→赤:報復
私のチラチラとした視線に気づいてくれたのか、ドマの使用人が一人私の方へ進み出てくれる。わぁい。ワイン飲んでいいんですね??やったー、と私は素直に喜んだ。
「……うん?」
しかし、どうぞこちらを、と渡されたのは美しいワイングラス……ではなくて、ボトル一本丸々と。反射的に受け取って、斜めにしたり揺らしてしまうと味が壊れてしまうという、正しいのか正しくないのかわからないが、そんな知識があったのでじっとする。
ワインを一人堪能しているドマ公爵と目が合い、お父様は軽くウィンクした。
……意味は分かる。
ウィンクという可愛らしい仕草だが、ドマの当主がそんなファンサのようなことをするわけがない。そうではなく、このウィンクは意訳すると『きちんと役をこなすように。さもなくば死ね』という意味である。
デッド オア ゾンビ。
いや、キョンシーか。私の自我が現在も存在させていただけているのは、ギリギリのところでお目こぼしを頂いているに過ぎないことは、メフィスト・ドマ公子から聞いている。自我があり何か妙な面白いことをしでかしそうな女。復讐には華がいる。ドマの完全なる操り人形では「少々面白みに欠けるだろうか」と考えていたドマ公爵の前に、自分は有用だと主張する何かしらの存在が現れた。役に立つなら少し自由にさせてやるが、役に立たなければ早々に配役変更だと決めているらしい。
このワインボトルの使用方法をまず私に考えさせ、そしてどうするのかを面白がって眺めている。
私はぐんぬっ、と心の中で顔を顰めつつ、表面的にはにっこりと微笑みをお父様に返した。
「ほ、ほら、エミリー……!お前も公爵令嬢から頂きなさい!」
ドマ公爵自らクリフトン伯爵のグラスにワインを注いだ。そのことに圧倒され萎縮しつつも、クリフトン伯爵は公爵令嬢がボトルを手に取った意味を悟り、娘を急かす。
「……」
ぶすっとしながらもエミリー・クリフトン伯爵令嬢は私の前にしぶしぶと進み出て、さっさと寄越しなさいよと言わんばかりの態度で沈黙した。
さて、この仮にも伯爵令嬢であるはずの彼女がなぜこんなに無作法なのかと言われれば、原作の通りであれば簡単な設定だ。
エミリー・クリフトン伯爵令嬢はクリフトン伯爵の後妻に収まった女性の連れ子で、つい三年前まで平民だった。もちろんこの国の法律では、後妻の連れ子は爵位を継げないし、女子ともなれば「令嬢」を名乗ることもできない。しかしエミリー・クリフトン伯爵令嬢と呼ばれている。つまりクリフトン伯爵と血がつながっているのである。
この辺り、物語の中では軽く触れられるだけだが、クリフトン伯爵は若いころにエミリーの母と恋に落ちた。しかし平民と結ばれるには障害が多すぎた伯爵はエミリーの母と結婚はせず、エミリーの母も退いた。正式な妻に貴族の女性を迎え、その女性との間に娘を一人授かり、伯爵はエミリーの母親とも子供を作った。エミリーの母は別の男性と結婚しており、その男との子供だとエミリーの出生届を出して、エミリーは平民として育った。
そして正妻が亡くなった三年前に、伯爵は正妻との結婚が無効であるよう神殿に認めさせ、エミリーの母親とその娘こそが自分の正式な「妻と娘」であると公表した。
つまり、後妻だが後妻ではなく、庶子だが庶子ではないというややこしい設定だ。
なのでエミリー・クリフトン伯爵令嬢は貴族の令嬢たちからは一定の距離を置かれており、学園では浮いた存在だった。誰にでも優しく接するヴィクトリアが彼女と「席が隣だから」という理由で交流を始めたことで、少しずつ令嬢らしい振る舞いを覚え令嬢たちの輪に入れるようになったというエピソードがあり、実はエミリーはただヴィクトリアを利用しただけであることがルシウスによって暴かれる。
だが……ルシウスは彼女を殺していない。正しくは殺せなかった。
ルシウスは自分の腕の中でヴィクトリアを失ったトラウマにより、ヴィクトリアと同じ年頃の少女を殺せなくなっていたのだ。このエミリー、ゴ〇ブリのようにしぶとく生き延びで色々邪魔をしてくれる。
「……ちょっと、さっさとしなさいよ。待ってるんだけど?」
ふてぶてしい態度でエミリーが催促する。その手には給仕から奪ったワイングラスがボウル部分を掌全体で包み込むようにしている。近くにいる貴族の数名がそれをみてぎょっと目を見開いた。
私……ドマ家の公爵令嬢カッサンドラはにこりとエミリーに微笑みかけ、そしてすっと、軽く腕を伸ばしワインのボトルを傾ける。
トクトクトクボトボトボトボトボト。
ゆっくりと、そして確実に、確かに、ワインが床に流れ落ちる。
(いやーーー!!いやーーーーーー!!)
人間が最もしてはならないこととは何だろうか?
小動物、とくに猫へ危害を加えることが第一位に決まっているのだが、全ての人間のトップ10に入るだろう一つに「食べ物を粗末にしてはいけない」というものがあるはずだ。
「!!?は、はぁああ!!?」
やりたくない。
やりたくない。
やだやだやだやだ本当にやだ。
だがデッドオアキョンシー。やるしかない。
自分のグラスではなく足元にワインを注がれたエミリーは令嬢とは思えない声を上げ、ドレスがワインで汚れないようにすっと身を引いた。
私は空っぽになったワインボトルをドマの使用人に渡す。振り返らずとも、軽く後ろの方に手を上げれば心得た使用人がそれを受け取るので私の手はフリーになる。その手を私は自分の頬にあてて、小首を傾げた。
「あら、お飲みになりませんの?」
「はぁ!!?」
意図を察することをしようともしないエミリーはカッサンドラを睨みつけるが、娘同士のこのやり取りを見たクリフトン伯爵は体を強張らせ、一気に顔から血の気が引く。
大理石の床に高価なワインをぶちまけたのは公爵令嬢。
だが公爵家の人間は間違いなどおかさない。そして何より、相手はドマである。
クリフトン伯爵はわかっていた。
この場でエミリーが、自分の愛する娘がしなければならないのは、はいつくばって床を舐め、ワインを味わうことである。
普通、こんなことを公式の場で周囲の目があるこんな場所で、他人にそれを強要できる者など、皇族であっても許されない。
けれど、それが許されるのがドマ家である。正しく許されているのではなく、ドマ家は「悪役」「悪党」「悪の貴族」であるので、自分が注いだワインを相手が「飲まなかった」という理由で相手の家門を没落させるなど朝のラジオ体操を第四まで行うより容易いことだ。
にっこりにこにこと、赤い髪に青い瞳、ドマ家の人間の好む黒のドレスを身に纏い、シャンデリアの光を受けて輝くカッサンドラ・ドマはエミリーが父親に頭を押さえつけられ、床を舐めるまでただじっと、立っていた。
グッド・ドクターのシーズン1を観終わって「続きを観なければこの素敵な仲間たちがこのままの世界を固定できるんじゃないか」と思うんですが、モーガンが痛い目みるまで進みたい気持ちと「でもジャレットも最初は嫌な奴だったのが今じゃ……もしかしてモーガン……お前もベストフレンズに……?」という可能性に揺れています。