→白:自立心
「私のヴィクトリア様はあんなことはしない」
「まーまーまー。抑えて抑えて、どーどー。抜剣しない」
クリフトン伯爵家を監視するため離れた場所に待機しているルシウス・コルヴィナスは、自分と善良なるラ・メイ伯爵夫妻が育てた可憐な伯爵令嬢が、他人を床に這いつくばらせて冷笑しているのを見て、あまりに解釈違いだと待ったをかける。
今にも会場に乗り込みそうな勢いのルシウスを止めるのはエルフのマーカスである。ルシウスがドマに捕らえられたと知ったエルフの青年は「惜しい友人を亡くしたよ!」と馴染の酒場に行って給仕の女性たちの豊かな胸に慰められていた。しかし好奇心旺盛な妖精たちが、何やら面白そうなことになっているようだと知らせてくれたことと、酒場のツケを全てドマ家が支払ってくれるという申し出に「我が友のためなら悪の家門に下ることも吝かじゃないよ!」と、実家の両親が知れば卒倒しそうな選択をする。
「まぁまぁ、ほらほら。そりゃあまぁ、そうだろうけど。それはそれ、これはこれ。いいじゃないか」
ヴィクトリア様の名誉を汚す振る舞いだと、憤慨するルシウスを宥めつつ、マーカスの思考は冷静だった。そりゃあまぁ、あんなことはできなかっただろうね、だからあんな死に方をしたんじゃないか。とは、ルシウスに言う気はない。友情あっての配慮ではなくて、言っても仕方がないからだ。
ルシウス・コルヴィナスは優しく善良で無垢なことが美しく尊いものだと信じている。かつての戦場での凄惨な光景と醜い人の裏切りで魂をすり減らしたのだから仕方がない。
だが、仮にも王太子妃になる予定だったというヴィクトリア・ラ・メイ伯爵令嬢。貴族の、古い家門のご令嬢というのなら、ただ花の美しさに微笑み、花の散るさまに涙をしている程度ではだめだろう。人間社会に詳しくないエルフにだってわかることだ。
それを顧みると、マーカスはカッサンドラ・ドマの振る舞いに好感を覚えた。当人が嫌々やっているんだろうなぁ、というのは感情のオーラからエルフの目にはわかるが、それがなければ「なんて立派な悪女!」だと感心してしまう。
傲慢で尊大な態度、周囲の興味と関心を他人から奪い、それを当然のように享受する。
今日は確か、あの家の娘の誕生日会という名目だったはずだ。年頃になった、学校を卒業し社交界に正式にデビューする娘にとってとても大切な日らしい。そのためにあの家の父親はかなり無茶をして、彼の家格を超えた規模の夜会を催し、ツテのツテまで使いつくしてありとあらゆる方面に招待状をバラまいた。交流のないドマ家に招待状が送られたのも、そうした父親の、とにもかくにも、娘の晴れ舞台に様々な貴族を招き縁を結んでやりたいという親心だ。
それらを十分に承知して、伯爵家が方々に必死に金の工面をして開いた夜会と、誂えた娘のドレスの華やかさを全て地味に見せてしまうほど華美で派手で、そして圧倒する美しいカッサンドラ・ドマ公爵令嬢の登場である。
「えぇっと、何々?『何もない田舎から華やかな王都に出てきて自分の不作法が笑われないか心配だったけれど、こちらのパーティーはとても懐かしく落ち着きますね』?つまり自分のいたド田舎レベルの夜会ってことだね。煽る煽る。わぁ、カッサンドラちゃん、すごいねぇ」
マーカスは唇を読み、実況中継をする。ルシウスが「ヴィクトリア様はそのような言葉は言わない!」とご立腹だが、言わないから女同士の戦いにすら負けたんだろうとなぜわからないのか。マーカスからすれば、ヴィクトリアの姿で堂々と、他人の敵意に悪意の返礼を丁寧に愉悦の包装用紙でくるんでお返ししている様は心地が良い。大人しくて虐げられて、エルフの精霊術でも修復できなかったほどの傷をつけられた美しい令嬢が、シャンデリアの光の下で傲慢に他者を蹂躙している姿は清々しかった。
*
馬鹿にして!!
馬鹿にして!!!!!!馬鹿にしてぇえええ!!!!!!!!!
エミリー・クリフトン伯爵令嬢は父親に頭を押さえつけられ、必死に体中に力を込めて反発しながら屈辱に頭がおかしくなりそうだった。
いったい何が、どうなっているのか!
わかるのは目の前の赤い髪の女がエミリーの誕生日会を台無しにしたということだ!
エミリーは自分を父親と母親が真実の愛を貫き、授かった天使だと信じている。十六年前の、現皇帝が即位された直後に起きた貴族の大粛清を生き残った父が母と結婚できなかったのは、家柄だけしか取り柄のない元伯爵夫人の所為だった。父とその先妻の両家門が生き残るための婚姻であったことはエミリーも父から聞いている。だったら血の粛清が終わったあとに身を引くのが当然じゃない?とエミリーは図々しさに苛立った。元伯爵夫人はエミリーの父と別れることを嫌がって、その上エミリーにとっては祖父母にあたる先代伯爵夫妻が元伯爵夫人をとても気に入っていたのもよくなかった。
そのせいでエミリーは、両親の真実の愛の証明だというのにつまらない田舎で毎日くたくたになるまで畑仕事をさせられた。朝から晩まで休む暇はない。母と言えば「いつか伯爵様が迎えにきてくださるのだから、私の手が荒れたら伯爵様が悲しむでしょう?」と窓辺に座って、王都へ続く道を朝から晩まで眺めるだけだった。
村の人間はエミリーの母を笑い、馬鹿にし、エミリーの母と結婚した男だけが母を大切にしていたが、その男はエミリーのことはいつも複雑そうな目をしてみていた。といって、彼はエミリーに暴力を振るったり、酷い扱いをするような男ではなかったが、エミリーとその母親にとっては望む暮らしをさせられない男は無価値でしかなかった。
エミリーは母に「お前は貴族の血が流れているのよ。貴方は伯爵令嬢なの」と言い聞かされて育ったものだから、自分はそうだと信じて疑わなかった。けれど伯爵令嬢は朝から晩まで畑仕事はしないだろうし、村の女たちに馬鹿にされ会話に入れてもらえないような扱いを受けることはないだろう。
数年前、立派な馬車がエミリーの家までやってきた時、エミリーは母の言葉は狂人の妄想ではなくて本当だったのだと歓喜した。
馬車からゆっくり降りてきた立派な身なりの紳士が、ボロボロの服を着て、やせ細った母が駆け寄るのを一瞬もためらわずに受け止め、「あぁ、君の瞳は変わらず美しい、愛しい人よ」と口付けた時、エミリーは自分が特別な存在なのだという確信を得た。そしてそれから、泣き叫ぶエミリーの母の夫だった男が伯爵様、エミリーの父の騎士たちに家の中に引き摺って行かれ、叫び声が上がったのも気にならず、豪華な四頭だての馬車に恭しく乗せられて、あれよあれよという間に、エミリーは絵本の中のお姫さまのような世界に収まった。
伯爵家では夢のような生活が待っていた。
伯爵、エミリーの父、クリフトン伯爵はエミリー母子に敬意をもって接することを使用人たちに厳命し、少しでも二人に対して尊敬を示さなかった者には厳しく対処した。半面、二人に誠心誠意尽くして仕えさえすればクリフトン伯爵は使用人たちの働きを評価した。使用人たちは二人が伯爵家に相応しい振る舞いが出来るように求めるより、自分たちの給与が上がる方を選んだが、それは当然だろう。
エミリーとその母が伯爵家で美しいものに囲まれ生活している中で、結婚が無効であると認められた元伯爵夫人は精神的なショックから心を病み、伯爵夫人の部屋をエミリーの母に明け渡すくらいならと、由緒ある伯爵夫人の部屋で首を吊って亡くなった。
残された子は、クリフトン伯爵の血が入っているからと母方の実家が引き取りを拒否した。現在は庶子と扱われることになったシルビア・クリフトン元伯爵令嬢に対して、エミリーは彼女の持つドレスや宝石、部屋やたくさんの思い出の品を「これはクリフトン伯爵令嬢の物だから」と奪ってやった。
当初は奪ってやろう、なんて気持ちがあったわけではない。ただ、周囲がエミリーをチヤホヤし、何をしても怒らない。当然ですという顔をして、エミリーが「おいしいケーキが食べたいわ」と言えばすぐに用意し、「こんなの食べたくない」と言えば、間違ったものを持ってきてしまったことを、エミリーの父よりずっと年上の男性料理長が頭を下げて謝罪した。
そういう風に扱われたから、エミリーは部屋から出てこない義理姉が、本当は伯爵令嬢じゃなかったというみっともない義理姉が、一度父親が「挨拶をしろ!」と怒鳴って渋々部屋から出てきて、エミリーに頭を下げた義理姉が、絵本の中のお姫さまのように美しく、静かできれいな動きをする義理姉が、自分より「ちっとも偉くないんじゃないか」と考えて、元伯爵令嬢の部屋にズカズカと入って「これを頂戴」と適当なものを指さしたら、義理姉は最初は嫌がり、けれどそれをすぐにメイド長から父の耳に入れられて、頬を腫らした義理姉が「どうぞ」と差し出したので有頂天になった。
そういうエミリー。両親が身分の差をこえ、真実の愛の末に生まれた天使である自分はこの世でもっとも素晴らしい女の子なんだわ、とエミリーは信じていた。
貴族の子供だけが通う学園に入れたのも、元々義理姉が通学する予定だったのを「クリフトン伯爵令嬢はエミリーなのだから」と父が手続きを変更し、義理姉ではなくエミリーが入学した。
そこでエミリーは知ったのだ。クリフトン伯爵家ではお姫さまだった自分は、貴族の娘として扱われることが当たり前な多くの令嬢たちがいる学園では、ちっとも、これっぽっちも、まったく、特別でもなんでもないのだと。
エミリーは令嬢たちの輪に入れてもらえなかった。
これはあの根暗で卑しい義理姉が、交流のあった令嬢たちに手紙でエミリーについて知らせたからに違いないと、クリフトン伯爵はエミリーが泣きながら週末に帰省すると、憤慨し、シルビアを鞭で何度も打った。往生際の悪いシルビアは自分はそんなことはしていないと、むしろエミリーと仲良くして上げて欲しいと、慣れない貴族社会で苦労するだろうからと頼んだのだと言い訳をしたが、エミリーは学園で令嬢たちに注意ばかりされるし、意地悪もされた。シルビアが嘘をついていることは明らかだった。
シルビアはそれまでお情けで、エミリーが外出する際などの侍女として使ってやってもいいんじゃないかと伯爵は考えていたようだが、愛する人との間に生まれた愛しい娘に、このように性根の卑しい人間を近づけたくはないと、シルビアは馬小屋で寝起きすることを命じられ、朝から晩まで雑用をすることになった。
エミリーは必死に、令嬢たちの輪の中に入ろうとした。しかしエミリーが話しかける令嬢たちは皆「今〇〇令嬢は××令嬢と話していらしたでしょう?」と窘めてエミリーを無視したり「なぜご自分の話ばかりなさるの?」とエミリーと会話することを嫌がった。シルビアにエミリーの悪口を吹き込まれたに違いない令嬢たちは、エミリーが何をしても気に入らないのだろう。
必死に、必死に、エミリーは自分が伯爵令嬢だと周囲に認めさせようと努力した。そしてある時、赤い髪に青い瞳の、とても物静かな伯爵令嬢と偶然クラスの当番が一緒になった。
その時にエミリーは泣きながら自分が平民だからと周囲が差別するのだと訴えた。赤い髪の令嬢はそれを黙って聞いてくれて、エミリーが話すことがなくなると「わかりました」と頷いて、そして彼女が親しくしている令嬢たちの集まりにエミリーを連れて行った。なるほど、泣いて、差別されていると、自分が「平民だから」と訴えればいいのかと、エミリーは学んだ。令嬢たちに何か注意されると、エミリーは俯き、瞳に涙を溜めながら「私が平民だからですか」と震える声で呟いた。すると、令嬢たちは慌ててエミリーに謝罪して「そんなつもりはなかった」と「わたくしにそのような考えはありませんよ」と弁明した。なるほどなるほど、とエミリーは学んだ。
そうしてエミリーは令嬢たちに受け入れられたのだ。
そこから必死に必死に、エミリーは伯爵令嬢としての振る舞いを学んだり、貴族らしくなれるように努力した。赤い髪の伯爵令嬢はエミリーが「教えてよ」と言うと「えぇ、もちろん」と微笑んで、エミリーに礼儀作法や、勉強を教えた。エミリーは段々と自信がついてきた。そして、平民の中で間違って生きてきてしまって本当だったら貰えるはずだったとても素敵な時間は義理姉が盗んでいて、それを取り返して、きちんと「伯爵令嬢」に戻れた自分はとてもすごい存在なんだと、誇りに思った。
義理姉には婚約者がいて、同じ伯爵家の公子だった。クリフトン伯爵はエミリーがクリフトン伯爵令嬢なのだから、公子の婚約者はエミリーだと言った。けれどその婚約者は「シルビア以外の女性と結婚するくらいなら死ぬ」と言って、シルビアと駆け落ちしかけ、エミリーを侮辱されたことに激怒したクリフトン伯爵によって殺された。エミリーはショックを受け、暫く食事が喉を通らなかったが、その時に「私は公爵夫人くらいにならなきゃおかしいわ」と思い直した。元気になった。
エミリーは赤い髪の伯爵令嬢が王太子の婚約者であること思い出して、彼女と親しくしていれば王太子の側近である公爵家の令息に見初められるに違いないとわかった。自分のような優れた存在は王太子妃が相応しいはずだけれど、運が悪いことに自分が貴族の世界に入る前から決まっていたから、これは変えられないだろうと渋々諦めてあげた。その代わり、赤い髪の伯爵令嬢はエミリーが公爵夫人になれるように手を尽くすべきだった。エミリーが赤い髪の伯爵夫人に自分の婚約者に相応しい貴族を紹介するように話すと、赤い髪の伯爵令嬢は困ったように微笑んだ。何度頼んでもそれは変わらず、仕舞いには「伯爵家以上の家門の方は皆、子供の頃にお相手が決まっているものですのよ」と言って、エミリーは自分だけが婚約者のいない令嬢なのだと馬鹿にされたと、赤い髪の令嬢に怒った。
「あんた、私のことを平民だって馬鹿にしてるんでしょう!!」
怒鳴って、顔を真っ赤にして喚き散らすエミリーを、周囲や赤い髪の令嬢は黙って眺めていた。エミリーはそうしていつも周囲に怒鳴り散らし、周りが「そうね、そうね、ごめんなさい、エミリーさん」と言ってくれるのが当たり前だった。今日も早くそうするようにと怒鳴り続けていると、「あら!」とその場に相応しからぬ、妙に元気な声が上がった。
「あなたも平民なの?奇遇ね!私もよ!!」
太陽の光にキラキラと輝く、人形のように美しい聖女レイチェルとの出会いだった。
思ってた展開と違うとがっかりされることもあるとあると思うんですが、それはそれとして私は思った通りに楽しく書けてるのでOKです。バックミラー越しに振り落とされる読者の方々を眺めながら峠を攻めてアクセルを踏んでます。でも一人で走るのは寂しい。