつて戦場で彼の部下として戦ったこともあるクリフトン伯爵は、ルシウス・コルヴィナスが貴族の礼に対し、相応しい礼を返すことをしない方であるとわかっていた。それでもそれを不服に思った事はなく、畏敬を持って付き従った。
愚かな娘がヴィクトリア・ラ・メイ伯爵令嬢を貶めたことはわかっていた。
浮かれて自分の振る舞いを勘違いする娘に、言葉通りに受け取った妻は無邪気に喜んだ。自分の娘が貴族の方々と親しくなり、王太子様とその恋人のお力になれるなんて、とそのように嬉しがった。クリフトン伯爵はその笑い声が愛しくて、そうだね、なんてすばらしい娘だろうと、妻の頬に口付けた。娘が「それでね、お父さま。ヴィクトリアをもう二度と、二人の目の前に現れないようにしてほしいの」と強請ってきたので、妻も「素敵ね。ねぇ、そうしてあげて」と頼んできた。断れるわけがなく、それならばとクリフトン伯爵は家族の元に逃げようと馬車を探すヴィクトリア・ラ・メイ伯爵令嬢をならずものに捕まえさせ、彼らが考える「若い娘にとって最も辛い場所」に置いていくように金を与えた。それがどこか、どうなるのかはクリフトン伯爵は興味のないことだった。ただ、「もう安心だよ」と母子に告げる事ができればよかった。
王太子の恋心にかつての自分を重ねなかったわけではない。
聖女レイチェルが本物の聖女であるのなら、遅かれ早かれ神殿勢力がラ・メイ伯爵令嬢と王太子の婚約に口をはさんできただろうから、娘の行いもそう問題視しなかった。ただ少し物事の進む速度を速めただけだと、そのように判じた。
しかし、ドマがやってきた。
黒衣の男が悪意を弾いて歌うには、自分の家門は矮小すぎる。態々あの「趣味・国家転覆」であるとかつての大戦で祖国を滅ぼしてこの国に亡命してきた男が自分の皿の上に乗せる食材に、クリフトン伯爵家は選ばれないだろう。
赤い髪に青い瞳の、ヴィクトリア・ラ・メイ伯爵令嬢によく似た……いや、そうではない。
正しくは、本当に正しくは、先代皇帝陛下の色だ。
偉大なる薔薇の大君と同じ色を持つ令嬢が、現れた。
その意味を悟れぬ貴族なら、とうに家門が血の海に沈んでいただろう。
そして、ルシウス・コルヴィナスが現れたことで、クリフトン伯爵は完全に理解した。
二日前に「病死」と発表されたヴァリニ子爵とその嫡男について、クリフトン伯爵は情報を得ている。
公子は自殺、子爵は他殺だったそうだが、ヴァリニ家の人間が「食中毒です」と言い放ち、捜査は行われていない。
幻覚作用のある植物を口にしてしまい錯乱した子爵と公子が惨状を起こし、それを公表しないようにしているのだと、情報を知る貴族の間では囁かれている。
あの家が非合法の麻薬を扱っていたこともあり、家門にゆかりのあるすべての者が門の下に晒されるより、親子二人を「病死」として闇に葬るのは当然だった。
クリフトン伯爵もそう考えた。だが、王室騎士団に所属している友人が妙なことを話していた。自殺したヴァリニ公子は先代皇帝陛下の紋章の入っていた剣で喉を貫かれていたらしい。
「あぁ、閣下。貴方はこの腐敗した国を正そうと……あぁ、貴方こそ、まことの正義の執行者だ……!」
かつてドマは先代皇帝の威光に頭を垂れ、この国の闇を担うと誓いを立てた。そして表の光を英雄卿ルシウス・コルヴィナスが担った。
その皇帝が病に倒れ、二人は赤い髪の赤ん坊を密かに匿い、守って来たのだろう。その秘密の王女をエミリーやその愚かな友人たちが傷つけてしまった。
これは愚かな貴族たちを粛正し、隠された王女を正しい場所へお返しするための正義の裁きに違いない。
クリフトン伯爵はルシウスの前に跪いて、必死に命乞いをした。自分の物ではない。どうか妻だけは見逃してくださいと必死に足に縋った。
ルシウス・コルヴィナスは黙して何も語らなかったが、そこでパタン、と書斎に三人目の人物が入ってくる。
「お待ちください、コルヴィナス卿。クリフトン伯爵のその願い、叶えて差し上げて欲しいのです」
赤い髪に青い瞳の、カッサンドラ・ドマ公爵令嬢がクリフトン伯爵には天使に見た。
絶望から希望の光を見出すクリフトン伯爵に、カッサンドラ・ドマ公爵令嬢は優しく微笑み、よい考えがありますのよ、と胸の前で両手を合わせる。
「伯爵夫人である奥様は無関係。罪はないとそのように仰られるのですよね?えぇ、ですが……わたくしを酷い場所に送り込んだのは伯爵様ですもの。エミリーさんと伯爵様だけじゃわたくし、足りませんの」
命が足りないのか血が足りないのかはわからないが、不満不服であることを眉の形で知らせる。
「ど、どうせよと!?」
「簡単ですわ。やり直して頂ければいいのです」
「やり直し……」
「そうすれば、奥様は無関係でしょう?まぁ、エミリーさんは駄目ですけれど」
にこにこと微笑み令嬢の意図をクリフトン伯爵は理解した。やり直し。無関係になる。つまり、エミリーの母との結婚を無効に。そのためには、元伯爵夫人……シルビアの母、オリヴィアとの結婚が有効であったと、やり直す必要がある。
「そんなことをすれば……!」
彼女は伯爵夫人ではなくなるし、エミリーは庶子になる。クリフトン伯爵は拒否しかけ、何も言わず微笑む令嬢に、彼女はどちらでも良いのだと知らされた。
翌朝、クリフトン伯爵は神殿に私財の八割を「献金」し、自分が得た幸福も富も何もかも手放した。
令嬢の報復はあってる!世直し関係ない!惜しい!勘違い!!!!!!